橿原日記 平成17年8月3日

古代豪族・物部守屋(もののべのもりや)終焉の地を訪ねる

大阪府東大阪市衣摺という所

大阪府東大阪市衣摺付近
大阪府東大阪市衣摺付近
生時代に下宿していた布施市(現・東大阪市)金岡の近くに「衣摺」という地域がある。”きぬずれ”と読んでいたら、正しくは”きずり”と読むんですよと、下宿の女主人に注意された。45年近く前のことである。最近、古代の争乱の一つ蘇我−物部戦争丁未の変(ていびのへん)ともいう )の事績を調べていて、はしなくもまたこの地名に出くわした。『日本書紀』の崇峻天皇前紀に次のような話が載っている。

明天皇2年(587)秋7月、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)は諸皇子と諸臣とに勧めて、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼそうとした。そして、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)をはじめとする諸皇子や紀男麻呂(きのおまろ)らの諸豪族と一緒に、軍勢を率いて守屋を討った。

勢は志紀郡(しきのこおり)から守屋の渋河の家に至った。守屋は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲城(いなぎ)を築いて戦った。このとき、守屋は衣摺の地の榎(えのき)の木股に登って、来襲してくる敵を木の上から眺め、雨のように矢を射かけたという。

生時代、下宿していたあたりが蘇我・物部戦争の古戦場だったとは知る由もなかった。八尾市太子堂に「大聖軍寺」という寺があり、その入口に「聖徳太子古戦場」と大書した碑が建っている。大聖軍寺は守屋の別宅があったあたりとされており、そこで戦闘が繰り広げられたものとばかり思っていた。

古戦場
が、実際の主戦場は衣摺の地だったようだ。守屋はこの地に稲城を築かせている。稲城とは、敵の矢を防ぐために、刈った稲を横木にかけて柵のように並べた一種の防壁である。彼はこの稲城を砦として、子弟や兵士たちを叱咤激励しながら戦っている。自ら榎(えのき)に登って、雨のように矢を敵軍に射かけたのもこの地である。

際、物部軍は強かったらしい。『日本書紀』は”その軍は強く勢いが盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなし三度退却した”という。参戦した厩戸皇子(うまやとのみこ)がヌリデの木を切り取って四天王の像を造り、仏法の加護を祈願したとする逸話はこのときのものである。

局は迹見赤檮(とみのいちい)という剛の者が、守屋を矢で射落としてこれを殺すことで、ようやく物部の軍が四散し戦いは終わった。こうして討伐軍が勝利し、物部氏の本宗家は滅亡した。最大の政敵を武力で葬り去ったことで、その後の蘇我家は未曾有の繁栄を享受することになる。

部守屋の最後の戦いぶりに心惹かれていると、ある夜、夢の中に彼の幻影が現れた。そして、私をこう誘った。
「パンチョ殿。それほど我が一族の最後に興味をお持ちなら、どうですか、激戦地を一度訪ねられては・・・」
あるいは下宿していた金岡あたりも、当時は敵味方の矢羽根が飛び交った戦場だったかもしれない。その地で大学時代を過ごしたのも、何かの因縁だろう。なぜか、そんな気がした。それで思い切って決心し、40年ぶりに”衣摺の地”を訪れることにした。



物部討伐軍の侵攻ルートをたどる

西暦587年の7月に勃発した蘇我−物部戦争の実態は、実はよく分かっていない。両陣営がどれくらいの兵力を動員し、何日間戦ったか不明である。分かっているのは、蘇我軍が大和から河内へ押し出し、現在の八尾市にあったとされる物部守屋の居宅を攻めたという逸話だけである。したがって、それから75年後に勃発したいわゆる「壬申の乱」のように国内を二分するような内乱ではなかったようだ。当時の大和政権の中にあって、大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)という最高位に君臨した2つの氏族の勢力争いに過ぎなかった。その動機は崇仏・廃仏の争いとして語られることが多いが、必ずしもそれだけが原因ではあるまい。

在もそうであるが、当時の大和と河内の国境には生駒山系と金剛・葛城山系が横たわっている。大和から河内へ軍を動かすためには、峠越えの山道を利用しなければならない。当時は、北から竜田越え、穴虫越え、竹ノ内越え、水越峠越えというルートがあった。いずれのルートも険阻な山道である。

