髻華(うず)の会・記念講演会 「大化改新」と律令国家
山尾氏の基調講演を聞きたいばっかりに早々と参加申し込みを行い、今朝早く深夜高速バスを利用して橿原から帰宅した。しばらく仮眠を取った後、午前11時過ぎには家を出て会場に向かった。成城学園へ行くのに、新宿から小田急線を利用した。「成城学園前」で下車して改札を出たのは、実に35年ぶりである。 35年前の一時期、調布市入間町にあるNTT中央研修センターへこの駅から毎日のように通勤したことがある。当時勤めていた会社が海外からの技術者の研修をNTTに委託し、その通訳兼アシスタントとして約3ヶ月通った。成城は閑静な高級住宅で知られる町である。センターの近くには映画俳優・三船俊郎の三船プロダクションもあった。いずれこのような町に住めたら良いな・・・と、かなわぬ夢を抱いたものである。 その「成城学園前」駅から徒歩3分の所にある成城大学で、記念講演会は定刻の1時より若干遅れて始まった。100人以上は収容できる講義室は、ほぼ満員の盛況だった。 |
山尾説に対する疑問
講演の内容が「大化改新」に焦点が絞られていたせいか、もっと大きな歴史的展望に立って語られなかったのは残念である。律令制度の導入が「大化改新」の目的であったならば、その動きはすでに40年以上も前に始まっていたと筆者は理解している。その理由は以下の通りである。 西暦589年、中国全土を統一した隋(ずい)は律令制を導入して、中央集権専制君主制を確立した。均田制によって全国民を土地に縛り付け、府兵制によって膨大な兵士の徴発が可能になった隋は、国力を充実させていよいよ東アジアの帝国支配に乗り出す。その最初のターゲットとされたのは、朝鮮半島の高句麗である。この出兵は、自然災害のために失敗に終わった。だが、14年後には煬帝の数次にわたる高句麗遠征となって、東アジア世界を戦乱のるつぼに陥れていく。 この超大国に対抗するには、隋の制度を学び国政を改革する以外に方法はない。我が国にはそう予見できた人物がいた。それが厩戸皇子(うまやどのみこ)、後の世に聖徳太子として尊崇される人物だった、と筆者は考えている。そのために太子は何をしたか。留学生を大量に隋に派遣して、隋の制度を学ばせた。『日本書紀』には8名の遣隋留学生・留学僧が隋に赴いたと記しているが、実際はもっと大勢の若者が送り込まれた。『隋書』には数十人の留学生が海東の島国からやってきたと伝えている。 隋は高句麗遠征の失敗が原因で西暦618年に滅亡した。その後を受けた唐は、隋の制度をそのまま引き継いで繁栄の極みに達した。多くの留学生は、後世「貞観の治」として知られる唐王朝の絶頂期を長安で実見している。彼らの多くは長い留学期間を終えて、十分すぎるほど律令制度を学び取って「乙巳の変」以前に帰国してきた。632年 は僧旻(そうみん)が、640年 には南淵請安(みなみぶちしょうあん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)が帰国したことを、『日本書紀』は伝えている。 氏族の若い子弟は、帰国した彼らから新しい知識を吸収した。『日本書紀』は中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が請安の元に通って周孔の教えを授けたという。単に、儒教を学ぶために通った訳ではなかろう。二人は請安の元に通いながら道すがら蘇我氏打倒の秘策を練ったと伝えている。『大織冠伝』には蘇我本宗家の御曹司である蘇我入鹿(そがのいるか)までが、中臣鎌足とともに僧旻の私塾で勉学に勤しんだと伝えている。 煬帝の高句麗遠征の失敗で隋が滅んだにもかかわらず、唐でも、やはり第2代皇帝、太宗李世民が645年年から3回の高句麗遠征を行ない、結果は失敗している。帰国した留学生たちは、当然その遠征計画や準備を知って帰国した。再び大帝国のエゴで東アジアに吹き荒れる嵐の予感を、中大兄皇子や中臣鎌足など当時の若者に伝えたはずである。蘇我本宗家が主導する氏族合議制といった古い体制では、もはや国は成り立たぬ。彼らはそう考えたとしても不思議ではない。では、どうするのか。氏族制度を廃止して天皇を中心とする中央集権国家を樹立し、律令制度という新しい制度で国土と人民を治める・・・。これ以外に選択肢はなかった。 筆者は、「乙巳の変」が単なる皇位継承争いといった低次元で語られるべき事件ではないと考えている。帰国留学生から新しい知識を吹き込まれた若い世代が決起した世直し運動と捕らえるべきだと思っている。その証拠に、「乙巳の変」後の新しいブレーンに僧旻が国博士として参画している。いわば政治顧問である。高向玄理なども遣新羅使節など外交官として活躍している。彼ら以外にも、孝徳朝の政治に参画した帰国留学生は多くいたであろう。そのような性格を有する孝徳朝において、改新政治が何も行われなかったとは到底考えられない。 山尾説の盲点は、6世紀初めの遣隋使派遣の目的が、そもそも律令制の導入を目的とした人材育成であったことへの視点の欠落である。そうしたロングスパンで7世紀の歴史を展望するとき、孝徳朝に律令制度の導入を柱とした諸制度が行われなかったとは考えにくい。まして、白村江の敗戦が契機となって、天智朝の時代になって本格的に律令制度が確立されたとする見解には、どうしてもついていけない。それ以前に、東アジア世界は朝鮮半島を舞台にして2度にわたって戦乱を経験しているのだ。当時の世代を担う若者たちがこうした事実を、現在の政治家のように”対岸の火事”と傍観していた訳ではないだろう。 もっとも、筆者自身も孝徳朝に律令制度が一気に導入されたとは考えていない。2年や3年で国政を変革することなど無理である。律令制度は天智朝や天武・持統朝を経て段階的に完備していって大宝律令に結実したと考えたい。だが、孝徳朝に何の変革もなされなかったとは思えない。明治維新を実現させた薩長政権が明治憲法の公布にこぎつけたのは、明治22年(1889)2月である。しかし、維新政府が明治初年度から何もしなかったといったら、笑いものにされるだろう。実にさまざまな改革を手がけている。筆者は独断と偏見で、大化改新を”古代の明治維新”になぞらえている。
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