橿原日記 平成17年9月26日

ホテイアオイ(布袋葵)が咲き誇る本薬師寺跡(もとやくしじあと)

天武天皇の見果てぬ夢、それは新しい都城の造営だった

西暦672年の9月12日、壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)は飛鳥に戻り、飛鳥嶋宮に旅装を解いた。その3日後、嶋宮から母の斉明天皇の宮殿だった後岡本宮に移った。そして、この年の冬までに新しい宮を後岡本宮の南に造営した。これを飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)という。

薬師寺の位置
藤原京における薬師寺の位置
伽藍配置復元図
薬師寺の伽藍配置復元図
金堂の礎石群
薬師寺金堂の礎石群
けて673年2月27日、大海人皇子は壇上(たかみくら)に登り天武天皇として即位した。同じ日、正妃の鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)を立てて皇后とした。こうして、その後14年間(673.2 - 686.9)におよぶ天武の専制皇親政治が開始された。

実共に倭国の頂点に君臨することになった天武は、さまざまな改革を断行した。彼が目指したのは律令国家の建設であり、そのために是非とも実現しなければならない悲願があった。大陸の超大国・唐の都をモデルにした都城の造営である。

は新都計画に熱心だった。天武5年(676)、新城(にいき)に都を作ろうとして、新都の範囲に含まれる田園は公私を問わず耕作を禁じた。天武11年(683)には、三野王らに命じて造都の準備のため地形を観察させ、自らも現地に行幸している。その新都造営計画の対象となった新城とは、現在の大和郡山市新木(にき)町で、現在の郡山城跡あたりである。しかし、どのような事情があったのか不明だが、この遷都計画は挫折してしまった。

武は悲願をあきらめたわけではない。彼は、兄・天智天皇が詠った大和三山に着目した。東の香具山とその西にそびえる畝傍山を三角形の底辺に見立てれば、耳成山はちょうどその三角形の頂点に来る。この聖なる山々に囲まれた土地こそ新都にふさわしい。だが、場所選びまで計画を押し進めた段階で、天武天皇は天武14年(686)、すなわち改元して朱鳥元年となった年の9月9日にこの世を去ってしまう。

の悲願を受け継いだのは皇后である。天武皇后の称制を止めて正式に持統天皇として即位した690年、彼女は藤原京の造営に着手した。そして、4年後の694年、藤原宮の完成させ、飛鳥浄御原から藤原京へ遷都したとされている。

が、天武天皇の時代にすでに都づくりの工事に着手していたことが、発掘調査によって明らかにされている。藤原京内と同じ条坊(じょうぼう)道路の側溝(そっこう)が、藤原宮内で発掘された。その遺構は時期的に宮の建物や宮建設用の運河よりも古く、宮が完成する前に埋められていた。藤原宮の位置が決定され、宮の建設が始まる以前に、道づくりの工事が始まっていたのだ。その時期は、発見された木簡からみて、天武天皇が亡くなる1年前の685年ころとのことだ。

の新都造営工事は、天武天皇の死によって一時中断する。だが、新都への夢は、妻である持統天皇に受け継がれ、上記のように4年後に建設工事は再開される。



皇后の病気平癒を祈願して建立された薬師寺

塔心礎
東塔の塔心礎
史跡碑
本薬師寺跡の史跡碑
東塔跡遠望
東塔跡遠望
代の天皇は正妃の他に複数の妃を持つことができた。そのために、夫の浮気に嫉妬する正妃の話は、『古事記』や『日本書紀』にいくつも残されている。鵜野讃良(うののさらら)皇女は天智天皇の皇女だから、大海人皇子とはずいぶん年の離れた夫婦だったはずである。だが、珍しく2人の夫婦仲は良かったようだ。671年、大海人皇子が天智天皇から皇位継承を打診されたのを断って吉野に隠遁したとき、多くいたはずの妃の中で、幼な子の草壁皇子を抱いて夫に従ったのは、彼女だけである。

たがって、天武は彼女を生涯の伴侶とした。実は、薬師寺はそうした夫婦愛を象徴するような寺院なのである。天武9年(680)、皇后の鵜野讃良皇女が病に倒れた。『日本書紀』によると、その年の11月「皇后、体不予(みやまい)したまふ。即ち皇后の為に誓願ひて、初めて薬師寺を興つ(たつ)」とある。つまり、天武が皇后の病気治癒のために薬師如来を本尊とする寺の建立を発願したことが、この寺の創起とされている。