水越峠越えトンネル
現代の水越峠越えトンネル
家の故黒岩重吾氏は、物部守屋の半生を描いた「磐船の光芒」で、最も南の水越峠越えを想定しておられる。だが、水越峠越えで河内に攻め入るのは距離がもっとも遠い。さらに、戦争は兵士だけでするものではない。兵士たちの武器や食料などを一緒に運ぶ兵站部隊も必要である。当時の交通事情を勘案すると、大量のこうした物資を運搬するには陸路より水路を利用した可能性が高い。幸い、生駒山系と金剛・葛城山系の間には、大和盆地のすべての河川の水を集めて河内平野へ流れ出る大和川がある。おそらく、その水運を利用して兵士たちや物資が運ばれたに違いない。

うした想定に立って地図を眺めていると、この交通路をそのまま現代に引き継いでいるような鉄道線路がある。JRの関西線(大和路線)である。奈良県の王寺町から亀の瀬峡谷を経て大阪府の柏原市に出ると、北上して八尾市へ続いている。このルートをたどって八尾に出てみるとにし、午前9時過ぎにJR桜井線の畝傍駅から王寺行きの列車に乗った。

飛鳥川の東:三輪山遠望
飛鳥川の東:三輪山遠望

時は、まだ用明天皇亡き後の皇位継承者は決まらず、王都はまだ現在の桜井市の磐余にあった。磐余は寺川や飛鳥川に近い。いずれかの河川を船で下れば、王寺の手前で大和川と合流する。討伐軍の中には、当時まだ14歳の厩戸皇子(うまやとのみこ)、後の聖徳太子も加わっていたとされている。船上で立ち上がって東を見れば、岸辺に生える葦の向こうに、三輪山から竜王山へ続く山塊が見えたはずである。西には、金剛・葛城山系の端に位置する二上山の雄岳と雌岳が鮮やかに朝明けの空に映えていたかもしれない。

飛鳥川の西:二上山遠望
飛鳥川の西:二上山遠望


R王寺駅で桜井線から関西線(大和路線)に列車を乗り換えた。最初の停車駅「三郷」を過ぎると、列車は鉄橋を渡って大和川の右岸から左岸へ出る。その後、三つの小さなトンネルを抜けると、再び鉄橋を渡って大和川右岸を走る。昭和の初めまで関西線は大和川の右岸を走っていた。したがって、当時は大和川を渡ったり、また戻ったりする複雑な走り方はしていなかった。

亀の瀬峡谷
亀の瀬峡谷の激流
岸に迂回するようになった理由は、昭和6年(1931)から8年(1933)にかけて発生した地すべりのせいである。大和川の亀の瀬付近は、この地滑りで完全に閉塞され、鉄道のトンネルも崩壊してしまった。そのため、二つの鉄橋と三つのトンネルを造って対岸を迂回し、やっと運転を再開したという。

の瀬峡谷は、大和川が河内平野に出る手前にある難所である。北側の山麓に沿って大きく湾曲してきた水の流れが、亀の瀬峡谷の浅瀬にかかると、泡だって滝のように流れ下る。両岸に近い場所には、巨岩がゴロゴロしていて、いかにも亀が岸辺で甲羅を干しているようにも見える。こうした難所は昭和の地滑りで生じた訳ではない。江戸時代にも多くの船は亀の瀬を通行できなかった。そこで、亀の瀬で大和側の魚梁船(やなぶね)から河内側の剣先船(けんさきぶね)に品物が積み替えられたという。

代においても同じ状況だったら、亀の瀬の手前で船を下り、亀の瀬の縁を歩いて通り抜けて、その下流で別の船に乗り換えたにちがいない。列車の窓から亀の瀬を見下ろしながら、その様子想像するのは楽しい。

和川の右岸を走る列車は、「安堂駅」を過ぎたあたりで、大和川に別れをつげ、北西方向に進む。河内平野に出た現代の大和川は、北流してきた石川と安堂で合流し、築留(柏原市上市)付近から西へ流れて、堺市で大阪湾に注いでいる。しかし、この河道は度重なる洪水を防ぐために、宝永元年(1704)に新たに開鑿されたものである。

合流地点
大和川と石川の合流地点
れ以前の大和川は3つの川に枝分かれしてそのまま北または北西方向に流れ、当時上町台地の東側に存在した河内湖に注いでいた。その一本は現在の長瀬川の河道にほぼ沿ったもので、川幅は200mから300mもあったという。だが、現在の長瀬川は大和川の付け替え時に新たに掘削された農業用の水路であり、往年の大和川の面影はない。JR関西線は八尾駅付近まで、その長瀬川と平行するように走っている。


