新羅の仏教公認には異次頓の殉教を必要とした我が国の初期仏教は朝鮮三国の影響が強い。先ず、仏教公伝は西暦538年あるいは552年に百済の聖王から伝えられたとされている。我が国最初の寺院である飛鳥寺は一塔三金堂の伽藍配置を採用していたが、そのモデルは高句麗の清岩里廃寺や定陵寺だったとされている。また、聖徳太子の仏教の師とされて恵慈(えじ)は高句麗の僧だった。 聖徳太子が死んだ翌年の623年に、新羅の使節が来朝し、仏像や金塔、舎利などを献上した。仏像は葛野の蜂岡寺に安置したが、この仏像が、今も広隆寺に残る木造弥勒菩薩半跏像に該当するとする説がある。このように、統一新羅以前の朝鮮三国は、我が国の初期仏教の母国だったといっても過言ではない。 当然のことながら、朝鮮三国に仏教が伝来したのは我が国より早い。『三国史記』によれば、南北朝時代に北部中国を統一した前秦の王・符堅は、西暦372年(小獣林王2年)、経典と僧の順道を高句麗に送ってきた。2年後の374年には、僧・阿道が送り込まれてきた。そこで、小獣林王は375年に順道のために省門寺を、また阿道のために伊弗蘭寺を建立したという。 百済への仏教公伝は、高句麗より12年遅れる。しかも、百済は中国の北朝ではなく、南朝の東晋から仏教を受け入れている。384年(枕流王元年)7月、百済は東晋に使節を派遣して仏僧の来朝を要請した。東晋はこの要請に応えて、その年の9月インド僧の摩羅難陀(まらなんだ)を派遣してきた。百済はこの仏僧を宮中に迎えいれたという。 高句麗や百済に比べて、新羅が仏教を公式に受け入れたのはずいぶん遅く、西暦528年(法興王15年)とされている。もっとも、それ以前に高句麗から仏教が伝えられたとする伝承は残っている。5世紀の初めの訥祇王のとき、墨胡子という沙門が一善郡(現在の善山)に来て、毛礼という者の家に岩窟を作って仏像を礼拝したという。 墨胡子は王女の病を治したりして、王から多くのお礼の品を賜ったが、それをすべて毛礼に与えて、忽然と行方をくらましてしまった。『三国遺事』は訥祇王のとき、阿道和尚が3人の従者を連れて毛礼の家にやってきて、墨胡子と同じように経律を講読して数年を過ごした。阿道は病気でもないのに死んでしまったが、彼の周りには仏教信者がかなりいたと伝えている。 こうした伝承から、5世紀にはすでに新羅に仏教が伝来していたと考えられている。王室は早くに仏教を信奉していたようであり、真平王のとき宮内に天柱寺(=内帝釈宮)が作られた。だが、仏教が公式に受け入れられるには、異次頓(イ・チァドン)の殉教を経なければならなかった。
「王よ、私を処刑してご意志を貫ぬいて下さい。真に仏がおわすなら、私が死ぬ時奇跡が起きましょう」 それを聞いて、貴族達は、国法を破って寺を建てた異次頓を罪人として糾弾し、彼を斬首することにした。異次頓が処刑されると、その首ははるか金剛山まで飛び、切り口からは血の代わりに白いミルク状のものが吹き出し、それが花に変わって落ちてきたという。 こうした奇跡が起きたため、人々が仏教を認めるようになった。『三国遺事』はこの殉教を法興王14年(527)の出来事とし、この年、新羅で仏教が公式に受け入れられたとしている。だが、『三国史記』では、この事件を法興王15年(528)の記述の中で示している。つまり、1年の誤差がある。 |
新羅の最初の伽藍寺院・興輪寺の建立時期
