橿原日記 平成17年9月11日

飛鳥の歴史を彩った一等地に築かれた蘇我馬子邸

島庄遺跡
発掘現場付近の航空写真(*)


配布資料あ
現地説明会の配布資料(*)
日香村教育委員会は、今年度も島庄遺跡(しまのしょういせき)で発掘調査(2005−3次調査)を行ってきた。そして、新たに得られた成果を8月27日の現地説明会で明らかにするとメディアに公表した。

またま筆者は埼玉の自宅に戻っていたため、説明会に参加できず悔しい思いをしていた。ところが、橿原氏在住の友人T.Y氏がわざわざ説明会に駆けつけ、小生の代わりに配布資料を入手してくれていた。やはり、持つべきものは友である。彼が手に入れてくれた資料には、建物群の位置関係と築造時期が一目で分かるようにカラー印刷されていた。おかげで、新聞報道では良く分からなかった蘇我馬子の邸宅跡の建物群が良く理解できた。

日前、今度はメル友のシンシアさんが、次の万葉歌を紹介してくれた。
● 嶋の宮、まがりの池の、放(はな)ち鳥、人目に恋ひて、池に潜(かづ)かず (巻2−170)
【意味】嶋の宮の池に放し飼いにされている鳥たちも、皇子さまが亡くなったさみしさに、人恋しくて、水にくぐることもしない。

して、”28歳という若さで亡くなった草壁皇子(くさかべのみこ)を偲(しの)んで詠まれた歌です”と、わざわざ注記まで添えてあった。西暦645年の「乙巳(いっし)の変」で蘇我本宗家が滅亡した後、島庄の馬子の邸宅跡に嶋宮が建てられ、天武天皇の草壁皇子が住んでいたことはよく知られている。



明日香村島庄に築かれた日本庭園の源流・勾の池(まがりのいけ)

ああああ
遺稿周辺図(*)
島庄遺跡(しまのしょういせき)は明日香観光の目玉の一つである石舞台古墳の西側に位置する。この遺跡の発掘の歴史も相当に古い。これまで県立橿原考古学研究所(橿考研と略称)が30次にわたって調査をおこない、掘立柱建物や1辺が40mを越える方形の池などが飛鳥時代の遺構として見つかっている。その後を引き継いだ明日香村教育委員会は平成15年度(2003)から3年で約3000平米を越える面積の遺跡範囲確認調査を実施してきた。

日香村教育委員会によれば、一連の発掘調査によって以下のことが明らかになったという。
●島庄遺跡は飛鳥時代を中心として縄文時代から中世にかけての複合遺跡である
●飛鳥時代の遺構群は、建物方位や配置、出土遺物から5群に大別できる
●遺跡の範囲は方形池の北と南に広く広がっている。特に南側では、7世紀代の全般にわたって建物が建て替えられていて、施設の中心だった
●これらの遺構は、位置や時期が蘇我馬子の邸宅や嶋宮とも重なる

和62年(1987)9月には、嶋宮伝承の地で古代の宮殿クラスの掘立柱建物3棟分の跡が発見され、その北側に我が国最古の壮大な庭園が築かれていたことが確認された。『万葉集』には草壁皇子が薨した後、上記の歌の他にも、嶋宮の舎人(とねり)などが詠んだ挽歌が23首掲載されている。これらの歌から、嶋宮には当時、上の池と下の池とがあったと考えられている。

掘された一辺が40mを越える方形の池跡は、上の池のものと思われ、当時は勾の池(まがりのいけ)と呼ばれていたことが判明している(下方の池跡はその範囲がまだ確認されていない)。池の水は、近くを流れる冬野川から引き込んだものと推測されている。嶋宮の東の門は「滝の御門」と呼ばれていた。おそらく、冬野川から引き込んだ水流がその門の傍らを滝のように激しく流れていたのであろう。

掘では、北西方向に流れる人工河川が見つかっている。最大幅が5m、深さ1.2m、発掘された総延長は24mだった。上流との落差が急で、大小の石がうまく組み込まれていて、自然の渓谷を思わせる作りになっていた。そのため、純日本的庭園の源流がこの地に築かれていたと考える専門家は多い。