川が大和川と合流するあたりは、当時衛我河(えがかわ)と呼ばれていた。「壬申の乱」で高安城を奪取した倭京防衛軍の坂本臣財(さかもとのおみ・たから)は、大津道を進んでくる近江朝廷軍の河内方面総司令官の壱岐史韓国(いきのふひと・からくに)の軍勢を山上から発見した。朝廷軍を迎え撃つべく、財は全員に下山を命じた。急な坂道を転がるように駆け下りた兵達は、衛我河を渡り、川の西側で大津道を塞いだ。そして、東進してくる近江朝廷軍に向かって一斉に突撃していった。戦場は現在の藤井寺市の道明寺付近だったされている。

申の乱からさかのぼること85年、蘇我−物部戦争のときも、この付近で激しい戦いが行われた。戦いの後には腐乱した数百の死体が方々に散乱していたという。おそらく河内平野に押し出してきた蘇我軍を、物部軍が衛我河の辺で待ち伏せし、一戦を交えたのであろう。

日本書紀』は悲しい話を伝えている。衛我の川原に散乱した死体は腐乱して名前もわからなくなり、縁者は衣に色をみて、そのむくろを引き取っていった。だが、桜井田部連胆淳(さくらいのたべのむらじ・いぬ)が飼っていた犬は、むくろをくわえ続けて横たわり、しっかりと主人を守っていたという。自分の主人が墓に収められるを見届けて、はじめて主人のもとを離れていったと伝えられている。



物部守屋の別宅跡に建つ神妙椋樹山大聖勝軍寺(しんみょうりょうじゅさんたいせいしょうぐんじ)

大聖勝軍寺
大聖勝軍寺

部氏は軍事氏族でありながら、石上神宮の祭祀も任されていた氏族である。その本宗家の総帥ともいうべき物部守屋の邸宅は、おそらく石上神宮の近くにあったであろう。だが、本宗家の総帥ともなれば、別宅をあちこちに構えていて当然である。河内国渋川郡跡部郷(現在の八尾市跡部)や難波に邸宅があったことが知られている。

聖徳太子像
新太子殿に飾られた聖徳太子像
日本書紀』によれば、聖徳太子の父にあたる第31代・用明天皇は、蘇我ー物部戦争が勃発する3ヶ月前の4月2日、磐余の河上で新嘗大祭を執り行っている最中に疱瘡(ほうそう)で倒れた。宮中に戻った天皇は仏教に帰依したいと群臣に漏らし、その可否を諮問された。当時の政治は合議制である。大和の主な氏族の長から選ばれた大夫(まえつぎみ)たちが、合議で物事を決する。大連(おおむらじ)の位にある物部守屋も当然その会議に出席した。

ころが、彼の退路を断って亡きものにしようとする不穏な動きがあると密かに告げる者がいた。そこで、守屋は会議を中座して河内の阿刀にある別宅に退くと、兵を集めて周囲を固めさせた。その一週間後、用明天皇は崩御された。7月21日、遺体は磐余池上陵(いわれいえのうえのみささぎ)に埋葬され、天皇の殯があけた。しかし、阿刀の別宅に退去して以来3ヶ月、守屋は大和へ出仕していない。来るべき戦いに対して、万全の体制を整えていたといえる。

在の市街地からは想像すべくもないが、渋川の阿刀と呼ばれた地域は、北流する大河・大和川の左岸にあった。守屋の館はおそらく広い濠に囲まれ、周濠には船着き場もあり、そのまま大和川に通じていたはずである。大和川の水運を一手に握っていた物部氏の総帥の館であってみれば、当然であった。

周濠の四隅には衛兵の駐屯所が設けられ、常に複数の衛兵が不審者の侵入に目を光らせていたに違いない。近くの林には100人くらいの兵士たちが常時野営していたであろう。言ってみれば、戦国時代の平城(ひらじろ)のような居館が、この地にあったと思われる。現在、その居館跡には、大聖勝軍寺が建立されている。JR関西線の八尾駅から南西へ徒歩で約6分ほど歩いた場所である。八尾市立病院近くの国道25号線に面した市街地の真ん中に位置している。