13世紀の初め韓国で編纂された『海東高僧伝』は、新羅で最初に建立された伽藍寺院は興輪寺(こうりんじ)であるとしている。この寺の建立時期については異説がある。 まず完成時期であるが、『三国遺事』は「真興大王即位五年甲子、大興輪寺を造る」とあり、『三国史記』にも「真興王五年春二月、興輪寺成る」とあり、真興王5年、すなわち西暦544年に完成したと思われる。仏教の公伝は我が国より10年早いだけなのに、本格寺院の建立は52年も早い。 問題は着工時期である。『三国遺事』は「法興王十四年丁未、始めて開き、二十一年乙卯、大いに天鏡林を伐り、始めて工を興す」とある。実はこの記述には錯簡があり、法興王二十一年は干支の甲寅の年であり、乙卯は翌年の法興王二十二年にあたる。干支の問題もさることながら、この記述では法興王14年(527)には「始開」とされ、法興王22年(535)には「始興工」となっていて、興輪寺建立の着工時期がダブっている。一方、『海東高僧伝』にも「(法興王)二十一年、天鏡林を材木して精舎を立てんと欲し、地を掃う」とあり、寺地を整地した様子を伝えていて、それ以前の着工はなかったようにも思われる。
李基白氏の解釈が正しい場合、新羅における仏教公認は、一般に言われている法興王14年(527)ではなくて、法興王22年(535)となる。つまり、百済の聖王から我が国に仏教が伝えられるわずか3年前のできごとということになるが、いかがであろうか。 興輪寺には、新羅末年まで金堂・呉堂・塔・左経楼・右鐘楼・南門・回廊があったことが、確認あるいは推定できるという。呉堂とは固有の名称なのか、それとも大堂のような美称なのか不明だが、金堂と同じ建物であった可能性もある。左経楼は921年まで存在していたことは、文献上確認できるとのことだ。 |
従来の興輪寺址の比定は誤り?
だが、この寺址からは「霊廟之寺」とか「大令妙寺」「大令妙寺造瓦」などの銘がある瓦が多数発見されるようになり、ここが霊廟寺とする考えが次第に有力になってきた。文献的にも、この地に霊廟寺があったことを証明できるという。 金時習(1435 - 1492)は、塔だけが残っている霊廟寺を訪れ、塔に登った時の様子を「登霊廟寺浮図」という詩を残している。その詩に、塔から「月城」「蚊水(=南水)」が見えたことが示されている。金宗直(1431 - 1492)はその詩の中で、霊廟寺の塔に登って落日が五陵を淡く染めている様子を詠んでいる。つまり、「月城」「蚊水」「五陵」が望見できる塔は霊廟寺のもので、興輪寺の塔ではなかった。 では、文献的に興輪寺の所在を特定できるものがあるのか。講演のレジメでは、『三国遺事』に、味■(みすう)王陵が興輪寺の東にある、という所伝と、天鏡林は金橋の東にあるという所伝を挙げている。伝味■(みすう)王陵は天馬塚のある古墳公園の一角にある。それが確かに味■(みすう)王陵ならば、興輪寺はその西にあることになる。金橋は西川に架かる橋で、松橋と俗称されているという。伝味■(みすう)王陵と西川橋はほぼ東西に位置しているから、したがって興輪寺址はその間あたりに想定すればよいことになる。 現在、五陵の東側を南北に走る金城路を霊廟寺址(従来は興輪寺址に比定)から北に行き、瞻星路との交差点を越えた西側、慶州工業高校がある。その敷地内に寺址がある。その場所は伝味■(みすう)王陵と西川橋を結ぶ東西線にも近い。この地は、かって永興寺址とする見解があったところだが、田中教授はこの場所を興輪寺址の候補の一つと考えておきたいとされている。 |
新羅僧の社会的活動を暗示する戊戌塢作碑
任昌淳氏は懇請してその碑を譲り受け、大邱師範大学に一時保管していた。朝鮮戦争で一時所在が分からなくなったが、1957年に見つけ出され、現在は慶北大学校博物館に所蔵されている。
この碑には次のような文字が彫られていた。
田中教授は、この潅漑用堤防などの水利を目的とした「塢」が、二人の僧侶の勧進によって作られたのではないかと推測される。そして、この碑文が、新羅でも僧侶が社会的事業に参加した微証になるだろうと結ばれた。 |