初めて訪れた靖国神社は、「みたままつり」の準備の真っ最中靖国神社へ行くには、地下鉄・半蔵門線の「九段下」駅の「出口1」を利用するのがよいと聞いていた。だが、地下鉄のホームから地上へ出るのは容易ではない。長い地下通路を歩き、長い階段を上り、途中から長いエスカレータに乗り継いで、ようやく地上に出ることができた。今にも雨粒が落ちてきそうな曇り空の下で、市ヶ谷方面へ続く靖国通りの広い歩道は、人影もまばらだった。その緩やかな上り勾配の坂道の真ん中を、銀杏の巨木が列を作っている。
東京近郊に何十年も住んでいながら、恥ずかしいことに今まで一度も靖国神社に参拝したことがない。親類縁者に戦死し英霊として祀られている者がいなかったのも理由の一つだろう。だが、最も大きな理由は、極東軍事裁判で戦争責任者として断罪された者たちを合祀する神社には、どうしても足が向かなかった。
韓国側は第2次大戦の終戦記念日である8月15日以前にこの碑を返還することを求めている。韓国だけではない。先週行われた韓国と北朝鮮との南北閣僚級会談で、両国は同碑返還に向けた実務措置をとることで合意した。韓国政府からの正式な返還要求を受けて、我が国の政府も今年夏までに韓国に返還する方向で検討に入ったという。 返還されてしまえば、数奇な運命を辿ってきたこの碑にお目にかかることはあるまい。返還前に自分の目で見ておきたかった。 靖国神社では、7月13日から4日間「みたままつり」が行われる。戦没者の遺族や戦友、崇敬者などが奉納する大小29,000灯を越える献灯と約400個の懸ぼんぼりを掲げる準備が参道の両脇で進められている。15日の夕刻には、靖国講などのさまざまな御輿振りが奉納され、祭りの間は、外苑の参道に露店の夜店が立ち並び、にぎわいを見せるという。 緩やかな坂道を登り切ると、巨大な第一鳥居が参拝者を迎え入れ、その先に切石を敷き詰めた広い外苑の参道が続く。
戊辰戦争では、益次郎は新政府の軍務局判事に任じられ、軍制改革,親兵組織編成に尽力した。また、江戸城攻撃・彰義隊討伐・東北平定の戦いでは指揮官をつとめた。そののち兵部大輔となり、建議して軍制を洋式に改める事を主唱した。そのため攘夷主義者を刺激し、明治2年(1869)9月不満士族に襲われ、同年11月大阪で死去した。 その大村益次郎は、襲撃をうける少し前の明治2年6月、戊辰戦争の戦没者を祀る東京招魂社(現在の靖国神社の前身)の創建に際して、社地選定のため当地を視察したという。そのため、靖国神社創建の功労者とされ、明治15年に銅像の建立が発議された。銅像の製作を依頼されたのは、洋風彫刻の開拓者とされる大熊氏広(おおくまうじひろ)だった。委嘱を受けた大熊は明治18年にヨーロッパに留学して西洋式彫像技術を学んだ。そして、帰朝後の明治26年にこの像を完成させたという。 大村益次郎の銅像から先に進むと、車道の向こうに第二鳥居と神門が建っている。巨大な神門をくぐって神域に入ると、その先に小さな鳥居があり、鳥居越しに明治34年に作られ、平成元年に改築された豪壮な拝殿が見える。この拝殿の奥には、やはり平成元年に復元竣工された本殿がある。この本殿に祀られているのは、戊辰戦争を始めとして、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などで戦死した2,466,532体(平成16年10月17日現在)の英霊たちである。 上記のように、靖国神社は戊辰戦争で戦死した人たちを祀るために、明治2年(1869)に創建された。当初は東京招魂社と呼ばれたが、明治12年(1879)に靖国神社と改称されて今日に至っている。 最近の靖国神社に関する話題は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題である。問題の根源には、東京国際軍事裁判で戦争犯罪人として断罪された東条英機などA級戦犯14名の霊を、昭和53年(1978)10月、福田赳夫内閣の頃に密かに合祀したことにある。当時の宮司松平永芳は、昭和天皇の意向を無視して、合祀を強行してしまったと言われている。 一国の首相が公人として参拝するのは、政教分離の原則を決めた憲法に違反する恐れがあることは、すでに「1985年の中曽根康弘首相(当時)の公式参拝」に関する福岡高裁や大坂高裁の判決で示されている。小泉首相は、靖国神社は戦争犠牲者を悼むための場所であり、恒久の平和を祈念するために参拝するのだと公言している。