橿原日記 平成17年6月19日

橿考研友史会の「都祁の遺跡」巡りに参加する



良県の奈良市や天理市の東には標高200m〜500mの大和高原が広がっている。南北約25km、東西約18kmの大和高原の中心に都介野(つげの)盆地がある。この盆地の気候は典型的な内陸性で、大和盆地よりも気温は2度〜4度ほど低いが、降水量は1600mmとかなり多い。
探訪地付近略図
探訪地付近略図
都祁村
都祁南西部を東上空から望む

うした気候が広葉落葉樹や照葉樹の豊かな森を都介野盆地の中に育てた。そのため、この盆地は太古の昔から古代人が居住するには適した土地だったと思われ、縄文、弥生、古代の各時代に渡って彼らが残した遺跡が見つかっている。特に、今年の4月1日をもって奈良市と合併した旧山辺郡都祁(つげ)村は、縄文時代の遺跡が集中していて、縄文時代の初期にあたる草創期や早期の重要な遺跡が多い。

畿に住んでいなければ、都祁(つげ)とか都介野(つげの)といった地名は聞き慣れない名である。そこで、「ツゲ」の語源について調べてみた。古代には「ツゲ」は「闘鶏」「竹渓」「都家」「竹谿」「都介」など、さまざまな文字で表されたが、どうやらもとの古音は「トゲ」または「タゲ」だったようだ。トゲやタゲはトゲトゲしい、あるいはタギタギしいというように地形の高低などを示す古語である。言われてみれば、この高原盆地に到達するには、かなり起伏の激しい山道を登ってこなければならない。

橿原考古学研究所(橿考研)には、古くから考古学の愛好者で作る「友史会」という友の会組織がある。今月の例会は、橿考研の副所長兼付属博物館長・松田真一氏の案内で「都祁の遺跡」巡りをするとのことだ。指定された集合場所と日時は、近鉄榛原(はいばら)駅に本日の9時50分集合。臨時バスで都祁白石町まで行き、そこから以下の順序で遺跡巡りを行なうという。関西地方も梅雨入りしたとはいえ、本日は雨の心配もなかったので、ウオーキングを兼ねたこの史跡探訪に参加した。


【コース】南白石 → 川向遺跡 → 小治田安万侶の墓 → 都祁水分神社 → 来迎寺 → ゼニヤクボ遺跡 → 高塚遺跡 → 葛神社 → 三陵墓西古墳 → 三陵墓東古墳 → 南白石



川向遺跡(かわむかいいせき) 南之庄に所在した古墳時代中期の住居跡

参加者
黙々と田舎道を行く参加者

花
回の遺跡巡りは、けっこう参加者の人数が多かったようだ。近鉄榛原駅前に集合すると、3台の臨時バスに分乗して都介野に向かった。出発してまもなく、パスは国道369号線の急な坂道にさしかかる。登坂車線をあえぎながら上り詰めると、バスはようやく盆地に入った。下りの道がしばらく続いた後、平坦な水田地帯に村落が点在する高原に出る。

初の訪問地は、古墳時代中期の川向遺跡(かわむかいいせき)である。遺跡は都祁南之庄町に所在する。国道369号線の「白石」交差点から西に折れて、県道781号線(都祁名張線)を進んだ。水田の淵に沿った県道を少しあるいた所で、先頭を行く松田氏が南之庄集落のはずれで立ち止まった。松田氏は水田の中の橋が架かっているあたりから右手を指さして、あの付近一帯が古墳時代の集落遺跡として知られている川向遺跡だと説明された。

向遺跡が発掘調査されたのは1959年で、もうずいぶん昔のことである。古墳時代の集落跡とされているが、実際には住居跡は何も発見されなかったようだ。ただ、木製の鋤(すき)や鍬(鍬)といった農具とともに、調査では梯子(はしご)が見つかった。長さ1.5mほどの木材に4カ所ほど足場を設けた梯子は、高床式の貯蔵倉庫あるいは集会所の出入りに用いられたと判断され、古墳時代にこの地に住居があったと推定された。

