古書が伝える天孫・饒速日尊
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| 物部氏の始祖ニギハヤヒノミコト |
それに加えて、北九州から瀬戸内海の海上交通の拠点や大和川水系などの拠点を支族によって押さえ、強大な経済力を有していた。さらに、大和朝廷の軍事・警察的、祭祀的伴造としての職掌を担っていた。すごい豪族である。だが、本来なら負けるはずのない戦いを仕掛けられ、そして敗れ去った。
この氏族に興味を持っていたせいで、物部氏が関係する主な神社をいくつか訪ねた。たとえば、東大阪市東石切町にある石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)は、物部氏の始祖・饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)とその子の可美真手命(ウマシマデノミコト)の二柱を祭神とし、どんな強固な岩をもやすやすと切り、刺し貫くという霊力を伝える剣と箭(矢)を神体として祀っている。
天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)は、神武東征の折りに武甕雷神(タケミカズチノカミ)が天から下した神剣・布都御魂(ふつのみたま)を、物部連の祖・伊香色男命(イカガシコオノミコト)が第10代崇神天皇の勅に奉じて祭祀することになったのが、創起とされている。その結果、物部氏は石上神宮を氏神として仰ぐようになった。
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| 石切神社 | 石上神宮 |
物部氏の始祖とされる饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)については、『日本書紀』は有名な伝承を伝えている。ニギハヤヒは天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の兄とされる天孫である。ニニギが日向の高千穂峰に降臨する以前に、天照大神(アマテラスオオミカミ)から10種の神宝をさずかり、三十二人の伴緒(とものお)を率いて、天磐船(あめのいわふね)で河内の哮峰(いかるがのみね)に天下ったとされている。
さらに、ニニギの曾孫の磐余彦尊(イワレヒコノミコト、後の神武天皇)が日向から東征してきたとき、イワレヒコに抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)を切って帰順したという。
実は、ニギハヤヒが三十二人の伴緒(とものお)を率いて天下ったとされる天磐船を祀る神社が大阪府交野市に鎮座している。その名もズバリ磐船神社である。物部氏のことを調べていながら、迂闊にも肝心の神社をまだ訪れていなかったことに気づいて愕然とした。それで、本日も暑い一日だったが、午後から出かけてきた。
ご神体は天に向かってそびえ立つ巨大な岩座
国道168号線を北に向かって走るバスの車窓は、市街地から遠ざかるにつれて田舎らしい様相を呈してくる。東西の両側から丘陵地帯が徐々に迫ってきて、天野川が流れる谷の奥に入り込んで行くようである。 およそ20分で、終点の「北田原」バス停に到着する。コンビニで飲料水を買いながら道を尋ねると、磐船神社はそこからまだ10分ほど北へ歩かなければならない。天野川に沿った国道を歩いて行くと、県境を越え、その先にトンネルが見えた。新磐船トンネルである。だが、トンネルの手前で、道が二股に分かれ標識がたっている。標識の矢印の方向に左折し、天野川に懸かる大岩橋を渡って少し行くと、神社の前に出た。 有名な神社だから立派な社殿が建っているのだろうと想像していた。だが、赤い欄干の神橋を渡った先に建っているのは、田舎の民家と見間違うほどの古びた建物だった。 磐船神社には本殿はない。ご神体の「天の磐船」を直接拝む形で拝殿が設けられているだけである。民家と見間違えた建物はどうやら社務所らしい。縁側に座った老婦人が「拝観料は300円です」という。ご神体を拝むだけで拝観料を取るのかといぶかったが、そうではない。ご神体の巨岩の先に岩窟があり、その内部を見学するための料金である。
受付を済ませて拝殿の方に回ると、船の舳先(へさき)を45度の角度で天に向けるように巨大な岩石がそびえ、今にも拝殿を押しつぶすような迫力を感じた。資料によると、高さ12m、幅12mの全く独立した石だそうだ。その姿には、古代の人々が天から降りてきた磐船と見なした理由が十分納得できるすごさである。 交野市の交野は、かって地方に居住した肩野(かたの)物部氏に由来する地名である。物部一族は、神武東征のはるか以前に、北九州から瀬戸内海を経て畿内にやってきた集団であろう。当時は上町台地の東は淀川や大和川が流れ込む巨大な河内湖があり、その岸辺は現在の枚方あたりではなかったかと思われる。彼らは淀川をさかのぼり、その支流である天野川を伝って大和に入ってきた。
