橿原日記 平成17年8月16日

遣唐留学生・井真成の墓誌と対面す

自宅での朝の散歩道はフラワーロード
「遣唐使と唐の美術」展が開かれている東京国立博物館の平成館


「遣唐使と唐の美術」展のポスター
「遣唐使と唐の美術」展のポスター
在、上野公園の東京国立博物館の平成館では、「遣唐使と唐の美術」展が開催されている。8世紀前半の唐文化が華やかだった西暦717年、19歳の若さで遣唐留学生として唐に派遣された1人の青年がいた。その中国名を井真成(せいしんせい)という。だが、彼は志半ばで急病のため落命し、唐土と化した。

真成の墓誌がかっての古都・西安の近くで昨年4月に発見された。約40cm四方の石板には、日本から来た留学生が734年正月某日、36才で亡くなったことを示す171文字が刻まれている。日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めてであり、墓誌は収集した西北大学で保管されていたが、今年の5月に里帰りし愛・地球博に展示された。

回の特別展は、井真成の墓誌の里帰りを記念して、唐文化に憧れて前後10数回派遣された遣唐使と、彼らが見たであろう唐の文化を紹介するために7月20日から開催されている。もちろん、目玉は井真成の墓誌である。新聞やテレビの報道ですでにおなじみの墓誌だが、本物が見れるというので、上野公園まで出かけてきた。墓誌がどのような真実を語りかけてくれるのか楽しみだった。



墓誌に端正な楷書で刻まれた171文字が意味するもの

井真成の墓誌の拓本
公開された墓誌(7/13朝日新聞))
真成の墓誌は、残念ながら科学的な発掘調査で発見されたものではない。建設工事現場かどこかで偶然見つかったもののようである。サン(シ+産)河の東岸の白鹿原と呼ばれる台地で見つかったらしいが、その場所は特定されていない。

年の10月10日、西北大学は、墓誌発見をメデイアに公表した。日本のマスコミも、青史に名を残さなかったこの人物におおいに興味を抱いたのか、新聞紙上で墓誌発見を大々的に取り扱った。それだけではない。本人の人物像や当時の日中交流に関するシンポジウムも何回か開かれ、井真成の名は全国的に知られるようになった。

目当ての墓誌は、「遣唐使と井真成」と題した第一展示室の正面奥のガラスケースの中に展示してあった。漢白玉質と呼ばれる大理石に似た白色の墓誌石は右側に、升を伏せた形の黒石の蓋は左側に並べて置かれていた。背後の壁には拡大した墓誌の拓本や、その読み下し文が飾られていた。

井真成の墓誌の拓本
井真成の墓誌の拓本(*)
い朝が早かったせいか、それとも平日だったせいか、見学者の数はまだ少なく、墓誌をじっくりと眺めることができた。まず、驚いたのは、左右のライトに照らされてはっきりと浮かび上がって見える墓誌表面の文字の端正さである。縦横に細い線を引いて12行16字分の升目が作られ、その中に楷書体で171文字が陰刻で刻まれていた。

く見ると、墓誌の右半分の上部に、何かで擦ったような線状痕がついている。工事で掘り出されたとき付けられた新しい傷のようだ。また、すでに拓本などで知られているように、上辺一列の多くは欠損していて、6文字が解読不能になっている。残念である。

誌に書かれた内容は、橿原日記H17/01/29 「日中交流史の貴重な資料・井真成墓誌の物語るもの」に示した通りである。要約すると−−−
●井真成は生まれつきの秀才であり、君命によって唐に派遣されてきた。
●唐では中国人としての身だしなみや教養を体得し勉学にいそしんだ。
●将来役人になったら、かなう者はいないと思われたが、開元22年(734)正月某日に36歳で急死してしまった。
●玄宗皇帝はその死を悼んで尚衣奉御(しょういほうぎょ)という格式の高い官職を追贈し、葬儀を政府の手で執り行わせた。
●2月4日、礼に基づいて、長安東郊外を流れるサン(シ+産)河の東の原に埋葬した。

井真成の墓誌の蓋
井真成の墓誌の蓋
誌の蓋の大きさは縦37.9cm、横37.3cm。その表面に篆書で「贈尚衣奉御井府君墓誌之銘」と3文字づつ4行に刻まれている。墓誌の身の大きさも縦40.3cm、横39.2cm、厚さ10.5cmで、印象としては比較的小型である。刻まれた文章は短文で、碑面の左三分の一が余白になっている。升目の周囲は蓮華文や流雲文などで飾るものが多いが、そうした装飾はいっさい施してない。こうした点から、今までに発見されている数千を超える中国墓誌の中では、粗末な部類に属する墓誌であるとされている。