在は、すっかり水田に復元されてしまって、都介野盆地の真ん中に位置するこの付近は、縄文、弥生時代に引き続いて、古墳時代もその中心であったと推察されている。水田のはるか向こうに復元された古墳が見えた。最後に訪れることになっている三陵墓西古墳と三陵墓東古墳である。都祁地方を支配した首長たちの奥津城であろう。その先に品の良い山が聳えていた。海抜631.2mの都介野岳であろう。しかし、このあたりはすでに400m近い高地にあるためか、それほど高い山にも見えなかった。
付近の風景 川向遺跡の位置
川向遺跡があった付近の風景 川向遺跡の位置


小治田安万侶(おはりだのやすまろ)の墓 1912年に偶然発見された奈良時代の官吏の墓

小治田安万侶墓
小治田安万侶の墓所

花
亀6年(729)2月10日、奈良の都・平城京は騒然たる雰囲気に包まれた。藤原不比等の息子・藤原宇合(うまかい)らに率いられた兵士が、突如、左大臣・長屋王の家を囲んだ。「ひそかに左道(異端の術)をもって国を傾けようとした」というのが、長屋王の罪状だった。その2日後、長屋王は自殺し、その後を追って吉備皇女とその息子たちも自殺した。長屋王の変はこうして起こり、そして収束した。だが、この事件は藤原氏による政治的殺戮だった。目の上のタンコブだった長屋王と、皇位の近くにいる吉備皇女とその息子たちを消すことで、権力を完全に藤原氏の手中に収めようという陰謀だった。

標識
世、「長屋王の変」と呼ばれる政変が勃発した日の前日、都の東に位置するここ都祁村では、一人の官吏の葬儀がしめやかに行われた。平城京の右京三条二坊に住んでいた従四位下の小治田朝臣安万侶(おはりだのあそんやすまろ)を埋葬する葬儀だった。彼を埋葬した墓が約1200年後の1921年に偶然発見された。場所は都祁甲岡町の丘陵の麓である。

万侶を葬った墓は1辺が3.6mの方形の墓壙を小規模な封土で覆ったものにすぎなかった。1951年に発掘調査を行なったところ、墓壙の底には玉石が敷かれ、遺骨を納めた高野槇の櫃(ひつ)が北西の隅に置かれていた。その木の櫃とともに、塗金された銅板の墓誌3枚が見つかった。

板は、縦29,7cm、幅6.3cm圧座0.4cmの短冊形で、そこに以下の3行44文字が刻まれていた。
「右京三条二坊従四位下小治田朝臣安萬侶大倭国山辺郡都家郷郡里崗安墓 神亀六年歳次己巳二月九日」
他の2枚の副板は、左琴と右書と刻まれていた。

墓の封土
小治田安万侶の墓の封土
治田安万侶はどのような官吏で何歳で没したか、一切不明である。だが、『続日本紀』には彼の叙位が記載されている。それによれば、慶雲4年(707)に従六位下から従五位下に進み、和銅4年(711)には従五位上、霊亀元年(715)には正五位下、養老3年(719)には正五位上にそれぞれ昇叙されている。死亡したときは従四位下だった。

治田という氏は、「田中臣」・「山田臣」・「桜井臣」などと同じく蘇我氏の同族とされている氏族である。飛鳥には推古天皇が宮居を置いた小墾田という地名もあった。あるいは、小墾田あたりを治めていた氏族の出身者だろうか。

治田安万侶の墓は甲岡集落から少し登った丘陵の途中にある。丘陵を登っていくと、場違いと思うほど立派な石碑と石の案内板が列んで置かれている。実際の墳丘は、そこからさらに少し登った平坦な場所にある建てられた2本の石柱の背後に位置している。そこには小さな封土が築かれていた。この封土の周囲からは銀の和同開珎10枚、その他に長胴甕の土師器、三彩の小壺、鉄板なども出土したとのことだ。