聖徳太子と四天王像
聖徳太子と四天王像
神妙椋樹
神妙椋樹

屋討伐軍がどのように組織されたかは不明である。だが、その構成を見ると、有力な皇子の他に、紀、巨勢(こせ)、膳(かしわで)、葛城、大伴、阿部、平群(へぐり)、坂本、春日といった主な大和在住の豪族がほとんど参戦している。蘇我馬子が守屋を滅ぼそうと謀っただけでは、これだけの氏族が参戦するとは考えがたい。おそらく、当時の大和朝廷において隠然たる勢力を持っていた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、すなわち後の推古天皇から討伐の詔(みことのり)のようなものが下されたと考えたい。

部守屋が廃仏派だったから討伐されることになったのではない。蘇我−物部戦争は『日本書紀』が記述しているような宗教戦争ではない。実態は、ライバルの失脚をねらった蘇我氏の勢力争いだったであろう。7月下旬の暑い盛りに、各氏族は自分の配下の農民を挑発して、守屋討伐軍を組織した。そして、各ルートから河内平野に軍を進めると、志紀郡に集結し、そこから大和川沿いに北上し、渋川の阿刀で守備を固める守屋を攻めた。主戦場となったのは、最初は阿刀の館付近だったろうが、最後の攻防はおそらく衣摺一帯で戦われたものと思われる。守屋軍の意気は盛んで、兵士たちは家に満ち野に溢れたという。そのため討伐軍は恐れをなして三度退却したと、『日本書紀』は伝えている。

聖勝軍寺の正式な名前は、神妙椋樹山大聖勝軍寺で、現在は高野山真言宗に属している。太子町の叡福寺が「上の太子」、羽曳野市の野中寺が「中の太子」と呼ばれるのに対して、大聖勝軍寺は「下の太子」の名で親しまれている。寺に伝わる創建伝承では、守屋討伐軍に参加した聖徳太子は信貴山の毘沙門天に祈願し、四天王を祀った。その加護により守屋を討ち戦に勝つことが出来たので、難波の高台に四天王寺を建立し、さらにこの渋川に大聖勝軍寺を創建して、自身の植髪(うえがみ)の太子像四天王像を安置したという。

聖勝軍寺の山門の前に立つと、右手に白い石像が五体並んでいるのが気になる。近づいてみると、聖徳太子を中心に四隅に四天王が配されている。境内に入ると右手に椋(むく)の巨木が祀られている。大聖勝軍寺には、『日本書紀』に示されない伝説が伝わっている。物部討伐軍に参戦した聖徳太子が物部軍に追われたとき、椋の木が二つに割れて皇子の身をかくまったという。推古天皇はその話を聞いて椋樹と大聖聖徳法王の勝ち軍を讃え、神妙椋樹山大聖勝軍寺という山号と寺名を賜ったという。

内の中心にある本堂「太子殿」は、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので、右から持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦河勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)の四体となっているという。 太子殿の後ろにそびえる「新太子殿」は、昭和46年の復興計画によって建立されたもので、大阪府の重要文化財に指定されている如意輪観音を本尊として祀っている。中に入ってみると、巨大な聖徳太子の絵が正面に描かれていた。

守屋首洗池 馬蹄石
守屋首洗池 馬蹄石
聖勝軍寺の境内や周辺は、蘇我−物部戦争に関する史跡が多く、まるでメモリアルパークのようだ。守屋の首を洗ったとされる守屋池が境内の入口近くにある。迹見赤梼(とみのいちい)が放った鏑矢(かぶらや)で倒れた守屋の首を、秦河勝(はたのかわかつ)が切り取って洗ったと伝えられる池で、俗に「守屋首洗池」とも言われている。神妙椋樹の下に史跡馬蹄石が置かれている。さらに、八尾市立病院の正面の国道25号線に面したところに、物部守屋の墓があり、「物部守屋大連墳」と記された碑が立っている。病院脇の路地を入った奥には飲食店の看板に囲まれるように、守屋を射た鏑矢が落ちその矢を埋めたとされる鏑矢塚(かぶらやづか)がある。また、この鏑矢を放った弓を埋めた弓代塚(ゆみしろづか)も、近くの竜華中学校の南側にあり石碑が立っている。
物部守屋の墓 鏑矢塚
物部守屋の墓 鏑矢塚



守屋が榎木に登って戦った衣摺の地

金岡公園
長瀬川沿いにある金岡公園

日本書紀』は記している。”大連は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲城(いなぎ)を築いて戦った。大連は衣摺(きずり)の地の榎(えのき)の木股に登って、上から眺め矢を射かけることは雨のようであった。その軍は強く勢いが盛んで、家に満ち野の溢れた。皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなし三度退却した。云々”

