橿原日記 平成17年6月5日

高句麗の王都・集安の王陵と平壌の壁画古墳



良県明日香村には、2つの彩色壁画古墳(高松塚古墳、キトラ古墳)がある。その石槨に描かれた壁画は、いずれも今瀕死の状態にある。壁画保存対策として、高松塚古墳では石槨を解体して保存する案が浮上している。キトラ古墳では、昨年から壁画のはぎ取り作業が進められている。

青龍
青龍:左−高松塚古墳、右−キトラ古墳
が国の壁画古墳に描かれた壁画は、かって朝鮮半島の北部を支配した高句麗の影響があるとされている。高句麗は実に多くの壁画古墳を残している。この国は紀元前1世紀頃に現在の中国遼寧省桓仁県に最初に都を置いたのが始まりとされている。3世紀になると、王都を桓仁から国内城(今の吉林省の集安市)に遷した。したがって、桓仁と集安は高句麗の初期・中期の政治、文化、経済の中心であった。

13年、高句麗は平壌に置かれていた漢の楽浪郡を滅亡させて現在のソウル近郊まで領土を広げると、427年には平壌に遷都した。以後、唐と新羅の連合軍によって668年に攻められて滅亡するまで、 平壌の地は高句麗の王都として栄えた。 高句麗はこの2つの王都(桓仁・集安と平壌)の周辺に、多くの積石塚と呼ばれる古墳や壁画古墳を残した。

004年7月、中国の蘇州市で開かれたユネスコの第28回世界遺産委員会蘇州会議は、桓仁・集安周辺の高句麗遺跡を、「古代高句麗王国の首都群と古墳群(Capital Cities and Tombs of the Ancient Koguryo Kingdom)」として、また平壌周辺の壁画古墳群を「高句麗古墳群( Complex of Koguryo Tombs) として別々に世界遺産に登録した。本来なら、国境を越えた「高句麗遺跡群」としての登録が望ましいが、所在する国が異なれば国の法律や文化財保護制度も違ってくるため、現実には理想通りに一元管理とはいかなかったらしい。

江西大墓に描かれた朱雀
平壌の江西大墓に描かれた朱雀
が国では、上記のように高松塚古墳とキトラ古墳がカビの発生や漆喰の剥離による劣化で、緊急に対策を取ることが求められている。両古墳との深い関係がつとに指摘されている高句麗壁画古墳では、劣化の問題は発生していないだろうか。似たような問題を抱えているとすれば、どのような保存処理を施しているのだろうか。気になるところである。

島大学の東潮(あずまうしお)教授は、国際交流サービスが企画した「高句麗壁画古墳を訪ねる旅 8日間(本年4月27日−5月4日)」に現地解説者として参加され、北朝鮮の6基の壁画古墳を見てこられた。「日韓古代文化研究会」は本日の第171回定例学習会に東教授を講師にお招きして、高句麗王都の王陵と壁画墳について講演していただいた。



膨大な写真と図版を駆使した前後4時間にもおよぶ圧巻の講義

教授は、上記の企画ツアーに参加されただけでなく、先月ボストンのハーバード大学で行われた高句麗のシンポジウムで「高句麗の墓と王権」と題する講演をされている。したがって、 本日の定例学習会ではどのような話が聞けるだろうかと期待に胸をふくらませて、いつもより少し早めにでかけた。会場に到着したとき、聴講者で席はほとんど埋まっていた。誰しも、思うことは同じようである。

3世紀頃の東アジア
3世紀頃の東アジア

教授は、講義のために膨大な写真や図版をあらかじめ用意されていた。講義は最初から最後まで、暗幕を引いた部屋でプロジェクタから写真と図版を投射させながらの解説だった。教授が用意された画像ファイルは、なんと348点。今でこそパソコンの中に画像を取り込み、プロジェクタを接続して投射できるが、以前は一枚一枚スライドとして用意しなければならなかった。これらの資料は一朝一夕に作成できるものではない。教授の長年の苦労が滲んでいることは、映し出される各々の画像に感じられた。

後1時から始まった講義は、途中10分ほどの休憩を挟んで、午後5時まで続いた。前半は、高句麗の初期から中期にかけて王都があった桓仁と集安の積み石塚について、後半は、427年に現在の平壌の地に遷都した後に築かれた主な高句麗古墳の壁画について、綿密な解説をしていただいた。4時間の講義はあっという間に終わったが、余りに多岐にわたるテーマが含まれていたため、頭の中は整理がつかず、真っ白になってしまった思いがした。



世界的文化遺産と国民的文化遺産の保存の有り様

安の古墳は、現在確認されたものだけで約7000基はあるという。積石塚と封土墳の二種があり、積石塚の代表的なものが太王陵である。その近くに有名な広開土王碑があることで、以前から太王陵は広開土王の墓であると推測されてきたが、太王陵と書かれた瓦セン以外に決定的な証拠はなかった。ところが、2003年5月に太王陵から「辛卯年好太王□造□九十六」という文字が刻まれた青銅の鈴が出土した。

