橿原日記 平成17年7月25日

竜田道(たつたみち)竜田越え(たつたごえ)亀の瀬(かめのせ)



和川は、古代より大和と河内を結ぶ重要な河川交通路であり、舟運によって多くの物資や人々が行き交った。その大和川には一つの難所があった。亀の瀬峡谷である。そこで、この難所を避けて河内へ出るため、大和竜田(現生駒郡三郷町・北葛城郡王寺町)から信貴(しぎ)・生駒山地を抜ける山越えの道が発達した。これを「竜田道」という。

ああああ
地図
世には、竜田道は2本あった。大和川北岸沿いに亀の瀬の峠と峡谷を越える亀の瀬越竜田道と、十三峠(現八尾市)を越える十三越竜田道である。古代の主要な道路は前者で、特に「竜田越え」とも言われ、大和と難波を結ぶ重要な道だった。この道は大和の竜田本宮(現在の竜田本社)から西の山(竜田山)を越え、亀の瀬峡谷を抜けて河内へ出、その先は真西の堺・住吉方面へ進む大津道(長尾街道)に連なっていた。

田山は現在の三郷町立野から柏原市雁多尾畑(かりんどうばた)および峠(とうげ)地区にかけての山を指す。つまり、大和川北岸の山の総称で、生駒山地の最南端にあたる。この山を越えていく古代の竜田道が、亀の瀬越竜田道を同じルートだったかどうかについては、異説もある。峠を通らずに竜田大社−高山−三室山−雁多尾畑を通るルートや竜田大社−今井−御座峰を通るルートであるとする説もある。

万葉集』の巻三の挽歌の最初は、聖徳太子の次の歌で始まっている。
●家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ (巻3−415)
聖徳太子が竹原井(たけはらのい、現柏原市高井田または青谷)に来遊したとき、竜田山の死人を見て悲しんで作った歌とされている。

子が竹原井へ出向いたとき目にした光景はどんなものだっただろうか。それを追体験したくなって、気が付いたときは、JR桜井線の畝傍駅へ向かっていた。以下は、本日の竜田越え体験記である。



風の宮として知られる竜田大社(本宮)

亀の瀬峡谷の流れ
風の神「天御柱命、国御柱命」を祀る竜田大社 


田古道の起点は何処になっているのか、寡聞にして知らない。だが、生駒郡三郷(さんごう)町には、風の宮として知られる竜田大社(所在:奈良県生駒郡三郷町立野南1−29−1)がある。この著名な延喜式内社を起点にしようと思い、JR大和路線の三郷駅に降り立った。

案内
神南備社の参道
神南備社の参道
前広場の隅に「竜田大社」と大書した案内が建っている。駅前の道路を横切り、所々に示された矢印に従って古い住宅街の中の坂道を進めば、10分足らずで竜田大社の杜に着く。だが、途中の道路の左手に40段ほどの高い石段があり、その上に神南備(かんなび)社が鎮座しているので立ち寄ってみた。

段の上り口に三郷町教育委員会が案内板を立ててある。その解説文によれば、神南備(かむなび、神名人、甘南備)とは、神が住む森という意味で、山が平地に接する端山(はやま)に位置している。かっては三室山を覆っていた森が竜田川まで続いていて、この付近は神南備の様相を呈していたに違いない。石段を上り、神南備社の社殿の前に立つと、蝉時雨が周りの梢から耳が痛くなるほど降り注いできた。

田川とは、生駒東麓を源として南流し、生駒郡斑鳩町で大和川に合流する流れのことである。立野の神南備は、万葉の昔から飛鳥の甘南備と共に有名だったらしい。『万葉集』にも10首以上詠まれているという。案内板には次の3首が記されていた。
●清き瀬に 千鳥妻喚(よ)び 山の際(ま)に 霞立つらむ 甘南備の里 (巻7−1125)
●神南備の伊波瀬(いわせ)の杜(もり)の 呼小鳥 いたくな鳴きそ 我恋益(まさ)る (巻8−1419)
●神南備の磐瀬(いわせ)の杜(もり)の ほととぎす 毛無(ならし)の丘に いつか来鳴かむ (巻8−1466)


い民家の間を縫って続く緩やかな坂道を上っていくと、やがて坂道は竜田大社の境内の横にでる。神社の正面に回ると、新しく塗り替えられた朱塗りの鳥居がまぶしい。竜田大社は『日本書紀』にも登場する古社である。天武4年(675)3月10日、小紫・美濃王(みののおおきみ)と小錦下・佐伯連広足(さえきのむらじひろたり)を遣わして、風神を竜田の立野に祭らせた、とあり、持統天皇譲位の持統11年(697)まで毎年4月と7月に祭りを行ったとある。

