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| 北東方向から見瀬丸山古墳を望む |
奈良県で最大、全国的にも第6位にランクされる巨大古墳
そして、次の「見瀬」交差点を過ぎたあたりで左手前方を見ると、芝生に覆われた丘陵が連なっている。それが、「見瀬丸山古墳」の前方部である。視線を上げると、丘陵の高みに樹木で覆われた後円部の頂きが見える。
丸山古墳の規模がいかに巨大であるかを、以下の表によって示そう。全長310mの規模は、奈良県で最大を誇り、全国的にも第6位にランクされる。国道169号線はその前方部の先端を斜めに切り裂くように築かれているが、古代の下ツ道はこの古墳とぶつかるあたりが始端だったとされている。 墳丘の規模だけではない。後円部に築かれた横穴式石室の規模も巨大である。石室の全長が28.4mもあり、玄室の規模も半端ではない。参考までに石舞台古墳の場合との比較を下記に記す。玄室の高さを別にすれば、なんと、蘇我馬子の墓に比定されている石舞台の石室よりも、その規模は大きい。さらに、地形図から推測できるように、墳丘の周りには広大の周濠を巡らしていた。周濠を含めた長さは415mにも達するという。築造当時は、その偉大な規模にさすがの古代人たちも驚いたであろう。
現代の我々には、別の意味で驚くべきことがある。この奈良県最大の規模を誇る古墳の被葬者が、未だに特定されていない。第28代宣化天皇、第29代欽明天皇、あるいは宣化天皇から欽明天皇の時代に大臣(おおおみ)の位にあった蘇我稲目(そがのいなめ)などの候補があがっているが、確定的ではない。彼らは6世紀中に亡くなった歴史上の人物であるが、丸山古墳の築造時期はもっと時代が下がり7世紀の前半とする説もある。ある考古学者に言わせれば、墓誌でも出土しないかぎり、被葬者は特定できないとのことだ。だが、墓誌が出れば、素人でも被葬者を特定できる。
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見瀬丸山古墳の被葬者は欽明天皇?考古学者の森浩一氏は、昭和40年(1965)に『古墳の発掘』を中公新書として出版された。一般読者を対象とした古墳の入門書としては最適の名著である。だが、森氏がこの本を出版された理由は、天皇陵発掘調査の必要性を訴えることにあったと思われる。 その著書の中で、森氏は当時の考古学の知見に基づいて、丸山古墳の築造時期を6世紀の後半と特定し、被葬者を欽明天皇と推定された。その根拠は以下の通りである。
●古墳時代後期に限定すれば、丸山古墳の横穴式石室および墳丘の規模は我が国最大であり、当時の最高の権力者の王陵としてふさわしい。
見瀬丸山古墳から南へ700mの明日香村大字平田に、考古学上は梅山古墳と呼ばれている主軸長138mの前方後円墳がある。宮内庁は『書紀』の記載に基づいて、この梅山古墳を欽明天皇陵に治定している。 では、その根拠となる事柄について、『書紀』は何を記載しているのか。 『書紀』の欽明紀では、欽明天皇を埋葬した御陵を、檜隈坂合陵(ひのくまのさかいのみささぎ)あるいは檜隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)と表記している。その上で、欽明天皇は治世32年目の西暦571年4月に磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)で崩御された。翌月には河内国の古市に殯(もがり)の宮が営まれ、その年の9月、檜隈坂合陵の完成を待って埋葬されたとしている。 推古紀には他の記述がある。西暦612年、すなわち推古20年2月に「皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の街に誅(しのびことたてまつ)る」とある。堅塩媛とは推古天皇の生母であり、欽明天皇の后だった女性である。理由は分からないが、この月に檜隈大陵に改葬して、軽(かる)の巷で誅を奏上したというのである。軽の巷は、現在の丸山古墳の北に接する地域に位置している。さらに、8年後の620年10月には、「砂礫をもって檜隈陵の上に葺く。すなわち域外に土を積みて山を成す。氏毎に科して大柱を土の山の上に建てしむ」と記述している。
