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気になりながら未だ訪れていない史跡がもう一つある。奈良時代の中期、聖武天皇が造営を命じながら、中途半端に終わってしまった幻の都・恭仁京(くにのみやこ)である。梅雨入り前の朝から晴れ渡った空を見ていると、無性にこれらの史跡を自分の目で見たくなった。そんな訳で、本日も朝からブラリと出かけてきた。 |
目 次 |
石のカラト古墳: 奈良県と京都府の県境上に築かれた古墳
石のカラト古墳は、奈良文化財研究所が昭和54年(1979)に発掘調査している。発掘の結果、この古墳は上段が直径約9.2m、下段が一辺13.8mの上円下方墳で、8世紀初め頃の築造であることが明らかにされた。発掘当時、下段は30cmほどの葺石が敷かれていたが、上段の葺石はほとんど失われていたという。 内部には15枚の凝灰岩の切石を用いて間口1.15m、奥行き2.6m、高さ1.2mの横口式石槨が造られていた。石槨内は盗掘で荒らされていたが、漆塗りの棺が納められていたらしく、漆の破片や金・銀の玉など豪華な副葬品の一部が出土した。 被葬者は特定されていないが、奈良時代初めの貴族と推定されている。平城京の北郊である奈良山丘陵に築かれた数少ない終末期古墳であることから、昭和62年(1987)に復元整備され、平成8年(1996)に国の史跡に指定された。 石のカラト古墳は、近鉄京都線「高の原」駅から奈良交通バス「神功4丁目行き」で終点まで行き、そこから北東へ坂道を登れば楽にアクセスできると聞いていた。だから、「高の原」駅のバスターミナルの3番乗り場から「神功4丁目行き」に乗った。 10分足らずで終点の「神功4丁目」バス停に着いた。運転手や散歩に来ていた近くの若い住人に聞いても、意外なことに古墳の所在を知らない。パス亭の近くに掲げられた周辺の地図にも、「万葉の小道」や○○公園など書かれているが、古墳の表示はない。
困っていると、一人の老婦人が杖をつきながら歩道を近づいてくるが見えた。「近くに古墳があるところを知りませんか」と尋ねると、家の近くだからついて来なさいとのことだった。それからは、老婦人の歩調に合わせながら住宅街の中を、丘陵の高み向かって進んだ。尋ねもしないのに、息子がこちらに家を買ったので少し前に引っ越してきたことや、孫の話などをしてくれた。坂の多い住宅地で、足の悪い婦人にとっては出かけるの億劫だとも言っていた。 老婦人が目指していたのは、住宅の屋根の先に見える貯水用のタンクのようだった。果たして平城西配水池と書かれた施設の前に出た。だが、彼女はその前を通り過ぎると、施設の横にある遊歩道に入った。そこが「万葉の小径」だった。歩道に沿って万葉植物が植えられ、その解説板が置かれている。「万葉の小径」を下って行くと、すぐのところに「神功1丁目緑地」と書かれた小さな公園があった。その中央に目指す古墳が見えた。 【参考】石のカラト古墳にアクセスするもっと便利なバスの便がある。老婦人は別れ際に緑地の反対側に下ることを進めてくれた。そちらは京都府の木津町で、緑地の下を東西に広い道路が走っている。緑地の石垣のすぐ近くに「兜台3丁目」のバス停があり、「高の原」駅からは、こちらの方がバスの便は便利である。ちなみに駅前の4番乗り場から出るバスは、ほとんどこの停留所を通る。 緑地は石のカラト古墳を中心とした史跡公園だった。緑地の中央で、葺石を敷いた古墳が正月のお供えのように盛り上がっていた。近づくと、柵を巡らした古墳の周りを黄色や白い色の花をつけた雑草が一面にはびこっていた。草花々は初夏の風に吹かれて一斉になびいていた。
最近、石のカラト古墳に関して注目すべき報道があった。奈良文化財研究所は、この古墳の設計規格を考察して一マス3.45mの方眼をかけることで、墳丘を設計できることを突き止めた。3.45mは飛鳥時代に使われた「高麗尺(こまじゃく)」の10尺に相当する。ただし、高麗尺の制度は律令施行後間もなく廃止され、全面的に唐制に移行した。
もう一つの話題は、高松塚古墳やキトラ古墳に見られるような、古代中国の星座を金箔(きんぱく)で表現した「天文図」が、この石のカラト古墳でも描かれていた可能性があるとのことだ。26年前に出土した金箔を調査した結果分かったという。先月、奈良文化財研究所が発掘から26年ぶりに刊行した正式な調査報告書で、この可能性が指摘された。 高松塚古墳やキトラ古墳、マルコ山古墳はいずれも藤原京の南に営まれ、被葬者として天武系の人物が推測されているのに対し、なぜ石のカラト古墳だけが、佐紀古墳群から北に外れに造営されたのかは、気になるところである。さらに、「天文図」だけが描かれた壁画古墳はあるのだろうか。あるいは石室の壁には四神図などが描かれていた可能性はないのだろうか。 |
恭仁京: 造営途中で中止され、わずか4年で廃都となった幻の都
