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現在の明日香村とか橿原市といった行政区分は、古代の人々にはあずかり知らぬことだ。現在の橿原市の市域にも多くの古代人、特に朝鮮半島からの渡来人が数多く住んでいた。彼らが残した痕跡は市内のあちこちに散らばっている。これからはそうした場所も丹念に見て回りたいと思っている。 そうした思いに後押しされて、本日は鳥屋町近辺を探訪してみた。以下はその備忘録である。
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沼山古墳: 6世紀後半に築かれた渡来人族長の奥津城?
開口部の近くに、橿原市教育委員会が立てた説明板が置かれていて、要領よくこの古墳の概要が説明されている。説明板によると、この古墳の石室は右片袖式の横穴式石室で、その規模は上の通りである。
玄室から様々な遺物が出土している。説明板は以下のような品々を列挙している。銀製空玉・ガラス製小玉・トンボ玉・金環などの装身具、心葉形杏葉・辻金具、絞具や革帯金具、鞍金具などの馬具、鉄鏃・かすがい・釘などの鉄製品、須恵器、土師器などの土器。とくに玄室中央には甕(かめ)・甑(こしき)・竈(かまど)のミニチュア炊飯具のセットが置かれていたという。出土した土器から、この古墳の築造年代は6世紀後半と推定されている。
古墳の頂から反対側に降りると、途中になぜか国文学者の久松潜一の揮毫による「中大兄の三山の歌」の歌碑が建っていた。 |
益田岩船
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| 斜め上部から見た益田岩船(撮影:2005/05/30) |
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| 正面に見えてきた益田岩船 |
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| 奥から見た益田岩船 |
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| 荒削りのまま格子状の整形痕を残す側面 |
久しぶりに近くまで来たので、沼山古墳を見学した後、益田岩船への山道に挑戦してみた。以前来たときとは違って、現在は急坂の箇所にロープが渡してあったのには助かった。ロープに掴まって80キロの体重を引き上げるのは決して楽ではないが、それでも5分の時間をかけて無事に坂道を登り切ることができた。
平坦になった山道を進むと、前方に生えた篠竹の間に巨大な花崗岩(石英閃緑岩)が姿を現す。橿原市教育委員会が立てた説明板によれば、この石造物は台形であり、長さは東西方向11m、南北方向8m、高さ(北側面)は4.7mとのことだ。頂上部と東西の両側面には、幅1.8m、深さ0.4mの浅い溝の切り込みが設けてある。頂上部では、さらに、この溝の中に1.4mの間隔を置いて東西に二つの四角い穴が穿たれている。二つの穴の大きさはほぼ等しく、東西1.6m、南北1.6m、深さ1.3mであるという。
古来、この石造物の用途に関してはさまざまな説がある。この地に築かれた益田池の台石とする説、頂部平坦面を90度回転させれば横口式石槨になるという説、占星台の基礎とする説、物見台とする説・・・。ただ一つ分かっていることは、上部平坦面の溝や孔が高麗尺(こまじゃく)で計画されおり、花崗岩の加工技術が終末期の古墳に共通しているため、7世紀代に何かを造ろうとしたということだけである。
船石まで登ってきたきたら、先客がいた。年老いた老夫婦だった。特に婦人は腰が曲がって歩行もままならない様子だった。よくも坂道を登ってこれたと感心した。話しかけてみると、婦人の口から意外な言葉が返ってきた。
「この史跡を訪ねることは長年の夢でした。松本清張の「火の回路」の舞台になった場所を、やっとこの目で確認することができました」
「火の回路」とは、推理作家の松本清張氏が生前、朝日新聞に連載した小説のタイトルである。作中人物に飛鳥の「謎の石造物」は古代イラン(ベルシァ)のゾロアスター教と関連があるとの「仮説」をたてさせたことで知られている。
平安時代に築かれた益田池の堤跡
現在、溜め池はすでにない。だが、築かれた当時の堤の遺構が史跡公園として残されている。堤の遺構は長さ約55m、幅約30m、高さ約8mである。遺構の断面を見ると、下層は自然堆積だが、上層には土器が混入しているという。
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第28代・宣化天皇陵: 鳥屋池に影を落とす身狹桃花鳥坂上陵
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| 宣化天皇陵遠望(撮影:2005/05/30) |
益田池堤防跡から県道133号線を西に向かうと、やがて鳥屋町(とりやちょう)に入る。「鳥屋」交差点を過ぎ、次の「橿原高校前}交差点の手前あたりで左手を見ると、民家の屋根越しにこんもりとした森が見えてくる。そこが、第28代宣化天皇を埋葬した御陵と『日本書紀』が伝える身狹桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)である。全長138mのこの前方後円墳を、考古学では「ミサンザイ古墳」と呼んでいる。
