橿原日記 平成17年5月30日

橿原市鳥屋町近辺の史跡を巡る



マップあ
探訪地付近マップ
日の27日、橿原ニュータウンの中にある小谷古墳を見学に出かけた。その後いろいろ調べてみると、橿原市内にもまだ訪れていない史跡がずいぶん多い。畝傍御陵前駅の近くにアパートを借りてすでに3年になるのに、視線がどうも明日香を向きすぎていたようだ。

在の明日香村とか橿原市といった行政区分は、古代の人々にはあずかり知らぬことだ。現在の橿原市の市域にも多くの古代人、特に朝鮮半島からの渡来人が数多く住んでいた。彼らが残した痕跡は市内のあちこちに散らばっている。これからはそうした場所も丹念に見て回りたいと思っている。

うした思いに後押しされて、本日は鳥屋町近辺を探訪してみた。以下はその備忘録である。

沼山古墳: 6世紀後半に築かれた渡来人族長の奥津城?
益田岩船: 占星台? 物見台? 横口式石槨? それとも・・・
平安時代に築かれた益田池の堤跡
第28代・宣化天皇陵: 鳥屋池に影を落とす身狹桃花鳥坂上陵
垂仁天皇の母の弟、倭彦命墓とされる桝山古墳
総計593基の円墳から成る国指定史跡・新沢千塚古墳群


沼山古墳(ぬまやまこふん): 6世紀後半に築かれた渡来人族長の奥津城?

沼山古墳の正面
沼山古墳の正面(撮影:2005/05/30)

ああああ
谷(こたに)古墳を先日訪れたとき通った橿原ニュータウンの中の道を、そのまま直進して進めば、やがて坂道の頂上に差し掛かったあたりに、「益田船石」の登り口が右手にある。その少し先まで行くと、5階建ての橿原団地の建物が切れるあたりに、「白橿近隣公園」の標識が左手に立っている。沼山(ゆまやま)古墳は白橿近隣公園の中央に位置している。ちょうど益田岩船の東に位置する独立した丘陵の頂に築かれた古墳であるといってよい。

部所長さ高さ
玄室4.95m2.95m4.25m
羨道4.5m1.8m1.8m
山古墳は県の史跡に指定されている。昭和57年(1982)に公園整備に伴う発掘調査が行われた。その結果、南南西に石室が開口している直径18m、高さ5.5mの円墳であることがわかった。墳丘の周りに築かれた散歩道を南にまわると、果たして、鉄の柵で塞がれた石室の入口が見えてきた。

口部の近くに、橿原市教育委員会が立てた説明板が置かれていて、要領よくこの古墳の概要が説明されている。説明板によると、この古墳の石室は右片袖式の横穴式石室で、その規模は上の通りである。

沼山古墳
沼山古墳の内部
室は花崗岩の自然石を長手積みにし、玄室内は高さ2mまで垂直に積み、それから上は4面の壁を内側に傾くように積み上げてある。そのため、天井での面積は狭くてすみ、2枚の天井石で覆っている。玄門部には閉塞石が残っていたという。玄室の高さが4.25mと通常の古墳に比べてずいぶんと高いことが、この古墳の特徴だそうだ。同じ特徴をもつ古墳としては、高取町の乾城(かんじょう)古墳や近くの真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳がある。いずれも石室の構造、石材、構築方法が似ており、同一の技術集団が築造したと考えられている。鉄柵から中を覗いてみたが、暗くて中の様子はよく分からなかった。

室から様々な遺物が出土している。説明板は以下のような品々を列挙している。銀製空玉・ガラス製小玉・トンボ玉・金環などの装身具、心葉形杏葉・辻金具、絞具や革帯金具、鞍金具などの馬具、鉄鏃・かすがい・釘などの鉄製品、須恵器、土師器などの土器。とくに玄室中央には甕(かめ)・甑(こしき)・竈(かまど)のミニチュア炊飯具のセットが置かれていたという。出土した土器から、この古墳の築造年代は6世紀後半と推定されている。

万葉歌碑
久松潜一氏揮毫の万葉歌碑
ニチュア炊飯具を埋葬していたことで、被葬者が渡来人である可能性はきわめて高い。しかも、この古墳は渡来系の人々が住んだ身狭(むさ、見瀬)に位置している。渡来系の東倭(やまとのあや)氏が定住したとされる檜隈(ひのくま)地域とも隣接している。おそらく、渡来系氏族の族長クラスが眠る奥津城だったのであろう。