竜田大社の拝殿
竜田大社の拝殿
竜田大社の本殿
竜田大社の本殿
田は大和に風が吹き込む地である。その地にあって、天と地の間の大気や生気・風力を司る天御柱命(あめのみはしらのみこと)と国御柱命(くにのみはしらのみこと)の2柱の神が風神である。これらの神は、別名を志那都比古神(しなつこのかみ)、志那都比売神(しなつひめのかみ)とも言い、万物生成の中心となる「気」を守護する神だそうだ。竜田大社はこの2神を主神として祀っている。

社の由緒略記によれば、創建はさらに古い。今から約2000年前の第10代崇神天皇の時代、国内の凶作・疫病が流行したとき、天皇の夢枕に「吾が宮を朝日の日向う処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定め祭れ」との神託があったという。その通りに宮を造営すると疫病は退散し、豊作になったとのことだ。事の真偽は別として、古くから尊崇を集めた神社であることに変わりはない。

史的にも著名な神社だから、鬱蒼とした古木が生い茂った神社だと想像していたが、そうではない。塗り替えられた朱塗りの鳥居は明るく、その奥に続く砂地の参道も広く明るい。神域には樹齢何百年という老木も見あたらないようだ。拝殿の右手にある参集殿は今年完成したばかりで真新しい。

田の風神が最初に祀られていたのは、当地でなかった。竜田山の最も高い位置に「御座峰」という処がある。風神が崇神天皇の御代に竜田山の峰に降臨したところだそうだ。さらに、三室山の先の林の中に、素朴な鳥居がたち、竜田古社の磐座がある。

竜田古社の磐座
竜田古社の磐座
田大社は竜田本宮ともいう。法隆寺がある斑鳩町には龍田神社がある。聖徳太子が法隆寺を建立するにあたり、竣工の安全を祈るため当社に日参し、竣工後に法隆寺の守り神として当社の分霊を祀ったのが始まりとしれている。そこで、竜田大社が本家本元だいうわけである。

務所で略縁起を請うと、宮司が快く渡してくれた。「どちらからお越しですか」と聞かれたので、「埼玉からです」と答えたら、「一昨日の地震はすごかったでしょう」といかにも心配そうに問いかけてきた。千葉県を震源とする震度5の地震が、一昨日の夕方関東地方を襲った。聞いてみると、竜田神社の祭神は地震封じの御利益はないらしい。



大和川河畔の磐瀬の杜(いわせのもり)

磐瀬の杜
磐瀬の杜 


竜田彦万葉歌碑
竜田彦万葉歌碑
び三郷駅に戻って、今度は駅前を東西に走る県道195号線を西に向かうと、50mほどのところにT字交差点がある。その交差点の角に万葉歌碑が建っている。犬養孝揮毫による高橋虫麻呂の歌の反歌である。
●吾去者 七日者不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落 (我が行きは 七日は過ぎじ 竜田彦 ゆめこの花を 風にな散らし)  (巻9−1748)

の交差点に近いJRの線路脇に、小さな公園がある。道路に面して「磐瀬の杜」と書かれた碑が建っている。磐瀬の杜とは、竜田の神南備が大和川に接するあたりにあった岩瀬の森のことである。昭和55年(1980)に三郷駅ができるまで、JRの線路と大和川の河岸の間に、わずかの木立とこの碑が建っていたそうだ。それが、いつの間にか現在地へ移し替えられた。この小公園の奥には、鏡女王(かがみのおおきみ)が詠んだ次の歌の碑がある。
●神南備の伊波瀬(いわせ)の杜(もり)の 呼小鳥 いたくな鳴きそ 我恋益(まさ)る (巻8−1419)

のあたりは、大和と河内の境に位置し、奈良から難波(なにわ)への要路でもある。難波へ向かう知人をここまで見送り、愛情をこめて別れを惜しんだのであろう。『万葉集』にも、鏡女王の他に多くの歌が残されている。歌碑といえば、平安時代中期の歌人・能因法師の歌碑が三郷駅前に建っていて、次の歌が刻まれていた。
●嵐ふく みむろの山の もみぢ葉は たっ田の川の 錦なりけり
竜田川は古くから紅葉の名所でもある。平安歌人の在原業平も次の歌を詠んでいる。
●ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

