橿原日記 平成17年9月18日

橿考研友史会「有年原・田中遺跡と赤穂市北部の遺跡」巡りに参加


橿考研友史会の9月例会は、京阪神からすこし足をのばして、兵庫県赤穂市北部の有年盆地(うねぼんち)を訪ねることになった。有年盆地は瀬戸内海に流れ込む千種川(ちくさがわ)の中流域に位置する山間部だが、川筋に沿って狭い平地がのびている。ここは近畿地方の西端で、岡山県との県境に近く、古くから個性的な文化がはぐくまれた地域だそうだ。

JR有年駅
集合場所に指定されたJR有年駅
っては、この山間部を古代の山陽道が通り、現在もJR山陽本線や国道2号線が通っている。つまり、有年盆地は、古代も今も交通の要衝である。盆地の中心にJR山陽本線の有年駅がある。そこが、今回の集合場所だった。

合時間は午前10時45分が指定されていた。朝の9時丁度に大阪駅を出る新快速で相生駅まで行き、そこから岡山方面への普通列車に乗り換えて、10時40分に有年駅に到着した。

回の史跡探訪の案内役は、橿考研附属博物館の小池香津江女史である。さらに赤穂市教育委員会で文化財を担当している荒木氏が途中までご一緒された。

有年盆地の遺跡
今回探訪する遺跡

【コース】JR山陽本線・有年(うね)駅 → 塚山古墳群 → 木虎谷古墳群 → 有年原・田中遺跡公園 → 蟻無山古墳 → 有年考古館 → 野田2号墳 → 有年駅 

(注)当初の予定では、有年考古館の後、東有年・沖田遺跡公園と赤穂市埋蔵文化財調査事務所を見学することになっていた。しかし、日曜日で埋蔵文化財調査事務所が閉まっていて見学できないため、予定を変更して、そちらの方面にある東有年・沖田遺跡公園の代わりに県指定文化財・野田2号墳を訪れることになった。
参加者たち
最初の探訪地に向かう参加者たち



塚山(つかやま)古墳群

前11時丁度、一行は最初の探訪地である塚山古墳群に向かって有年駅を出発した。JR山陽本線の線路をまたぎ、色づいた稲穂が頭を垂れている水田の中の田舎道を一直線に北へ向かう。矢野川に架かる北畠橋を渡って右岸の堤防沿いに東に進むと、やがて左手の山麓に八幡神社の境内が見えてくる。その先で左に折れて、有年牟礼(うねむれ)の奥まった谷間に入っていく。ため池を過ぎたあたりに雑木林を金網で囲った箇所が見えてきた。

古墳群へ
金網の柵を越えて塚山6号墳へ
R山陽本線の有年駅の北東に位置するこの場所は私有地である。その中に、目指す塚山古墳群があった。古墳を保護するために、無断立ち入りを禁止しているようだ。教育委員会の荒木氏が金網の一画に取り付けた扉の施錠をはずされた。

山古墳群には総数19基の古墳があり、そのち6基が横穴式石室が地上に開口していて、見学できる。その中で、塚山6号墳は県の史跡に指定されている。一辺の長さが約15mほど方墳だが、前面に外護列石と思われる石材が露出していた。

塚山6号墳の横穴式石室
塚山6号墳の横穴式石室
間仕切り石
玄室から見た間仕切り石
料によると、この6号墳の横穴式石室の全長は11.7m以上。前面の羨道(せんどう)部分が破壊されているので、実際の長さは不明とのことだ。奥にある玄室(げんしつ)は片袖式で、大きさは、長さ6.8m、幅2.5m、高さ2.1〜2.5m。この古墳の特徴は、玄室のほぼ中央に板石を渡した間仕切りが作られ、これによって玄室が前後に分割されている転だ。この玄室中央に間仕切りをもつ特異な構造の横穴式石室は、最期に訪れることになった千種川対岸の野田2号墳にもあるという。

年考古館には、この古墳から出土した須恵器が所蔵されている。その須恵器から、築造時期は6世紀後半から末頃と考えられている。この時期、近畿の大和では、蘇我氏が中央で勢力をのばし、物部本宗家と争ってこれを滅ぼした時期である。蘇我氏が勢力をのばした原動力は、あちこちの屯倉(みやけ)設置に尽力したことにあるとされている。『日本書紀』によれば、蘇我馬子は敏達3年(574年)10月、当地よりさらに西の吉備国に遣わされ、白猪屯倉と田部とを増益している。

