橿原日記 平成17年9月9日 2

神のいます霊山・三輪山(みわやま)に登る


三輪山は太古の昔から神のいます聖地

ああああ
三輪山遠望 (撮影2005/09/09)

三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや (巻1‐18)

智天皇6年(667年)3月19日、都は飛鳥から近江の大津の宮に遷された。天下の人民はこの遷都を喜ばなかった。だが、すでに天智天皇の寵愛を受けていた額田王(ぬかたのおほきみ)は、天皇と共に大津に移らないわけにはいかなかった。

つ道を通って北へ向かう道中で、額田王は三輪山の秀麗な山容を見たくなったのだろう。住み慣れた飛鳥を離れて遠くへ行く彼女には、これがおそらく三輪山の見納めと思えたにちがいない。彼女は輿の簾をあげた。それなのに、山麓から立ち上る朝霧が無常にも三輪山を隠そうとしている。朝霧にむかって、神のいます霊山をどうか隠さないで!、と呼びかけている彼女の万葉歌は、筆者が好きな歌の一つである。


寺川に架かる橋から見た三輪山
寺川に架かる橋から見た三輪山
者が橿原のアパートに来るときは、よく深夜高速バスを利用する。朝の6時過ぎにJR/近鉄天理駅に着き、電車を乗り継いで橿原へ向かうとき、いつも車窓から三輪山が見える。晴れ渡った空の下で、日の出直後の目にまぶしい山の姿を見せてくれる日がある。だが、大抵はすそ野からたなびく朝霧に山容の一部を隠していることが多い。

うした三輪山を見るたびに、上に引用した額田王の歌が心に浮かび、古代人の三輪山への想いの深さがしのばれる。三輪山は秀麗な円錐形をした標高467mの山だが、太古の昔から神のいます霊山として崇められてきた。

三輪山の稜線
立ち枯れが目立つ三輪山の稜線
の三輪山について、気になっていることが一つある。近くの山と比べて、見た目に稜線がそれほど綺麗でないのである。山全体が禁足地になっているため、樹木の伐採が行われず、立ち枯れした木々が多いのだろう。後で知ったのだが、1998年の台風の影響で、山頂付近は倒木や立ち枯れが目立つようになったそうだ。そのため、山容が以前ほど秀麗ではなくなってしまった。

かに三輪山は一種の「聖地」として崇められてきたが、山全体が禁足地という訳ではない。許可さえ得れば、山頂まで登れることを最近知った。そうであれば、一度登って見たいと思っていた。その機会がヒョンなことから突然訪れた。


阪にいる友人から、奈良に来たら久しぶりに一度会おうという連絡が入った。落ち合う場所と時間について、本日彼から電話がはいることになっていた。電話のベルは朝の九時に鳴った。だが、急用ができて本日は会えなくなった、また別の日に連絡を入れるという。

んな訳で、予定していた本日のスケジュールが狂って、突然空白の一日になった。さて何をしようかと考えたとき、思い出したのが、昨日車窓から見た三輪山である。天気予報では、午後からにわか雨があるかもしれないとのことだった。空を見ると夏雲がひろがっている。久しぶりで愛用のチャリンコで出かけることにした。大神神社 (おおみわじんじゃ)までは、ゆっくり自転車を駆っても一時間もあれば十分行ける。



大和の国の一の宮・大神神社(おおみわじんじゃ)

大鳥居
国道169号線沿いの一の鳥居
大神神社の参道入口
大神神社の参道入口にある二の鳥居
大神神社の拝殿
大神神社の拝殿
神と書いて”おおみわ”と読む。大神神社(所在地:桜井市三輪1422)は、大物主神(おおものぬしのかみ)を祭神とし、大己貴神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)を配祀している大和の国の一の宮である。延喜時代(927)に 編まれた『延喜式』の神名帳にも式内大社とされ、古くから人々の尊崇を受けてきた。(大物主神については、三輪の大物主の神を参照のこと。)