鏡女王の歌碑 能因法師の歌碑
鏡女王の歌碑 能因法師の歌碑



関の地蔵の辻堂

石塔
磐瀬の杜」の小公園を過ぎてさらに西に向かうと、大和川をまたぐJRの鉄橋が見えるあたりで、道が二股に分かれる。左へ進めば、大和川にかかる大正橋のたもとに出る。右に進めば、立野南3丁目の住宅地の中に入っていく。その分岐点の角に古びた道標が立っている。左大阪堺道 右竜田神社と書いてある。道標にしては形が異なるので、近寄ってみると、なんとそれは墓石だった。墓石の側面に道案内の文字が刻みつけられていた。

の地蔵を祀った辻堂は、分岐点から立野南の住宅街へ入ったすぐの処に立っていた。道路に面した辻堂の壁に、三郷町教育委員会が掲げた案内板がかかっているので、すぐにその場所が分かった。『日本書紀』は、天武天皇8年(679)に竜田山に関を置いたと伝えている。その竜田関の推定地がこの関の地蔵があるあたりとされている。

関の地蔵の辻堂
関の地蔵の辻堂
の付近は、大和川の右岸に位置し、西に竜田山の南に突き出た丘陵が大和川の河岸まで延びている。大和川の川沿いの道を来るにしろ、あるいは雁多尾畑(かりんどばた)を通って山道を来るにしろ、この地は外敵が河内方面から侵入してくるのを防ぐ最適の場所のようだ。

武天皇元年(672)の壬申の乱(じんしんのらん)のとき、倭古京(やまとこきょう)の守備を任された大伴連吹負(おおとものぶらじ・ふけい)は、近江朝廷軍が河内方面から倭古京奪回のため進軍してくるとの情報を得ると、ただちに坂本臣財(さかもとのおみ・たから)や長尾直真墨(ながおのあたい・ますみ)らに300の兵をに与えると、竜田道の守備に向かわせた。坂本臣たちは、おそらくこの付近に陣を敷いたはずである。

城京から竜田関まで、ちょうど4里(16km)の距離にある。都が藤原京から平城京に遷った後、平城京を早朝に出発した旅人は、このあたりで大和川の流れをみながら昼食を取ったのかもしれない。

の辻堂に祀られている地蔵は、すでに面相が分からないほど破損している。水害や工事のために何回も移転させられたとのことだ。だいたいこのあたりにあったと思われるため、現在はこの辻堂に安置されている。



清水谷地すべり地域に建つ峠八幡神社

峠八幡神社
峠八幡神社の参道 

西暦710年に都が飛鳥の藤原京から奈良の平城京に遷されてからは、難波に行くには、三郷町の竜田神社を経て峠村の八幡神社前を通り、亀の瀬から堅上村・堅下村を通って行く道が、もっとも栄えた交通路だったそうだ。峠村の八幡宮前の道路付近は「竜田越え」と呼ばれていた。この道がいつ頃開かれたのかは定かではない。大和川の水上交通路と平行する陸路として、奈良時代以前から開かれていたであろう。本日のハイキングの目的は、この竜田古道の探索である。

古道
峠八幡神社へ続く古道
八幡神社(所在:柏原市大字峠494)のあたりから北に山道を上り、留所(とめしょ)の山を経て雁多尾畑(かりんどばた)に至る道もあった。帰路は柏原市青谷からこのルートをたどってみたが、上り下りがきつい坂道である。往時の人々が本当にこの険しい道を選んだのか疑りたくなった。

郷町の立野南地区を貫く住宅街の道は、そのまま進めば丘陵にぶつかる。その山裾に沿って大和川の方に向かうと、道は急に狭くなり、だらだらとした坂道に変わる。竹林の中を抜けていくその道は、人影もなく、いかにも旧道といった面影を残している。道路沿いに何軒か民家があったが、廃屋になっているものもある。

田道は大和川の河岸を行く道だと思っていたが、どうやら河岸とは大分離れた竜田山の中腹を縫って続いているらしい。そのために、竜田越えと呼ばれるようになったようだ。聖徳太子が死人を見て悲しんだのは、あるいはこのあたりの路傍だったかと勝手に想像してみる。

峠八幡神社の境内
峠八幡神社の境内
道を上り切ったところに峠(地名)の集落があった。集落の中のT字路の交差点まで来たとき、その角に「峠八幡神社」と掘られた真新しい石碑が目に入った。石段を踏んで神社の境内に入ると、奥に大小2つの社が並んで建っている。

