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講師は、山内英正・甲陽子学院高校教諭。集合場所はJR/近鉄桜井駅北口。指定された時刻の五分前に集合場所に着いた。渡されたバスの番号札は1番。今回は参加者が奈良交通の3台のバスに分譲して、高原の秋を一日楽しむことになる。 【コース】 JR/近鉄桜井駅→桜井市・小夫天神社 → 都祁山口神社 → 道の駅・針テラス(昼食) → 三陵墓 → 都祁水分神社 → 小治田安萬侶墓 → 天理市福住・都祁氷室神社 → 田原・志貴皇子墓 → 高円山・犬養孝揮毫歌碑→近鉄奈良駅(解散) 【関連地図】 都祁地域と田原地域の地図 |
泊瀬斎宮
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| 旧跡伝承地の碑 |
小夫郷はかっての倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)に擬せられてきた。伝承では、天神社が鎮座する場所は、崇神天皇の時、宮中で祀っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)を笠縫邑に遷して豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に奉斎させたところとされている。
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| 小夫天神社の参道 |
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| 小夫天神社の拝殿 |
上記の伝承のベースになった記述が『日本書紀』に載っている。
・天武2年(673)夏4月14日、壬申の乱で勝利した天皇は伊勢神宮の加護があったとして、娘の大来皇女を斎王として伊勢神宮に仕えさせるために、まず泊瀬の斎宮(いつきのみや)に住まわせた。ここはまず身を清めて、次第に神に近づくためのところである。
・天武3年(674)冬10月9日、大来皇女は泊瀬の斎宮から伊勢神宮に移られた。
・朱鳥元年(686)11月16日、伊勢神宮の斎王だった大来皇女は同母弟の罪により、任を解かれ京師(みやこ)に戻った。時に彼女は26歳だった。
大来皇女の斎王解任の背景には、古代史上有名な大津皇子の変があった。天武天皇の崩御の直後に、大津皇子は謀反の罪で捕らえられ処刑された。だが、この事件は、草壁皇子の皇位継承を確実にするために皇后(後の持統天皇)が仕組んだ陰謀であるとの説が有力である。はたして、そうであろうか。逆の見方もできる。その根拠は『万葉集』に記載された大来皇女の歌にある。
事件が起きる直前に、大津皇子はわざわざ伊勢まで大来皇女を訪ねている。理由はわからない。大津皇子が京に戻るとき、大来皇女は次の歌を詠んでいる。深読みすれば、弟に謀反の企てを打ち明けられ、弟に行く末に不安を抱いた姉の心情を吐露した歌のようにも取れる。
●我が背子を 大和へ遣(や)ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし (巻2-105)
●二人行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越えゆらむ (巻2-106)
さらに、大津皇子が処刑された後、斎王を解任されて京に戻る時にも、彼女は次の2首を詠んでいる。
●神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに (巻2-163)
●見まく欲り 我(あ)がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲らしに (巻2-164)
一般には、これらの歌も逢いたい弟がもはや生きていない大和にどうして戻ってきたのだろうと自虐の気持ちを表しているとされている。だが、弟の謀反の企てを阻止できなかった己に対する自虐と取れないだろうか。
(注) 泊瀬斎宮(はつせさいくう)の位置は国道165号線の脇本交差点付近にある脇本灯明田遺跡とする説が、現在は有力である。昭和60年(1985)3月、雄略天皇の泊瀬朝倉宮と推定された宮殿遺構の約30cm上層から7世紀後半の建物遺構が発見された。建物の南西隅を示す柱穴が5カ所見つかったことで、建物の中軸線の方位は真北を向き、泊瀬朝倉宮跡の方位より東へ8度振れていることが判明した。なお柱間は南北、東西とも2.04mである。
大山祇神
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| 都祁山口神社に向かうツアー参加者たち |
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| 都祁山口神社の碑 |