専門家が想定する井真成の日本名と出自

遣唐使船の模型
遣唐使船の模型(*)
の留学生の名前は中国名しか分かっていない。開元22年正月に36歳で没したのであれば、逆算すると文武3年(699)の生まれである。 彼が遣唐留学生に任命されたのは霊亀2年(716)、18歳のときである。そして翌年の養老元年(717、開元5年)3月、難波を出発した第9次遣唐使船で唐に渡ったことになる。

9次遣唐使船で唐に渡った留学生の中に、同じ年の阿倍仲麻呂(当時19歳)がいた。その他にも、下道真備(22歳、後に吉備真備と改名)や大和長岡(29歳)、さらに学問僧の玄ム(げんぼう)、理鏡(りきょう)といった名が伝わっている。いずれも少壮気鋭の若者たちだった。だが、井真成の日本名は青史には記されていない。

のため、奈良大学教授の東野治之教授は、「井」を日本名の痕跡と考えて、百済系渡来系氏族の「葛井(ふじい)氏」の出身者で、葛井真成(ふじいのまなり)という姓名ではなかったかと推測された。一方、國學院大學教授の鈴木靖民氏は、東漢氏の一族である井上忌寸の出身の可能性が高く、井真成の日本名は井上忌寸真成(いのへのいみき・まなり)だったのではと推測されている。

ずれの説も推測の域をでない。別に新たな資料がでない限り、どちらかに特定するのは難しいであろう。京都教育大教授の和田萃教授は、葛井氏の出身であれ、井上忌寸の出身であれ、いずれも藤井寺市一帯を拠点とした渡来系の氏族であることから、井真成が藤井寺出身であることは間違いないとされている。

井氏も井上氏も渡来系の中小氏族である。井真成がそのいずれかの出身者であったならば、すでに幼少の頃から神童の噂が高かった秀才だったに違いない。遣唐留学生に抜擢され、帰国したあかつきには、留学経験を武器に立身出世が約束されていたであろう。一族の栄達はその双肩に託されていたといってよい。本人自身、そのことを十分に理解した上で、玄界灘の波濤を越えたはずである。



墓誌が示す井真成の無念の思い


の墓誌にはいろいろな謎がある。その一つが、海東の留学生の死に際して、玄宗皇帝から追贈された「尚衣奉御」という従五品上の官位の高さである。この官職は、多くは皇帝の親族、あるいは皇帝が深く寵愛し、信頼した人物が勤めてきたとされている。則天武后の甥の武承嗣もこの官に就いている。

真成と同じ遣唐使船で唐に渡った阿倍仲麻呂は、科挙の試験で「進士」に合格し、時の皇帝玄宗の信任を得てとんとん拍子に出世したことで知られる。彼は井真成が亡くなる3年前の開元19年(731)には、従七品上の「左補闕」という官職についていた。ところが、井真成が追贈された位は、当時の阿倍仲麻呂の位よりも高い。墓誌発見のニュースが伝わった当時、第二の仲麻呂がいたとマスコミが騒いだのも当然である。

(注:仲麻呂は開元22年(734)に、親王府で儀王の陪従・指導にあたる儀王友という官職についている。この職の冠位は尚衣奉御と同じく従五品上である。だが、仲麻呂がこの職を拝命したのは、おそらく井真成の死後のことであろう。ちなみに、仲麻呂は天寶10年(751)まで儀王友の職にあった。)

倍仲麻呂以上に唐王朝で出世の階段を駆け上がったのなら、井真成の墓誌には華々しい経歴が刻まれていてしかるべきである。だが、唐王朝の官吏としての彼の経歴は、一言も記されていない。墓誌の最後は、「死ぬことは天の常だが、哀しいのは遠方であることだ。肉体はすでに異国の土に埋もれたけれども、霊魂は故郷に帰ることを願うものである」という一文で終わっている。碑文を作成した宮廷官吏が、井真成の心境を思いやって綴った文章であろう。読む人の胸を激しく打つこの文章の後は、しかし、空白のままである。

誌石表面の三分の一を占めるこの空白部分と、追贈された従五品上に相当する「尚衣奉御」という官職の乖離(かいり)。この謎を墓誌自身に解いて貰いたくて、本日はわざわざ博物館まで足を運んだ。井真成は長安での17年をどのように生きたのであろうか? 照明に照らし出されたその部分を、長い間じっと眺めていた。すると、唐土で客死した無名の遣唐留学生の波乱に富んだ半生が、ふと見えてきた。

まざまな想定が可能であろうが、筆者が墓誌に触発されて次のような彼の留学生活を思い描いた。これはまったくの憶測であって、確たる根拠があるものではない。だが、唐土に渡った多くの留学生や留学僧で青史に名を留めているのは、ほんの一握りにすぎない。故郷へ錦を飾ることを夢見ながら、志半ばで唐土で骨を埋めた多くの人がいたはずである。井真成もそうした半生を異国ですごした一人に思えて仕方がない。

 井真成と阿倍仲麻呂は互いにライバル関係にあった?