の頃この有年盆地で勢力を張っていたのはどんな氏族だったのか。気になって、荒木氏に個人的に聞いてみた。すると、意外な返事が返ってきた。この地方の伝承から推して、秦氏の一族が支配していたらしいとのことだ。秦氏は漢(あや)氏と並んで渡来氏族の雄とされている。その一族は全国に足跡を残している。したがって、この地域を開発したのが秦氏である可能性は大いにある。



木虎谷(きとらたに)古墳群

木虎谷2号墳
木虎谷2号墳の石室入口
石室内部の棚
石室内部の棚
虎谷古墳群は、有年原集落の原小学校の北側に位置する丘陵の裾に築かれている。矢野川に架かる北畠橋の袂まで戻り、橋からまっすぐ北へ進むと集落のはずれに原小学校がある。本日は日曜で学校は休みだ。田舎にしては、明るく立派な校舎である。そのだだっ広い校庭に暑い日差しが踊っている。

墳群へのアクセスは、なんと民家の玄関先を通り抜けて行かなければならない。住民も見学者の訪問に慣れているのだろう。私道に止めてあった車が団体さんが通るのに邪魔になると思って、わざわざ除けてくれた。

墳群は民家の裏の竹藪の中にあった。見学した木虎谷2号墳は、直径が約16mの円墳で、南側に大きな横穴式石室が開口している。羨道がかなり破壊されているので、石室の正確な全長は不明だが、9.5m以上はあったという。両袖式の玄室は完全な状態で残っている。玄室の大きさは長さ5.2m,幅2.2m,高2.4mである。

の古墳の特徴は、玄室の奥壁に石棚を持つことだ。石棚は高さ1.3mほどの位置に板石が載せた形をしている。ただし、板石は厚さが45cmもあり、完全な水平ではない。また、上面が平坦でない。そのため、棚として用いられたかどうか疑う意見もある。

11号墳の残骸
11号墳の残骸
虎谷2号墳の築造時期は6世紀前半の築造と推定され、県の史跡に指定されている。この古墳の石室も、内部が見学できる。不意の闖入者に驚いたのか、先頭の見学者が中に入ると、コウモリが一匹飛び出してきた。

家の裏の畑に、石が積まれている。聞いてみると11号墳を取り壊した石室の石だそうだ。木虎谷11号墳は、昭和初期に民家がその上に納屋を建てたため大きく破壊されてしまった。昨年、その納屋を建て替えることになったので、念のためにトレンチを行なったところ、石室の上部が取り壊されていたが、埋葬面は残されていたことが分かった。

掘調査を行ったところ、さまざまな知見が得られたという。先ず、石室の周りの盛土に、雨水による土の流失を防ぐ目的で葺石(ふきいし)が築かれていた。さらに、その下には大きな石を円形に並べた列石(れっせき)が築かれ、山から流れてくる水が周溝によって東西に流されていたようだ。

の古墳は、6世紀末〜7世紀初頭に築かれ、7世紀中ごろに追葬が行われたことも分かった。新たに遺体を埋葬するため、初葬時の副葬品を片付け、石室内を整地し、新たに棺を入れた形跡があるといのだ。発掘調査の後、石室は解体された。その残骸が畑に積まれたまま放置されている石の数々である。



有年原・田中遺跡(うねはら・たなかいせき)公園  (所在: 赤穂市有年原1090番地)

有年原・田中遺跡公園
有年原・田中遺跡公園

年原・田中遺跡公園は千種川の左岸に位置し、原小学校から南側一帯の水田にかけて広がっている有年原・田中遺跡を史跡公園として整備したものである。木虎谷古墳群から近い。

年原・田中遺跡は、弥生時代から古墳・古代・中世にいたる複合遺跡で、以前は小学校の校庭からも土器が出土したことで知られている。発掘調査によって、弥生時代中期後半になって、この場所に本格的な集落が展開されたことが、竪穴住居跡などから確認されている。弥生時代後期になると、大型の円形墳丘墓が2基や木棺墓群、祭祀土坑などが築かれている。このことから、この付近は居住地が移動して墓域となったようだ。

1号円形周溝墓の周溝部分
1号円形周溝墓の周溝部分
復元特殊器台を並べた祭祀の様子
復元特殊器台を並べた祭祀の様子
墳前期の遺構や遺物は確認されていない。しかし、古墳中期には、再び集落が築かれた。5世紀後半から6世紀にかけて、多数の竪穴住居が営まれていることから、大集落があったことが分かる。