天理市の東には標高200m〜500mの大和高原が広がっている。南北約25km、東西約18kmの大和高原の中心に都介野(つげの)盆地がある。この盆地の気候は典型的な内陸性で、大和盆地よりも気温は2度〜4度ほど低いが、降水量は1600mmとかなり多い。こうした気候が広葉落葉樹や照葉樹の豊かな森を都介野盆地の中に育てた。そのため、この盆地は太古の昔から古代人が居住するには適した土地だったと思われ、縄文、弥生、古代の各時代に渡って彼らが残した遺跡が見つかっている。
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| 都祁山口神社の参道 |
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| 都祁山口神社の本殿 |
車窓を流れる田園地帯では、ほとんどの田んぼがすでに稲刈りが終わっていた。明日香村あたりでは、まだh穂が色づく頃なだ。どうやら都祁野盆地は早場米地帯らしい。参加者の一人から面白い話を聞いた。都祁の米は寿司米として最高で、ほとんどの農家は寿司業者との契約で耕作しているとのことだ。高原の温度変化と水の質が美味い米を育てるらしい。
11時15分、都祁山口神社を遙かに望むところでバスが止まった。田舎道は狭くて大型バスはそれ以上神社に接近できないらしい。大山祇神(おおやまづみのかみ)を祭神として祀るこの神社は、都祁水分(つげみくまり)神社とともに、かっての山辺郡の式内社だった。
社の背後の山に「御社尾の神石」と呼ばれる南北15m、東西10mの巨大な磐座(いわくら)があるという。水分神が降臨したとされている磐座である。そのため、都祁山口神社は水分神の上社とも呼ばれている。古墳時代の祭祀遺跡が神社と神石周辺に多く発見されている。
都祁を支配した首長たちが眠る三陵墓古墳 所在地: 奈良県奈良市都祁南之庄町小広
往古、都祁野盆地は自然の豊かな王国だったのかもしれない。盆地内には100を越えるえる古墳がある。その代表が三陵墓であろう。丘陵の東・西・南の三カ所に築かれていることから三陵墓と名付けられた。古墳時代中期の古墳で、この地域を支配していた首長の墓と考えられている。 全長110mをほこる東古墳は、5世紀後半に築造された都介野地域最大の前方後円墳である。県の史跡に指定されており、被葬者として、『古事記』や『日本書紀』にみえる都祁直(つげのあたい)、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)が想定されているという。
東古墳の被葬者に比定されている闘鶏国造に関しては、『日本書紀』の允恭天皇2年に面白い話を伝えている。忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が允恭天皇の皇后になる前、母と一緒に住んでいた。一人で苑の中で遊んでいるとき、闘鶏国造がそばの道を通り、馬に乗って垣根越しに語りかけた。彼は嘲るような調子で、「あんたにはよく園が作れるのかね」といい、「さあ、刀自、このノビルを一本くれ」と頼んだ。姫はノビルを取って渡しながら、「何のためにノビルを所望するのか」と聞いた。「山を行くときヌカガ(小さい羽虫)を追い払うのよ」と、闘鶏国造は答えたという。 大中姫は心中、闘鶏国造の無礼を不愉快に思われた。皇后になった年、馬に乗ってノビルを所望した男を探しだして殺そうとした。しかし、闘鶏国造は額を地につけて非礼を詫びたので、皇后は死罪は止めて、姓(かばね)を下げて稲置(いなぎ)にしたとのことだ。おそらく都祁野を支配していた首長が大和朝廷に服属したときの遠い記憶が、こうした伝承を生んだのだろう。
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大和国の水分四社の一つ都祁水分
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| 都祁水分神社の参道 |
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| 都祁水分神社の拝殿 |
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| 一間社春日造桧皮葺の本殿 |
都祁水分神社は当初からこの地に鎮座していたのではない。縁起によれば、二匹の白龍の一つが宇陀水分神となり、もう一つが小山戸庄の高山に飛び降りて都祁水分神となったとある。つまり、最初の鎮座地は都祁山口神社の地であり、この神社の元宮は山口神社ということになる。
古代の都祁水分神社は朝廷から重要視されていた。天平2年(730)の大倭国正税帳には、「都祁神戸」が寄せられたとあり、仁寿2年(852)には官社に列せられ、貞観元年(859)には「正五位下」が授与されている。延喜式には大社に列し、月次、新嘗の官幣にあずかっている。その後、平安時代中頃に興福寺の喜多院の荘園が当地(友田)にできたため、荘園の鎮守として天禄2年(971)に現在地に遷宮された。