墳の頂から反対側に降りると、途中になぜか国文学者の久松潜一の揮毫による「中大兄の三山の歌」の歌碑が建っていた。



益田岩船(ますだのいわふね): 占星台? 物見台? 横口式石槨? それとも・・・

益田岩船
斜め上部から見た益田岩船(撮影:2005/05/30)

益田岩船
正面に見えてきた益田岩船
益田岩船
奥から見た益田岩船
益田岩船
荒削りのまま格子状の整形痕を残す側面
に「益田岩船」と呼ばれている史跡は、貝吹山の連峰である岩船山の頂上付近に位置している。今まで2回ばかりこの史跡を訪れたことがある。飛鳥地方で最大でしかも最も奇怪な石造物であり、興味津々な史跡だが、とにかくアクセスが大変だ。坂道が急であることは仕方がない。だが土留め杭で階段が築かれているのは最初の20段ほどである。後は、道とも言えない山道が続く。足を滑らせれば、怪我間違いなしという急坂である。

しぶりに近くまで来たので、沼山古墳を見学した後、益田岩船への山道に挑戦してみた。以前来たときとは違って、現在は急坂の箇所にロープが渡してあったのには助かった。ロープに掴まって80キロの体重を引き上げるのは決して楽ではないが、それでも5分の時間をかけて無事に坂道を登り切ることができた。

坦になった山道を進むと、前方に生えた篠竹の間に巨大な花崗岩(石英閃緑岩)が姿を現す。橿原市教育委員会が立てた説明板によれば、この石造物は台形であり、長さは東西方向11m、南北方向8m、高さ(北側面)は4.7mとのことだ。頂上部と東西の両側面には、幅1.8m、深さ0.4mの浅い溝の切り込みが設けてある。頂上部では、さらに、この溝の中に1.4mの間隔を置いて東西に二つの四角い穴が穿たれている。二つの穴の大きさはほぼ等しく、東西1.6m、南北1.6m、深さ1.3mであるという。

来、この石造物の用途に関してはさまざまな説がある。この地に築かれた益田池の台石とする説、頂部平坦面を90度回転させれば横口式石槨になるという説、占星台の基礎とする説、物見台とする説・・・。ただ一つ分かっていることは、上部平坦面の溝や孔が高麗尺(こまじゃく)で計画されおり、花崗岩の加工技術が終末期の古墳に共通しているため、7世紀代に何かを造ろうとしたということだけである。

石まで登ってきたきたら、先客がいた。年老いた老夫婦だった。特に婦人は腰が曲がって歩行もままならない様子だった。よくも坂道を登ってこれたと感心した。話しかけてみると、婦人の口から意外な言葉が返ってきた。
「この史跡を訪ねることは長年の夢でした。松本清張の「火の回路」の舞台になった場所を、やっとこの目で確認することができました」
「火の回路」とは、推理作家の松本清張氏が生前、朝日新聞に連載した小説のタイトルである。作中人物に飛鳥の「謎の石造物」は古代イラン(ベルシァ)のゾロアスター教と関連があるとの「仮説」をたてさせたことで知られている。



平安時代に築かれた益田池の堤跡

益田池堤跡の標識
田岩船から県道133号線に戻り、高取川にかかる益田大橋を渡ると、右手に「史跡益田池堤跡」の標識が立っている。橿原市の西池尻町、久米町、鳥屋町にかけての低地帯は、かって巨大な潅漑用溜め池の底だった。

益田池の規模
築造時の益田池の規模
の地に推定40ヘクタールに及んだとされる巨大な溜め池が造られた。伝承では、弘法大師にって造られ、”旱魃といへども田を益すの功ありし”ため、益田池と名付けられたという。この潅漑用溜め池は、貝吹山から北に派生している尾根と久米台地の西南西端部の間に、約200mの堤を築くことで造られた。工事は、弘仁13年(822)に着工された。堤の出現によって、高取川の流れがせき止められ、巨大な溜め池ができた。