●欽明天皇を埋葬したとされる檜隈坂合陵は”檜隈”と呼ばれる地域に築かれた ●陵墓が築造された時期は、西暦571年である ●612年に后の堅塩媛をこの陵墓に改葬したのであるから、石室には2つの棺が納められている ●620年に砂礫をもって葺いたのであれば、墳丘に小さな石が敷かれていた ●域外に土を積んで山としたというのは、周壁を築いたという意味だろう 現在、梅山古墳の墳丘の周りに周濠が築かれているが、これは文久年間に修復されたときのものである。しかし、近辺の発掘調査で古い周濠跡が確認されている。また。古墳の正面は小高い丘になっているが、通常は古墳の前は見晴らしが良いことが条件である。したがって、この丘は大柱を建てるために築いた人工の山の可能性ある。残念ながら石室内部に2つの石棺が安置されているかどうかは、学術調査ができず不明のままである。 『書紀』に記載された内容に信を置くならば、素人判断では梅山古墳=欽明天皇陵説はほぼ確定のように思われる。だが、その治定を百も承知の上で、森浩一氏は上記のような 丸山古墳=欽明天皇陵説を、今から40年も前に発表された。非常に魅力的な説であるが、弱点もある。
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見瀬丸山古墳の被葬者は宣化天皇?和田萃(あつむ)氏は、文献史学者の立場から昭和48年(1973)年に「見瀬丸山古墳の被葬者」という論文を発表され、その中で丸山古墳を宣化天皇陵と推定された。もっとも丸山古墳=宣化天皇陵説は和田氏の独創ではなく、本人も認めておられるように秋山日出雄氏の説を踏襲されたものだ。 秋山氏は、丸山古墳は少なくとも延久(1069〜)の頃までは歴代天皇陵の1つの見なされていたことに着目された。延久2年(1070)の興福寺大和国雑役免坪付帳で、付近の地が山陵田と呼ばれていたことによる。さらに、牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)は丸山古墳に隣接した場所に鎮座している。したがって、丸山古墳が天皇陵であるなら、宣化天皇を埋葬した身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかうえのみささぎ)である可能性が高いとされた。
現在の橿原市鳥屋町に見三才という小字があり、考古学でミサンザイ古墳と呼ばれている前方後円墳が所在する。宮内庁は、元禄の御陵改修のときこの古墳が宣化天皇陵に治定されたのを受けて、そのまま宣化天皇陵として管理している。 和田氏は論文の中で、まずこの治定に疑問を投げかけておられる。 すなわち
●ミサンザイ古墳は前方部の幅が狭く造り出しが見えない 文献史学者として、和田氏は『書紀』に記載された身狭桃花鳥坂上(みさのつきさかうえ)という山陵の名称に固執される。身狭(みさ)は、ムサ(牟佐)から転訛した地名で、半島出身の東漢氏(やまとのあやうじ)の一族の牟佐村主(むさのすぐり)や牟佐呉公(むさのくれぎみ)などが本貫とした地域のことである。雄略紀には、天皇が身狭村主青(むさのすぐりあお)という人物を寵愛したと云う記事があり、欽明紀には高市郡に身狭屯倉(むさのもやけ)を置いたともある。