この社地は奈良朝時代聖武天皇の行幸された堀越頓宮の伝承地であり、平安時代に伊勢斎宮の皇女が宿られた都介頓宮の跡でもある。当社の本殿は国の重文に指定されてる。室町時代中期の明応8年(1499)の造営された一間社春日造桧皮葺で、梁行は2.6m、桁行は3米と雄健な建物である。本殿前左右に安置されている一対の石造狛犬は、安山岩製で高さ0.7m、どっしりとして肉取りに抑揚がある。顔の表現もすぐれ頭髪や胸毛も豊かで、尾の意匠はそれぞれ変化がある。鎌倉末期の作と認められている優秀な作品である。
奈良時代の高官・小治田安萬侶
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| 小治田安萬侶の墓 |
丘陵をはさんで、都祁水分(つげみくまり)神社のちょうど反対側にあたる都祁甲岡町に、奈良時代の高官・小治田安万侶(おはりだのやすまろ)の墓がある。水分神社からは400mほどしか離れていない。神社の脇の道を歩いて行くと、ため池にぶつかり、その先に田園を挟んで秀麗な都祁野岳を望むことができる。ため池を過ぎると標識が立っている。標識に従って丘陵の裾の道を入っていけば、安万侶の墓の前に出る。
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主板は、縦29,7cm、幅6.3cm、圧座0.4cmの短冊形で、そこに以下の3行44文字が刻まれていた。
「右京三条二坊従四位下小治田朝臣安萬侶大倭国山辺郡都家郷郡里崗安墓 神亀六年歳次己巳二月九日」
他の2枚の副板nは、左琴と右書が刻まれていた。これらの墓誌は現在東京国立博物館に所蔵されている。
したがって、小治田朝臣安萬侶は神亀6年(729)2月9日に亡くなったことがわかる。しかし、どのような官吏で何歳で没したか、一切不明である。『続日本紀』には彼の叙位が記載されている。それによれば、慶雲4年(707)に従六位下から従五位下に進み、和銅4年(711)には従五位上、霊亀元年(715)には正五位下、養老3年(719)には正五位上にそれぞれ昇叙されている。死亡したときは従四位下だった。ちなみに、安萬侶が当地に埋葬された翌日の2月10日、平城京では後世「長屋王の変」と称される政変が起きている。
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| 秀麗な都祁野岳 |
都祁氷室
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| 都祁氷室の鳥居 |
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| 都祁氷室の拝殿 |
天理市福住にある氷室神社は、正確には都祁氷室神社という。氷室とは氷を夏まで貯蔵しておくため特別に装備した室または山陰の穴のことである。都祁の氷室に関して、『日本書紀』は次のような起源説話を載せている。
仁徳天皇62年のことである。額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が闘鶏(つげ)に猟に行かれた。山の上に登って野の中を見ると、何か物があり、廬(いお)の形であった。使者に調べさせると、帰ってきて「窟(むろ)です」という。それで、闘鶏稲置大山主(つげのいなぎ・おおやまぬし)を呼んで、「あの野中にあるのは何の窟だ」と問われた。「氷室です」という答えに、皇子は「その蔵(おさ)めた様子はどんなものか、また何につかうのか」と聞いた。「土を掘ること一丈あまり、萱(かや)をもってその上に葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取りその上に置きます。夏を越しても消えません。暑いときに水酒にひたして使います」と大山主は答えたという。皇子はその氷を持って帰り、御所に奉られた。天皇はお喜びになった。これ以後、師走になる毎に必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷を配ったという。
都祁氷室神社は、この起源説話に出てくる闘鶏稲置大山主と額田大中彦皇子および大鷦鷯(おおささぎ)皇子(後の仁徳天皇)を祭神として祀っている。以前に郷土史家の川村和正氏に都祁に氷室が作られた理由を伺ったことがある。氏の話を総合すれば、先ず、都祁地域が海抜500m前後の高地にあり、平城京あたりとは3度から4度は気温が低い。したがって、冬は容易に氷点下まで気温が下がり、氷作りに適しているそうだ。次に、この付近の地質は花崗岩質岩類の酸性深成岩で水はけがよい。水はけが良いことは、氷保存の絶対条件だそうだ。さらに、都祁の地は朝廷の禁猟地区であった可能性があり、そのために朝廷が氷室を独占できたかもしれないとのことだ。我が国の古代には殯(もがり)という風習があった。遺体を埋葬しないで長期間保存するには、現代のドライアイスともいうべき氷が不可欠だったのだろう。
昭和63年(1988)、平城京の左京三条二坊にあった長屋王の屋敷の北側の二条大路の溝から木簡3万点が発見された。その中に、「都祁の氷室」を記載したものがあったことはよく知られている。木簡の調査によって、二カ所の氷室の規模や設営の仕方、氷室の大きさ、取り置き氷の規格、氷進の日、進上者の名などがが明らかになったという。