思議な神社である。境内はきれいの掃き清められている。枯れ葉など一枚も落ちていない。新しい御神灯の提灯が社殿に飾られ、新しい榊の枝も飾られている。きっと峠集落の氏子たちが、しっかりと神社を手入れしているに違いない。それでいて、この神社の祭神も式内社なのか単なる村社なのかも分からない。念のために大阪府の地名辞典も当たってみたが、峠八幡神社の名は見出しにも立てられていなかった。


地層断面図
地層断面図
地すべり観測器
地すべり観測器の一つ
八幡神社の脇で恐ろしい看板を見つけた。大阪府知事の名前で立てられた地すべり防止区域の看板である。峠八幡神社のあたりは、清水谷地すべり区域の中に入っている。地すべりとは、粘土層などのすべりやすい地層(すべり面)の上部の土塊が、地下水などの影響を受けて、ゆっくりと動き出す現象をいう。この付近の地下は長い年月をかけて築かれた複雑な地層が横たわっている。特に、大和川による侵食などによって、新旧ドロコロ熔岩の境とレキ・火山灰の層の間に築かれた粘土層がすべり面が形成し、地すべりの原因になっているという。

治36年(1903)、亀の瀬で地すべりが発生した。地すべりのため大和川の川底が隆起し、水を流す能力が小さくなった。、雨が降り続いたので大和川が氾濫したという。昭和6年(1931)から8年(1933)にかけて、次の地すべりが起きている。このときは大和川は完全に閉塞され、大和川の北岸に築かれていた国鉄関西本線のトンネルが崩壊してしまった。そのため、二つの鉄橋と三つのトンネルを造って対岸を迂回し、やっと運転を再開したという。昭和10年(1935)12月のことである。現在のJR大和路線はこの新しい線路を走っている。大和川北岸にあった鉄道線路は、亀の瀬橋からその下流にある鉄橋までの区間が、現在は村の生活道路として利用されている。

治以前にも地すべりは当然発生していたであろう。古代においても地すべりの危険は当然あったものと思われる。壬申の乱で河内方面守備隊の一人だった紀臣大音(きのおみ・おおと)が守備を任された懼坂道(かしこさかのみち)は、亀の瀬地域の竜田道だったとされている。懼坂とはおそろしい坂、びくびくするような坂という意味である。地すべりや落石の危険が当時から旅人に知られていたと解したい。

すべり防止の工事は現在も行われている。そのための工法を深礎工(しんそこう)という。深礎とは、すべり面の下の動いていない地層まで打ち込まれる鉄筋コンクリート製の杭(くい)のことである。現在亀の瀬地すべり地区で進められている深礎は、直径6.5m、深さ最長100mもあり、一本の深礎は約6000トンの力で地すべりの動きを止めることができるという。その他に直径4.0m、深さ30m〜60mの深礎で約1000トンの地すべりを止めることができるとのことだ。
工事の説明版
清水谷下部深礎工工事の説明版



大和川の難所・亀の瀬峡谷

亀の瀬峡谷の流れ
大和川の難所・亀の瀬峡谷の流れ

和川が大和竜田(北葛城郡王寺町・生駒郡三郷町)から生駒山地を横断して大阪平野へ抜けるまでの峡谷を亀の瀬という。特に、王寺町藤井の西のはずれから柏原市峠(とうげ)地区までの部分は、両側から山が迫り、川の中にも巨岩が多く、浅瀬を水が滝のように流れていて、大和川水上交通の難所となっている。亀の瀬の名は川中にある亀石に由来すると言われている。

の亀の瀬峡谷に興味をもったのは、『日本書紀』に記載された外国使節の往来に関する記事による。推古天皇16年(608)6月、遣隋使節として当時の隋帝国に赴いた小野妹子は隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を伴って帰国した。このとき、難波津に到着した隋使たちは8月に海柘榴市(つばきち)から小墾田宮へ迎えられている。すなわち、一行は船で大和川をさかのぼり、三輪山の近くの港湾都市・海柘榴市で上陸している。

亀の瀬峡谷の入り口
亀の瀬峡谷の入り口
亀の瀬峡谷の流れ
亀の瀬峡谷の流れ
亀の瀬峡谷の亀の瀬橋
亀の瀬橋。背後に見えるのはJRの鉄橋
じく推古天皇18年(610)10月、朝鮮半島から新羅・任那の使節が来朝したとき、彼らは大和の阿刀(あと)の館に逗留した。阿刀は現在の田原本町坂手付近とされ、大和川の支流である寺川の港がこの地にあった。いずれの場合も、使節たちを乗せた川船は大和川をさかのぼり、海柘榴市や阿刀までやってきたことになる。その場合、亀の瀬をどのように通過したのだろうか。当時は地すべりなど起きていなくて、通過に問題はなかったのだろうか。当時の外交ルートを考えるとき、こうした疑問が常につきまとっていた。そのためには、亀の瀬を実見しておかなければ話にならない。


