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| 発掘現場付近の航空写真(*) |
明日香村島庄に築かれた日本庭園の源流・勾の池
明日香村教育委員会によれば、一連の発掘調査によって以下のことが明らかになったという。
昭和62年(1987)9月には、嶋宮伝承の地で古代の宮殿クラスの掘立柱建物3棟分の跡が発見され、その北側に我が国最古の壮大な庭園が築かれていたことが確認された。『万葉集』には草壁皇子が薨した後、上記の歌の他にも、嶋宮の舎人(とねり)などが詠んだ挽歌が23首掲載されている。これらの歌から、嶋宮には当時、上の池と下の池とがあったと考えられている。 発掘された一辺が40mを越える方形の池跡は、上の池のものと思われ、当時は勾の池(まがりのいけ)と呼ばれていたことが判明している(下方の池跡はその範囲がまだ確認されていない)。池の水は、近くを流れる冬野川から引き込んだものと推測されている。嶋宮の東の門は「滝の御門」と呼ばれていた。おそらく、冬野川から引き込んだ水流がその門の傍らを滝のように激しく流れていたのであろう。 発掘では、北西方向に流れる人工河川が見つかっている。最大幅が5m、深さ1.2m、発掘された総延長は24mだった。上流との落差が急で、大小の石がうまく組み込まれていて、自然の渓谷を思わせる作りになっていた。そのため、純日本的庭園の源流がこの地に築かれていたと考える専門家は多い。 この人工河川が上の池への引き込み水路だったのか、それとも上の池から下の池へ水を流す溝だったのか、残念ながら筆者は確認していない。いずれにしても、勾の池が築かれた時期は古く、蘇我馬子が当地に邸宅を構えたとき庭園の一部として作ったとされている。『日本書紀』は馬子が飛鳥川のほとりに家を造り、池に小さな島を築いた」と伝えている。おそらく、古代の庭作りでは、庭の中に必ず水を通し、水中に島山を築いたのだろう。そのため、馬子は「島ノ大臣」と呼ばれたという。 |
馬子の邸宅の大型建物跡を確認
今までに島庄遺跡から16棟の掘立柱建物跡が見つかっている。そのうち建物@、A、BとNの4棟が、七世紀前半に建てられた馬子の邸宅だったと想定されている。北で見つかった方形池や東に位置している石舞台古墳と、それぞれの建物跡の方位が一致しているためである。 今回の調査で建物@とAの東側に延びていた建物跡の規模が分かった。最も大きく「主殿」と考えられている建物@の大きさは、東西12m、南北7.5m、床面積約90平米であることが分かった。建物@から3.6mほど離れて東南に隣接する建物Aは、東西11.8m、南北5.4m、こちらも床面積は64平米あったらしい。主殿を建てた数年後に建物Aが別棟として設けられたと考えられている。新たに見つかった建物Qと塀Rも、7世紀前半のものであるという。したがって、馬子の邸宅を構成した建物群は4棟だけでなく、さらに増える可能性がある。 |
蘇我馬子の邸宅の変遷蘇我家の隆盛の基礎を築いたとされる蘇我稲目(そがのいなめ)は、大和朝廷で大臣(おおおみ)の位にあること35年、欽明天皇31年(570)の3月にこの世を去った。蘇我本宗家の族長として、蘇我馬子がさっそうと政界デビューを果たすのは、それから2年後に敏達天皇が即位した572年である。このとき、馬子は大臣に就任した。まだ22歳の青年だった。 以来55年、推古天皇34年(624)5月に76歳で没するまで、蘇我馬子は大和朝廷で絶大な権力を握り、蘇我一族の繁栄をもたらした。だが、当初から馬子が政界のNo.1ではなかった。彼の上には、大連(おおむらじ)として諸豪族を束ねる物部守屋(もののべのもりや)がいた。彼がNo.1の地位を確保するのは、用明天皇2年(587)7月の蘇我・物部戦争で守屋を倒して後のことである。 推古女帝や聖徳太子の叔父として、長らく政界に君臨した蘇我馬子は、あちこちに邸宅を構えたはずである。だが、史料から伺い知ることができる馬子の家は次の3カ所しかない。
『日本書紀』によれば、敏達13年(584)9月、百済から鹿深臣と佐伯連が持ち帰った弥勒の石像を蘇我馬子が貰いうけると、宅の東に仏殿を作り弥勒の石像を安置し、また石川の宅に仏殿をたてたという。最初の「宅」がどの家を指すのかについては、「軽宅」、「槻曲宅(つきくま)」とするなどいくつかの意見があるが、不明である。「石川宅」は、橿原市石川町の付近とする説が有力である。この仏殿は、のちに石川精舎とよばれ、石川町にある本明寺にあたると伝えられている。
■槻曲(つきくま)の家
■嶋の家 考古学者は、島庄遺跡のうち蘇我馬子の邸宅跡は7世紀前半の築造としか言及しない。馬子の邸宅ならば、624年に76歳で亡くなるまで住んだはずだから、素人だって7世紀前半の建物跡と時代考証はできる。問題は、馬子が何時ここに邸宅を建てて移り住んだかである。
明日香巡りをしたことのあるハイカーたちには自明のことだが、明日香の土地は南から北へ、そして東から西へ傾斜している。島庄遺跡がある台地あたりは、真神原(まがみがはら)全体を見下ろすことができる当時の一等地だったに違いない。馬子ならずとも、この場所に邸宅を建て、氏寺が出来上がっていくのを眺めたかったであろう。ここはそのための格好のスポットだった。庭園の中央に勾の池を築き、氏族の長たちを招待して池の周りで野外宴会を開き、仏教になじまない連中に対して一席ぶつのは、馬子にとって至上の喜びの瞬間だったかもしれない。その飛鳥寺は596年には完成する。それ以前に、馬子はこの地に邸宅を構えたはずである。 (*)明日香村教育委員会作成の現説配付資料より転記 |
島庄遺跡2005−6次調査
調査地は方形池の北側、すなわち現在の唯称寺川の南川に2カ所設定された。南側の調査1区では2本の溝が見つかり、古墳時代の古式土師器や飛鳥時代の土師器・須恵器・種子・燃えさしなどを出土したが、建物跡は発見できなかった。
北側の調査2区も溝跡を検出したが、それと同時に南西から北東方向へのびる3間以上の掘立柱の塀跡が見つかった。直径20〜25cmの柱穴4基が約8mにわたって一列に並んでいた。世紀半ばの塀跡で、大化の改新(645年)で蘇我氏が滅亡した直後、朝廷が接収した際に築いたものと推測される。今回の調査で方形池の北側でも飛鳥時代の遺構が見つかったことで、島庄遺跡は少なくとも現在の唯称寺川のすぐ南側まで広がっていて、その面積は甲子園球場のほぼ1・5倍にあたる6ヘクタール以上もあった可能性がでてきた。 |