来迎寺(らいごうじ) 行基が開祖と伝えられる古寺

来迎寺の参道
来迎寺の薄暗い参道

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祁村の大字・来迎寺の南方に、浄土宗来迎寺がある。寺伝では、奈良時代の行基が開祖とされている。実際は、清和天皇の流れを汲む多田満仲の一族・顕鏡が永久元年(1113)に寺地を定め、その後相河庄の蓮阿が本堂を建立して、阿弥陀如来像を安置したと伝えられている。

来迎寺の本堂
来迎寺の本堂
などの巨木が鬱蒼と茂る参道を進み、青く苔むした石段を登り切ると、荒れ果てた境内に本堂だけがポツンと建っている。正面の柱に「頭上注意」の張り紙がしてある。見上げると、屋根や天井裏の板がめくれていて、風でも吹けば落ちてきそうだ。廃屋同然の古寺である。

宇は荒れ果てているが、古寺に似つかわしくないものが境内にあった。本堂の横に建てられた十三層の石塔と、本堂の背後の五輪塔の林の中に置かれた、ひときわ大きい花崗岩製の宝塔である。高さ2.22mの塔身は木造建築のような細やかな表現が用いられている。この宝塔は国の重要文化財の指定を受けているとのことだ。
十三石塔 花崗岩製の宝塔
十三重石塔 花崗岩製の宝塔(国の重文)



都祁水分神社(つげみくまりじんじゃ) 都祁友田町に所在する式内社

都祁水分神社遠望
都祁水分神社遠望

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陵をはさんで、小治田安万侶の墓のちょうど反対側にあたる都祁友田町に、都祁水分(つげみくまり)神社が鎮座している。小治田安万侶の墓からは400mほどの所である。

分(みくまり)とは、水配り(みずくばり)、すなわち山から流れ出る水が別れる所の意味で、水分神社は水の分配を司どる神を祀っている。古来、大和の国には、都祁・宇陀・吉野・葛城の4カ所に水分神社が祀られていた。都祁水分神社はその一つで、大和川と木津川の分配を司る神として速秋津彦命、天之水分神、国之水分神を古くから祀ってきた。

良時代の天平2年(730)に作られた大倭国正税帳に「都祁神戸」と記され、延喜式にもこの社の名が記載されている。当初は友田の南方にある大字・小山戸に祀られていた。 現在の場所に移されたのは、天禄2年(971)とのことだ。

拝殿
都祁水分神社の拝殿
本殿
都祁水分神社の本殿
祁水分神社の社域は、もともと鬱蒼とした杜だったそうだ。ところが、平成10年秋の台風の直撃を受けて、社域の木々も多くが倒壊して今は明るい杜になっている。一段高くなった鳥居をくぐると、玉砂利を敷き詰めた参道が杜の奥にある境内へと続いている。境内に由緒深そうな能舞台があり、その先に拝殿が建っている。

社の本殿は、室町時代中期の明応8年(1499)の造営。一間社春日造り、檜皮葺の社殿は国の重要文化財の指定を受けている。本殿の前には、鎌倉末期から室町時代の初め頃の作と推定されている一対の狛犬が置かれている。早期狛犬の秀作として、狛犬研究家の間ではよく知られた石造とのことだ。その他に、この社には国指定重要文化財の棟札、県指定文化財の御輿、板絵、絵巻などが納められている。

代の都祁は朝廷から重要視され、友田宮、水分宮とも呼ばれてきた。『三代実録』によれば、貞観元年(859)には従五位下から正五位下に進階し、同年に風雨祈願のため奉幣されている。現在でも雨乞いの時には火種をこの神社から貰ってドンドを盛大に燃え上がらせると聞いている。


