橿原日記 平成17年7月1日

靖国神社に「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」を訪ねる

初めて訪れた靖国神社は、「みたままつり」の準備の真っ最中

国神社へ行くには、地下鉄・半蔵門線の「九段下」駅の「出口1」を利用するのがよいと聞いていた。だが、地下鉄のホームから地上へ出るのは容易ではない。長い地下通路を歩き、長い階段を上り、途中から長いエスカレータに乗り継いで、ようやく地上に出ることができた。今にも雨粒が落ちてきそうな曇り空の下で、市ヶ谷方面へ続く靖国通りの広い歩道は、人影もまばらだった。その緩やかな上り勾配の坂道の真ん中を、銀杏の巨木が列を作っている。

葛飾北斎が描いた九段坂
葛飾北斎が描いた九段坂
段坂という地名は、この付近がかっては急な坂道で、”九段”の緩やかな段がついていたことに由来するという。葛飾北斎が描いた浮世絵には、その坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、反対側には崖が描かれている。崖の上方が千鳥ヶ淵、下が牛ヶ渕、その中間を左に入る道は田安門に続いている。現在は武道館への入口となっている道である。

京近郊に何十年も住んでいながら、恥ずかしいことに今まで一度も靖国神社に参拝したことがない。親類縁者に戦死し英霊として祀られている者がいなかったのも理由の一つだろう。だが、最も大きな理由は、極東軍事裁判で戦争責任者として断罪された者たちを合祀する神社には、どうしても足が向かなかった。

「みたままつり」の賑わい
「みたままつり」の賑わい
賑わいをみせる「みたままつり」(H17/07/15)
も拘わらず、突然靖国神社を訪れることを決意したのは、境内の一画に「北関大捷碑」がひっそりと建っていると聞いたからだ。韓国でいう壬辰倭乱(秀吉が引き起こした文禄の役)の遺物が東京のど真ん中にあるなどとは、迂闊にも今まで知らなかった。韓国や北朝鮮にとっては国宝的価値を持つ石碑である。

国側は第2次大戦の終戦記念日である8月15日以前にこの碑を返還することを求めている。韓国だけではない。先週行われた韓国と北朝鮮との南北閣僚級会談で、両国は同碑返還に向けた実務措置をとることで合意した。韓国政府からの正式な返還要求を受けて、我が国の政府も今年夏までに韓国に返還する方向で検討に入ったという。 返還されてしまえば、数奇な運命を辿ってきたこの碑にお目にかかることはあるまい。返還前に自分の目で見ておきたかった。

国神社では、7月13日から4日間「みたままつり」が行われる。戦没者の遺族や戦友、崇敬者などが奉納する大小29,000灯を越える献灯と約400個の懸ぼんぼりを掲げる準備が参道の両脇で進められている。15日の夕刻には、靖国講などのさまざまな御輿振りが奉納され、祭りの間は、外苑の参道に露店の夜店が立ち並び、にぎわいを見せるという。


やかな坂道を登り切ると、巨大な第一鳥居が参拝者を迎え入れ、その先に切石を敷き詰めた広い外苑の参道が続く。

第一鳥居(大鳥居)
大村益次郎の銅像
大村益次郎の銅像
第二鳥居と神門
第二鳥居と神門
靖国神社の拝殿
靖国神社の拝殿
道の中程に、靖国神社創建の功労者とされている大村益次郎(1824-1869)の銅像が、天空高く聳えている。大村益次郎は蘭学者、蘭方医、兵学者として知られた人物である。長州藩の医者の家に生まれた益次郎は蘭学を学び、長州で医学に従事した。だが、西洋学・兵学にも精通していたことから、藩の軍制改革につとめ、元治元年(1864)の下関戦争では和義成立に努力したという。

辰戦争では、益次郎は新政府の軍務局判事に任じられ、軍制改革,親兵組織編成に尽力した。また、江戸城攻撃・彰義隊討伐・東北平定の戦いでは指揮官をつとめた。そののち兵部大輔となり、建議して軍制を洋式に改める事を主唱した。そのため攘夷主義者を刺激し、明治2年(1869)9月不満士族に襲われ、同年11月大阪で死去した。

の大村益次郎は、襲撃をうける少し前の明治2年6月、戊辰戦争の戦没者を祀る東京招魂社(現在の靖国神社の前身)の創建に際して、社地選定のため当地を視察したという。そのため、靖国神社創建の功労者とされ、明治15年に銅像の建立が発議された。銅像の製作を依頼されたのは、洋風彫刻の開拓者とされる大熊氏広(おおくまうじひろ)だった。委嘱を受けた大熊は明治18年にヨーロッパに留学して西洋式彫像技術を学んだ。そして、帰朝後の明治26年にこの像を完成させたという。