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安閑天皇は父亡き後、勾金橋(まがりのかなはし、現在の橿原市曲川町)で即位した。しかし治世2年で西暦535年の12月に崩御してしまう。数え年の70歳であったという。兄の安閑天皇には子がなかったので、翌536年正月、群臣に推挙されて宣化天皇が檜隈盧入野(ひのくまのいおりの)の宮で即位した。
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| 宣化天皇陵 |
記紀に載せられた安閑天皇や宣化天皇の記録は、冷静に考えてみると実に奇妙なことがある。安閑天皇も宣化天皇もいずれも69歳で即位したことになる。現代でもこれほど老齢な皇子を天皇に即位させることは、まずあるまい。まして人生50年と言われた時代よりもはるか昔のことである。だが、記紀は宣化天皇が崩御した539年の12月に異母弟の欽明天皇が第29代天皇として、万世一系の皇統をつないでいる。
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| 天皇陵が影を落とす鳥屋池 |
こうしたことから、安閑・宣化の両天皇は即位しておらず、記紀編纂時の作文であるとする説がある。また、上記の仏教公伝の矛盾から2朝並列説を説く歴史学者もいる。すなわち、継体天皇の先妻の子である安閑・宣化を推す大伴氏と後妻の子である欽明を推す蘇我氏が対立して、2朝が並列して存在していた時期があったという。
宣化天皇の横には、満々と水をたたえた鳥屋池がある。前方後円墳の宣化天皇陵が、この潅漑用溜め池に影を落としている。『日本書紀』は、この陵墓に皇后の橘皇女(たちばなのひめみこ)ばかりでなく、その孺子(わくご)まで合葬したと伝えている。
垂仁天皇の母の弟、倭彦命
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| 桝山古墳(倭彦命の墓)遠望(撮影:2005/05/30) |
宣化天皇陵の南に、第11代垂仁天皇の弟に当たる倭彦命を埋葬したとされる桝山古墳があると聞いて、立ち寄ってみることにした。倭彦命が何をした人かさっぱりわからないが、『日本書紀』は垂仁天皇28年冬10月5日、天皇の母弟(いろど)倭彦命が亡くなったと伝えている。母弟とは、素直に読めば母の弟であり、垂仁天皇にとっては母方の叔父にあたる人物のはずだが、垂仁天皇の同母弟と見る説も多い。
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| 桝山古墳(倭彦命の墓)の正面 |
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| 前方後円墳に改変された墳墓の前方部 |
埋葬の際、それまでの風習で近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めたという。しかし、数日たっても彼らは死なず、昼夜泣き呻めいた。天皇はその呻き声を聞いて心を痛め、以後殉死を禁じた。その後皇后の日葉酢媛が亡くなった時には、殉死した従者の代わりに埴輪を作らせて御陵の周りに立てさせたという。
県道133号線の「橿原高校前」信号から、橿原高校へ向かう道が南に延びている。宣化天皇陵の脇を抜けて先へ進むと、鳥屋町の集落の中を細い道が続いている。集落の中には、倭彦命の墓方面の標識は見あたらない。ただ鳥屋町40番地の表示がある電柱が集落の中の十字路に立っている。その十字路を左折すれば、民家に隣接してこの墓がある。
考古学的には、桝山古墳は古墳時代中期の築造で、96m×90mの我が国最大規模を誇る方墳とされている。しかし、蒲生郡平の研究の成果を利用した幕末の文久の修陵において、天皇陵など皇族の墓は前方後円墳であるとする考えに基づき、桝山古墳も前方後円墳形に外形が改変がされているという。
総計593基の円墳から成る国指定史跡「新沢千塚古墳群
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| 新沢千塚古墳遠望(撮影:2005/05/30) |
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| 韓国の土饅頭のような墳墓の群れ |
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| 史跡公園の中に築かれた復元古墳 |
県道の右手にる丘陵の裾にもいくつかの円墳が見える。墳丘の草刈りが終わった後なのか、刈られた草が枯れて、まるでバリカンを入れられた頭のように、直径15mぐらいの土饅頭の円墳が列をなしているのがよく分かる。
新沢千塚古墳群は4世紀の終わり頃から7世紀頃まで、実に200年以上にわたって営々と造り続けられた。古墳造りが最も盛んであったのは、5世紀半ばから6世紀前半頃だったようで、それ以降は徐々に衰退していく傾向にあったという。この地に墓を築いたのは、飛鳥の南で檜前あたりを本拠とした渡来系の東漢氏と推定されている。しかし、古代の有族だった大伴氏の葬送地であったとする説もある。
これらの円墳の中の130基ほどが、昭和37年(1962)から41年(1966)にかけて発掘踏査されている。その中で、第126号墳の木棺に納められていた副葬品は、ほとんど舶来品で、遠くサマルカンド辺りで作られたガラス碗も有り、丘を越えた所の橿原市「千塚資料館」に現在も展示されている。
南群の丘陵に古墳が復元されているというので、登ってみた。丘陵の頂上付近でいくつかの円墳がビニールシートで覆われ、シートに開けられた無数の孔にイトザサが植えられていた。そうした古墳の一つは、石室が見られるように封土を剥がされていた。