後の三輪山をご神体とするこの神社には、拝殿だけで社殿(本殿)がない。拝殿の奥の禁足地との境に明神型鳥居を三つ組み合わせた独特の三ツ鳥居(みつとりい)が建つ。一名「三輪鳥居(みわとりい)」ともいう。この三ツ鳥居を通して三輪山を拝するという原初の神祀りの様が、今に伝えられている。地元では三輪明神(みわみょうじん)の名で親しまれ、酒の神、薬の神として業界の尊崇も厚い。

道169号線の脇に建つ巨大な大鳥居は、大神神社の一の鳥居である。その鳥居をくぐって先に進むと、JR桜井線の踏切があり、右手に「三輪駅」のプラットフォームが見える。二の鳥居は踏切のさらに先にある。二の鳥居をくぐると、両側に杉や椎、樫、ケヤキの巨木が並ぶ参道が続く。参道の左側を御祓川(みそぎがわ)が流れていて、涼しげなせせらぎの音が聞こえてくる。

祓川にかかる小さな木の橋を渡り、緩やかな石段を上るとすぐ左に手水舎があり、正面の石段の上に太い〆柱が建っている。 〆柱の下に立って斎庭に目をやると、正面に特徴ある拝殿がどっしりと構えており、右手には玉垣で囲まれた「巳の神杉」と呼ばれる二股の老木が聳えている。左手には、祈祷を始めとする参拝者の総合受付所があり、その建物に連なって平成の大事業で造営された祈祷殿・儀式殿・参集殿がある。

代の人々は、大和平野を囲む山なみを、垣根に例えて「青垣」と呼んだ。その青垣の東南にあって、円錐形のたたずまいを見せるひときわ秀麗な三輪山の姿に、一種の崇高さを感じたのであろう。彼らはこの山を神の坐す山として、本殿を建てずに崇拝してきた。大神神社はこうした原始信仰に起源をもつ日本最古の神社である。

神神社に祀られている上記の三神は、いずれも国造りに関係した神々である。記紀神話によれば、大国主神(=別名・大己貴神)が国造りの協力者だった少彦名神が亡くなって嘆き悲しんでいるところへ、海原を照らしてやって来る神がいた。大物主神である。この神は「自分の霊を倭(やまと)の青垣、東の山の上に斎き祀ってくれれば、国造りに協力しよう」と言ったという。そこで大物主神が大三輪の神として祀られることになった、と記している。なお、『日本書紀』では、大物主神は大己貴神の幸魂(さきみたま、生命を守り幸せにする霊魂)・奇魂(くしみたま、霊妙不可思議な霊的作用をする霊魂)であるとされている。



狭井神社(さいじんじゃ)境内の登拝口から登山を開始

少彦名命を祀る磐座
少彦名命を祀る磐座神社
狭井神社の拝殿
狭井神社の拝殿
井神社は大神神社の摂社で、狭井川の畔に位置している。古来より病気平癒の信仰があつい神社である。大神神社からは、両側にさまざまな薬草や薬木が植えてある「くすり道」を通ってアクセスできる。くすり道の途中に少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る磐座神社(いわくらじんじゃ)がある。少彦名命は、大物主大神と協力して国土を開拓し、あらゆる生産方面の開発につとめ、医薬治療の方法を定めた神で、俗に「神農さん」と呼ばれている。

座神社を過ぎると、すぐ狭井神社の鳥居が見えてくる。鳥居をくぐると、左手に赤い鳥居が建つ「鎮めの池」がある。池の横を進めば、狭井神社の正面の石段に出る。

井神社の”狭井”は、以前は「佐韋(さい)」と書いた。佐韋とは百合の花のことである。昔は精神病を百の病が合わさった病気と考え、百合病と呼んだ。この病気には百合の根が特効薬だった。古代、狭井川の辺に百合が多く咲いていたため、それが地名となり、現在でも病気治療を祈願するため多くの人が狭井神社に参拝に来るとのことだ。