地として、香具山と畝傍山を結ぶ中間地点が選ばれた。仏事建立の発願が効を奏したのか皇后の病気は平癒したが、寺院の建立には長い年月を要する。しかも採用された伽藍様式が、金堂の前面に東塔と西塔を配するという独特のものだった。天武は寺院の完成を見ることなく、上記のように朱鳥元年(686)9月9日にこの世を去ってしまう。

藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇2年(688)、薬師寺で無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『日本書紀』に記されている。このことから、その頃までには伽藍が整っていたものと思われる。

和50年(1975)に始まった本薬師寺の発掘調査で、寺域の限りを示す藤原京八条大路と西三坊大路の交差点が確認され、本薬師寺が条坊区画に合致した寺域を有していたことが判明した。また、条坊道路の施行以前にも寺域を画する溝があり、寺の創建が藤原京造営以前に遡ることもわかった。



養老2年(718)、平城京に移築されたのが現在西の京にある薬師寺

城遷都に伴って、飛鳥にあった諸寺院と同様に薬師寺も平城京に移築されることになった。『薬師寺縁起』によれば、遷都から8年目の養老2年(718)、薬師寺は藤原京から平城京右京六条二坊、現在の薬師寺の地に移建された。

布袋葵
本薬師寺跡を取り巻く布袋葵
畝傍山を遠望
本薬師寺跡から畝傍山を遠望
万葉歌碑
黒岩重吾氏揮毫の万葉歌碑
が、この移建を疑問視する見方もある。平成4年(1993)に実施された中門周辺の調査で、中門跡が平城京薬師寺の中門とは規模が異なり、さらに出土した瓦から平城遷都後も維持されていたことが判明した。そのことを裏付ける文献資料も残っている。平安時代後期の「中右記」(ちゅうゆうき)という日記の中で、何らかの伽藍が残っていたと考えられる記述があり、寺は平城京へ移った後も存続していたようだ。

寺となったのは平安時代の中期、10世紀のころと思われる。寺跡は現在の橿原市城殿(きどの)町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。現在は醫王院というごく小さな寺院の庭に金堂と塔の礎石が残っている。その礎石を見るだけで、建立当時は藤原京の右京の大寺として威容を誇っていた様子が容易に想像できる。

薬師寺跡に続く脇道のかたわらに、作家の故黒岩重吾氏の揮毫による万葉歌碑が花に囲まれて立っている。碑には大伴旅人の次の歌が刻まれている。
 ●わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故りにし里 忘れむがため (巻3-334)
【意味】わすれ草を自分は紐につける。香具山あたりのあの懐かしい故郷のひとときを忘れているために

伴旅人は大伴家持の父である。大宰帥(だだいのそち)として赴任したのは神亀4年(727)12月、すでに60歳を過ぎていた。都の平城京では政治の中枢を藤原氏に独占されていた。往年の雄族・大伴氏もすでに落日の運命にあった。遠く九州の地に追いやられた老境の身には、故郷の香久山が懐かしく思い出されたであろう。わすれ草とは現在のカンゾウのことで、別名を忘憂草という。中国では憂いを忘れさせてくれる草と崇められたというが、我が国では嫌なことや悲しいことなど、いわゆる憂いを忘れようと、カンゾウの花や茎葉を身につけることが流行したようだ。

布袋葵
布袋葵(ほていあおい)
薬師寺跡の周りは田園風景が広がっている。休耕田を利用して橿原市と地元の有志が、カンゾウではなくて布袋葵(ほていあおい)の大群落を作った。この植物は葉柄が大きく膨らんだ葉を持ち、その形が布袋様の腹に見えることから布袋葵(ほていあおい)と名付けられた。英語ではウオーター・ヒアシンスという。熱帯アメリカが原産地で、明治時代に観賞用として持ち込まれたが、水田などで増えすぎて害草とされている。夏から秋にかけて紫色のキレイな花を咲かせる。この時期に本薬師寺跡を訪れる人は、その広さと美しさに驚嘆している。



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