そして、「天祖、天璽(てんじ)瑞宝十種を以て、饒速日尊に授く、即ちこの尊、天祖御祖(てんそおや)の詔をうけ、天の磐船に乗って、天降り、河内の国河上の哮が峰に座(いま)す。」という、天皇家とよく似た天孫降臨の祖先神話を作りだし、伝承してきた。 この地に降臨したニギハヤヒトはやがて大和の鳥見(とみ)に盤踞していた長髄彦(ナガスネヒコ)を支配下におさめ、鳥見の白庭(しろにわ)に移った。そして、天孫ニニギのミコトの曾孫にあたる磐余彦尊(イワレヒコノミコト)が日向から東征してきたとき、イワレヒコに抵抗したナガスネヒコを切って帰順したという。 こうした記紀神話は、一足先に大和に入った物部氏が、後発の天孫族と戦って破れ服従することになった史実を反映しているのかもしれない。しばらく立ち止まって、拝殿の前で天の磐船を仰ぎ見た。すると、周囲から降り注ぐ蝉時雨が、物部一族の怨念のように聞こえてきた。蝉時雨は、まるで物部氏が我が国の支配氏族だったかもしれないことを、しきりに伝えているようだ。 橿原市にも、貝吹山の連峰である岩船山の頂上付近に、俗に「益田岩船」と呼ばれている石造物がある。この石造物の長さは東西方向11m、南北方向8m、高さ(北側面)は4.7mもある。横口式石槨、占星台の基礎、物見台などさまざまな用途が憶測されている巨岩であるが、当社のご神体はそれよりも大きい。 余談だが、豊臣秀吉が大阪城築城の際、諸侯に命じて各地から巨石を運ばせた。この天の磐船もその一つだった。秀吉は加藤清正にこのご神体の運び出しを命じた。清正は、石屋に命じて石を割ろうとしたところ、石から血が出た為、運び出しを思いとどまったと言われている。石の上には「加藤肥後守」の文字と紋所が残されているという。 |
巨大な岩石を組み合わせて作られた地下迷路のような岩窟拝殿の先に、古来より神道家や修験道の行場として知られた岩窟がある。天野川の清流が長い年月をかけて作り出した岩の洞窟である。ただし、いわゆる洞窟とは違って、無数の巨岩や奇岩が積み重なって作り上げた迷路である。まさに地下の迷路と呼ぶにふさわしい。
修験道の行場となれば、相当危険な場所と相場が決まっている。現在は行法を知らない一般の見学者でも岩窟巡りができるようになっている。だが、昔のままの姿を保つため、必要最低限の安全措置しか講じられていないという。そのため、10歳以下の子供は入れない、飲酒後の入窟もできない、夜間、雨天時、増水時は拝観はできないといった制限が設けられている。また、見学者に白衣を着用させているのは、衣服を汚させないための配慮のようだ。
目の前に杉の丸太を渡しただけの橋があった。橋を渡ると、今にも落ちそうな大きな岩の前に出る。天井を見ると、別の大きな岩が頭上に蔽い被さっている。その天井石をいくつかの巨石が支えている。思わず、今大地震が発生したらと想像すると、冷や汗が流れだした。石窟の中にいる恐怖は明日香の石舞台古墳の比ではない。だが、もはや引き返す分けにはいかない。岩に記されたペンキの矢印に従って先へ進むだけである。 狭い穴をやっと通り抜けると、清水が流れている場所に出た。天野川の流れである。この岩窟を形作っている岩石をよく見ると、岩場の切石のような鋭さはない。水流で角が丸くなった川石である。おそらく、太古の昔から天野川の水流がこの岩窟の岩の間を通り抜けて、現在のような岩を作ったのであろう。
その穴を抜けると、岩の間から太陽光が差し込んでくる広々とした場所に出る。その先は、再び暗闇の岩窟が続くが、登り道である。巨岩の間は暗くてよく見えないが、岩の間にいくつか祠があった。さまざまな龍神が祀られているようだ。その祠の前を通り過ぎると、ようやく出口の明かりが見えてくる。
それにしても、不思議な体験をさせて貰ったものである。まるで谷川の川底に石ころがゴロゴロしている様子を何百倍にも拡大したような地底空間を通り抜けてきた。岩同士が互いに支え合っているだけなのに、よくも倒壊しないものだ。自宅がある関東地方では、先週末に震度5の地震を経験したばかりである。地震国日本では、いつでも、そしてどこでも巨大地震が発生しても不思議はない。幼い頃福井大地震を経験した筆者は、それがトラウマとなって、今でも極端な地震恐怖症である。古墳の石室に入っているだけでも、はやく飛び出したくなる。被災地の瓦礫の下のような岩窟をよくも通り抜けられたものと、自分ながら感心している。 |