地図で見る限り、石のカラト古墳から恭仁京跡までの距離はさほどない。だが、交通の便はそれほど良くない。近鉄の「高の原」駅から「新祝園(しんほうその)」まで出てJRの学園都市線に乗り継いで「木津」駅まで行き、さらに関西本線に乗り換えて「加茂」駅まで行くことにした。
やがて、道の両側に古い民家が並ぶ先に、木津川にかかる恭仁大橋(くにおおはし)が見えてくる。しばらく橋の上から木津川の流れを楽しんだ。川の水は今日も静かに流れている。今から1265年前の天平12年(740)の年の暮れ、伊勢・美濃・近江の巡幸から帰還した聖武天皇も、こうした穏やかな木津川の流れを眺めたはずである。もっとも、当時は木津川ではなく泉川と呼ばれていた。だが、天皇はこの川を渡ろうとはしなかった。あろうことか、彼は現在の加茂町瓶原(みかのはら)の地に新都を造営して、平城京から遷都することを宣言した。当時の人民にとっては、はた迷惑な話であっただろう。
恭仁大橋から先へ進むと、県道は国道163号線に合流する。この辺りは岡崎の集落で、交差点の手前にバス停「岡崎」がある。国道との交差点には「恭仁京大極殿跡」の標識が立っている。標識が示す方向に国道を左折して進むと、すぐの所に次の信号がある。その交差点を右折して集落の中へ続いている生活道を100mも歩けば、目的の恭仁京跡にたどり着ける。
恭仁京は完成した都ではない。国家財政の逼迫を理由に、天平15年(743)の末には、恭仁京の造営を中止して紫香楽宮*の造営に注力するようになる。さらに、翌天平16年(744)の閏(うるう)1月には、聖武天皇は恭仁京から難波へ遷都し、恭仁京はわずか4年あまりで廃都になってしまう。その後は、宮域は大極殿を中心に山城国分寺として再利用されることになる。『続日本紀』は天平18年(746)に、「恭仁京大極殿を施入し、国分寺と為す」と記している。 * 紫香楽宮については、「歴史探訪ブース」 → 「古代歴史街道を歩く」−国内編」 → 「古代氏族の影を追って近江を散策する」 → 「紫香楽宮跡」を参照されたい。
山城国分寺は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域をもつ寺だった。だが、その国分寺も、現在は金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇を地表に残すのみである。 山城国分寺跡の碑が建っている場所は、塔跡である。残っている基壇跡や礎石跡から考えて、この場所に七重塔が蒼空に聳えていたと推定されている。一方、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂の土壇は、恭仁小学校の裏の空き地にそのまま残っている。今時珍しい古びた木造校舎の裏は、東西約50m、南北約25m、高さ1.5mの雑草がはびこる広場である。ここにも「山城国分寺跡」の碑が建っているが、広場の隅には「恭仁京跡」の碑が横倒しになってうち捨てられていた。
この史跡公園がある瓶原(みかのはら)地区の周囲は、のどかな田園風景である。この地にある時期、我が国の国都が置かれていたとはとても信じることができない。だが、史書は当地に都が造営されたと記し、廃都の後は国分寺が築かれたことは塔跡に残る礎石群などから明らかだ。国分寺がいつ衰退したのかは知らないが、この付近一帯は田畑として長い間利用されてきた。逆に言えば、田園風景が保たれてきたからこそ、この恭仁宮跡は地中に良好な状態で残されてきたのだろう。
ところで、旧恭仁京跡とされている場所は、正確な言い方をすれば、恭仁宮(くにのみや)と呼ぶべきであろう。天皇の住む内裏(だいり)や、政治など国家の儀式が行われる大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)、役人たちが仕事を行う官衙(かんが)など、国の中でも最も重要な施設が配置されていた場所である。恭仁京と呼ぶのであれば、藤原京・平城京・難波京などと同じく、一般の人々の居住空間を備えた都城でなければならない。
足利健亮氏が想定された恭仁京の坊条制の京域は、我々が見慣れたイメージに比べればかなり特異である。木津川(泉川)が京域の真ん中を東西に蛇行している水の都は、中心部分に何もない。これでは右京と左京の往来もままならない。このような異形の都城が当時本当に計画されたのだろうか? |
山城郷土資料館:南山城地域の歴史、考古、民俗資料などを展示
