世界の生活文化と考古美術の博物館(Tenri Sankokan Museum)
世界に布教活動を広めるには、それぞれの土地の言葉を習得するだけでは不十分だ。その土地の人々の考えや生活文化への理解が必要である。また、日本の文化に対する深い知識も持っていなければならない。こうした考えに基づいて、天理大学では諸外国の生活習慣や歴史などの知識を理解するために必要な民族資料や考古資料の収集に努めてきた。その結果、膨大な収蔵品を抱えることとなった。
3階には、2つの企画展示室の他に、「世界の考古美術」を陳列した広い部屋がある。そこでは、日本や朝鮮半島、中国、オリエントから収集された考古資料や、地元の布留遺跡からの出土品が所狭しと陳列されている。みずから「世界の生活文化と考古美術の博物館」と豪語するだけあって、その豊富な民芸品や考古出土品の多さには圧倒される。ゆっくり時間をかけて見学したい博物館の一つであるが、本日の来訪の目的は別にあった。企画展示室で開催されている「東国の古墳文化」展を見るためである。 |
畿内の古墳の変化を後追いする形で展開した東国の古墳文化
さらに、図録は面白いデータを載せている。古墳時代前・中・後期に築造された80m以上の墳丘長を有する前方後円(方)墳の数を、畿内と東国で比べた場合、以下のような数値が得られるという。 つまり、古墳時代の前期から中期にかけては畿内での築造数が圧倒的に多いが、後期には多寡が逆転する。つまり、畿内で前方後円墳の築造が頂点をすぎたころになって、東国では頂点を迎えたことになる。
しかも、東国の中でも上野(群馬県)は、古墳の数と規模および副葬品の内容の点で、他の東国地域を圧倒するという。ちなみに、墳丘長80m以上の前方後円(方)墳の数は、上記の中の51基を占め、しかも東国最大の前方後円墳は群馬県の太田天神山古墳(墳丘長210m)であることは、よく知られている。 7世紀になると、政治の中枢である畿内では前方後円墳が造られなくなり、王族クラスの墓は円墳や方墳に変わっていく。その影響は律令国家に組み入れられた東国にも及び、7世紀中頃からは古墳は築造されなくなった。
つまり、弥生時代後期の東国は、10程度の小地域に分かれ、それぞれの地域で特色の異なる土器が使われていた。だが、大和で大型の前方後円墳が築かれはじめた頃、東国の土器が畿内の土器に似た形に変化しはじめ、地方色が失われてしまった。そして、土器の変化に連動するように、東国にも前方後円墳が出現したというのだ。 東国に前方後円墳が出現する背景として、大和政権の全国統一事業の手が4世紀の前半には東国に及びつつあったことが考えられる。だが、その頃の支配力はそれほど強力ではなく、東国の有力豪族と手を組んで基盤強化に努めていた段階だった。おそらく、大和政権に服属した豪族には前方後円墳の築造をみとめ、そのための築造技術や畿内の文化を伝授するためにかなりの人間が東国に送り込まれ、住み着いたはずである。したがって文化の諸相に畿内の影響が現れるのは、当然といえば当然かもしれない。 |
古墳の副葬品に見る東国の独自性畿内の古墳文化は、おそらく怒濤のように東国に押し寄せたであろう。東国の前期古墳に副葬された鏡・玉類・銅鏃などは、同じ時期の畿内の古墳から出土するものと共通する。だが、すべてが畿内と同じというわけではない。たとえば前期古墳に副葬された石製品に畿内と東国では様相が異なるという。畿内では碧玉などで造られた腕輪が主な石製品であるが、東国で碧玉製品の出土例はきわめて少ない。
中期以降の畿内の古墳では、武器や馬具などの鉄製品が、副葬品の主な位置を占めるようになる。同様な現象は東国でも生じるが、東国を特徴づける装飾大刀として、柄頭の部分がコブシの形をした頭椎大刀(かぶつちのたち)がある。約100例の出土品のうちその8割が東日本、特に群馬県から出土している。