太王陵ああ
積石塚の代表・太王陵
国では、この鈴の発見によって、太王陵は広開土王を埋葬した積石塚であることが確定したとする説が有力である。だが、東教授はその説に疑問を呈された。教授の説明によれば、「好太王」とは”王の中の王”を表す謚(おくりな)、すなわち死後に尊んでつけた一般的な称号で、必ずしも太王陵=広開土王陵とは言い切れないとのことだ。歴代の高句麗王の中には「聖太王」や「好王」といった謚を持つ王もいる。まして、辛卯(しんう)年を倭が侵攻してきたとされる西暦391年と解するなら、父王の死で広開土王が18歳で即位した年にあたる。即位したばかりの青年大王を好太王と呼ぶのは、いかにも不自然であるというのが、教授のお考えのようだ。

近、北朝鮮では、黄海北道燕灘郡松竹里などで約26年ぶりに新たに4基の高句麗壁画古墳が発見された。これによって高句麗壁画古墳は全部で90余基が確認されたことになる。上記のツアーでは、そのうち6基の壁画古墳(湖南里四神塚・双楹塚・龍崗大墓・安岳3号墳・徳興里古墳・江西大墓)を見学できたとのことだ。

アーに参加した知人から面白い話を聞いた。上記の6基の壁画古墳は、希望者が8名以上の場合にのみ特別公開され、内部を見学するには、特別見学料として1基あたり15,000円、古墳によっては18,000円が必要であるという。さらに、壁画をカメラに撮影するには、1回あたり5000円の支払いが必要であるという。旅行代金は決して安くはなかったが、それとは別に10万円以上の出費も余儀なくされたとのことだ。

右壁に描かれた壁
安岳3号墳の右側室の右壁に描かれた壁画
句麗では、3世紀から7世紀にかけてのおよそ400年にわたって、石室の内部に壁画を描いた古墳が築造され続けた。今日までに発掘調査された壁画古墳は、上記のように90余基におよぶ。そのうち63基が世界遺産に登録されている。内訳は23基が中国の吉林省集安に位置し、40基が北朝鮮の平壌市、南浦市、平安南道、黄海南道に分布する。

れらの高句麗壁画古墳と日本の壁画古墳とでは、壁画の描き方や下地になっている漆喰の厚さなどに違いがあるとされている。だが、壁画の劣化は高句麗壁画古墳でも問題になっている。ツアー参加者の話を総合すると、見学できた6基の壁画古墳のうち、湖南里四神塚・双楹塚・龍崗大墓の3基は、通常は古墳の入口が密閉されていて、見学希望者があるときだけ入口の穴を開けることで、外気の侵入を阻止しているようだ。その他の安岳3号墳・徳興里古墳・江西大墓は、壁画の前面にガラスを設置し、見学者の壁面へのアクセスを禁じているとのことだ。これらの古墳では、見学者の体温でガラス面が曇ってしまうこともあったらしい。その他に、東教授は見学者が石室内に入ることを禁じ、石室内の様子をビデオカメラで撮影しモニターに表示している古墳の例も紹介された。

本の場合、高松塚古墳にしろキトラ古墳にしろ、壁画は狭い石槨の中に描かれていて、一般の観光客が見学できるというものではない。劣化対策として石室を解体したり、壁画を剥離保存したりしても、一般に公開されるということはおそらくあるまい。どこかの博物館の地下に完全密閉の状態で永久保存されるだけであろう。そうした観光に供さない文化財であることで、その後の保存に対する具体的なビジョンも描かれぬまま、文化庁は壁画の修復・保存を行おうとしている。

高松塚古墳
封土を剥がれた高松塚古墳
が、高松塚古墳壁画が何故カビにやられたのか、その原因すらまだ究明されていないと聞く。人の出入りがカビ発生の一因だったとする見方もだされている。修復や観察のため石室に人が入ると、温度が上がり湿度が下がるので、湿度を上げようと加湿したため水分量が増え、カビ汚染を促進したというのである。そうであるならば、文化庁の史跡保存・維持の仕方に問題があったことになる。

化庁は、カビ発生の原因が他にあるとして高松塚の封土を剥いだが、原因は究明できなかった。封土を剥がされた石槨は裸にされたも同然である。凝灰岩の石槨は多湿・乾燥の繰り返しに弱いらしい。国民的財産である高松塚古墳の壁画を劣化させたのは、文化庁の責任である。これ以上の劣化を防止するために、最善の策を取ることを文化庁が求められているのは当然である。



2005/06/05作成by n_ohsei2004@yahoo.co.jp

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