日日草
ず気になるのは、同じ遣唐使船で留学した井真成と阿倍仲麻呂が同年齢の19歳だったことだ。遣唐留学生に選ばれるくらいだから、いずれも人も認める秀才だったであろう。阿倍仲麻呂は、古代の名門氏族阿倍氏の出であり、中務大輔・阿部船守の長男である。だが、井真成は渡来系の中小氏族の出にすぎない。この二人の出自の違いが、仲麻呂に対する猛烈な競争心を井真成に抱かせた、と思う。

唐使の一行が向かった先は、盛唐の都・長安である。玄宗皇帝の開元の治で、長安の人口は百万に膨れあがり、しかも、そのうちの一万は外国人であったとされる国際都市だった。西域の商人たちが、多くの異国の文物を持ち込み、海東の島国からやってきた井真成たちには、見るもの聞くものすべてが、輝くばかりの盛唐の文化だったにちがいない。

の頃の長安には、国立の上級大学として、国子舘、太学館、四門館、律学館、算学館、書学館の6つの学館があった。国子舘は上流貴族の子弟が入学する学校で、規模も最大だった。太学館はそれ以下の貴族の子弟を養育するところ、四門館は一般庶民の秀才が勉学するところだった。ところが、井真成はここで最初の挫折を味わうことになる。我が国の上流貴族の御曹司だった阿倍仲麻呂は太学館で学ぶことができた。だが、中小豪族の出の井真成は太学館に受け入れられなかった。

真成が太学館や四門館に在学していた証拠はない。おそらく彼は国士監の所管する正式な教育機関に属さず、鴻臚寺において四門助教授に私淑するなど特殊な形態をとって勉学していたと推測されている。在唐4年、開元9年(721)になって井真成は二度目の挫折を味わうことになる。ライバル視してことごとに張り合ってきた仲麻呂が、科挙を受験したところ一発で合格した。だが、同様に受験を試みたはずの井真成には合格通知は来なかった。

 転落の人生の始まり

日日草
学の堪能さにおいても知識の広さ・深さにおいても、井真成は仲麻呂に負けているとは思わなかった。それだけに、科挙の試験の失敗は単なる挫折では済まなかった。世の中の不条理とか運の無さに対する言いようのない怒りが、彼の人生の歯車を少しずつ狂わせていった。開元9年(721)の秋、典籍を扱う司経局校書(正九品下)として洛陽に赴任する仲麻呂を長安城の春明門で見送った後、井真成は東市の一角にある居酒屋で酔いつぶれるほど酒をあおった。

々しい官吏の道を歩き始めたライバルの姿を横目で眺めながら、井真成は猛烈に勉強したと思われる。唐王朝の官吏の経歴を抱いて帰国すれば、国内での出世は約束されていた。当時の大学の在学期間は最長で9年であり、その間の留学生の生活費は「時服糧料」として唐王朝が負担してくれた。期限は開元14年(726)に切れるが、それまでには5年もある。その間、井真成は何度も科挙試験に挑戦した。だが、遂に合格することはかなわなかった。開元14年、「時服糧料」が打ち切られ、彼の姿は留学生宿舎から消えた。官吏としての登用もままならず、井真成は鬱積した日々を長安の片隅で過ごすことになったに違いない。

元15年(727)、阿倍仲麻呂が洛陽から長安に戻り、天子の側に仕えてその過ちを諫める左拾遺(従8品上)の職を拝命した。玄宗の側に仕えることで信任を得た仲麻呂は、これ以後唐の官吏として栄達の道を歩むことになる。6年ぶりに長安に戻った仲麻呂は、井真成を訪ねた。留学生としての生活費を打ち切られ、宿舎を追い出された井真成の姿は、何処にもなかった。八方手を尽くして彼の所在を突き止めて訪れた先は、市井の古ぼけた居酒屋の奥だった。薄暗い部屋の片隅で、オンドルに横たわって傍らの乳飲み子をあやしながら真っ昼間から酒をあおっているひげ面のやせこけた男がいた。それが井真成だった。

麻呂は、6年ぶりにあった井真成の変わりように驚いたに違いない。同じ志を抱いて長安に到着した頃の青年らしい覇気は、彼の虚ろな瞳からは感じられない。井真成はこの居酒屋で知り合った西域の胡姫と何時とはなしに同棲し始め、すでに子供までなしていた。彼は、部屋の入り口にたった仲麻呂の顔が眩しかったにちがいない。衣の袖で顔を隠すように、身をよじった。