恭仁京跡を後にして国道163号線を西に向かうと、国道はどんどん木津川に近づいていき、やがてその堤防上を走るようになる。それと同時に、北側から山の稜線が南に張り出してきて前方の視界を遮るようになる。木津川はその山塊を避けるようにゆっくりと弧を描きながら流れを南方面に変えている。 「異常気象時通行規制区間」の標識が前方に立っていた。ここから先は木津川に流れ落ちる山の端を掘削してかろうじて道を開いた隘路が長々と続く。おそらく、大雨の時は落石のおそれがあり通行止めとなるのであろう。この区間は1.9キロも続いている。奈良時代、この道を往還するのは大変だっただろう。 そこで閃いた。いったん事が起きたとき、この道路を閉鎖することで恭仁宮がある左京は完全な要塞となる。恭仁宮を攻めるには、前面を流れる木津川を渡河しなければならない。小舟に分乗して渡河してくる敵兵に矢を射かけて防戦するのは、それほど困難ではない。聖武天皇そして橘諸兄が都城制の常識を無視して、この地に都を建設しようとした理由は、ひょっとしたら藤原一族に対する異常な防御本能ではなかったか、と疑りたくなった。 恭仁京跡を出発して約40分、ようやく狭隘な難所を抜けると、山城町に入り、前方に視界が開けてきた。気がつくと、北側の山麓に、山城郷土資料館が聳えていた。
この資料館を訪れた目的は、恭仁京跡を発掘したときの出土遺物が常設展示されていると聞いたからである。恭仁京跡(山城国分寺跡)の近くには、出土品を展示した施設はない。資料館の入口を入ると、左手が常設展示室になっていて、そこに縄文時代・弥生時代の遺跡からの出土品や椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡などとともに、一時は都が置かれた恭仁京から出土した瓦や土器なども展示されていた。 |
泉橋寺: 木津川に架けられた泉橋を守るたねに行基が創建した寺
恭仁京遷都が宣言された翌年の天平13(741)年、当時は泉川と呼ばれていた木津川を越えて新京を造るため、いくつかの橋が渡された。その中の1つに泉橋がある。奈良時代の高僧行基が優婆塞(うばそく)らの弟子を率いて同年の7月から10月にかけて完成させたという。その後、橋は度々流失したので,平安時代には泉橋寺に渡船が備えられた。渡船は「狛の渡し」の名で知られ、明治26年の12月に泉橋が架けられるまで続けられた。現在、河川敷や川の流れの中になごりを留めている橋脚の残骸は、そのとき架けられた橋のものである。 足利健亮氏によると泉橋によって結ばれた南北に伸びる道は恭仁京右京の中心道であり,山背国府の中央道だったという。現在泉橋寺の西を真直ぐに走る道路(奈良街道)がその名残りを留めている。
泉橋院が創建された天平12年という年は、聖武天皇によって恭仁京遷都が始まった年にあたる。翌年には、上記のように、行基とその弟子達の手によて泉橋が架けられた。恭仁京はわずか4年で廃された。しかし、泉橋寺はその後も泉川で命を落とした人々の供養をし,救済する寺院として存続してきた。泉橋寺の周辺からは古瓦が出土することが以前から知られていた。その中には白鳳時代のものもあり、行基創建以前に別の寺院があったのかもしれない。 泉橋寺の表門は桁行き9.5尺の切妻造り、本瓦葺の一間棟門(いっけんむねもん)で、歴史の重みを感じさせる。そのはずで、もともとは奈良・興福寺の塔頭だった知足院の門として元禄2年(1689)に建てられたものである。明治政府は明治のはじめに神仏分離・廃仏毀釈の方針をとったため、春日大社と密接な関係があった興福寺は、春日大社との縁をたたれ、興福寺ほどの大寺院でも廃寺同様になった。そのような時勢のなかでは、多くの塔頭も廃絶を余儀なくなれ、その一つである知足院も廃寺となる際に建物が処分され、その門が明治7年(1874)に泉橋寺に移築されたとされている。
泉橋寺を有名にしているものの一つに、表門の門前に安置されている露座の地蔵石仏がある。当初はお堂に納められていたが、文明3年(1471)、応仁の乱で西軍方の大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めたとき、泉橋寺地蔵堂が焼かれ石仏も焼損したという。記録によれば、丈六のこの地蔵石仏は、奈良般若寺の真円上人の発願で永仁3年(1295)に石材が切り始められ、13年後の徳治3年(1308)に地蔵堂が上棟され、供養の法要が営まれた。しかし、地蔵堂が建てられた時点では、石仏の本体はほぼ完成していたが、台座や光背はまだできておらずその後の完成を目指したようだ。現在の石仏の頭部と両腕は元禄3年(1690)に補われたものであるという。
五輪塔は、下から方形・円形・三角形・半月形・宝珠形の石を積み上げたもので、密教の宇宙根本の思想、すなわちこの世を構成している地・水・火・風・空を象徴的に表していると聞いている。泉橋寺の五輪塔は全体が花崗岩で造られている。保存状態がよく当初のものがすべて残っていて、五輪塔の完成した形を示している。 この五輪塔に関しては、さまざまな伝承が伝えられている。行基が造ったとも、光明皇后の遺髪塔であるとも、あるいは源平合戦の折、平重衡が南都を攻めた際の戦死者の供養塔であるとも言われている。しかし、実際は地蔵石仏と同様に、鎌倉時代に西大寺流真言律宗の僧が関与して造立したらしい。 |