「衣摺」交差点
府道173号線の「衣摺」交差点
エノキの葉
エノキの葉
の激戦を戦ったとされる衣摺の地名は、現在も東大阪市衣摺として残っている。府道173号線(大阪八尾線)が衣摺地区を貫いており、「衣摺」とか「南衣摺」などの交差点もある。衣摺地区は近鉄大阪線の弥刀駅あるいは長瀬駅から近い。地域内に長瀬神社がある。また、長瀬川と衣摺地区の間には、広い野球のグラウンドを備えた金岡公園がある。公園のベンチに座ってグランドを眺めていると、その周囲に植えられたエノキの大木が守屋の時代にタイムスリップしたような錯覚を感じさせるから不思議だ。

にこの金岡公園付近に、守屋軍が稲城を築き、エノキに登って、攻め寄せる討伐軍に矢の雨を打ち込んだとしよう。地図上で測定してみると、この地は大聖勝軍寺の北北西に位置し直線距離で約3.36kmも離れている。この地で、迹見赤梼(とみのいちい)が放った鏑矢が守屋を撃ち抜いたとしても、大聖勝軍寺近くの鏑矢塚まで飛んでくることはあるまい。

年前に、NHKは正月番組として、本木雅弘主演の「聖徳太子」を放映した。その中に、守屋が射る矢を避けるため、太子たちが近くの山に逃げ込む場面があった。だが、衣摺付近に逃げ込めるような山はない。お粗末な時代考証だとあきれたものだ。

部守屋は軍事氏族の長として、当時第一級の軍事専門家だった。阿刀の邸宅に依拠して戦う不利を十分に承知していたにちがいない。たとえ周りに濠を巡らしてあっても、周囲から包囲されて火矢でも打ち込まれれば万事窮すである。彼は邸宅付近で戦端を開いたとしても、戦闘を有利に戦うために、飛来する矢を簡単に防ぐことができる稲城を衣摺に築かせた。稲城とは、以前の農村風景で普通にみられた”ハサバ”のようなものだ。また、たとえ敗退しても、退路を確保しておけば難波へ、さらに九州へ逃亡も可能である。


刀から衣摺までは、直線距離で4キロ足らずである。地図で確認すると、現在でも両地点を直接結ぶものが2つある。府道173号線(八尾大阪線)と農業用水の長瀬川である。このルートの周囲にどのような風景が展開しているのか確かめたくなって、自分の足で歩いてみることにした。途中には、学生時代に下宿生活をおくった八尾市の久宝寺や東大阪市の金岡もある。

顕証寺の山門
顕証寺の山門
近畿自動車道
久宝寺口駅付近の近畿自動車道
長瀬川
整備された長瀬川
中に顕証寺という浄土真宗西本願寺別院がある。文明2年(1470)に蓮如上人が布教のために建立した寺院で、久宝寺御坊とも呼ばれている。本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ門徒の団結をはかるため、この御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、街路を碁盤の目のように張り巡らした寺内町を作った。寺内町では御坊がいっさいの支配権をもち、久宝寺城主の安井氏からこの権限を任されていたという。立派な山門を入ると、境内の左右に親鸞上人と蓮如上人の巨大な銅像がそびえ、正面に大屋根の本堂があった。人影のない境内に蝉時雨ばかりがかしがましかった。

証寺の先に、近畿自動車道の高架がある。その高架に沿って少し歩くと、近鉄大阪線の「久宝寺口」駅前に出た。大学に入って最初に下宿した家は、この駅の近くにあった農家だった。当時はその家の周囲に田んぼが広がっていた。おぼろげな記憶を頼りに、世話になった下宿を探してみたが、周囲の様子はすっかり変わっていた。下宿があったあたりは、今は高速道路の高架になっている。おそらく高架建設のために立ち退かされ、どこかへ移ったのであろう。

宝寺口からは、長瀬川の一方の岸に築かれた遊歩道を歩いた。住宅街の中を流れていた以前の長瀬川は、お世辞にも綺麗な川とは言えなかった。それが、現在では見違えるように綺麗になっている。川の流れに沿って遊歩道を進めば、金岡中学校の校舎の先に、金岡公園がある。さらに進めば、長瀬神社を過ぎて、近鉄の「長瀬駅」前にでる。