こでの中心は弥生時代に築かれた2基の巨大な墳丘墓である。播磨地方の弥生時代を特徴づけるのは、円形の区画を持つ円形周溝墓の存在だが、耕作地の地下から見つかった二つの円形墳丘墓は、まさにその典型だった。

号墓は直径が19m。東側に陸橋部が、西側に突出部が築かれていた。周溝の幅は5m、検出された溝の深さは1mだった。周溝墓から、特異な装飾を持つ特殊器台、特殊壺、装飾高坏の破片などが出土し、また多量の川原石も出土したという。墳丘は完全に削り取られ、埋葬施設も不明だったが、もとはいくらか盛土され、川原石が葺かれていたと想定されている。そうした想定に基づいて、1号周溝墓が現在復元整備されている。

号墓は1号墓の北側に隣接している。こちらの直径は15m、周溝の幅は2m、1号墓に比べて規模はやや小さい。周溝からは川原石や特殊器台、特殊壺が出土した。やや離れた場所に墳丘を伴わない6基の木棺墓群がある。向きがそれぞれ違っているが、それは出身母体の違いではないかと言われている。

特殊器台の現物
発掘された特殊器台の現物
輪の起源は、弥生時代後期の吉備地方の首長墓に見られる特殊器台形土器および特殊壺形土器にあるとされている。器台とは壺を載せる台のことだが、有年原・田中遺跡から出土したものは、吉備地方のものとは違った独自性がある。器台の筒部や壺体部の突帯、口縁部の形状、渦巻き貼り付け文の構成などがユニークであるという。案内して下さった荒木氏は、発掘された特殊器台の実物を我々が実見できるように、わざわざ用意して下さった。1号および2号円形周溝墓の頂上には、埋葬された遺体を囲むように復元された特殊器台が並べられている。

師役の小池女史は、有年原・田中遺跡で発掘された弥生後期遺構の周溝墳丘墓に特殊な思い入れをお持ちのようである。どうやら、前方後円墳のルーツをこの周溝墳丘墓との関連で捕らえられないか思索されておられるようだ。



蟻無山(ありなしやま)古墳群

蟻無山古墳がある丘陵
蟻無山古墳がある丘陵
西側から見た蟻無山
西側から見た蟻無山
墳頂からの眺め
墳頂からの北側の眺め
年原・田中遺跡公園から北西方向を見ると、明源寺という寺の本堂の後ろに小高い丘陵が見える。標高70mほどの丘陵だが、山の西側に回ると、千種川に沿って中国山脈から下ってきた支脈の先端部分であることがわかる。その頂きに直径52mの円墳が築かれている。蟻無山1号墳という。

の古墳は丘陵の頂きを利用して築かれており、墳丘の南側に造り出しを持つ。そこから円筒埴輪や馬、家、盾などの象形埴輪が出土していることから、造り出し付近で埴輪祭祀が行われたと想定されている。出土した埴輪は有年考古館に所蔵されている。そのほかに、器台などの初期須恵器が出土している。したがって、この古墳は5世紀前半の須恵器製造技術導入直後ころの築造とされている。

の地域に伝わる伝承では、古墳を築造するとき、付近の住民をあまりに酷使したので、彼らの間から不平の声が上がり、逃亡者が続出したという。それを見ていた蟻たちも、すべてこの山から逃げ出したため。蟻無し山と呼ばれるようになったという。蟻無山を含めて付近の山々には、80基を越える古墳が築かれている。これらの古墳群の中で盟主的な存在が蟻無山1号墳である。赤穂市最大の古墳で、県の史跡に指定されている。

食を取った後、午後1時35分、有年原・田中遺跡公園を出発して、丘陵の頂きに築かれた蟻無山1号墳まで登った。食後の腹ごなしのためというわけでもないだろうが、雑木林の中に築かれた登り道は結構きつかった。途中に説明板が立っていた。このあたりが造出があったあたりかもしれない。山頂の広場は周囲の樹木がのびて見晴らしはあまり良くない。わずかに北側に千種川の上流を見晴らすことができるだけだった。しかし、古墳が築造された当時、この山頂は有年盆地全体を見下ろすことができる眺望の優れた場所だったにちがいない。