椿井大塚山古墳
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【所在地】 京都府山城町大字椿井小字三階・大平 |
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| 奈良街道の古い町並み |
山城郷土資料館で貰った地図では、泉橋寺の西からほぼ一直線に北へ延びる道が赤で描かれ、山背古道(やましろこどう)を表示してある。かっての奈良街道にあたる。古い町並みが保存されていて、歩き始めると何処からともなく香ばしい茶の香りが漂ってくる。このあたりは宇治茶の卸問屋が軒を連ねている。
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| JR奈良線の脇にある椿井大塚山古墳 |
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椿井大塚山古墳は、木津川を望む東岸の尾根上に造られた全長175mの前方後円墳である。自然地形としての尾根を利用して古墳の形を造る「丘尾切断型」古墳の典型とされている。昭和28年(1953)、この古墳の後円部を南北に切断する旧国鉄奈良線の拡幅工事の際に埋葬施設が発見され、その竪穴式石室内から「三角縁神獣鏡」など30面を越す鏡を含む大量の副葬品が出土した。そのため、京都大学考古学研究室が中心となって緊急調査を実施、出土遺物の回収と石室の調査および墳丘の測量を実施した。
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| 椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡 |
実は、この古墳は鉄道工事の際に発見され、京都大学考古学研究室が学術調査に着手するまでに大部分の遺物は取り出されていた。あるものは人夫が持ち帰って隠匿したり、現場の草むらに遺棄されているものもあった。発掘調査の段階で回収できた数は26面以上、その他に現場で発掘したものが2面あった。その後、隠匿されていて警察の手で押収されたものが7面と鏡の破片があった。このため、35面以上の鏡が埋葬されていたとされているが、本来の実数は確かめられない。これらの鏡は昭和61年(1986)に京都大学文学部に移管された。
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| 椿井大塚山古墳の後円部墳頂 |
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| 背後から見た後円部 |
ところで、この古墳の発掘調査では、もう一つ不思議なことがある。通例の発掘調査では、公式の調査報告書がそれほど歳月を置かずに作成されるはずだが、この古墳の発掘調査報告書が発刊されたのは、平成9年(1998)5月である。発掘から実に45年ぶりのことだった。実は、公式の報告書になるはずだった京都府教委の調査報告書(六四年)は、京大考古学研究室の教授だった故・梅原末治氏によって作成されていた。ところが、調査結果が無断で使用されたなどと梅原氏を暗に批判する文章が雑誌に発表された。その結果、府教委が配布を中止したというのが実情らしい。
古墳の後円部に登ることができる。頂上から眺める周囲の景色は絶景である。JRの鉄道で後円部と前方部は分断され、前方部は民家が密集している。だが、民家の屋根の向こうに水田が広がり、その先に木津川がゆったりと流れている。遠方を見れば、生駒の山並みがうすく霞んでいる。この古墳に埋葬されたのは、おそらくこの地方を支配していた豪族の首長であろうが、この場所で永久の眠りにつきたいと考えた彼の気持ちも分かるような気がする。
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| 墳頂から見た西側の展望 |
ところで、三角縁神獣鏡が舶載か国産かの問題はひとまず置くとして、古墳に複数枚の銅鏡が埋葬されている理由が今ひとつ理解できない。小林行雄氏は、鏡は服属の証(あかし)として各地の豪族に配られ、大和政権の勢力範囲を表すとの説を打ち立てたが、服属の証なら複数枚である必要はない。まして服属の証なら子孫が代々伝世してゆくべきもので、埋葬者の権力の象徴として埋葬されてしまうのはおかしい。やはり鏡が本来持っているとされた破邪の力で埋葬者を悪霊から守ろうとした、と理解すべきではなかろうか。そして、勢力のある族長は埋葬のためにより多くの鏡を入手することができたのではなかろうか。それらの鏡は、権力の象徴としてではなく、死後の己の遺骸を悪霊から守るために棺の周囲に置かれた・・・と筆者は理解している。