の人工河川が上の池への引き込み水路だったのか、それとも上の池から下の池へ水を流す溝だったのか、残念ながら筆者は確認していない。いずれにしても、勾の池が築かれた時期は古く、蘇我馬子が当地に邸宅を構えたとき庭園の一部として作ったとされている。『日本書紀』は馬子が飛鳥川のほとりに家を造り、池に小さな島を築いた」と伝えている。おそらく、古代の庭作りでは、庭の中に必ず水を通し、水中に島山を築いたのだろう。そのため、馬子は「島ノ大臣」と呼ばれたという。



馬子の邸宅の大型建物跡を確認

ああああ
馬子の邸宅を構成する建物跡
(建物Nは南に離れて建つ)(*)
回の調査(2005−3次調査)は、2004−14調査で存在が明らかになった大型建物跡2棟の東側を調査して、建物の規模を確認することにあった。結果として2つの大きな成果が得られた。先ず、建物@、A、D、E、Gについて、その規模を確定することができた。次に、これらの建物群の東側に、新たに掘立柱建物1棟Qの一部(南北6m、東西1m以上)と、長さ12mの掘立柱塀Rが新たに見つかった。(注。2004−14調査の現場説明会は昨年3月13日行われた。その時の様子は当日の橿原日記「明日香騒然! 3カ所の現説に多数の古代史ファン参集」に記しておいた)

までに島庄遺跡から16棟の掘立柱建物跡が見つかっている。そのうち建物@、A、BとNの4棟が、七世紀前半に建てられた馬子の邸宅だったと想定されている。北で見つかった方形池や東に位置している石舞台古墳と、それぞれの建物跡の方位が一致しているためである。

回の調査で建物@とAの東側に延びていた建物跡の規模が分かった。最も大きく「主殿」と考えられている建物@の大きさは、東西12m、南北7.5m、床面積約90平米であることが分かった。建物@から3.6mほど離れて東南に隣接する建物Aは、東西11.8m、南北5.4m、こちらも床面積は64平米あったらしい。主殿を建てた数年後に建物Aが別棟として設けられたと考えられている。新たに見つかった建物Qと塀Rも、7世紀前半のものであるという。したがって、馬子の邸宅を構成した建物群は4棟だけでなく、さらに増える可能性がある。



蘇我馬子の邸宅の変遷

我家の隆盛の基礎を築いたとされる蘇我稲目(そがのいなめ)は、大和朝廷で大臣(おおおみ)の位にあること35年、欽明天皇31年(570)の3月にこの世を去った。蘇我本宗家の族長として、蘇我馬子がさっそうと政界デビューを果たすのは、それから2年後に敏達天皇が即位した572年である。このとき、馬子は大臣に就任した。まだ22歳の青年だった。

来55年、推古天皇34年(624)5月に76歳で没するまで、蘇我馬子は大和朝廷で絶大な権力を握り、蘇我一族の繁栄をもたらした。だが、当初から馬子が政界のNo.1ではなかった。彼の上には、大連(おおむらじ)として諸豪族を束ねる物部守屋(もののべのもりや)がいた。彼がNo.1の地位を確保するのは、用明天皇2年(587)7月の蘇我・物部戦争で守屋を倒して後のことである。

古女帝や聖徳太子の叔父として、長らく政界に君臨した蘇我馬子は、あちこちに邸宅を構えたはずである。だが、史料から伺い知ることができる馬子の家は次の3カ所しかない。

法明寺
石川精舎跡に建つ法明寺
■石川の宅
『日本書紀』によれば、敏達13年(584)9月、百済から鹿深臣と佐伯連が持ち帰った弥勒の石像を蘇我馬子が貰いうけると、宅の東に仏殿を作り弥勒の石像を安置し、また石川の宅に仏殿をたてたという。最初の「宅」がどの家を指すのかについては、「軽宅」、「槻曲宅(つきくま)」とするなどいくつかの意見があるが、不明である。「石川宅」は、橿原市石川町の付近とする説が有力である。この仏殿は、のちに石川精舎とよばれ、石川町にある本明寺にあたると伝えられている。

