復元された巨大埴輪
手前に2本並べておかれているのは、奈良教育大学の脇田宗孝教授の製作指揮で1983年に復元された高坏形埴輪である。円筒埴輪の上にに高坏形埴輪がのせて組み合わせてあり、高さは193m。その横に並んで置かれている巨大な円筒埴輪が、今年の夏から奈良芸術短期大学との共催事業として復元した特殊円筒埴輪である。高さは242cm。
大学の校庭の一画に作られたビニールテントの作業場には、”牽牛”と”織姫”と名付けられた2本の埴輪があった。高さを聞いたら、270cmとのことだった。これを乾燥し焼成することで高さ242cmの円筒埴輪が出来上がると聞いた。しかし、博物館に展示してあるのは1本のみである。もう1本はどうなったのか気になって聞いてみると、焼成の過程で割れてしまったとのことだ。 本当は、この位置に2本の埴輪を並べて, その巨大さで見学者を驚かせるつもりだったのだろう。だが、日乾しレンガで作った釜を壊したとき、1本が無惨にもヒビ入っていた。徹夜で釜炊きをした女子学生たちは、折角の努力が無に帰したことで、その無念さに涙ぐんだかもしれない。復元作業では古代の製作方法を忠実に踏襲したとのことだが、巨大な円筒埴輪を作り上げるのは、現代でもそれほど難しいということだ。だが、古代人はメスリ山古墳の被葬者のために何十本という埴輪を製作した。 |
古墳の頂上を埴輪の列で飾らせたメスリ山古墳の被葬者
これらの埴輪は、古墳の後円部の頂上の中央に位置する長方形の区画の周りに2重に巡らしてあった。その区画は石垣で囲まれ、その下に竪穴式石室の埋葬施設が埋まっていた。 会場の壁に、石室と埴輪の配列を示した復元イラストが飾ってある。それによると、内側の埴輪列は、南・北面に各12本、東面に23本、西面に22本、合計69本が並んで埋められ、東西6.7m、南北13.3mの区画を構成していたという。そのうち石室の主軸線上にあった2本が特殊大型円筒埴輪である。
メスリ山古墳出土の埴輪は、直径70〜80cmの大型円形埴輪、直径が50cm前後の円筒埴輪、および高坏形埴輪であり、形象埴輪はない。石室主軸線上に置かれた2本は直径が96cmと81cmと特に巨大である。大型円筒埴輪と、高坏形埴輪をのせる円筒埴輪とは、上部の縁が器台の形をしていて、有段口縁埴輪と呼ばれている。このタイプのものは、奈良県の西殿塚古墳、新山古墳、および京都府の元稲荷山古墳から出土しているという。 第一会場には、茶臼山古墳の北の沖積平野に広がる城島(しきしま)遺跡外山(とび)下田地区から出土した木製の土木用具と、各地の土師器の甕(かめ)も展示されている。土木用具としては、長柄鋤(すき)、鍬(くわ)、天秤棒などが含まれ、土師器甕としては山陰系、北陸系、東海系、畿内系、布留系などがある。これらの出土品から、この遺跡は茶臼山古墳築造のために各地からかき集められた人夫たちの飯場ではなかったかと想定されている。 |
古代王権の権威を見せつける出土品のいろいろ
会場に入るとまず目につくのは、左手に並べられた3個の土師器壺である。これらの壺は茶臼山型二重口縁壺と呼ばれ、独特の特徴を持つ。ほぼ球形の体の上に筒状の頸が直立に立ち、その上に口縁部が開いている。驚いたことに、底に円形の孔が開いている。最初から底に孔を開けて製作されており、壺としてではなく、古墳で使用する儀器として作られた埴輪の一種かもしれない。埴輪と言えば、茶臼山古墳からは、メスリ山古墳を飾った円筒埴輪は1本も出土していないようだ。
石製品として出土した鍬形石や車輪石、石釧(いしくしろ)などはお馴染みのものである。特に目を引いたのは、碧玉で作られた威儀具としての儀仗と指揮棒だったと思われる玉杖だ。4本見つかっており、そのうち3本は碧玉管を鉄の芯で連結させて作られているが、残りの1本は鉄芯の痕跡はない。長いもので52.1cmもある。被葬者が玉杖を片手に持って威儀を正した生前の姿を想像すると、まさにヤマトの王の威厳が伝わってくる。
メスリ山古墳の主室は盗掘されていた。それでも玉・石製品と鉄製武器、鏡片が出土した。これらの出土品も第二会場に展示されている。だが、幸いなことに、この古墳の副室はは盗掘を免れた。そのため、夥しい数の武具を中心とする遺物を発掘することができた。それらの遺物を再整理し、鉄製品などは再処理して、この会場に展示してある。 副室の一番下には、柄に黒漆を塗った槍が、槍先を南北交互に向けて積み重ねられていたという。その数、なんと212本。柄の部分は腐っていたが、鉄の槍先はすべて残っていた。その上に鉄製の弓矢、鉄刀剣、農耕具、石製品、さらに銅鏃と石製鏃を装着した矢が群ごとにまとめておいてあったという。 鉄の弓は全長が182cm、5本の矢は矢羽根まですべて鉄製でいずれも長さ80cm。もとより実用ではなく、儀仗に用いられたものだろう。212本という槍の数には驚かされるが、矢の先に付ける銅鏃も236本出土している。 展示されたこれらの武具を前にすれば、誰しも、何のためにこれらの品々を副室まで設けて埋葬したのか問いたくなる。これらは実用の武具なのか、それとも被葬者が生前に各種儀礼に儀仗兵に持たせた品なのか。権力の象徴的威具として使用されたものを一括して副室に納入したとする説がある。そうであれば、鉄製の巨大な弓矢を持った兵士に先導させ、212人の槍や弓矢を持った兵士を従えて儀場に臨む被葬者の生前の姿は、凛々しく勇ましかったにちがいない。 |
桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳
桜井茶臼山古墳は、桜井市の市街地を二分するように、東西に走る国道165号線沿いに築かれている。165号線をそのまま東へ進めば榛原に向かうが、途中に三叉路の交差点「外山(とび)」がある。この交差点から東南に延びる国道166号線は、忍坂(おっさか)を経て菟田(うだ)方面へ向かう。いわゆる昔の忍坂街道である。 古墳は、交差点「外山」で国道が分岐する手前に位置し、桜井市の南東部に広がる鳥見山(とみやま、245m)から北へのびる一つの尾根を利用して、前方部を南に向けて築かれている。ちょうど三輪山の南の初瀬谷への入口に面した場所にあり、奈良盆地東南部から東へ抜ける昔の初瀬・伊勢街道を見下ろしている。
茶臼山の墳丘は後円部が3段、前方部が2段で築成されており、その規模は、2003年の調査によって、全長200m、後円部径110m、前方部幅60mであることが確認されている。後円部の径に比べて、前方部の幅が広がらない柄鏡形の墳形が特徴とされている。さらに、墳丘の各段の斜面には葺石が葺かれていたが、埴輪は使用されていなかった。ただし、後円部の頂きに方形壇を取り巻くように土師器壺が並べてあったという。
茶臼山の発掘調査は、昭和24年(1949)に第一次調査、翌年に第二次調査が行われ、昭和47年(1972)には墳丘の範囲確認調査が行われて、翌昭和48年に墳丘と裾部が国の史跡に指定された。一方、メスリ山古墳は、昭和34年(1959)の暮れから翌年の1月にかけて第一次調査が行われている。後円部中央の円筒埴輪列と副室が発掘されたのは、昭和35年(1960)に行われた第二次調査のときである。その後も昭和38年(1963)に第三次調査が実施され、昭和55年(1980)に国史跡に指定された。 これらの発掘調査で出土した遺品から、茶臼山の築造時期は4世紀中葉、メスリ山古墳は4世紀後半と推定された。しかも、墳丘の柄鏡(えかがみ)型やその段築造が共通していることから、茶臼山古墳からメスリ山古墳は系譜的につながり、それぞれの被葬者は共通の基盤のもとで擁立された人物と想定されている。
これらの巨大前方後円墳は、初期のヤマト王権を築き挙げた大王墓と考えられている。だが、桜井茶臼山古墳にしてもメスリ山古墳にしても、これらの古墳群とは少し距離をおいて、それぞれ単独墳として築かれている。したがって、両古墳を大王墓の系列に含めるかどうかで、研究者の解釈は必ずしも統一されていない。以下にいくつかの説を紹介しよう。 まず、奈良盆地東南部の前期大型古墳の立地・墳形・周濠形態・副葬品の組み合わせなどから総合的に判断して、両古墳も初期ヤマト政権の盟主墓と見なし、大王墓の系列に含める説がある。国立歴史民俗博物館の白石太一郎氏などは、箸墓→西殿塚→茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に大王墓が築かれたと想定しておられる。この説を支持する研究者は多い。 その一方で、大型古墳の系列が一系列でない可能性を指摘する説もある。二上山博物館館長の石野博信氏は土師器壺や特殊埴輪の存在に注目して、箸墓→西殿塚・茶臼山→渋谷向山・メスリ山→行燈山という流れを想定し、茶臼山・メスリ山古墳の被葬者が大王と同時に存在し、大王としての機能を分担した可能性を想定しておられる。 奈良女子大学大学院教授の瀬和雄氏も茶臼山・メスリ山古墳も大王墓から除外する立場に立っておられる。その理由として、両古墳の前方部が撥形でなく柄鏡形であること、周濠をめぐらさないこと、群を構成しないこと、などを上げておられる。 堺女子短期大学の塚口義信氏は、茶臼山・メスリ山古墳の被葬者として、安倍氏の祖先との伝承があるオホヒコとタケヌナカハワケを候補としてあげておられる。この地域に天皇陵造営の伝承が伝わっていないことがその理由で、むしろ桜井市を本拠地とした安倍氏との関連を重視した上での想定である。 今から1700年前に生まれ、波乱に満ちた人生を生き、そしてこの地を奥津城として永久の眠りについた人物は、はたしてどのような男だっただろうか。ヤマト王権の系譜を継いだ大王だったのか、それとも磐余の地を根拠とした大豪族の首長だったのか。現在のところ、両古墳からの出土品はまだ具体的なことを何も語ってくれない。 |