の神社では、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を主神として祀り、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命 ( ひめたたらいすずひめのみこと ) 、勢夜多多良姫命(せやたたらひめのみこと)および事代主神(ことしろぬしのかみ)を配祀している。荒魂(あらみたま)とは、荒ぶるような猛々しい働きをもって現れる霊魂のことで、戦時や災時などにあたって現れ、祭祀を受けることによって和魂(にぎみたま)の性質に変わるという。

殿の左後ろに、この神社の由来になっている神水の井戸・狭井がある。ここから湧き出る水は、昔から「薬水」と呼ばれている。この薬水を飲めばいろいろな病気が治るという。そのため、遠近から神水を汲みにくる参拝者は多い。

薬井戸・狭井
薬井戸・狭井
高467mの三輪山は、太古の昔から斧を入れたことがない神奈備(かんなび)山で、神聖な山、信仰の山とされてきた。山頂に高宮神社(こうのみやじんじゃ)および奥津磐座(おきついわくら)があり、厳しい条件付きで信仰者の登拝を認めている。登拝口は拝殿の右側にある。その登拝口の横に、登拝申込み要領と厳守事項を書いた看板が立っている。

込み要領
●登拝を希望する者は、社務所で住所・氏名・電話番号を申し出る
●入山初穂料として一人300円を納める
●入山受付時間は午前9時より午後2時までとする
●下山終了時間は午後4時までとする
●下山したら、社務所に声をかけ、襷(たすき)を返す

守事項
●申込み時に「三輪山参拝証」の木綿襷(たすき)を受け取り、肩にかけて登拝する
●山内は火気厳禁で、タバコの火をはじめ、すべての火の使用を禁じる
●山内は撮影禁止で、カメラなどの持ち込み、撮影はできない
●山内で磐座などにお供えしたものは、必ず持ち帰る
●山内での弁当などの飲食は禁じる
●山内では、草木、キノコ、鳥獣、土石などを採取してはならない

お、正月3日間、および大祭などの祭典日は登拝できず、天候などの諸事情で登拝を中止する場合もあるとのことだ。

登拝口で木綿襷をかけた筆者
登拝口で木綿襷をかけた筆者
務所で、規定通りに登拝申込みを行い、300円の入山初穂料を納めて、「三輪山参拝証」と書かれた襷を受け取った。普通の人なら頂上まで1時間はかかるとのことだ。午前11時25分、登拝を開始した。橿原のアパートにいるときは、筆者は標高200mの畝傍山(うねびやま)山頂まで朝の散歩を行っている。標高467mの三輪山は、せいぜい2倍強の山道を登るに過ぎず、それほど厳しい運動になるとは思っていなかった。

りはじめの道は、畝傍山の登山道より整備されていて、歩きやすかった。道の両脇の樹林は、まだ若木が多いようだ。梢の間から漏れてくる太陽の光が、道に散乱する枯れ草の上に日だまりを作っている。襷の先にぶら下がった鈴が、歩を進めるごとにカラカラと乾いた音をたてる。ふと、今年の2月娘と二人で阿波の国二十三カ寺を巡礼した四国遍路のことを思い出した。あの時も金剛杖の先に付けた小さな鈴がチリンチリンと鳴っていた。



山頂の高宮神社(こうのみやじんじゃ)奥津磐座(おくついわくら)を拝す

(注)山内での撮影が禁止されているので、以下では残念ながら山内の様子は写真ではお見せできません。

をはじめ、松や檜などの樹林に覆われた神域の中を登拝口から6分ほど歩いたところで狭川の上流の谷を横切る。そのために、丸太を6本束ねて渡しただけの橋が架けてあった。その先は、水がほとんど流れていない谷川の縁を進むことになる。岩だらけの道を足下に注意して進みながら上を見ると、谷の両側は切り立った断崖になっている。そのところどころに、大きな石が露出しているのが見える。

のあたりまで登ってくると、森が幾分深くなって、山の霊に前後左右から監視されているような不思議な錯覚を覚えてくる。時折、蝉の声が聞こえるだけで、後は森の静寂が支配する世界である。