だが、身狭丸山古墳=宣化古墳とするには、いろんな矛盾がある。宣化天皇は継体天皇の第2子で、安閑天皇の同母弟である。『書紀』の記述を信用するなら、兄の後を継いで登極したときはすでに69歳の高齢であった。したがって、その治世4年間には、ほとんど見るべきものがない。まことに影の薄い帝王で、どう見ても県下第一の巨大古墳を築いて埋葬されるほどの天皇だったとは思えない。 すでに森浩一氏も指摘されているように、考古学的に丸山古墳の築造時期は6世紀後半に想定されている。宣化天皇の崩御年は西暦539年であり、年代が合わない。仮に、宣化天皇陵だったと仮定した場合、石室に埋葬されている棺は3つでなければならないが、すでに判明しているように、実際には2つ石棺が置かれているだけである。 後述のように、1992年に丸山古墳の石室の現況が調査され、石室の構造や家型石棺の形態に関して、貴重な調査結果が宮内庁書陵部から公にされた。その結果、古墳の年代や石棺の製造時期などに新たな問題が提起された。だが、少なくとも宣化天皇の崩御年とは明らかに時間的な隔たりがあることが明らかになり、和田萃氏は、自説の丸山古墳=宣化天皇陵論を撤回された。 |
見瀬丸山古墳に埋葬されていたのは蘇我稲目
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| 丸山古墳の墳頂に眠るのは蘇我稲目? |
では、蘇我本宗家の稲目とはどのような人物だったのだろうか。『書紀』では、稲目が歴史の舞台に登場するのは西暦536年2月。この年、宣化天皇の登極に際して、彼は大臣(おおおみ)に任じられた。539年に宣化天皇が崩御し欽明天皇が即位すると、彼は引き続き大臣に任じられた。そして、大臣の位にあること35年、西暦570年(欽明31年)の3月に死亡した。つまり、欽明天皇の崩御1年前に亡くなったことになる。ただし、何処に埋葬したかは記録されていない。
蘇我稲目は、35年の長きに渡って大臣という最高位にあっった。その間、2人の娘を欽明天皇の后(きさき)として嫁がせ、天皇家との結びつきを強め蘇我本宗家の礎を築いた。彼の事績を見ると、屯倉の設置など大和朝廷の強化に努力し、また仏教の受け入れに奔走し、まさに当代きっての大物政治家だったと言えよう。『書紀』にその埋葬地の記載がないのが、むしろ不思議なくらいだ。 丸山古墳の築造時期を6世紀後半におくのであれば、稲目を被葬者とする可能性は十分にある。
この丸山古墳を蘇我稲目の墓とする説は、その後も、安本美典、武田政敬、小沢毅ら各氏からも出されている。
安本美典氏は平成4年、『季刊邪馬台国』に「継体天皇の再検討」を掲載し、それまでの丸山古墳被葬者論を概括された。そして、欽明天皇陵説を以下の理由で退けられた。
●『日本書紀』は檜隈(ひのくま)と身狭(むさ)の地域を明確に書き分けている。欽明天皇陵を安易に丸山古墳とする訳にはいかない。欽明天皇を埋葬した御陵は檜隈坂合陵であり、身狭の地域に造営されたのではない。
●620年に檜隈坂合陵の墳丘に砂礫を葺いたと『書紀』に記録されている。欽明天皇陵に治定されている梅山古墳は砂礫が3尺の高さに葺かれていて、石山と呼ばれた時代もあった。だが、丸山古墳からは墳丘に葺かれた砂礫は見つかっていない。
●檜隈坂合陵はその名の通り、丘陵の坂道が重なり合うような場所、すなわち丘陵の中腹に造営された。だが、丸山古墳は丘陵の途中ではなく、丘陵の上に築かれていて”坂上”と呼ばれるにふさわしい。
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| 橿原教育委員会が建てた史跡表示 |
武田政敬氏は、平成13年に「五條野古墳群の形式とその被葬者についての憶測」という論文を発表された。その中で、五條野古墳群がある丘陵は蘇我氏の奥津城としての墓域であり、古墳群の嚆矢となる丸山古墳はその基礎を築いた人物の墓とを想定するのはあながち荒唐無稽ではないとされた。