堀越頓宮の碑
聖武天皇堀越頓宮の碑
祁水分神社の鳥居の横に、石碑が建っている。近寄ってみると「聖武天皇堀越頓宮の碑」と掘られている。 天平12年(740)9月、九州全体を統括する太宰府の次官だった藤原広嗣(ひろつぐ)が反乱を起こした。広嗣反乱の急報を受け取った聖武天皇は大いに驚いたに違いない。反乱がまだ続いている天平12年(740)10月下旬に、平城京を抜け出して、伊勢へ行幸した。

の折に、一行が当地で一泊した仮の宮が、堀越頓宮(ほりこしとんぐう)である。だが、その場所ははっきりしない。水分神社の北西約500mの山に、伊勢や伊賀の頓宮跡とよく似た地形のところがあり、「堀越し」と呼ばれている。あるいは、その場所に頓宮が営まれたかもしれない

武天皇は、400人の供を連れて平城京を飛び出した。当時の都祁は、大和と東国、伊賀、伊勢を結ぶ「都祁山の道」がすでに開かれて要地として栄えていた。伊勢方面への旅では都祁山の道が当然利用されたであろう。だが、突然の旅立ちだっただけに、地元に多大な犠牲を強いたことは容易に想像できる。



ゼニヤクボ遺跡 都介野盆地の弥生時代の拠点的集落跡

並松小学校
ゼニヤクボ遺跡の上に建つ並松小学校
祁盆地の弥生時代遺跡としては、ゼニヤクボ遺跡、丸尾遺跡、友田東山遺跡、ハギノヲ遺跡が知られている。そのうち、藺生(いう)町並松にあるゼニヤクボ遺跡は、昭和55年(1980)と60年(1985)に、村立並松小学校の増改築に伴って橿原考古学研究所が発掘調査を行い、その後は村教委によって確認調査が行われた。

掘調査では、25基の竪穴住居跡や掘立柱建物跡、さらに数基の方形周溝墓なども発見された。その結果、この遺跡は弥生時代前期から古墳時代前期まで継続的に営まれた集落跡であることが判明した。この地域で最大の集落跡であり、拠点的な集落であったと推測されている。遺跡の範囲は南北350m、東西150mと推定され、居住域の南東部に墓域が広がるものと考えられている。

ああああ
ゼニヤクボ遺跡の竪穴住居跡群
こで発掘された竪穴住居の形態を観測すると、円形から方形へ形が遷移し、また床面積も拡大する変化が読み取れたと、松田氏は説明する。つまり、「ムラ」として古墳時代前期まで続いていた証拠であるという。さらに、東海地方から搬入された土器類も弥生時代終末期から古墳時代にかけての住居跡から出土したとのことである。これらの土器は、すでにその時代に東海地方との交流が行われていたことを物語っている。古墳時代中期になると、拠点は前述の川向遺跡に移っていく。

掘された遺跡は保存されていない。調査された地域は埋め戻され、その跡地に並松小学校の校舎や運動場が作られた。松田氏の説明は、小学校の校庭で行われた。今やこの遺跡は記録の上で残っているだけにすぎない。しかし周囲を取り巻く山々や空行く雲は、弥生人が生きた時代とそれほど変わっているわけではあるまい。現在の小学校の校舎や付近の民家が2000年後にも存在するという保証はまったくない。2000年後の考古学者はこの地で平成の住居跡を発掘するかもしれない。竪穴住居と現在の建物様式の違いを、どのような遷移として捕らえるだろうか。



高塚遺跡 都介野盆地の西端に位置していた縄文遺跡

交差点
高塚遺跡があった付近の交差点
松小学校付近の標高は350mを越える。したがって奈良盆地の低地に比べると、気温は3度から4度低いはずである。そのせいか水田を渡ってくる風に爽やかさが感じられる。しかし、風が止んでいるときは、じっとりと汗ばむ不快感は、あまり土地の高低に関係ないようだ。水田を見ると、すでに早苗が株別れしてずいぶん太くなっている。このあたりの田植えの時期は、明日香村あたりより1月は早いにちがいない。