だが、首相の認識は根本的なところで間違っている。靖国神社は「戦争犠牲者の慰霊」ではなく、天皇と国家のために戦没した兵士たちを英霊として鎮魂し礼賛することを目的とした神社である。 広い意味では、彼らも戦争犠牲者かもしれないが、軍国主義者に踊らされた天皇の兵隊であったことには変わりはない。彼らに国土を蹂躙され、多くの同胞を殺戮された中国や朝鮮の人々の日本軍国主義への恨みは、今だ消えていない。こうした状況が見えないのか、見えていても故意に無視しているのか、小泉首相の頑なな態度は近隣諸国の外交問題にまで発展している。まことに先の見えない外交下手な政治家を、日本国民は首相に選んだものだ。 |
境内の片隅に鉄柵に囲まれて囚人のように建っている「北関大捷碑」「北関大捷碑」の存在を知ったのは、最近のテレビニュースからである。気になって、早速この石碑について調べてみた。
翌年の1593年1月、明国から救援軍が到着し朝鮮軍と協力して平壌城で日本軍を撃退、以後、戦勢は反転し始めた。また、朝鮮各地で義勇軍が立ち上がり日本軍に莫大な打撃を与えただけでなく、海では李舜臣(イ・スンシン)将軍の率いる水軍が連勝を続けていた。だんだん窮地に追い込まれた日本軍は、慶尚道の南海の方に後退し、講和会議を受け入れた。 この文禄の役で、加藤清正の軍は朝鮮半島の東北にある咸鏡北道の吉州まで進軍した。しかし、鄭文孚(チョン・ムンブ)らの現地人が義勇軍を結成し、清正の軍に抵抗した。当時の加藤軍は朝鮮の二王子を捕らえていたため、機動性に欠けていた。清正の軍は吉州城に依って義勇軍と戦ったが、結局清正の本陣は吉州城の救援に行けず、同城は孤立・篭城の状態にあった。
その後、鄭文孚は獄死するが、彼の死後78年目に、北関で加藤清正軍を撃退した彼の功績を称えて、この碑が建立された。しかし、日露戦争後の1907年、北韓進駐軍司令官後備第二師団長の三好成行中将は、吉州の臨溟駅に建てられていたこの石碑を凱旋の土産として持ち帰り、振天府(皇居内に設けられた戦利品陳列所)に献上した。持ち帰った理由として、石碑の文面が日本・朝鮮両国民の感情を害するためとされたが、日本軍の敗北を隠蔽することが目的だったことは明らかだ。碑文の出だしに「有明朝鮮国咸鏡道壬辰義兵大捷」と書かれているという。 現在の韓国人に、世界史上の極悪人は誰かと問えば、決まって豊臣秀吉の名を挙げるという。逆に最も愛されている歴史上の人物は、壬辰倭乱で日本の水軍に莫大な打撃を与えた李舜臣将軍である。韓国では、どんな田舎へ行っても小学校の校庭に李舜臣将軍の銅像が建っている。それほど壬辰倭乱は、後の韓国人の歴史観に影響を与えているということだ。鄭文孚が北関で日本軍を撃退した義勇兵であることが喧伝されれば、彼もおそらく国民的英雄として遇されるにちがいない。
いったん南門の近くまで出て、日本庭園に続く林の中の道を進んでいくと、右手に鉄柵で囲まれた一画が見えてくる。柵の間から中を覗くと、簡単な形ばかりの屋根で覆っただけの2m近い石碑が建っていた。それが「北関大捷碑」だった。周囲には標識や説明板といったものが、なにもない。数奇な運命によって、よりによって靖国神社の境内の、それも人目につかない場所に置かれた石碑は、見ようによっては、かっての大日本帝国の虜囚のようにも見える。400年の星霜を経た歴史的記念碑は、それにふさわしい待遇を受けているとはとても思えない。 碑面にはびっしりと文字が刻まれているようだが、それを確認しようにも鉄柵に阻まれて残念ながらアクセスできない。あまりにも場違いな所に置かれている碑が哀れで、しばらく鉄柵の間から眺めながら、これからの碑の行く末に思いを馳せた。 おそらく、日本政府は韓国政府の返還要求を飲んで、「北関大捷碑」を韓国に返すだろう。だが、石碑はもともと、現在の北朝鮮北部に建てられていたものだ。韓国統一省によると、いったん韓国が同碑を受け取って保守、保存作業を進め、韓国内で展示公開した後、北朝鮮に渡す計画であるという。この石碑の返還が日韓の真の友好関係の始まりになることを祈るばかりである。 |
追記:靖国神社の北関大捷碑、10月12日に韓国返還旧日本軍が持ち帰ったとされる「北関大捷碑」が、ようやく2005年10月12日に、韓国側に返還されることになった。外務省職員の立ち会いのもと、現在、碑を保管している靖国神社が韓国大使館関係者と返還の合意文書を交わし、その後、輸送作業に入る。 |