見瀬丸山古墳=蘇我稲目の墓とする説は、十分魅力的な説である。それどころか、昭和40年代に想定された欽明天皇陵や宣化天皇陵が合致しないとなると、残ったのは蘇我稲目の墓ということになる。だが、問題がない訳ではない。
築造当時我が国最大の古墳とされ、しかも近畿地方では最後の前方後円墳とされる丸山古墳に関して、『書紀』をはじめとする史書は築造時期も築造場所もいっさい記録していない。7世紀後半ともなれば、『書紀』の記録はかなり詳細である。各天皇陵の所在や名称を几帳面に記録し、潅漑用に掘削した池の名称までこまめに記録している。蘇我氏に関しても、推古天皇34年(626)の夏5月に蘇我馬子が亡くなり、桃原墓(現在の石舞台古墳に比定)に埋葬したこと、皇極2年(642)には蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)が今来(いまき)の地に自分たちの寿陵の双墓(ならびのはか)も築造したことも伝えている。
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| 公表された石室内の石棺の位置 |
通説では、この奥棺は梅山古墳に改葬される前の堅塩姫(きたしひめ)の遺骸を収めた棺とされている。堅塩姫は稲目の娘で、妹の小姉君(おあねのきみ)と共に欽明天皇の後宮に入り、7男6女を生んでいる。堅塩姫が何時亡くなり、何処に葬られていたかを示す史料は残されていない。だが、奈良文化財研究所の小澤毅氏は次のように推測される。
推古紀の記述を信用するならば、西暦612年、すなわち推古20年2月に皇太夫人・堅塩媛は欽明天皇の檜隈大陵に改葬された。改葬とあるからには、それ以前に死亡し、何処かに葬られていたはずである。小澤氏は、その埋葬地が、丸山古墳であった可能性はきわめて高いとされる。そして、石棺の配置の逆転現象も彼女を父の墓に合葬したとき生じたとされる。天皇の妃となった堅塩姫の棺は、稲目の棺より奥に設置されて当然であるというのが、逆転現象の理由である。
新説:見瀬丸山古墳の築造は7世紀前半だった!?平成3年(1991)12月26日、丸山古墳が一躍世間の注目の的となる”事件”が生じた。古墳の後円部は、宮内庁が畝傍陵墓参考地として管理しており、一般にはその内部への立ち入りが堅く禁じられている。それにも関わらず、カラー写真で撮影された石室内の様子がテレビで放映された。ある会社員がその年の5月密かに石室の内部に入り込んで撮影したものである。
翌年、宮内庁は開口した箇所の閉塞作業を行う際に石室内外の測量調査を行ない、その詳細を公表した。それによると、石室はわが国最大の28.4mの長さを持ち、玄室は長さ8.3m、奥壁幅4.1m、玄門部高さ4m、羨道部は長さ20.1mである。また、石室は巨石を使った両袖式の羽子板形に作られており、玄室内には2基の凝灰岩を刳り抜いた家形石棺が安置されていた。 宮内庁が公表した測量データは、丸山古墳の被葬者を推定するのに、新しい波紋を投げかけた。その一つが築造時期に関する新しい見解である。 橿原考古学研究所の関川尚功氏は、『橿考研60周年記念論文集第13』(平成10年11月刊)で「見瀬丸山古墳と欽明陵古墳」という論文を発表し、丸山古墳の築造時期は通説より大幅に繰り下がり、7世紀前半であるとされた。その根拠は畿内式横穴石室の構造と石棺の材質である。 40年前に森浩一氏が『古墳の発掘』を出版された頃に比べて、最近では多くの古墳が発掘され、畿内型横穴式石室の編年も新しい発掘事例を基にどんどん改版されている。関川氏によれば、横穴式石室から見た丸山古墳は、赤塚天王山古墳や越塚古墳より新しいが、谷首古墳や石舞台古墳よりは古い編年式の位置にあるという。