がて、とんでもない思い違いをしていたことに気づいた。畝傍山の登山道は山の中腹をジグザグに築かれていて、傾斜がきついところはそれほどない。ところが、三輪山の場合は、登拝道がほぼ一直線に上っていく。道は山の稜線とほぼ同じ角度で続いているのだ。当然のことながら、登攀は急な坂道の連続となる。


1時41分、行場の滝である「三光の滝」に到着。トタン屋根の小さな小屋が滝の正面に建っていて、行をする人はここで白衣に着替えて滝に打たれるそうだ。今の時期は渇水期なのか、滝と呼ぶほどの水量ではない。三島由紀夫は1966年、41歳のとき、ドナルド・キーンと共に大神神社に3日間参籠して、三光の滝に打たれたそうだ。三光の滝を過ぎたあたりから、登拝道は谷に別れを告げ、一層険しさを増してくる。登り道の途中で後ろ振り返ると、梢の間越しに箸墓古墳あたりの集落が見えた。

1時55分、登拝道に沿って縄を張り囲ってある一画に出る。禁足地である。中を覗くと、奥に 〆縄を張った巨岩が見える。ここが中津磐座(なかついわくら)かな、と思ったが、どうやらそうではないらしい。丸太に腰を下ろして休憩していた先客の男性が、面白い比喩で説明してくれた。彼の言葉を借りれば、この場所は寺院の山門にあたるそうだ。おそらく仁王様のように、不心得者の入山をチェックする場所であると言いたいのだろう。

の先も、蛇が絡まり合ったような杉の根が階段を作っている険しい山道が続く。足場を一つ一つ拾うように登っていくのは、大変な緊張を強いられる。おかげで、着ているシャツは汗まみれ、かぶっている野球帽の庇からも、汗がしたたり落ちる。山の麓から、正午のサイレンの音が風に乗って聞こえてきた。振り返ると、木々の間から耳成山と畝傍山が平地から盛り上がっているのが見えた。衆議院選で候補者の名前を連呼するスピーカの声が、時折風に運ばれて聞こえてくる。


中で下山してくる女性に出会ったので、頂上までの道を聞くと、現在地はまだ中間地点ぐらいとのことだった。ついでに、中津磐座(なかついわくら)はどの当たりか聞いた。彼女はその場所を知らなかった。ただ、もう少し登った所に「下山道」の標識があり、そこから脇道に入ると、あるいは中津磐座があるのかもしれないと付け加えた。彼女はさらに、面白いことを教えてくれた。黒土の山肌が赤土に変わったら、もうすぐ山頂に近いとのことだった。

中津磐座
中津磐座(*)
拝道の途中で、巨岩が登り道に立ちはだかっていた。しめ縄を巡らしているが、どうやら中津磐座ではないようだ。このあたりから、土の色が赤土に変わりだした。そろそろ山頂に近づいたのかもしれない。前方に、幹の途中で折れた杉の木が立ち枯れたままそびえているのが見える。周囲には、切り倒された巨木を木挽いた丸太が転がっている。

2時10分、彼女が言っていた「下山道」の標識の所に出た。三輪山の登拝は登り道と同じルートで下山しなければならない。だが、標識から左手に向かう細い道がある。あるいはその先に中津磐座があるかもしれないと期待して、すこし脇道に入った。脇道を50mほど下ったところに、巨石群が散らばっている場所があり、周りをロープで囲ってある。禁足地ならば、これらの巨石は中津磐座のはずだ。中心にある二つの大きい石には、まだ新しい幣(ぬさ)を吊した縄が巻かれていた。


