皇后の病気平癒を祈願して建立された薬師寺
したがって、天武は彼女を生涯の伴侶とした。実は、薬師寺はそうした夫婦愛を象徴するような寺院なのである。天武9年(680)、皇后の鵜野讃良皇女が病に倒れた。『日本書紀』によると、その年の11月「皇后、体不予(みやまい)したまふ。即ち皇后の為に誓願ひて、初めて薬師寺を興つ(たつ)」とある。つまり、天武が皇后の病気治癒のために薬師如来を本尊とする寺の建立を発願したことが、この寺の創起とされている。 寺地として、香具山と畝傍山を結ぶ中間地点が選ばれた。仏事建立の発願が効を奏したのか皇后の病気は平癒したが、寺院の建立には長い年月を要する。しかも採用された伽藍様式が、金堂の前面に東塔と西塔を配するという独特のものだった。天武は寺院の完成を見ることなく、上記のように朱鳥元年(686)9月9日にこの世を去ってしまう。 伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇2年(688)、薬師寺で無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『日本書紀』に記されている。このことから、その頃までには伽藍が整っていたものと思われる。 昭和50年(1975)に始まった本薬師寺の発掘調査で、寺域の限りを示す藤原京八条大路と西三坊大路の交差点が確認され、本薬師寺が条坊区画に合致した寺域を有していたことが判明した。また、条坊道路の施行以前にも寺域を画する溝があり、寺の創建が藤原京造営以前に遡ることもわかった。 |
養老2年(718)、平城京に移築されたのが現在西の京にある薬師寺平城遷都に伴って、飛鳥にあった諸寺院と同様に薬師寺も平城京に移築されることになった。『薬師寺縁起』によれば、遷都から8年目の養老2年(718)、薬師寺は藤原京から平城京右京六条二坊、現在の薬師寺の地に移建された。
廃寺となったのは平安時代の中期、10世紀のころと思われる。寺跡は現在の橿原市城殿(きどの)町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。現在は醫王院というごく小さな寺院の庭に金堂と塔の礎石が残っている。その礎石を見るだけで、建立当時は藤原京の右京の大寺として威容を誇っていた様子が容易に想像できる。
本薬師寺跡に続く脇道のかたわらに、作家の故黒岩重吾氏の揮毫による万葉歌碑が花に囲まれて立っている。碑には大伴旅人の次の歌が刻まれている。 大伴旅人は大伴家持の父である。大宰帥(だだいのそち)として赴任したのは神亀4年(727)12月、すでに60歳を過ぎていた。都の平城京では政治の中枢を藤原氏に独占されていた。往年の雄族・大伴氏もすでに落日の運命にあった。遠く九州の地に追いやられた老境の身には、故郷の香久山が懐かしく思い出されたであろう。わすれ草とは現在のカンゾウのことで、別名を忘憂草という。中国では憂いを忘れさせてくれる草と崇められたというが、我が国では嫌なことや悲しいことなど、いわゆる憂いを忘れようと、カンゾウの花や茎葉を身につけることが流行したようだ。
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