越塚古墳は、赤坂天王山古墳の東約1キロの桜井市粟原にある直径40m、高さ5mの2段に築かれた6世紀末頃の円墳である。 谷首古墳は桜井市安倍字谷首に所在する一辺35×38mの方墳で、6世紀末から7世紀初頭の築造とされている。 明日香村にある石舞台古墳は、よく知られているように蘇我馬子を埋葬した「桃源墓(ももはらのはか)」に比定されている。蘇我馬子の死亡時期については、異説がある。『日本書紀』は推古34年(626)の条で、夏5月20日大臣(おおおみ)蘇我馬子が死亡し、桃原墓に葬ったとある。だが『法王帝説』は翌年の推古35年6月に薨ると伝えている。 したがって、考古学的知見が正しければ、丸山古墳は7世紀の前半、おそらく第一四半期ごろの築造となり、6世紀代に亡くなった上記の3人の被葬者候補はいずれも該当しなくなる。 さらに、関川氏は石室に置かれた二つの刳抜式家型石棺に、播磨系の流紋岩質溶結凝灰岩が使用されている点にも注目された。同氏によれば、大和で播磨系の石材を使った石棺は、6世紀中葉から後半ごろの築造とされる新宮山古墳のものが最も古い。その次に古いのが牧野古墳(ばくやこふん)、あるいは組合せ式の鳥土塚古墳や越塚古墳があり、特に6世紀末から7世紀初めにかけて、播磨系石棺が浸透してくる。確かに、大和では播磨系の石棺は数多く出土しているが、6世紀後半まで遡る石棺はほとんどないとのことだ。 6世紀を通して大和で圧倒的な地位を占めた二上山系の石材を使った刳抜式石棺は7世紀にはいると減少して、7世紀の中頃に播磨系の切り抜き式石棺にとって代わられるようになる。したがって、播磨系石棺が飛鳥や磐余の大型古墳に本格的に採用されるのは7世紀前半からということになる。丸山古墳には2つの石棺が置かれていて、手前に置かれた石棺は奥に置かれた石棺より古いとされている。しかし、この前棺が6世紀代のものとは考えにくいとのことだ。 |
関川説批判
関川氏の説が正しいとすると、さまざまな疑問が生じてくる。7世紀代は古墳時代の区分で言えば終末期であり、すでに大和では前方後円墳がほとんど築かれなくなっているのに、なぜこの時期に、当時としては我が国最大の前方後円墳が築かれたか。この点に関しては、600年に遣隋使を送り出した後、大陸から迎える使者に政権の威力を見せるために、あえて伝統的な前方後円墳を築造したとの意見もあるようだ。 だが、筆者はそうした考えには与しない。遣隋使に対して隋が裴世清を団長とする使節を送り込んできたという事実は、『書紀』編纂以後に流布した知識であり、7世紀の初頭に隋使節の来朝が予見できたとは思えない。また、大和朝廷の威力を示すのであれば、難波津から仁徳天皇陵などが望見できたし、大和川を遡ってくれば古市あたりでは応神天皇陵が望見できた。なにも飛鳥の入り口に多大な労力を使って誰を埋葬するかもしれない墓を作る必要はない。
この時代の『書紀』の記述と考古学的知見とに矛盾がある場合、どちらを信用するかというと、筆者は『書紀』の内容を支持したい。文献史学の立場からすれば、『書紀』の推古紀の記述はかなり信憑性が高いとされている。そうであるならば、考古学の知見と文献史学の知見は相互に補完しあうものでなければならない。考古学的に7世紀前半の築造が正しいならば、関川氏は被葬者を想定する義務がある。文字史料が増えてくるこの時代ともなれば、考古学はもはや”遺跡・古墳などの固有名詞は言うものではない”と象牙の塔に留まっているべきではない。もし史書に該当する人物が見あたらないなら、考古学的知見を疑ってみる必要が出てくる。場合によっては、考古学が営々と築いてきた古墳の編年が本当に正しいのか今一度見直してみる謙虚さも要求されるであろう。 ここに一見合理的に見える解釈がある。丸山古墳は元は前方後円墳として造られたが、未完成に終わり、後に後円部のみが円墳として利用されたとする前橿考研副所長河上邦彦氏の見解である。だが、そのことをどのように証明できるのだろうか。 |