橿原日記 平成17年7月22日

朝の散歩は畝傍山の頂上まで・・・


畝傍山
橿原にいるときは、朝の散歩コースを畝傍山の頂上までの往復と決めている。
本日は散歩コースの途中の様子を、写真で皆さんに紹介しよう。

橿原神宮の北参道の鳥居
最近は、午前6時にアパートを出て散歩することから一日が始まる。目指す目的地は畝傍山山頂。アパートから50mのところに、県立橿原考古学研究所(略称「橿考研」)がある。その角の交差点を渡り、橿原総合運動場の横を抜けると、県道橿原神宮公苑線にぶつかる。橿原神宮公苑の中に築かれたこの道も、さすがにこの時間には疾走してくる車の影はほとんどない。信号を無視して県道を渡ると、橿原神宮の北参道の鳥居が待ちかまえている。

畝傍山登山口の標識居
鳥居をくぐって北参道を進むと、右手に畝傍山登山口の標識が建っている。

東大谷日女命神社
標識の矢印に従って細い山道に入る。山の登り口近くの右手に、山林の中に鎮座する古い社が見えてくる。畝傍山の東南山麓に鎮座する東大谷日女命(ひがしおおたにひめみこと)神社である。神武天皇の后・姫蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神として祀っている。

登山開始
東大谷日女命神社を過ぎたところに、畝傍山のマップを掲げた案内板が立っている。山頂へ登る道は幾筋もあるらしいが、いつも利用している遊歩道がもっとも一般的なようだ。この道は登りはじめのところが結構厳しい坂道になっている。思わず途中で一息つきたくなるが、この坂道を一気に登れるかどうかが、その日の体調をチェックするバロメータになっている。

苦あれば楽あり
急な坂道を登り切ると、後は比較的平坦な遊歩道が続く。

登り道の合流地点
山道を半分も登ってきたと思う頃、畝傍山の西にある畝傍山口神社から登ってくる道との合流点に出る。

山頂まで行かずに、ここから畝傍山口神社の脇へ降りて、山麓を半周しながら元の北参道登山口へ戻るルートも可能である。

片側が険しい崖道
標識が立っていた中間点を過ぎると、山道の左側は急な斜面になっている。下山してくる人たちとすれ違う場合は、どちらかが立ち止まって道を譲ってやならなければならない。

自動車同士が坂道ですれ違う場合は、確か上り優先だと思ったが、朝の散歩者にはそんなルールはない。道を譲れる比較的広い場所に先に到着したものが立ち止まって、道を譲っている。

山頂付近が見えてホッと一息
まもなく、左手前方に畝傍山の山頂付近が梢の間から見えてくる。だが、坂道はつづら折りになってまだ先へ続く。


奈良森林管理事務所の案内板
畝傍山は国有林であり、奈良森林管理事務所が管理している。山頂付近には以下の内容を記した大きな案内板が立っている。
「ここは、歴史的にも有名な大和三山の一つで、標高199.2メートル、面積41ヘクタールの死火山です。東部裾野に神武天皇陵(じんむてんのうりょう)、北西部に綏靖天皇陵(すいぜいてんのうりょう)、南西部に安寧天皇陵(あんねいてんのうりょう)、南部に懿徳天皇陵(いとくてんのうりょう)、南東部に橿原神宮(かしはらじんぐう)があります。

香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)を愛(お)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき神代(かみよ)より かくにあるらし 古昔(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を争ふらしき
『万葉集』 中大兄皇子」

やっと山頂に到着
奈良森林管理事務所の案内板にあるように、畝傍山はかって火山だった。地中から吹き出した溶岩が固まって海抜199.2メートルの独立峰になった。標高約200メートルと聞くと、一見高そうな山に見える。だが、橿原市は標高80メートル付近に位置しているため、比高差は120メートルにすぎない。それでも小生の足では、ここまで登ってくるのに約30分かかる。


山頂から見た西側の葛城方面
冬場は金剛・葛城の連山が屏風のように聳えて見えるが、この時期はそうもいかない。大気が水分を多く含みすぎているのか、それとも地上の空気が汚染されているのか、地上の建物や田畑はすべて薄いベールの底に沈んで見える。