誌は井真成が一生を「官弟に終れり」と記している。官弟とは、官庁が保有する官舎・公舎、すなわち賃貸官舎のことをいう。例えば外国人を接待する鴻臚寺典客署で、井真成が雑務係として糊口をしのいでいたのであれば、鴻臚寺典客署の雑賃官弟を住まいとしていた可能性が高い。おそらく井真成の悲惨な生活ぶりを見るに見かねた仲麻呂の口利きで、官吏の下働きのような日々を送るようになったのかもしれない。

 病床で夢見た故郷の山河

日日草
元19年(731)、阿倍仲麻呂は左補闕(従7品上)へ官位を進めた。玄宗皇帝の仲麻呂に対する信頼はますます高くなった。中国名を仲満(後に朝衡(ちょうこう)と改める)と称した仲麻呂は李白・王維ら文人との交流を深め、唐王朝での彼の人気は、井真成の耳にも届いていたであろう。だが、今や雲の上の存在になりつつある仲麻呂に対して、井真成にはすでにライバル意識が失せていた。

ればかりが、長い酒浸りの生活のツケとして、病魔が少しずつ彼の体をむしばみ始めていた。この頃の彼は、しきりに南河内の山河を夢見るようになった。東に葛城・金剛山地がそびえ、その裾野を縫って石川や大和川が流れる大地が懐かしかった。彼の帰国を一日千秋の思いで待ちこがれている父母や一族の郎党がいる・・・。だが、今更彼らに会わせる顔はなかった。

元21年(733)の8月、多治比広成を大使とする第10次遣唐使が16年ぶりに蘇州に到着したという知らせが長安に届いた。下道真備や玄ムたちは、早々と帰国願いを提出して帰国の準備を始めた。仲麻呂も帰国願いを出したが、玄宗皇帝はそれを許さなかった。井真成の元にも、仲麻呂から遣唐使来朝の知らせが届けられた。季節はすでに秋になっていた。部屋の窓から暗い眼差しで空ゆく雲を眺めながら、井真成は帰国をためらっていた。西域の胡姫との間に生まれた娘は、すでに5歳になっている。自分が帰国したら、この親子はどのように生きてゆくのだろうか。それより、病魔に冒されつつある己の体が帰国の長旅に耐えられるかどうか。

10次遣唐使の一行は、その年の秋には長安に入京した。仲麻呂の説得で、井真成は遣唐使の一行と会い、彼らと一緒に帰国することを願い出た。この年は長安をはじめとする関中一帯は深刻な飢饉に見舞われたという。そうした天候不順の冬場は、井真成の体にも影響した。その年の暮れに強烈な発作に襲われ、年があけた開元22年(734)1月某日、帰国を目前にして息を引き取った。享年は36歳だった。墓誌の一部が欠損しているため、彼の命日が何日だったのか分からない。

真成の葬儀については、玄宗皇帝の寵臣・阿倍仲麻呂が陰で尽力したと考えたい。井真成は仲麻呂にライバル意識を燃やし続けたが、仲麻呂は常に同郷の士として井真成を意識していたにちがいない。官吏にも登用されず一介の市井の人間に終わった友に、最後の花を持たせてやりたい−−− おそらく彼にはそんな思いがあったのであろう。その思いが、玄宗皇帝に懇願して「尚衣奉御」という破格の官位を追贈させ、さらには、礼に基づいて官費で葬儀を執り行わせることになった。

郭家灘
井真成が埋葬された郭家灘(*)
の年の2月4日、井真成の遺体は万年県のサン河の東の原に埋葬された。埋葬地は郭家灘(かっかたん)と推定されている。墓誌はそのときの様子を次のように記している。「夜明けに柩(ひつぎ)をのせた素木(しらき)の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を表した。真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、荒れ果てた郊外におもむいて、墓で悲しんでいる」と。

儀には、阿倍仲麻呂をはじめとして、第9次遣唐使船で長安にやってきた留学生や留学僧が参列したであろう。仲麻呂を除いて、他の者たちは、第10次遣唐使の帰国時に一緒に帰国することが決まっていた。その中に井真成の姿がないことに、彼らはどのような感慨を抱いたであろうか。井真成が一緒に暮らした西域の胡姫とその娘の姿も、葬列の端に加わっていたであろう。参列者が墓場から一人去り二人去りして、誰もいなくなった後も、夕闇の中で墓の前で泣き崩れる親子の姿は痛ましかった。その後の彼女たちの消息を伝えるものは何も残っていない。



(*) 図録「遣唐使と唐の美術」から転記

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