村益次郎の銅像から先に進むと、車道の向こうに第二鳥居と神門が建っている。巨大な神門をくぐって神域に入ると、その先に小さな鳥居があり、鳥居越しに明治34年に作られ、平成元年に改築された豪壮な拝殿が見える。この拝殿の奥には、やはり平成元年に復元竣工された本殿がある。この本殿に祀られているのは、戊辰戦争を始めとして、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などで戦死した2,466,532体(平成16年10月17日現在)の英霊たちである。


記のように、靖国神社は戊辰戦争で戦死した人たちを祀るために、明治2年(1869)に創建された。当初は東京招魂社と呼ばれたが、明治12年(1879)に靖国神社と改称されて今日に至っている。

近の靖国神社に関する話題は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題である。問題の根源には、東京国際軍事裁判で戦争犯罪人として断罪された東条英機などA級戦犯14名の霊を、昭和53年(1978)10月、福田赳夫内閣の頃に密かに合祀したことにある。当時の宮司松平永芳は、昭和天皇の意向を無視して、合祀を強行してしまったと言われている。

国の首相が公人として参拝するのは、政教分離の原則を決めた憲法に違反する恐れがあることは、すでに「1985年の中曽根康弘首相(当時)の公式参拝」に関する福岡高裁や大坂高裁の判決で示されている。小泉首相は、靖国神社は戦争犠牲者を悼むための場所であり、恒久の平和を祈念するために参拝するのだと公言している。だが、首相の認識は根本的なところで間違っている。靖国神社は「戦争犠牲者の慰霊」ではなく、天皇と国家のために戦没した兵士たちを英霊として鎮魂し礼賛することを目的とした神社である。

い意味では、彼らも戦争犠牲者かもしれないが、軍国主義者に踊らされた天皇の兵隊であったことには変わりはない。彼らに国土を蹂躙され、多くの同胞を殺戮された中国や朝鮮の人々の日本軍国主義への恨みは、今だ消えていない。こうした状況が見えないのか、見えていても故意に無視しているのか、小泉首相の頑なな態度は近隣諸国の外交問題にまで発展している。まことに先の見えない外交下手な政治家を、日本国民は首相に選んだものだ。



境内の片隅に鉄柵に囲まれて囚人のように建っている「北関大捷碑」

北関大捷碑」の存在を知ったのは、最近のテレビニュースからである。気になって、早速この石碑について調べてみた。

壬辰倭乱
文禄の役での日本軍侵略経路
は今から約400年前にさかのぼる。西暦1592年4月14日、時の関白豊臣秀吉の命令により、日本軍は総勢20余万の兵力をもって朝鮮半島に上陸した。後世、我が国で「文禄の役」、韓国では「壬辰倭乱(じんしんわらん)」と呼ぶ戦乱の勃発である。釜山鎮城と東莱城を陥落させた日本軍は、20日余りでソウルを占拠すると、それから二ヶ月あまりで平壌や咸鏡道地域まで至った。この破竹の進軍に、朝鮮の官軍は為すすべがなかった。宣祖王は義州に避難し明国に救援軍を要請した。

年の1593年1月、明国から救援軍が到着し朝鮮軍と協力して平壌城で日本軍を撃退、以後、戦勢は反転し始めた。また、朝鮮各地で義勇軍が立ち上がり日本軍に莫大な打撃を与えただけでなく、海では李舜臣(イ・スンシン)将軍の率いる水軍が連勝を続けていた。だんだん窮地に追い込まれた日本軍は、慶尚道の南海の方に後退し、講和会議を受け入れた。

の文禄の役で、加藤清正の軍は朝鮮半島の東北にある咸鏡北道の吉州まで進軍した。しかし、鄭文孚(チョン・ムンブ)らの現地人が義勇軍を結成し、清正の軍に抵抗した。当時の加藤軍は朝鮮の二王子を捕らえていたため、機動性に欠けていた。清正の軍は吉州城に依って義勇軍と戦ったが、結局清正の本陣は吉州城の救援に行けず、同城は孤立・篭城の状態にあった。

李舜臣の銅像
韓国のどの小学校の校庭にもある李舜臣の銅像
文孚らに率いられた義勇軍は、初めて日本軍の撃退に成功した。清正の軍は、吉州城に立て籠もった将兵をかろうじて救出したものの、加藤・鍋島藩の咸鏡道支配は破綻してしまったとされている。北関とは、咸鏡北道の摩天嶺(吉州の南)以北の、義勇軍が清正軍と戦った地域を指す。