頂上に積み上げられたケルン
海抜199.2メートルというのは、中途半場な数字なのだろう。なんとか200メートルにしようと、小さな石を積み上げたケルンが山頂にある。


朝のラジオ体操
この時間に山頂まで登ってくる人たちは、ラジオ体操をするのが目的のようだ。葛城・金剛山方向を見ながら、ラジオから流れる声にあわせて、皆が一斉に体を動かし始める。最近は常連さんが決まってきたようだ。いつも10〜12人ほど集まってくる。

新しく開かれた「目の地蔵」方面への道
体操が終われば、いつもは来た道を逆にたどって下山する。北の参道まで降りるのに、およそ20分ほどかかる。本日は途中の標識のところまで降りてきて、少し迷った。西側の道をたどれば畝傍山口神社の脇へ出る。ところが、最近新しい標識が一つ増えた。目の地蔵が途中にあり、その前を通っても畝傍山口神社の脇へ出られるという。(写真で右へ下れば畝傍山口神社へ、左へ下れば目の地蔵へ)

傘をさした「目の地蔵」
細い山道を一直線に下っていくと、突然石の地蔵の前に出る。案内板など何もないが、「目の地蔵」と呼ばれているところを見ると、眼病に御利益があるのかもしれない。誰がかざしたのか、古いこうもり傘が雨よけに立てられている。

畝傍山口神社
「目の地蔵」から先の細い道は、やがて畝傍山口神社脇に下る遊歩道と合流する。この遊歩道は橿原神宮の北参道に比べれば、傾斜はきつい。やがて、畝傍山口神社の横に出る。この畝火山口神社は、息長足姫命、豊受比売命、および表筒男命を祭神として祀る。現在の社地は御旅所の跡で、以前はこの地ではなく畝傍山の山頂に祀られていた。昭和15年に皇紀2600年を記念して現在の場所に遷されたという。


万葉歌碑
畝火山口神社の参道脇に、樋口清之氏の揮毫による万葉歌を刻んだ碑が建っている。
●思ひあまり 甚もすべ無み 玉だすき 畝傍の山に われは標結ふ 「巻7−1335」作者 不詳
「思いあまってなにともしかたなくなり私は、畝傍の山に占有のしるしのシメナワを結うことである」、という意味だそうだ。

大谷町の灌漑用ため池
畝傍山口神社の下に灌漑用のため池がある。その縁を廻って集落に入る。このあたりは橿原市の大谷町である。


第三代・安寧天皇陵
畝傍山の山麓を伝って大谷町から吉田町に入ると、右手に樹木に覆われた小山が見えてくる。第三代の安寧天皇の陵に擬せられた畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほといのへのみささぎ)である。 現在、陵の東南の丘に安寧天皇神社がある。もと陵上に祀ってあったという。

第四代・懿徳天皇陵
吉田町から西池尻町に入ると、今度は左手の駐車上の奥に別の御陵が見えてくる。畝傍山の南麓、西池尻町の北のはずれに位置する畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごだにのへのみささぎ)である。


橿原神宮の西参道
懿徳天皇陵から少し南に進むと、そこは橿原神宮の西参道である。近鉄南大阪線の「橿原神宮西口」駅が近い。

神饌田(しんせんでん)
西参道の鳥居をくぐると、すぐ右手に神饌田がある。年間を通じて行われる様々な祭典で神前に奉られる米を作るところだ。神饌田に関しては、年に4回の祭りがある。4月下旬の下種(げしゅ)祭、6月中旬の御田植(みたうえ)祭、10月中旬の抜穂(ぬきほ)祭、そして11月23日の新嘗(にいなめ)祭である。新嘗祭はかっては新穀感謝祭と呼ばれていた。新しく収穫された米を神前に供え方策を感謝する大祭である。


歴史的に古い深田池
深田池の大きさは、約4.8ヘクタール。池の縁に立って、西方に金剛・葛城連山を眺望できる。この池の歴史は古い。『書紀』推古紀21年11月に掖上池(わきがみのいけ)、畝傍池(うねびのいけ)、和珥池(わにのいけ)を造った、とあるが、畝傍池は多分この橿原神宮の南にある深田池だろうといわれている。平成になってデッキや桟橋を備えた親水護岸に整備された。