■槻曲(つきくま)の家
蘇我・物部戦争前後には、槻曲にも屋敷を持っていた。用明天皇の崩御の直前、用明2年(587)4月、河内の渋川に退いていた物部守屋の言葉を伝え聞いた大伴比羅夫連(おおともひらぶのむらじ)は、手に弓箭・皮楯をとって、槻曲の家にゆき、昼夜をわかたずに馬子を警護したとある。「槻曲の家」は、橿原市西池尻町軽古にある軽樹村坐神社の社の近くにあったと思われる。父稲目の邸宅だった「軽の曲殿」を受け継いだものかもしれない。

■嶋の家
上記のように、馬子は「嶋大臣」と呼ばれていた。その名の由来については、『書紀』推古天皇34年の条に「飛鳥川の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と日ふ。」とある。この飛鳥川の畔の家は、現在の明日香村島庄にあった。


古学者は、島庄遺跡のうち蘇我馬子の邸宅跡は7世紀前半の築造としか言及しない。馬子の邸宅ならば、624年に76歳で亡くなるまで住んだはずだから、素人だって7世紀前半の建物跡と時代考証はできる。問題は、馬子が何時ここに邸宅を建てて移り住んだかである。

飛鳥寺復元
飛鳥寺復元
者は独断と偏見で、西暦590年頃と想定している。馬子は587年に政敵・物部守屋を葬った。翌年には、飛鳥寺建立に必要な僧侶や律師、寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工などを百済から呼び寄せ、590年には山に入って飛鳥寺建設のための用材を切り出し、592年に飛鳥寺の仏堂と歩廊の工事を開始している。蘇我一族の権勢の誇示を目的とした造寺は、当時の馬子にとって最大の関心事であったに違いない。工事の進捗状況を日々見ていたい−彼がそう望んだとしたら・・・。

日香巡りをしたことのあるハイカーたちには自明のことだが、明日香の土地は南から北へ、そして東から西へ傾斜している。島庄遺跡がある台地あたりは、真神原(まがみがはら)全体を見下ろすことができる当時の一等地だったに違いない。馬子ならずとも、この場所に邸宅を建て、氏寺が出来上がっていくのを眺めたかったであろう。ここはそのための格好のスポットだった。庭園の中央に勾の池を築き、氏族の長たちを招待して池の周りで野外宴会を開き、仏教になじまない連中に対して一席ぶつのは、馬子にとって至上の喜びの瞬間だったかもしれない。その飛鳥寺は596年には完成する。それ以前に、馬子はこの地に邸宅を構えたはずである。



(*)明日香村教育委員会作成の現説配付資料より転記

島庄遺跡2005−6次調査

塀の跡
北限と見られる塀の跡
日香村教育委員会は今年9月から島庄遺跡の2005−6次調査を実施している。12月4日に明日香村中央公会堂で開催された「明日香村発掘調査報告会2005」で、その調査結果が発表された。

調査地は方形池の北側、すなわち現在の唯称寺川の南川に2カ所設定された。南側の調査1区では2本の溝が見つかり、古墳時代の古式土師器や飛鳥時代の土師器・須恵器・種子・燃えさしなどを出土したが、建物跡は発見できなかった。

側の調査2区も溝跡を検出したが、それと同時に南西から北東方向へのびる3間以上の掘立柱の塀跡が見つかった。直径20〜25cmの柱穴4基が約8mにわたって一列に並んでいた。世紀半ばの塀跡で、大化の改新(645年)で蘇我氏が滅亡した直後、朝廷が接収した際に築いたものと推測される。今回の調査で方形池の北側でも飛鳥時代の遺構が見つかったことで、島庄遺跡は少なくとも現在の唯称寺川のすぐ南側まで広がっていて、その面積は甲子園球場のほぼ1・5倍にあたる6ヘクタール以上もあった可能性がでてきた。
2005/12/05 追記



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