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東国の古墳を彩った埴輪(はにわ)たち古墳の表面に並べられた赤褐色で中が空洞の素焼製品を、埴輪(はにわ)という。埴輪の起源に関しては、『日本書紀』が興味深い話を載せている。垂仁天皇の治世32年に皇后が死亡したとき、人を墓に生き埋めにするそれまでの殉死(じゅんし)の風習を禁じ、そのかわりに野見宿禰(のみのすくね)に命じて出雲から土師部を呼び、人物埴輪を造らせて墓の周りに立てるようになったという。だが、日本には殉死の風習は確認されておらず、この話は史実を伝えたものではない。 埴輪は、円筒形をしている円筒埴輪と,動物・人物・家・器財のごとき形象埴輪に大別される。円筒埴輪およびその変形の朝顔形埴輪は墳丘の土留めにあるいは境界を示すために置かれ,形象埴輪は葬送の儀礼あるいは祭祀用に用いられ,墳丘頂上や下に置かれた。考古学的には、形象埴輪より円筒埴輪の出現の方が古いとされている。
最初に古墳に立ち並べられるようになった円筒埴輪は、弥生時代の末期に吉備地方(現在の岡山県)で墓に供えられた特殊器台(とくしゅきだい)と特殊壺(とくしゅつぼ)に由来するとする説がある。3世紀に大和地方で古墳が築造されだした頃、この特殊器台や特殊壺が採り入れられ、その後古墳時代前期を通じて円筒埴輪として変化していった。その過程で、「特殊器台」に「特殊壺」を乗せた朝顔形埴輪として変化し、円筒埴輪と朝顔形埴輪が古墳や周濠のまわりを取り囲むようになったとされている。 東国で埴輪が製作されるようになるのは、4世紀後半頃からのようだ。初期埴輪の例としては朝子塚(ちょうしづか)古墳(群馬県)から出土した円筒埴輪や盾などの形象埴輪がある。その後5世紀の前半になると、鳥などの形象埴輪の種類が増え、後半には人物と馬が加わるようになる。6世紀に入ると、畿内では埴輪は廃れ始めるが、東国では最盛期を迎える。 天理参考館に収蔵されている「髭を生やし帽子をかぶる男子」埴輪は、1870年頃古墳近くの畑から偶然掘り出されたもので、当時は仏像に似ているという理由で古墳の上にあった大日如来を祀る祠に並べられていた。それから30年ほどして、子供のいたずらで草むらに捨てられたのを、たまたま考古学者の目にとまり、当館に収蔵されることになったという。 東国独自のデザインの埴輪も造られている。貴人の日よけである翳(さしば)や奴凧(やっこだこ)の形をした(ゆぎ)、あるいは極端にデフォルメされた家の埴輪などは、その一例である。 鍬をかつぐ農民と呼ばれる埴輪は、両腕が折れて断面に円形の穴が見える。この穴は制作時に木の棒を粘土でくるんで腕を形作り、棒を抜いて胴体に取り付けたため、棒の跡が残ったためとされている。こうした技法は、東国独自のもので、東国埴輪生産の一大拠点だった埼玉県生出塚(おいでづか)埴輪窯で考え出されたと推測されている。 その他にも、茨城県の南部内陸部から数例出土した「円筒形人物埴輪」と呼ばれている埴輪がある。通常の人物埴輪は、底部を円筒形に作っても、人物の肩に向かって徐々にからだの厚みを減らして人間に似せている。だが、展示されている「腕を広げる男子」や「腕を広げる女子」と呼ばれている埴輪では、底部から頸まで円筒形のままで、肩を作っていないのが特徴である。 |
須恵器の坏(つき)に似せて作った東国独特の土器
そうした出土品の中で、不思議なものが展示されているのを見つけた。古墳時代の東国で須恵器の坏(つき)の形に似せて作った器で、模倣坏と名付けられていた。器形の変遷も須恵器の坏に準じて変化しているという。その実態は土師器(はじき)である。古墳時代後期に出現したもので、古墳への副葬に限らず、生活の中でも広く用いられたという。 それにしても、古墳時代後期と言えば、すでに6世紀に入っている。畿内では朝鮮半島からの渡来人たちが、あちこちの窯で須恵器を大量に製作していた。この時期には、関東地方にも多くの渡来人が入植していたはずだが、なぜ模倣坏など作る必要があったのだろうか。当館の学芸員の女性に聞いてみようと思いながら、いつの間にか失念していた。 |