捨てられた猫たち
遊歩道を挟んで深田池の脇に東屋が立っていて、天気の良い日などは、近所の老人たちのたまり場になっている。誰が捨てていくのか、野良猫たちのたまり場でもある。老人たちが毎日餌を与えるので、ここの猫たちは少しも人見知りをしない。我が家の愛猫”チビコ”によく似た子猫がいたが、最近は見かけない。


深田池に咲き誇るスイレンの花
深田池にはハスやスイレンが咲き、冬には多くの渡り鳥がやってくる。この池の周りも、ラジオ体操の会場になっている。毎日50名近い近所の住民が集まってきて、朝の体操をして散会する。それを日課にしている年配者は多い。

橿原神宮の神門
深田池から北へ向かうと、正面に橿原神宮の神門がある。橿原神宮は、神武天皇が大和を平定して即位した宮の跡に創建されている、という。明治の中頃まで、その宮跡が特定されることはなかった。明治政府は明治22年(1889)に神武天皇陵の考証と並行して、橿原の宮跡を治定するための調査を行なった。そして、現在の場所が宮跡と定めた。その年の7月には、京都御所の温明殿(賢所)が本殿として、神嘉殿が拝殿としてそれぞれ下賜された。これらの建物を移して、翌明治23年(1890)3月に神宮の造営が完成した。


橿原神宮の神域
神門を一歩入ると、そこは橿原神宮の神域である。白い玉砂利を敷き詰めた広い庭は、毎朝丁寧に掃き清められ、筋目がつけられる。畝傍山を借景にして聳える巨大な拝殿のたたずまいは、いつ見ても美しい。橿原神宮は、神武天皇と姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神とする官幣大社である。

イトクの森古墳
橿原神宮の神域を出ると、北の参道である。参道を入り口の方に向かい、畝傍山登山口を過ぎて、その先を左折して遊歩道へ入る。遊歩道の脇に「イトクの森古墳(池田神社)」とかかれた石柱が立っていて、奥に白壁の塀に囲まれた一角が見える。この古墳は、全長30m余りの前方後円墳であったらしい。だが、現在は後円部だけがわずかに残っているにすぎない。明治時代の終わり頃、前方部の土砂取りが行われた時、古墳時代の古式土師器などが出土したという。そのために前期の古墳と推定されている。


若桜友苑
イトクの森の奥に、戦没者の英霊を慰める慰霊公苑がある。若桜友苑という。綺麗に整備された芝生公園の中に二つの碑が建っている。一つは第十三期海軍甲種飛行予科練習生戦没者一千余名を祀った「甲飛十三期殉国の碑」、もう一つは、瑞鶴はフィリピン沖海戦で米艦上機の猛攻を受けて撃沈された航空母艦・瑞鶴の戦没者を祀る「軍艦瑞鶴の碑」である。

初代・神武天皇陵
遊歩道はやがて県道橿原神宮公苑線にぶつかる。車道に沿って歩道を北に50mも進むと、鉄のフェンスが見えてくる。フェンスの内側に神武天皇陵の石碑が建ち、杉木立に覆われた参道が見える。参道はゆっくりと右に湾曲しながら奥へ続いている。その先に神武天皇陵に擬せられた墳墓である。正式には、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)という。

実は、この駅前付近は筆者にとって因縁浅からぬ場所である。大学3年の春休み、スポーツクラブの合宿をこの地で張った。宿舎に当てられた駅前旅館の前の交差点で、左折してきたダンプカーの後部に額がぶつかり、病院で数針縫うという事故にあった。あるいは、その記憶が、この近くにアパートを借りさせた遠因かもしれない。

「畝傍御陵前」駅前通りから見た畝傍山
神武天皇陵の前のT字路を一直線に東へ延びる道をたどれば、近鉄の「畝傍御陵前」駅に出る。畝傍御陵とは神武天皇陵のことで、この陵への参拝者の便を考えて作られた駅といってよい。この通りからは民家の屋根越しに畝傍山が見える。ともあれ、朝の散歩コースは「畝傍御陵前」駅で終わる。


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