田地帯を横目に見ながら、次に向かった探訪先は高塚遺跡である。大和高原は縄文時代の遺跡が集中することで知られている。そのなかで、都介野盆地の西の端に位置するこの高塚遺跡は特に注目に値する。この遺跡からは、日本列島で最も古い土器である隆起線文土器(縄文時代草創期)や押型文土器(縄文時代早期)をはじめ、多くの土器、石器が発見されており、また縄中期、後期、晩期の各時期の土器が出土した。そのため、近畿地方の縄文文化の中心地の一つだったと推測されている。つまり、縄文時代を通じて、この地域はもっとも生活しやすい土地柄だったということだ。

文時代、この地域にはコナラやミズナラ、クヌギ、アカガシなどの広葉落葉樹や照葉樹が繁茂していた。これらの森林地帯には、ノウサギ、リス、タヌキ、イタチ、イノシシなどの哺乳類や数多くの鳥類が生息していた。また河川には、ウナギ、ナマズ、アカザ、フナ、コイなどの魚類も豊富に生息していた。つまり、縄文人たちが採集・狩猟・漁労生活を営むための基本条件は、すべて整っていたことになる。

田氏は、道路の交差点の角にあるコンビニの駐車場に参加者を集めると、そこで高塚遺跡の説明を始めた。ゼニヤクボ遺跡と同様に、高塚遺跡も今は跡形もなく消されている。交差点を中心とする地域に広がっていた遺跡は、今や発掘調査記録の上でしか存在しない。



葛神社(くずじんじゃ) 裏手に氷室がある古社

葛神社
氷室がある葛神社

花
祁藺生(いう)町上ノ宮には、葛(くず)神社が鎮座している。葛神社は九頭神社とも書き、祭神として水の神の出雲建雄神(いづもたけおのかみ)を祀る。平安時代の初めに編纂された『延喜式』神名帳には、大和国山辺郡の小社として「出雲建雄神社」の名が記されている。この神社が葛神社に当てられていて、その歴史は古い。

、国栖、国津と漢字表記されるクズは、国津神の子孫とされている。しかし、大和の国中にあった王権からは屑扱いをされていたようだ。都祁や宇陀、吉野の山地には、こうした人々が多く住んでおり、焼き畑農耕、狩猟、金属採取の生活を営み、それぞれ国中の人々と物資の交換を行っていたものと思われる。

水田と標識
葛神社周辺の水田と標識
うした交易品の一つに氷が想定されている。社殿の南側に、冬に出来た氷を夏まで貯えておく氷室(ひむろ)の跡がある。昔の日本には、冬に田んぼや池に水を張って氷を作り、それを氷室に保存して夏に取り出し、朝廷へ献上する習わしがあったとされている。都祁(つげ)の地が氷室を通じて中央とのつながりができたエピソードを、『日本書紀』は次のように伝えている。

徳天皇62年のことである。額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が闘鶏(つげ)に猟に行かれた。山の上に登って野の中を見ると、何か物があり、廬(いお)の形であった。使者に調べさせると、帰ってきて「窟(むろ)です」という。それで、闘鶏稲置大山主(つげのいなぎ・おおやまぬし)を呼んで、「あの野中にあるのは何の窟だ」と問われた。「氷室です」という答えに、皇子は「その蔵(おさ)めた様子はどんなものか、また何につかうのか」と聞いた。「土を掘ること一丈あまり、萱(かや)をもってその上に葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取りその上に置きます。夏を越しても消えません。暑いときに水酒にひたして使います。と大山主は答えたという。皇子はその氷を持って帰り、御所に奉られた。天皇はお喜びになった。これ以後、師走になる毎に必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷を配った。