在、溜め池はすでにない。だが、築かれた当時の堤の遺構が史跡公園として残されている。堤の遺構は長さ約55m、幅約30m、高さ約8mである。遺構の断面を見ると、下層は自然堆積だが、上層には土器が混入しているという。

益田池堤の遺構
現在に残る益田池堤の遺構
和36年(1961)に高取川の河川を改修したとき、川底から樋管(ひかん)が2カ所から見つかった。その場所は益田池の堤の外側で、東南東方向に延びていたという。さらに、昭和43年(1968)には、今度は堤の内側で樋門と思われる遺構が見つかった。この樋門と先に見つかった樋管が一連のものであると見なすと、約90mにわたって樋管が存在したことになるという。発掘された樋管は現在、橿考研の附属博物館に展示されている。



第28代・宣化天皇陵: 鳥屋池に影を落とす身狹桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)

宣化天皇陵遠望
宣化天皇陵遠望(撮影:2005/05/30)

田池堤防跡から県道133号線を西に向かうと、やがて鳥屋町(とりやちょう)に入る。「鳥屋」交差点を過ぎ、次の「橿原高校前}交差点の手前あたりで左手を見ると、民家の屋根越しにこんもりとした森が見えてくる。そこが、第28代宣化天皇を埋葬した御陵と『日本書紀』が伝える身狹桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)である。全長138mのこの前方後円墳を、考古学では「ミサンザイ古墳」と呼んでいる。

標識
化天皇は実に存在感の薄い天皇である。第26代継体天皇が越前にいた時代に、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘・目子媛(めのこひめ)を娶って生ませた第2子とされている。彼には兄がいた。継体天皇の後を次いだ第27代安閑天皇である。

閑天皇は父亡き後、勾金橋(まがりのかなはし、現在の橿原市曲川町)で即位した。しかし治世2年で西暦535年の12月に崩御してしまう。数え年の70歳であったという。兄の安閑天皇には子がなかったので、翌536年正月、群臣に推挙されて宣化天皇が檜隈盧入野(ひのくまのいおりの)の宮で即位した。

宣化天皇陵
宣化天皇陵
化天皇の治世4年間で見るべきものはほとんどない。わずかに『日本書紀』が新羅の任那に対する侵攻が頻発したため、大伴金村に任那出兵を命じ、各地の屯倉から筑紫に穀物を送って集積したと伝えている程度である。西暦539年、73歳で崩御して、この陵に埋葬したとされる。

紀に載せられた安閑天皇や宣化天皇の記録は、冷静に考えてみると実に奇妙なことがある。安閑天皇も宣化天皇もいずれも69歳で即位したことになる。現代でもこれほど老齢な皇子を天皇に即位させることは、まずあるまい。まして人生50年と言われた時代よりもはるか昔のことである。だが、記紀は宣化天皇が崩御した539年の12月に異母弟の欽明天皇が第29代天皇として、万世一系の皇統をつないでいる。

鳥屋池
天皇陵が影を落とす鳥屋池
紀は天皇家は万世一系であることを内外に喧伝することを目的とした史書であると言える。だが、その編纂の目的がほころびを露呈している部分が、宣化紀に見られる。『日本書紀』は百済からの仏教公伝を欽明天皇13年(西暦552年)と記しているが、「上宮聖徳法王帝説」などでは仏教伝来は欽明天皇の戊午年としている。ところが、欽明天皇の治世には戊午年はない。この年は西暦538年にあたり、宣化天皇の在位中に仏教が伝わったことになる。

うしたことから、安閑・宣化の両天皇は即位しておらず、記紀編纂時の作文であるとする説がある。また、上記の仏教公伝の矛盾から2朝並列説を説く歴史学者もいる。すなわち、継体天皇の先妻の子である安閑・宣化を推す大伴氏と後妻の子である欽明を推す蘇我氏が対立して、2朝が並列して存在していた時期があったという。

化天皇の横には、満々と水をたたえた鳥屋池がある。前方後円墳の宣化天皇陵が、この潅漑用溜め池に影を落としている。『日本書紀』は、この陵墓に皇后の橘皇女(たちばなのひめみこ)ばかりでなく、その孺子(わくご)まで合葬したと伝えている。



垂仁天皇の母の弟、倭彦命(やまとひこのみこと)の墓とされる桝山古墳(ますやまこふん)