八幡神社の前を通り抜けて先へ進むと、山道は丘陵の中腹をうねりながら続いていく。周囲は清水谷地すべり区域のまっただ中である。あちこちに工事現場があり、深礎が埋められた後の巨大な蓋が目に付く。やがて、道路は大和川にかかる亀の瀬橋が見下ろせる高台に出た。対岸にJRの列車が走り、その下を国道25号線が走っているのが見える。下りの坂道の途中に、「亀の瀬地すべり資料室」の建物があった。立ち寄って地すべり防止工事の概要を知りたいと思ったが、残念ながら月曜日で休館だった。

の瀬橋の上に立って、上流に視線を投げると、北側の山麓に沿って大きく湾曲してきた水の流れが浅瀬にかかると、泡だって滝のように流れ下ってくる。両岸に近い部分には、巨岩がゴロゴロしていて、いかにも亀が岸辺で甲羅を干しているようにも見える。亀の瀬はあるいは”亀の背”ではなかったかと、ふと疑ってみたくなった。

の下流には、JRの鉄橋が架かっていて、そのあたりの水流は穏やかである。今は渇水期で、水かさはそれほど多くない。この時期、船でこの亀の瀬を遡航するのは不可能だ。たとえ水量が増えてもどうであろうか。水流はかなり速そうである。


和川は、古代より大和と河内を結ぶ重要な河川交通路であり、舟運によって多くの物資や人々が行き交った。戦国時代を経て江戸時代に入ると社会が安定し、農業や商工業は大きく発展した。その結果、関西でも大坂を中心とした経済圏ができ、大和川の舟運も大いに栄えた。特に18世紀になると、大和川の舟運はその最盛期を迎えたという。水量の乏しい上流の大和側は、喫水の浅い魚梁船(やなぶね)が、比較的推量の豊富な下流の河内側は、剣先船(けんさきぶね)が就航した。大坂からの上り船は、炭・薪・塩・油糟・干鰯などいろいろの物資を運び、大和からの下り船は、米や木綿などを運んだという。

の瀬は川の中に巨岩が多く、川は淵となり滝となって流れていたため、多くの船は通行できなかった。そこで、亀の瀬で大和側の魚梁船から河内側の剣先船に品物が積み替えられた。魚梁船は長さ約15m、幅約1.5m、約1トンの荷物を積むことができた。ムシロ9枚を張って帆にしていたという。当時、現在の王寺町藤井には倉庫が立ち並び、船問屋が栄えた。しかし、明治になると峡谷の南側を通る新道が開通し、さらに大阪鉄道の開通とともに、大和川水運は急速に衰えていったと伝えられている。



鉱山の神・金山毘古神(かなやまびこのかみ)を祭神として祀る金山彦神社

金山彦神社
金山毘古神を祀る金山彦神社 

在のJR関西線(大和路線)は三郷(さんごう)駅を出ると大きく左にカーブしながら大和川を渡って亀の瀬の左岸に出、亀の瀬を過ぎてから再び大和川を渡って河内堅上(かわちかたかみ)駅に至る。このルートは昭和6年に始まる地すべりで、大和川右岸を走る線路が廃止され、対岸にう回する新線として開通したルートである。

民家
昔の旧線路沿いに立ち並ぶ民家

和川の右岸に亀の瀬橋から下流に向かって立ち並ぶ民家がある。その間を細い道がだらだらと続いている。河内堅上駅まで続いていた旧線路跡である。鉄道線路が敷設される以前は、この道も竜田道の一部として河内堅上へ延びていたであろう。

の瀬橋の下流に見えていたJRの鉄橋の橋架下をくぐると、竜田古道は線路に沿って大和川の右岸を進み、途中で線路を横切り、やがて河内堅上駅の前にでる。ここまでで、とりあえず竜田古道の探索は区切りがついたので、この駅から引き返しても良かった。だが、気になるルートがもう一つあった。峠八幡神社のところから、雁多尾畑(かりんどおばた)を抜けてくる道も竜田道と言ったという。そうであれば、河内堅上駅から柏原市の青谷に出て、大阪府道183号線(本堂高井田線)をたどればよい。