城京の左京三条二坊にあった長屋王の屋敷の北側の二条大路の溝から出土した木簡に、「都祁の氷室」を記載したものがあったことはよく知られている。木簡の調査によって、二カ所の氷室の規模や設営の仕方、氷室の大きさ、取り置き氷の規格、氷進の日、進上者の名などがが明らかになったという。

回のウオーキングには、福住周辺の氷室状大型穴の研究をされ。『古代氷室考』を発表しておられる郷土史家の川村和正氏が参加しておられた。都祁に氷室が作られた理由について、氏から面白い話を聞いた。先ず、都祁地域が海抜500m前後の高地にあり、平城京あたりとは3度から4度は気温が低い。したがって、冬は容易に氷点下まで気温が下がり、氷作りに適しているとのことだ。次に、この付近の地質は花崗岩質岩類の酸性深成岩で、地元ではマサツチと呼ばれ、水はけがよいこと。水はけが良いことは、氷保存の絶対条件だそうだ。さらに、都祁の地は朝廷の禁猟地区であった可能性があり、そのために朝廷が氷室を独占できたかもしれないとのことだ。我が国の古代には殯(もがり)という風習があった。遺体を埋葬しないで長期間保存するには、現代のドライアイスともいうべき氷が不可欠だったのだろう。

神社の裏手の丘陵には、2つの氷室跡があった。実際に見学してみると、台地の一部が陥没した窪地にすぎなかった。おそらく『日本書紀』に示すように、こうした窪地の底に厚く茅すすきを敷いて氷を並べ、その上に萱(かや)を覆っていたのだろう。しかし、これだけでは、氷は溶けてしまう。川村氏によれば、周囲に大樹があってその枝が直射日光を防いでいることが必要だったとのことだ。
第一氷室跡 第二氷室跡
第一氷室跡 第二氷室跡



三陵墓東・西古墳 5世紀に都祁地域を支配した首長たちの奥津城

三陵墓東古墳
三陵墓東古墳
花
祁南之庄町には、前方後円墳1基と円墳2基で構成される三陵墓古墳群がある。三陵墓とは地元における古くからの呼称で、前方後円墳の東古墳、円墳の西古墳および南古墳の総称である。今回の遺跡巡りの最後に訪れたのは、三陵墓古墳群の中の東古墳と西古墳だった。

陵墓東古墳は平成元年(1989)から3次にわたって実施された範囲確認調査で、その規模と構造がすでに明らかになっている。墳丘部は前方部を西に向けて築造されていて、全長は110m、後円部径72m、後円部高さ10m、前方部長38m、前方部幅48m、前方部高さ4m。後円部は3段構成だが、前方部には段築は認められなかったとのことだ。この古墳は後円部に比べて前方部が小さく造られている点が特徴であるという。

丘には葺石が敷かれ、円筒埴輪や朝顔形埴輪、家型埴輪が置かれていた。墳丘の内部は調査されていないが、銅鏡、勾玉、刀剣などが出土したと伝えられている。円筒形埴輪から見て、この古墳の築造時期は5世紀後半頃と推定されている。

古墳から西150mのところにある三陵墓西古墳は、昭和26年(1951)に発掘調査された。墳頂中央部で長さ8.47m、幅1.17mの粘土槨が見つかり、剣などの鉄製品は琴柱形石製品、臼玉、管玉、櫛などが出土した。平成6年(1994)に墳丘形態確認調査が行われ、直径約40m、高さ約5m、墳頂平坦面径14mの円墳であることが確定した。さらに平成7年度に墳頂平坦部を再調査したところ、あらたに長さ4.7m、幅1.05m、高さ35mの箱形木棺が見つかり、鉄鏃や堅櫛が多数出土した。この古墳の築造時期は、墳頂平坦面に並べられた円筒埴輪の製作技法や堅櫛などから、5世紀前半頃に比定されている。