有年考古館(うねこうこかん) (所在: 赤穂市有年楢原1164-2)

有年考古館遠望
有年考古館遠望
有年考古館の正面と現在の館長
有年考古館の正面と現在の二代目館長
無山古墳からJRの線路を越えて西に進むと、千種川にかかる橋の袂に有年考古館がある。地元の医者で郷土史の研究家だった故松岡秀夫氏が、昭和25年(1950)に自費で旧村役場を手直しして設立した私設の考古館である。

年考古館は「日本一小さな考古館」の名で知られている。館内1階には松岡氏が収集した旧赤穂郡からの出土遺物を中心とする考古資料を展示し、2階は民族資料室として農村生活資料を中心に展示している。1階を見学しただけだが、松岡氏が収集した土器片を初めとする実にさまざまな考古資料が所狭しと置かれていた。中には、何時代のものか分からないが人骨まであった。その収蔵資料の価値は高く、旧赤穂郡内の考古資料1250点が、昭和63年に赤穂市の文化財に指定されたという。

日本一小さな考古館」は普段は施錠されている。見学を希望する場合は、現在この考古館を嗣いでおられるご子息の松岡氏に前もって予約を入れる必要がある。本日は松岡氏がわざわざ友史会のためにあらかじめ開館して、我々の到着を待ち、館内を案内してくださった。

の考古館には、内区の端に2個1対の円形の穴が穿たれている直径8.5cmの内行花文鏡が所蔵されている。木虎山古墳群の東方に位置する田中奥山から昭和23年(1948)の砂防工事の最中に出土した弥生時代の小型彷製鏡である。その鏡について、現館長の松岡氏は面白い話を披露してくださった。

央からこの博物館を訪れたある著名な考古学者が、この内行花文鏡を中央の博物館へ寄贈するよう故松岡氏に迫ったが、松岡氏は地元で見つかったものは地元で所蔵したいと、その要求をがんとしてはねのけたそうだ。初代館長の人柄を彷彿させるエピソードである。



野田2号墳 (所在: 赤穂市有年楢原1003番地)

古墳の前の祇園塚碑
古墳の前の祇園塚碑
初の予定に入っていた東有年・沖田遺跡公園の代わりに、最期に訪れたのは、野田2号墳である。この古墳が選ばれたのは、石室内部が見学できるというのが理由らしい。有年考古館を出て千種川に架かる橋を渡り、約20分ほど千種川に沿って北上すると、有年楢原の野田という集落がある。古墳はその集落の裏山にある墓地の一画に位置している。墓地の前を通り過ぎると、すぐの所に石室を南に開口した古墳がある。それが「祇園塚」という別名を持つ野田2号墳である。

丘の大部分が封土を失っているため、野田2号墳の本来の形は分かっていない。しかし、内部の横穴式石室は比較的よく保存されている。石室の全長は7.8mで、玄室(げんしつ)は長さ3.12m、幅1.77m、高さ2.5m、羨道(せんどう)は長さ5.78m、幅1.48m、高さ2.1mを測る。玄室は両袖式、奥壁は巨石で上下2段積み、側壁はそれ程大きくない。平石を敷き詰めた玄室は羨道面より少し高くなっている。

野田2号墳の石室開口部
野田2号墳の石室開口部
の古墳は石室が特異な構造ををもつことで注目されている。すなわち、玄室と羨道の境界付近には、間仕切りの板石が左右に立てられている。さらに、羨道入口付近には直立する板石が閉塞石として残っている。こうした石室の構造は学術的にも価値が高く、昭和61年(1986)3月に兵庫県によって文化財に指定された(史跡指定番号69)。

室内から、須恵器の坏や壺、提瓶、さらには耳環(じかん)などが出土している。これらの出土品から、この古墳の築造年代は6世紀末ないし7世紀初めと推定されている。


学の途中で眼鏡が壊れた。友人に携帯電話で連絡をとり、行きつけの眼鏡屋が何時まで営業しているか確かめて貰った。本日は日曜日なので、午後の7時に閉店するという。修理を頼むには、それまで橿原市に戻らなければならなかった。3時30分、他の参加者より一足早く野田2号墳を後にした。4時12分に有年駅を出る列車にどうしても乗りたかった。大汗をかきながら、もと来た道を戻り、かろうじて列車に間に合った。それでもアパートのある橿原市に着いたときは、時計の針は7時を指していた。




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