歩道の途中に、長瀬川の歴史を説明したボードが掛かっていた。それによると、長瀬川は、柏原市、八尾市、東大阪市の3市を流れる農業用水路で、今から300年前の大和川の付け替えの時に作られたものである。もともと大和川は、今の長瀬川のあたりをながれていた川幅が200〜300mもある大河だったが、天井川だったので度々洪水を引き起こした。

水をふせぐため、宝永元年(1704)に川道の付け替え工事が行われて、大和川は現在の築留(柏原市上市)付近から西へ流れ、堺市で大阪湾に注ぐようになった。付け替えの後、新田開発が行われ、新しく生まれた農地に水を送るため長瀬川玉串川の2つの川が作られた。長瀬川は農業用水路の役割を果たしたほか、剣先船(けんさきぶね)で物資を運ぶ水上交通路としても使用されてきたとのことだ。



物部本宗家はなぜ滅ぼされたか?

金岡公園の一画
金岡公園の一画
岡公園のベンチに腰掛けながら、物部守屋は何を考えながら最後の一戦をこの地で戦ったのか想像してみた。エノキの木股に登って、来襲する敵兵を見下ろしていた守屋は、東に視線を投げれば生駒山系の尾根が見えたはずである。その生駒山系の北端に、物部氏の始祖・ニギハヤヒのミコト(饒速日尊)が天磐船に乗って天下ったとされる哮峯(いかるがのみね)の峰がある。

ギハヤヒのミコトは、ニニギのミコト(瓊瓊杵尊)の兄とされる天孫で、ニニギが日向の高千穂峰に降臨する以前に、アマテラスオオミカミ(天照大神)から10種の神宝をさずかり、河内の哮峰(いかるがのみね)に天下ったとされている。さらに、ニニギの曾孫のイワレヒコのミコト(磐余彦尊、後の神武天皇)が日向から東征してきたとき、イワレヒコに抵抗した現地の豪族ナガスネヒコ(長髄彦)を切って帰順したという。

まり、大王家が大和に入る以前に、物部氏の始祖はこの地にやってきて一帯を支配していたことになる。一族の者たちが、その血筋は大王家と同じくらい、あるいは大王家より尊いと思うのは当然だ。守屋は幼少の頃から耳にタコができるほど、その始祖伝来の話を聞かされて育ってきた。こうした伝承を持つ氏族の長であることは、守屋にとって誇りだった。

ああああ
天磐船を祀る磐船神社
我馬子との関係がギクシャクしてきて、武力による決着を余儀なくされる段階になっても、新興氏族の蘇我氏なにするものぞといった驕りが守屋にはあった。また、軍事氏族としての矜持は、馬子と争ってもたとえ勝てなくても負けることはないと思っていた。互角に戦っていれば、そのうち大王家から仲介が入り、結局は仲直りの儀式で元の鞘に収まるはずだった。

が、守屋には2つの誤算があった。一つは、仲介の労を取ってくれるはずの大王が現在いなかったことだ。用明天皇亡き後の継承者がまだ決まっていなない。二つ目の誤算は、敏達天皇の后だった額田部皇女(後の推古女帝)を敵に回してしまったことだ。用明天皇亡き後の皇位継承者として、守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推していた。この皇子はかなり素行が乱暴だったらしい。敏達天皇の殯の宮に侵入して額田部皇女を犯そうとした。しかし、敏達天皇の寵臣・三輪逆(みわのさこう)に押しとどめられるという事件があった。

ったのは穴穂部皇子である。物部守屋に三輪逆の殺害を命じ、守屋はその命令を忠実に実行した。額田部皇女は、守屋が三輪逆を殺害したことを恨んだ。逆は亡き夫の寵臣であるばかりでなく、彼女の寵臣でもあったのだ。守屋許すまじという激しい怒りは、この気位の高い美貌の皇女の胸にくすぶり続けたであろう。やがて、それは守屋討伐の詔となって爆発することになる。

いの最期になって、守屋はこれらの誤算に気づいたはずである。己の思慮のなさのために、子弟や多くの兵たちに多大な犠牲を強いることになったことを、彼は心の中で詫びた。一族の長ともあろう者がしでかした不始末を、始祖のニギハヤヒのミコトに詫びたかった。生駒山を仰ぎ見ながら、何かを呟いている守屋の胸に激痛が走ったのは、おそらくその時であろう。迹見赤梼(とみのいちい)が放った鏑矢(かぶらや)が彼の胸を貫き、その勢いで守屋の体がもんどり打ってエノキから地上に転がり落ちた。



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