三陵墓西古墳
三陵墓西古墳

陵墓東古墳は、5世紀後半に築造された都介野地域最大の規模を誇る前方後円墳である。被葬者として、『古事記』や『日本書紀』にみえる都祁直(つげのあたい)、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)が想定されているという。

鶏国造に関しては、『日本書紀』の允恭天皇2年に面白い話を伝えている。忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が允恭天皇の皇后になる前、母と一緒に住んでいた。一人で苑の中で遊んでいるとき、闘鶏国造がそばの道を通り、馬に乗って垣根越しに語りかけた。彼は嘲るような調子で、「あんたにはよく園が作れるのかね」といい、「さあ、刀自、このノビルを一本くれ」と頼んだ。姫はノビルを取って渡しながら、「何のためにノビルを所望するのか」と聞いた。「山を行くときヌカガ(小さい羽虫)を追い払うのよ」と、闘鶏国造は答えたという。

中姫は心中、闘鶏国造の無礼を不愉快に思われた。皇后になった年、馬に乗ってノビルを所望した男を探しだして殺そうとした。しかし、闘鶏国造は額を地につけて非礼を詫びたので、皇后は死罪は止めて、姓(かばね)を下げて稲置(いなぎ)にしたとのことだ。



古代の都祁の地

三陵墓東古墳
はるか彼方に三陵墓西古墳を遠望

『続日本紀』には霊亀元年(715)6月に「大倭国の都祁山之道を開く」と記されている。現在の奈良市から鉢伏山の峠を越えて、田原、都祁に至る谷間の路のことで、近世まで伊勢参宮の道として繁栄した。おそらく、藤原京から平城京へ都が遷り、東方、わけても伊勢へ参宮するのに初瀬を迂回するのは不便だったので、新たに近道を開拓したというのが実情だろう。しかし、この道の開通で都祁の地域が開けたのではない。すでに見てきたように、この地域はそれよりはるか昔から開けた土地だった。

祁の地は、東西約18km、南北約25kmの大和高原のほぼ中央に位置する。周囲を山々に囲まれたこの地は海抜400m前後の高みにあって、大和盆地より気温が2〜4度低いが、降水量は逆にかなり多い。こうした自然環境が豊かな森を育て、高原を流域とする多くの河川を作った。狩猟・採集・漁労を生業としてきた太古の縄文人が生活するのに最適の場所がここにあったといえる。

三陵墓西古墳の墳丘
三陵墓西古墳の墳丘
塚遺跡が証明したように、縄文時代の草創期からすでにこの盆地に人々はその足跡を残している。縄文時代だけではない。その後に続く弥生時代や古墳時代の住居跡を示す遺跡が盆地のあちこちに点在している。周囲を囲む山々は外的の侵入を防ぐ自然の砦として機能したのであろう。古代の民は先祖伝来の土地に営々と日々の営みを続けてきたにちがいない。

言って、他の地域と孤立していたわけではない。ゼニヤクボ遺跡では、東海地方との交流を示す弥生土器が出土している。シントク古墳からは東海系須恵器が出土している。しかし、この地は弥生時代のはるか以前から、東西交流の要路として重要な役割を担った土地柄だったのであろう。

生時代から古墳時代にかけて、都祁の中心地は南之庄、並松、小山戸付近にあったとされる。南之庄に築かれた三陵墓古墳群はその証左である。古代において、都祁の地は闘鶏国(つげのくに)として政治的な小国家を形成し、大和の国中(くになか)に従属していた。闘鶏国造と大中姫の逸話は、都祁から初瀬・忍坂を経由して大和南部に通じる道があったことを示している。

が、この地が特に重用視されるようになったのは、やはり平城遷都以後であっただろう。そのため、上述のように霊亀元年には都祁山之道が開かれた。この道を通って、都祁の氷室から氷が朝廷に献上された。聖武天皇はこの道を通って伊勢への巡幸の旅に出、堀越頓宮で一泊している。



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