高宮神社
日向御子神を祀る高宮神社(*)
攀を始めてからおよそ1時間、やっと山頂に到着。ヘリポートほどの平坦な空間の真ん中に、明神鳥居が建ち、その先に玉垣に囲まれて古びた社がポツンと控えていた。日向御子神(ひむかいのみこがみ)を祭神として祀る高宮神社(こうのみやじんじゃ)である。玉垣の内側をのぞき込むと、神殿の周りに周濠が築かれている。銅板が葺かれた切妻の屋根をみると、内側に弓なりに反った千木(ちぎ)が天を突き刺し、その根本に二本の堅魚木(かつおぎ)が置かれている。

代神社建築の特徴は、@屋根の形が切妻であること、A屋根に瓦を葺かないこと、B壁に土壁を用いないこと、C装飾を用いないこと、だそうだ。そうした特徴をそのまま備えた神殿が、三輪山の山頂に築かれている。もともと、この場所は、古代の太陽神の祭りが行われた場所だそうだ。明治時代までは、この社は高宮神社ではなく、神坐日向神社(みわにいますひむかいじんじゃ)と呼ばれていた。

社の前に置かれた丸太のベンチに腰を下ろして、疲れた体を休ませていると、先に到着していた青年がやおら立ち上がって、神殿の前に立ち、朗々とした声で祝詞を唱えだした。その後に、何故か般若心経を唱えていた。神社に般若心経はないだろうと思って聞いてみると、「南無」と唱えなければ問題ないと、分かったような分からない返事が帰ってきた。


奥津磐座
大物主神が鎮まる奥津磐座(*)
宮神社の少し先の草むらの中に、東西30m、南北10mほどの範囲に、高さ2mほどの巨岩がいくつも露出している箇所がある。その周囲は禁足地であることを示すしめ縄で囲まれている。ここが奥津磐座(おくついわくら)である。その中心にある石は珍しい形をしている。中央部が凹み、そこへ別の巨石がうまく落ち込んだように乗っかている。

代の原始自然信仰では、これらの巨石群は神霊が降りてきて鎮座する神座、すなわち磐座(いわくら)と見なされてきた。大神神社には、山頂にある巨石群を奥津磐座(おくついわくら)、中腹にある巨石群を中津磐座(なかついわくら)、山麓にある巨石群を辺津磐座(へついわくら)と呼んでいる。そして、それぞれの磐座に、大物主神、大己貴神、少彦名神が鎮まるとされている。これらの磐座は古来から禁足地とされ、三輪山祭祀の中心場所である。

ぜ、三輪山のあちこちにこうした巨石群が散在しているのか考えてみた。三輪山は本来岩山である。長い年月の間に、表土が流出して岩盤が地上に露出するようになったのではないか。さらに露出した岩盤に雨水がしみ込んで、ヒビが入り、岩盤が砕かれて大小の岩石が群れをなす場所を作り出したのであろう。巨岩や巨木は、原始信仰では神が降臨する依り代だった。三輪山の山麓に住んだ古代人は、何か事があるたびに、この山頂に集い、供え物を捧げて神の降臨を請い、神官が神託を聞いたのであろう。まだ日本という国家が存在しない、はるか昔のことである。


山は上りよりも下り道に神経を使う。まして、木の根が作った自然の階段や大小さまざまな岩石が散乱した急な坂道となれば、なおさらだ。午後1時に下山を開始したが、狭川神社の境内まで降りてきたのは午後2時に近かった。80kgの体重を運ぶ両足にはかなり負担がかかったのだろう。途中で膝が痛くなり、何回も小休止を取らなければならなかった。結局、普通の人なら30分で降りてこれる山道を、倍の時間がかかったことになる。

り道の途中で夏雲の下に入り、熱帯地方のスコールを思わせる激しい夕立に見舞われた。大気の状態が不安定な気候でも、最近の気象庁の予報はかなり的確に当たるようになってきた。雨粒が大きいのか肌にあたると痛い。やむを得ず途中で雨宿りした。その場所の近くで落雷があり、電柱のトランスが破壊した。周辺の民家が停電になり、信号機も機能しなくなった。アパートに帰り着いたときは、汗と雨水で全身がびしょぬれだった。


(*) 友人T.Y氏による協力作成イメージ



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