橿原日記 平成17年7月23日

法隆寺若草伽藍跡の発掘調査で新たな知見


速報展の会場
速報展の会場
在、橿原考古学研究所(橿考研)附属博物館では、2004年度の発掘調査速報展「大和を掘る23」が、7月16日から8月28日までの会期で開催されている。速報展「大和を掘る」は、最近の発掘調査で出土した堀りたての考古資料を一般に公開することを目的としている。全国に先駆けて第一回の速報展が昭和56年の夏に企画されてから、今年は23回目になるという。

「大和を掘る23
速報展「大和を掘る23」の案内
回の速報展では、昨年度に発掘調査された39遺跡の出土品が特別展示室に並べられている。これらの資料の多くはまだ学術的な調査や分析を経たものではない。したがって、今後新たな解釈や評価が生まれる可能性があるという。しかしながら、掘り出されたばかりの遺物を己の目で確認できるのは、考古学ファンにとってたまらない魅力にちがいない。

の速報展には、もう一つオマケがある。期間中4回に渡って橿考研の講堂で、主な遺跡の発掘責任者が発掘状況を解説する土曜講座が用意されている。第一回目の本日は午後1時半から、法隆寺若草伽藍跡、片岡王寺跡、および多武峰遺跡群についての説明が行われた。発掘状況の詳細を聞きたいと、本日も多くの考古学ファンが会場に押しかけた。

者は、斑鳩(いかるが)町教育委員会の平田政彦氏による法隆寺若草伽藍跡の発掘調査報告に興味を持った。法隆寺再建・非再建論争に一石を投じる発見があったことが、すでに昨年12月に報道されていたためである。平田氏はスライド写真によって発掘状況を説明された。



法隆寺再建・非再建論争

日本書紀』には「天智九年(670)夏四月の癸卯の朔壬申(三十日)日に、夜半之後(あかつきに)に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋(ひとつのいえ)も余ること無し。大雨ふり、雷震(な)る。」という有名な記事がある。つまり、西暦670年の旧暦4月30日未明に、落雷により出火しすべての建物が焼失したという。

法隆寺西院伽藍
法隆寺西院伽藍
隆寺再建・非再建論争とは、この『日本書紀』に記された火災の有無を巡り、現在の法隆寺西院伽藍が創建当初のものか、それとも再建されたのかで、明治中期以降繰り広げられた大議論をいう。昭和14年の発掘調査で、現伽藍に先行する塔と金堂が南北に並ぶ四天王寺式の若草伽藍跡が検出され、記録の火災はこの伽藍のものだったとして論争は一応の決着を見た。しかし、西院伽藍が飛鳥様式を残すことから、再建時期についての論議が続いている。

言って、再建・非再建論争が完全に決着を見たわけではない。奈良文化財研究所は2001年2月20日、法隆寺の五重塔の心柱に594年に伐採された檜が使われていることが判明したと発表し、マスコミで話題になった。法隆寺の前身である斑鳩寺は607年頃聖徳太子によって創建され、670年に焼失、若草伽藍の発掘で法隆寺が再建されていたことが定説となっている。五重塔の心柱にこれほど古い木材が使われていたことで、また新たな議論が展開されることとなった。

の他にも、推古30年(622)に造立されたとされる釈迦三尊像の台座裏から、「辛巳」(621年)の年号のある墨書が見つかっている。平成3年には、下壇の台脚部裏から墨絵の天部像と数種類の墨書が発見された。近年の奈良国立博物館と奈良国立文化財研究所の調査により、これらの制作年代は七世紀前半を下らないとの結果を得ている。また阿弥陀如来像の台座裏からは、七世紀初めの朝鮮半島から日本を訪れた使節をスケッチしたと見られる人物像が発見され、このことが非再建論にまた火をつけることになった。

会場風景
土曜講座の会場風景
らに、昨年(2004)7月、奈良文化財研究所は、現在の西院伽藍の金堂に使われている木材を年輪年代法で測定し、焼失以前の668〜669年ごろに伐採されたものであることが判明したと発表した。若草伽藍の焼失以前に、現在の西院伽藍の建設が始まったとする「新再建説(二寺併立説)を裏付けるものとして話題を呼んだ。

隆寺の門前広場整備に伴って、斑鳩町の教育委員会は南大門の南東約30mの所に、東西16m、南北7m、わずか約110平方mの調査区を設定して、昨年発掘調査を実施した。そして、非再建論や新再建説を打ち消す貴重な発見をもたらした。



若草伽藍の西限を示す溝跡を検出

今回の発掘現場
今回の発掘現場と推定西限ライン
在の法隆寺金堂と五重塔の中軸線は西に8.5度傾いているだけだが、若草伽藍の金堂と塔の中軸線は西に20度傾いていたことがすでに判明している。