桝山古墳(倭彦命の墓)
桝山古墳(倭彦命の墓)遠望(撮影:2005/05/30)

化天皇陵の南に、第11代垂仁天皇の弟に当たる倭彦命を埋葬したとされる桝山古墳があると聞いて、立ち寄ってみることにした。倭彦命が何をした人かさっぱりわからないが、『日本書紀』は垂仁天皇28年冬10月5日、天皇の母弟(いろど)倭彦命が亡くなったと伝えている。母弟とは、素直に読めば母の弟であり、垂仁天皇にとっては母方の叔父にあたる人物のはずだが、垂仁天皇の同母弟と見る説も多い。

桝山古墳(倭彦命の墓)の正面
桝山古墳(倭彦命の墓)の正面
改変された前方部
前方後円墳に改変された墳墓の前方部
の年の11月2日、倭彦命の亡骸は身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか、築坂)に葬られた。そのため、宮内庁では、この墓を身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)と呼んでいる。

葬の際、それまでの風習で近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めたという。しかし、数日たっても彼らは死なず、昼夜泣き呻めいた。天皇はその呻き声を聞いて心を痛め、以後殉死を禁じた。その後皇后の日葉酢媛が亡くなった時には、殉死した従者の代わりに埴輪を作らせて御陵の周りに立てさせたという。

道133号線の「橿原高校前」信号から、橿原高校へ向かう道が南に延びている。宣化天皇陵の脇を抜けて先へ進むと、鳥屋町の集落の中を細い道が続いている。集落の中には、倭彦命の墓方面の標識は見あたらない。ただ鳥屋町40番地の表示がある電柱が集落の中の十字路に立っている。その十字路を左折すれば、民家に隣接してこの墓がある。

古学的には、桝山古墳は古墳時代中期の築造で、96m×90mの我が国最大規模を誇る方墳とされている。しかし、蒲生郡平の研究の成果を利用した幕末の文久の修陵において、天皇陵など皇族の墓は前方後円墳であるとする考えに基づき、桝山古墳も前方後円墳形に外形が改変がされているという。



総計593基の円墳から成る国指定史跡「新沢千塚古墳群(にいざわせんづかこふんぐん)

新沢千塚古墳
新沢千塚古墳遠望(撮影:2005/05/30)

墳墓の群れ
韓国の土饅頭のような墳墓の群れ
復元古墳
史跡公園の中に築かれた復元古墳
鉄「橿原神宮前」駅の西口から西へ真っ直ぐ伸びる県道133号線が橿原市の川西町に入るあたりで、道路の左右に低い丘陵が迫ってくる。実は、総数で500基に近い円墳からなる日本を代表する群集墳が、この丘陵上にある。国指定史跡の「新沢千塚古墳群」である。県道をはさんで丘陵は大きく北と南に分かれているため、古墳群はそれぞれを北群、南群と呼ばれている。

道の右手にる丘陵の裾にもいくつかの円墳が見える。墳丘の草刈りが終わった後なのか、刈られた草が枯れて、まるでバリカンを入れられた頭のように、直径15mぐらいの土饅頭の円墳が列をなしているのがよく分かる。

沢千塚古墳群は4世紀の終わり頃から7世紀頃まで、実に200年以上にわたって営々と造り続けられた。古墳造りが最も盛んであったのは、5世紀半ばから6世紀前半頃だったようで、それ以降は徐々に衰退していく傾向にあったという。この地に墓を築いたのは、飛鳥の南で檜前あたりを本拠とした渡来系の東漢氏と推定されている。しかし、古代の有族だった大伴氏の葬送地であったとする説もある。

れらの円墳の中の130基ほどが、昭和37年(1962)から41年(1966)にかけて発掘踏査されている。その中で、第126号墳の木棺に納められていた副葬品は、ほとんど舶来品で、遠くサマルカンド辺りで作られたガラス碗も有り、丘を越えた所の橿原市「千塚資料館」に現在も展示されている。

群の丘陵に古墳が復元されているというので、登ってみた。丘陵の頂上付近でいくつかの円墳がビニールシートで覆われ、シートに開けられた無数の孔にイトザサが植えられていた。そうした古墳の一つは、石室が見られるように封土を剥がされていた。


2005/05/31作成by n_ohsei2004@yahoo.co.jp

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