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大壁建物
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| 大壁建物のイメージ |
現在の明日香村桧前(ひのくま)から高取町にかけての地域は、渡来系豪族・東漢(やまとのあや)氏が本拠とした土地とされている。5世紀後半から6世紀にかけて、朝鮮半島の加羅や百済からさまざまな理由で日本列島に渡来した人々は、漢(あや)氏という同族集団を築いていった。当時は、信貴山を境にして東に住んだ漢氏を東漢(倭漢、やまとのあや)、西に住んだ漢氏を西漢(河内漢、かわちのあや)と呼んで区別していた。
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| 今回見つかった大壁建物の柱穴−1 |
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| 今回見つかった大壁建物の柱穴−2 |
大壁建物とは、細い柱を溝に何本も並べて立て、それらの柱を壁土で塗り込めた住居をいう。6世紀に朝鮮半島から伝わった建築技術で、防寒性に優れている。一般の人々は竪穴住居に住んでいた時代である。当時としては最先端を行く建築工法だった。
飛鳥地方の主として高取や桧前に住んだ東漢氏は、蘇我氏と結びついて勢力を拡大してきた。いろんな特色を有する東漢氏であるが、軍事的技術、宮建築の技術、今来漢人(いまきのあやひと)たちによるさまざまな先進技術が、彼らの持ち前だったとされている。
住宅建設に伴う事前調査として、今回は500平米の土地を対象に発掘が実施されてきた。現在も調査中であることが理由かどうか知らないが、現地説明会は開かれていない。この遺跡に注目している筆者としては、発掘現場を見ておかない訳にはいかない。そこで、新聞発表から3日後の9月17日、愛用のチャリンコで高取町まで出かけてきた。発掘現場は新しく開通した道の脇で、5人ほどの人数で遺構の実測や石積みの様子の模写を行っていた。
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| 第6次発掘調査の現場 |
今回の発掘では、大壁建物の東側で、南東へ伸びる道路(幅最大6m、長さ12m)も見つかっている。粘土と砂を交互に盛り上げ、小石で舗装してあった。建物と道路の間には、集落の入り口や広場があったらしい。そのため、同教育委員会は、この遺跡付近を、東漢氏が住み着いていた「外国人街」と表現した。
国内最古の池の遺構は石組みされた四角い方形池
池の水は南西の隅からわき水を引き込んで貯水し、北側に暗渠を設けて池の水が溢れないように排水していた。現在でもコンコンと地下水がわき出ているという。問題はこの池の目的である。二つの可能性が指摘されている。 一つは、池のほとりにあった高床式建物に付属した観賞用の苑池とする説である。今一つは、池の東側にオンドルを伴った大壁建物が隣接している点に着目し、オンドル用のカマドで湯を沸かすのに、この池の水を利用したとする説である。 ところで、方形池と聞いてすぐ思い浮かぶのは、蘇我馬子の邸宅があったとされる島庄(しまのしょう)遺跡で、昭和47年(1972)に出土した勾の池(まがりの池)跡がであろう。7世紀に作られたとされるこの池も1辺約40mの方形をしていて、日本庭園の源流とされてきた。上記のように、観覚寺遺跡は6世紀代の住居跡だから、島庄遺跡の方形池よりさらに古く、国内の石組みの方形池としては最古である。 朝鮮半島特有の石組みの方形池は、水辺を嫌う日本の伝統的な集落には合わない。そこで、河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は、この遺跡が泉を中心とするシルクロードのオアシス都市のような街だったのではないかと想定しておられる。高取町教育委員会が観覚寺遺跡を「異国人街」と表現したことが影響したのかもしれないが、方形池の遺構は5mx4mと小さい。大壁建物に囲まれた家族の憩いの場に築かれた庭園の中の池といった印象には合うが、オアシス都市を想定するのはすこし飛躍がありすぎる気がする。 |