の後、鄭文孚は獄死するが、彼の死後78年目に、北関で加藤清正軍を撃退した彼の功績を称えて、この碑が建立された。しかし、日露戦争後の1907年、北韓進駐軍司令官後備第二師団長の三好成行中将は、吉州の臨溟駅に建てられていたこの石碑を凱旋の土産として持ち帰り、振天府(皇居内に設けられた戦利品陳列所)に献上した。持ち帰った理由として、石碑の文面が日本・朝鮮両国民の感情を害するためとされたが、日本軍の敗北を隠蔽することが目的だったことは明らかだ。碑文の出だしに「有明朝鮮国咸鏡道壬辰義兵大捷」と書かれているという。

在の韓国人に、世界史上の極悪人は誰かと問えば、決まって豊臣秀吉の名を挙げるという。逆に最も愛されている歴史上の人物は、壬辰倭乱で日本の水軍に莫大な打撃を与えた李舜臣将軍である。韓国では、どんな田舎へ行っても小学校の校庭に李舜臣将軍の銅像が建っている。それほど壬辰倭乱は、後の韓国人の歴史観に影響を与えているということだ。鄭文孚が北関で日本軍を撃退した義勇兵であることが喧伝されれば、彼もおそらく国民的英雄として遇されるにちがいない。


鉄柵に囲まれた北関大捷碑
鉄柵に囲まれた北関大捷碑
北関大捷碑の正面
鉄柵の間からのぞき見た北関大捷碑の正面
露戦争の時「戦利品」として日本へ運ばれた碑は、戦前、神社内にあった陸軍の博物館、遊就館(ゆうしゅうかん、後述)に寄贈された。そうした経緯から、碑は遊就館近くの地に置かれていると思っていた。ところが、あちこちに設置された靖国神社境内案内図には、碑の所在が記されていない。拝殿にいた警備員に尋ねて、やっとその場所がわかった。南門の左手にある林の中にあるという。ちょうど拝殿の左側回廊の外側に位置する。

ったん南門の近くまで出て、日本庭園に続く林の中の道を進んでいくと、右手に鉄柵で囲まれた一画が見えてくる。柵の間から中を覗くと、簡単な形ばかりの屋根で覆っただけの2m近い石碑が建っていた。それが「北関大捷碑」だった。周囲には標識や説明板といったものが、なにもない。数奇な運命によって、よりによって靖国神社の境内の、それも人目につかない場所に置かれた石碑は、見ようによっては、かっての大日本帝国の虜囚のようにも見える。400年の星霜を経た歴史的記念碑は、それにふさわしい待遇を受けているとはとても思えない。

面にはびっしりと文字が刻まれているようだが、それを確認しようにも鉄柵に阻まれて残念ながらアクセスできない。あまりにも場違いな所に置かれている碑が哀れで、しばらく鉄柵の間から眺めながら、これからの碑の行く末に思いを馳せた。

そらく、日本政府は韓国政府の返還要求を飲んで、「北関大捷碑」を韓国に返すだろう。だが、石碑はもともと、現在の北朝鮮北部に建てられていたものだ。韓国統一省によると、いったん韓国が同碑を受け取って保守、保存作業を進め、韓国内で展示公開した後、北朝鮮に渡す計画であるという。この石碑の返還が日韓の真の友好関係の始まりになることを祈るばかりである。



我が国の戦争の歴史をビジュアルに解説・展示する遊就館(ゆうしゅうかん)

遊就館の外観
遊就館の外観
遊就館の一階を見下ろす
遊就館の一階を見下ろす
内の一画に、靖国神社付属の遊就館という軍事博物館がある。変わった名称の博物館だが、語源は『荀子』勧学編の中の”君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く”から「遊」と「就」の2字を撰んだそうだ。”高潔な人物に就いて交わり学ぶ”という意味である。

就館の歴史は古い。すでに明治15年に我が国最初の軍事博物館として開館している。日本の歴史上の戦争だけでなく、近代の日本が行った各戦争の歴史をビジュアル的に解説した歴史博物館といってよい。だが、その実体は映像や音響、パネルなどで「靖国史観」ともいうべきものを鼓舞する仕掛けになっている。

別展「日露戦争百年展」が開催されているというので、ついでに立ち寄ってみることにした。折から、泣き出しそうな曇り空から小粒の雨が落ち始めていた。

就館は本館と新館からなる。平成14年(2002)7月に本館の中を改装し、また新館を建立したこともあって、現在は立派な博物館に生まれ変わったという。新館を入ると、いかにも軍事博物館らしく、1階のエントランス・ホールには、「ゼロ戦」の愛称で親しまれた零式艦上戦闘機52型や、沖縄戦で玉砕した独立重砲兵第百大隊が所有していた89式15センチ加農砲、泰緬(たいめん)鉄道を走行していたC56型31号機関車などが展示してある。実物に接したことがない筆者などは、まずその巨大さに度肝を抜かれる思いだ。