大池
青谷地区の大池
金山彦神社の拝殿
金山彦神社の拝殿
内堅上駅で道を聞くと、職員と雑談していた80歳くらいの老人が、線路沿いに西に進み、道なりに山際を行けば、青谷集落の中で、本堂高井田線と合流すると親切にも教えてくれた。さらに付け足して、合流点まで徒歩で20分くらいで、合流点のそばに大池があり、その周りに青谷寺(せいこくじ)という融通念仏宗の寺や、金山毘古神を祀った神社があると教えてくれた。老人に言われた通りに道をたどると、果たして山の中腹に築かれた青谷大池のほとりに出た。

金山彦神社(所在:柏原市大字青谷1025)は池の対岸にあった。神社の境内に掲げられた案内板によると、祭神の金山毘古神(かなやまびこのかみ)は、伊邪那伎(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の間に生まれた子供であるという。念のために『古事記』で確かめてみると、伊邪那美が火の神・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだために陰部が焼けて病の床に臥した。そのときの嘔吐から成った神の名は、金山毘古神と金山毘売神(かなやまひめのかみ)である、と記されている。

代、当地の嶽山・竜田山を中心とする地域は、製鉄業で栄えた。祭神の金山毘古神は、もともと産土神(うぶすなかみ)で嶽山の嶺に奉祀されていた。中世になって、現在の場所に遷座され、山王権現、八大金剛童子社と称された。それが現在の神社の名前に改めたのは、明治8年になってからのことであるという。

谷集落から北へ山を登った雁多尾畑集落の北西には、雁多尾畑古墳群があり、横穴式石室を持つ400基近い古墳が確認されている。鉄鉗を出土した古墳もあって、鍛冶または製鉄生産に関係した集団がこの付近に住んでいたと推測されている。



金山媛(かなやまひめ)神社が鎮座する雁多尾畑(かりんどうばた)集落へ

金山媛神社
金山毘売神を祀る金山媛神社 

ああああ
山彦神社から、府道183号線(本堂高井田線)はブドウ畑の間を蛇行しながら上っていく。雁多尾畑集落は標高200〜250mほどのところの、高原の南に面した傾斜地に張り付いている。金山彦神社から15分ほど坂道を上ると、左手に堅山中学校の校舎があり、そこからさらに少し上ると雁多尾畑集落の入り口に到達する。近鉄バスの「宮下」停留所があり、金山媛神社(所在:柏原市大字雁多尾畑4828)は、府道から少し奥まった石垣の上に鎮座している。近づいてみると組まれた石垣も、神社の社殿もまだ新しい。改築されて、まだそれほど年数がたっていないようだ。

ちらも産土神を祀る神社で、金山彦神社と同様に鉄生産に関わる式内社である。金山彦神社と同じく、当初は嶽山の嶺に奉祀され、後に現在の地に遷座されたというが、真偽のほどはわからない。集落の上手の山中から鉄鐸が採集されていることで、この付近は鉱山関係の集落だったことが分かる。

大和平野を望む
留所山霊園から大和平野を望む
ブドウ畑
下り坂途中のブドウ畑
れにしても、高原の南斜面に位置している雁多尾畑集落は、旅人泣かせである。集落の中を抜ける府道は延々と続く坂道であり、平地に住み慣れた筆者は途中で何度も呼吸を整えなければならなかった。この坂道の多い土地が住みよいか住みにくいかは主観の問題だろうが、集落を抜けて「小鞍の峰」と称される留所(とめしょ)の山近くまで上ってくると、一面に視界が開けた。眼下に大和平野が一望でき、大和川から山肌に沿って吹き上げてくる風が汗ばんだ肌に気持ちがよい。

所山霊園あたりから、道は下り坂にかかる。車の往来などほとんどない二車線の舗装道路は蛇行しながら、大和川に向かって下っていく。このあたりも地すべり防止地域で、道路の両脇にブドウ畑が広がる。時々、鳥追いの空砲があたりにこだまする。この道は峰八幡神社の脇へ続いていた。こうして結果的には亀の瀬越えでないもう一つの竜田道を逆にたどってきたことになる。山道は上りもきついが、下りも相当足にくる。昔の旅人は本当にこの厳しい峠道を越えて大和と河内を往復したのだろうか、とつい疑りたくなった。それとも、現代人に比べて、彼らは桁違いに足腰が丈夫に育っていたのだろうか。



三郷町
眼下に広がる三郷町



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