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| 境内にある万葉歌碑 |
奈良市内の国立博物館の前に、氷室神社がある。和銅3年(710)の平城遷都の際に、都祁から祭神を遷したのが始まりとされている。その境内にある2本のシダレザクラの大木は奈良市内で一番早く花をつけるそうだ。氷室神社の境内の一画に、次の万葉歌を刻んだ碑が建っている。大伴家持の歌である。
●うらうらに 照れる春日(はるひ)に ひばりあがり 情(こころ)悲しも ひとりしおもへば (巻19-4292)
都都祁氷室神社の近くに、氷室が復元されている所がある。帰りのバスの車窓から眺めることができると、バスガイドがアナウンスしていたが、その側を通過したとき周囲の樹木にに遮られてよく分からなかった。しかし、今年の6月に橿考研の友史会の史跡巡りで都祁藺生(いう)町上ノ宮に鎮座する葛(くず)神社を訪れたとき、裏手の丘陵で2つの氷室跡を見たことがあるが、地肌が窪んでいるだけの場所だった。ただ、枝葉を茂らせた巨木が周囲を囲んでいた。太陽光が直接差し込まないことも、氷室を作る上で重要な条件だそうだ。
万葉歌人として知られる志貴皇子
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| 田原西陵の参道 |
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| 志貴皇子の墓 |
志貴皇子は、芝基皇子、施基皇子、志紀皇子などさまざまな漢字を用いて表される。彼は天智天皇と越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)との間に生まれた皇子だが、いつ誕生したかは明らかではない。彼が歴史の舞台に登場するのは、天武天皇8年(679)5月6日。その日、天武・天智天皇の6人の皇子(草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・志貴)が、吉野宮で一堂に会し、天武天皇と皇后の前で、皇位継承の争いはしないと誓った。志貴皇子はこの「吉野の会盟」の参加者の一人であり、天智系の皇子だから順位は低いが、それでも皇位継承者の一人と目されていた。
その後の経歴を見ても、特にこれと行った業績は見あたらない。おそらく天武系の皇族たちが幅を効かせる政界で、人目に立たないように生きることを人生訓としたのだろう。『万葉集』は皇子の没年を霊亀元年(515)9月としている。だが、『続日本紀』は霊亀2年8月としており、1年近い開きがある。彼の野辺送りの様子は、『万葉集』に引かれた笠朝臣金村の歌集の中で、劇的な長歌として歌われている。以下の2首はその長歌に対する反歌である。
●高円の 野辺の秋萩 いたずらに 咲きか散るらむ 見る人なしに (巻2-231)
●三笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに (巻2-232)
志貴皇子は6首の歌を『万葉集』に残している。そのうち、筆者のお気に入りは次の2首である。中学生の多感な時代に国語の時間に習ったせいか、いまでもすらすらと諳んじることができる。
●采女の 袖吹きかえす 明日香風 宮(みやこ)を遠み いたずらにふく (巻1-51)
●石走る 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (巻8-1418)
神護景雲4年(770)八月、称徳女帝が崩し、天武系の皇位継承者が絶えた。左大臣藤原永手らの支持を受けて、志貴皇子の第6子・白壁王(しらかべのおおきみ)がその年の11月に光仁天皇として即位した。すでに62歳の老人だった。即位するとすぐに、新天皇は父の志貴皇子に春日宮天皇の名を追贈した。天智天皇の皇子に過ぎなかった志貴皇子の墓が天皇陵に準じて田原西陵と称されているのは、このためである。
高円山
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| 犬養孝博士揮毫の万葉歌碑 |
しかし、今回のバスツアーで最期の訪問地として高円山が組み込まれたのには、もう一つ別の理由がある。「万葉の大和路を歩く会」にとっては、この場所は思い出の場所なのだ。設立10周年を記念して、大和路を歩く会は奈良交通と協賛で、犬養孝博士揮毫の万葉歌碑を展望休憩所の脇に建立した。除幕式は1989年の9月24日に行われた。大伴の家持が詠んだ次の歌が万葉仮名で碑に刻まれている。
●高円の野の上(へ)の宮は 荒れにけり 立たしし君の御代遠そけば (巻20-4506)
この日の夕日が大和平野を真っ赤に染めることを期待したが、残念ながら、太陽は薄雲の影に隠れ、下界は廃棄ガスでもやっていた。冬の風の強い晴れた日にでも訪れないと、晴れ渡った奈良盆地を眺められないのかもしれない。
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| 高円山ホテルの展望休憩所からの眺望 |