に述べたように、今回の調査区として設定した場所は、南大門の南東約30mの所のわずか約110平方mの土地である。この空間は、従来推定されてきた若草伽藍の寺域の外にあると考えられてきた。ところが、若草伽藍の中軸線から土塀沿いの道までの距離約106メートルの地点で、若草伽藍の西を区画していたとみられる溝跡が見つかった。106メートルの距離は、飛鳥時代の基準尺の高麗(こま)尺(1尺35・4センチ)でちょうど300尺だ。

の溝跡は従来考えられていたよりも約60m西側に位置し、寺域西限の溝である可能性が大である。この溝跡の検出は若草伽藍の規模を確定する上で貴重な発見だった。西側に寺域が広くなることで、現在の西院と重複することになる。その結果として、「焼け残った部材も使って、現在の金堂を建てたのでは」とする二寺併立説を否定することになる。



国内最古の本格的な彩色壁画の存在を証明した壁画片

若草伽藍の壁画片
若草伽藍の壁画片
調査地区で、百点を超える壁材の破片が見つかった。これらの壁材片は、粘土層の上に堆積(たいせき)した地下約2mの20〜30cmの砂の層から出てきた。調査区の大部分は、谷に形成されたかっての河川跡で、河川の幅は30m以上あったと推定されている。火災で崩れ落ちた壁画片が上流で遺棄され、ここに流れてきたものと思われる。このうち、図柄らしいものが描かれているものが約20点、彩色が見られるものが約30点確認された。最大のものは縦4cm、横5cmだった。

れらの壁画片は、彩色した土壁が高温で焼かれ変成、水中でも溶けず奇跡的に残ったとみられ、奈良文化財研究所の分析で銅や鉄など鉱石成分を確認し、緑や赤の顔料と判定された。顔料部分は七宝焼のようになっていた。1000度以上の高熱で焼いた陶磁器と同じような状態になっているものもあった。これらは、『日本書紀』に記述された火事で焼失した寺の金堂や塔の壁画の断片と推定されている。つまり、『日本書紀』の記述の信憑性が、これらの壁画片によって確認され、670年4月30日の早暁、若草伽藍は各伽藍の内部まで焼き尽くす大火であったことがほぼ証明された。

れらの壁画片の存在は、若草伽藍の金堂あるいは塔が壁画で装飾されていたことも同時に明らかにした。上淀廃寺(鳥取県淀江町、7世紀後半)や法隆寺金堂の壁画(700年前後)を半世紀以上さかのぼることになる。しかし、考えてみれば、これは自明のことである。わが国最初の本格寺院である奈良県明日香村の飛鳥寺も、朝鮮半島の百済から渡来した画工が造営に携わっている。同じ頃に造営された斑鳩寺(若草伽藍)に渡来人画工が関与していたとしても、なんら不思議はない。



斑鳩寺の金堂は全焼ではなかった?

法隆寺釈迦三尊
法隆寺釈迦三尊

草伽藍では焼けた瓦の発見が少なく、『日本書紀』に記述される670年の火災を疑う説もあった。しかし、今回の調査地域からは、壁画片とともに二次焼成を受けた飛鳥時代の瓦もまとまって出土した。そのため、『日本書紀』の記述の信憑性を裏付ける斑ことになり、網干善教・関西大学名誉教授も「焼失したことが明確になり、再建説が強まったのでは」との見方を示しておられる。

ころが、平田氏は興味深い指摘をなされた。まだ整理段階で断定的なことは言えないと前置きしながら、塔に使用されていた軒丸瓦は二次焼成を受けているものが多いのに比べて、金堂の軒丸瓦はあまり二次焼成を受けていないとのことだ。そして、金堂は一般に言われているように、全焼したのではなく半焼程度でなかったのかと推測される。

徳太子の伝記を記した『聖徳太子伝補闕記』にも「庚午年四月三十日夜半、斑鳩寺に災い有り」と記している。だが、一屋(ひとつのいえ)も余ること無しとは書いてない。そのため一屋云々は、『日本書紀』編纂者の潤色とする説がある。

の推測は筆者が抱いていた謎の一つを解明してくれた。落雷で一瞬のうちに燃え上がった金堂から、金銅製の本尊の釈迦三尊像を無傷で運び出されたことに、密かな疑問を感じていた。金銅製の仏像はかなりの重量である。紅蓮の炎が荒れ狂う堂内から、本尊を無事に持ち出されるものなのかどうか。だが、半焼程度であれば、注意して運び出す余裕はあったであろう。



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