朝鮮半島からの渡来人の住居跡であることを証明するオンドル遺構
焚き口と方形池の間は2mほどしか離れていない。このため、方形池から水を汲んで焚き口のカマドでお湯を沸かし湯気を流していた可能性も指摘されている。 古代の朝鮮半島にあった百済の地からも、石組みの方形池やオンドル遺構が出土している。したがって、観覚寺遺跡に居住したのは、半島からの渡来人、またはその子孫たちと考えてまず間違いない。彼らは故国での生活習慣をそのまま持ち込んだのだ。 何棟もの大壁建物が建ち並び、しかもその中心に方形池をもつ点を考慮して、この遺跡は渡来人の中枢を占める人間の屋敷であった可能性を指摘する学者がいる(石野博信・徳島文理大教授)。また、この付近は飛鳥と紀伊を結ぶ紀路の要衝でもある。従来は東漢氏の本拠地は檜隈とされてきたが、実際は観覚寺あたりだったかもしれない。 この地から北1kmに東漢氏の氏寺とされている檜隈寺がある。北東約0.7kmのところには装飾壁画のキトラ古墳がある。キトラ古墳だけではない。その北には高松塚古墳もある。従来、歴史学者や考古学者はこれらの古墳を天武系皇子の陵墓と見なしてきたが、ひょっとすると東漢氏の族長クラスが眠っている可能性も否定できなくなってきた。 |
永久に救われざる者
蘇我馬子に天皇暗殺を命令されて、駒はずいぶん苦しんだはずである。皇帝や天皇の弑逆はいずれの世界でも死罪を免れない大罪であろう。主家筋からの至上命令とあれば、これを拒否することはできない。刺客として天皇を殺害し、その後に己自身の命を絶つことで、馬子は一族の安泰を保証してくれるだろう。だが、駒には自殺できない理由があった。馬子の娘で天皇の愛妃になっている河上娘(かわかみのいらつめ)と恋仲になった今は、なんとしても生き延びたい。 大壁の建物の一室で、胡座(あぐら)をかき腕組みしながら、目の前の壁を食い入るように見つめて思索する日々が何日も続いたであろう。思いあぐねて、人々が寝静まったころ庭に出ると、方形池の周りを巡りながら空を見上げたこともあったであろう。建物の屋根に区切られた冬の空で、下弦の月が煌々と照り渡っていたにちがいない。 馬子がつけた条件はただ一つ、蘇我の権力を思い知らせる最も効果的な方法で殺害して欲しいというものだ。闇夜に襲って殺したとしても、それでは役目を果たしたことにはならない。天皇といえども蘇我の権力には逆らえないことを群臣に知らしめるには、公衆の面前で事を行わなければならない。 さまざまな殺害方法を推敲した結果、ようやく具体策が決まった。来る11月3日は、東国が貢ぎ物を献上する儀式が倉梯柴垣宮で行われる。貢ぎ物を奉る役は、古来、渡来系官僚が司ることになっていた。駒は馬子を動かして己にその役を任命させた。また、河上娘とも連絡をとり、決行の前日には皇居を抜け出して、ある場所に身を隠しているよう指示した。決行後に二人が落ち合い、馬で東国へ逃げる手はずも整えた。
一瞬の出来事だった。誰も何が起こったのか即座には理解できなかった。時間が止まってしまったその一瞬を利用して、駒は脱兎のように皇居を飛び出すと、寺川に沿って多武峰の森林に紛れ込んだ。大勢の追っ手が追いかけてきたが、武人の長として日頃鍛錬してきた駒には、足腰に自身があった。多武峰を越えて、指定した場所で河上娘と落ち合った二人は、物陰に隠れて夜のとばりが降りるのを待った。だが、二人の命運はそこでつきていた。不審な人物が物陰に潜んでいることが村人に察知され、芋峠へ抜ける木戸を守衛する警護の役人に告げられた。
馬子は駒の腕を庭の木の枝に縛り付け、自ら弓矢をとって駒を刺し殺したという。まず、弓の弦に一の矢をつがえてこう言った。
まさに狂気である。自分から出た罪を、馬子は必死になって駒に負わせようとして、支離滅裂な言葉を口走って、駒を射殺したことになる。死ぬ直前に駒は次のような弁明の言葉を発したという。
この言葉を聞いて、馬子はますます激怒し、剣を放って腸をつぶし、ついで首を打ち落とした。酸鼻を極めた駒の屍を前にして、おそらく馬子は痴呆のように絶叫し続けたであろう。仏法興隆をはじめとして、さまざまな功績を積んできたにもかかわらず、後世、史家によって天皇弑逆の首謀者の汚名を着せられることを予感した、永遠に救われざる者の狂態だった。 |