階に上がると、展示室に入る前に2つの映像ホールがあり、日本会議・英霊にこたえる会が企画制作した『私たちは忘れない』(50分)と、昭和32年に新東宝が製作した『明治天皇と日露大戦争』(114分)が上映されていた。『私たちは忘れない』には、”日清・日露の大戦から大東亜戦争まで、わが近・現代の戦争史を、貴重な映像と史実に基づき再現した初めての本格的ドキュメント映画、教科書では教えられない真実の歴史が、今よみがえるー”というキャッチコピーが付いていたので、鑑賞することにした。

『私たちは忘れない』
『私たちは忘れない』
かに、このドキュメント映画で訴えているのは歴史教科書では教えていない”真実”である。例えば、日清・日露戦争は欧米列強の脅威から日本の自主独立を守りぬいた戦争であると言われれば、なるほどと思う。

が、中国大陸への日本軍の進出がアジアの安定のためであり、日本が支那事変の拡大を避けようとしたにもかかわらず、裏で米英仏ソが中国を支援し、日本参戦を仕掛けたのは米国の陰謀であり、日本は隠忍自重しながらついに苦渋の開戦を決断したのだと言い切られると、ちょっと待ってと言いたくなる。日韓併合や満州国建設が、我が国の近代国家建設のため、我が国の”自存自衛”のため、と開き直られては、詭弁と取られても仕方があるまい。

して、日本を侵略国と断罪した東京裁判は不当であるとし、刑場の露と消えた「戦犯」の無念さをスクリーン上で訴えられると、なぜか空しい気持ちにさせられる。確かに、第二次世界大戦では、200万以上の将兵たちが、祖国防衛のために玉砕し尊い命を捧げた。国難に殉じた彼ら英霊たちへの感謝と祈りと、そして日本人としての誇りを、私たちは忘れてはならない、と映画は繰り返す。

が、私たちはすでに知ってしまった。大陸の資源に目がくらんだ大日本帝国の政財界の大物たちや、彼らと結託して領土的野心の満たしてきた戦前の軍人たちが、国威発揚を名目に天皇制を利用し、そのために多くの若者たちを戦場に駆り立てたことを・・・。忘れてならないのは、国民を利用して利権をむさぼったこうした輩が我が国には大勢いたという事実だろう。彼らを断罪せずに愛国心を鼓舞しても、おそらく現代の若者の心には何も響かないのではなかろうか。


97式中戦車
陸軍の主力戦車だった97式中戦車
海軍の秘匿兵器だった93式酸素魚雷
海軍の秘匿兵器93式酸素魚雷
示室は20のコンパートメントに分けられ、そのうち15室が古代から大東亜戦争までの戦争の歴史を映像や、音響、パネルを使って懇切に説明している。面白いことに、遊就館では第二次世界大戦という言葉は使わず、大東亜戦争と呼んでいる。第二次世界大戦よりも大東亜戦争と言ったほうが、遺族たちには馴染みやすいのだろう。英語のパンフレットでも"The Greater East Asian War"となっている。

りの5室は英霊たちの遺書や写真、遺品などを展示してあり、ここで初めて戦死した人々の生の感情をかいま見ることができる。家族を思い、父母を思い、郷里に思いを馳せながら、それでも戦地に赴かねばならない己の運命に対して、やりきれない思いが手紙や遺書の裏面ににじみ出ているようだ。

後の大展示室には、液冷エンジンを搭載した彗星艦上爆撃機11型や、日本陸軍の主力戦車だった97式中戦車、日本海軍の秘匿兵器93式酸素魚雷など、数々の戦争兵器が陳列されていて、見る者を圧倒する。そんな中にあって、筆者の目を特に引きつけたのは、ガラスの展示棚の中に雑然と置かれた兵士たちの遺品である。銃弾で穴のあいた鉄カブト、半分朽ちかけた飯ごう、錆びた戦票などの数々・・・。実際に戦地から収集された遺品だけに、いずれにも戦死者の無念さが染みついているようだった。



追記:靖国神社の北関大捷碑、10月12日に韓国返還

旧日本軍が持ち帰ったとされる「北関大捷碑」が、ようやく2005年10月12日に、韓国側に返還されることになった。外務省職員の立ち会いのもと、現在、碑を保管している靖国神社が韓国大使館関係者と返還の合意文書を交わし、その後、輸送作業に入る。


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