橿原日記 平成17年5月7 日

乙巳の変はあった、だが「大化改新」はなかった?!


髻華(うず)の会・記念講演会 「大化改新」と律令国家

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諸先生との質疑応答風景(H05/05/07 撮影)
華の会は本日、世田谷にある成城大学3号館の一室を借りて記念講演会を開催した。案内状によれば、最初に、立命館大学名誉教授の山尾幸久(やまおゆきひさ)氏が「大化改新を疑う」と題する基調講演がある。その後、成城大学や早稲田大学などの講師を兼任されている加藤謙吉(かとうけんきち)氏、駒澤女子大学教授の倉本一宏(くらもとかずひろ)氏、および成城大学教授の篠川賢(しのかわ)氏の3名が基調講演へのコメント講演を行い、引き続いて4教授による大化改新と律令国家に関する討論と、聴講者からの質疑に対する応答があるという。

尾氏の基調講演を聞きたいばっかりに早々と参加申し込みを行い、今朝早く深夜高速バスを利用して橿原から帰宅した。しばらく仮眠を取った後、午前11時過ぎには家を出て会場に向かった。成城学園へ行くのに、新宿から小田急線を利用した。「成城学園前」で下車して改札を出たのは、実に35年ぶりである。

5年前の一時期、調布市入間町にあるNTT中央研修センターへこの駅から毎日のように通勤したことがある。当時勤めていた会社が海外からの技術者の研修をNTTに委託し、その通訳兼アシスタントとして約3ヶ月通った。成城は閑静な高級住宅で知られる町である。センターの近くには映画俳優・三船俊郎の三船プロダクションもあった。いずれこのような町に住めたら良いな・・・と、かなわぬ夢を抱いたものである。

の「成城学園前」駅から徒歩3分の所にある成城大学で、記念講演会は定刻の1時より若干遅れて始まった。100人以上は収容できる講義室は、ほぼ満員の盛況だった。



山尾教授が「大化改新」を疑う根拠

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昭和15年の文部省国定教科書「尋常科用 小学国史」
尾幸久教授は、講演の冒頭にまず、国民的に刷り込まれた「乙巳(いっし)の変」と「大化改新(たいかのかいしん)」の癒着について触れられた。そして、こうした国民的な理解が一般化している原点を、昭和15年に文部省が策定した国定『尋常科用国定小学国史』を引用して説明された。乙巳の変とは、西暦645年6月12日、皇極天皇の飛鳥板蓋宮の大極殿で蘇我入鹿(いるか)を誅殺し、さらに父親の蘇我蝦夷(えみし)を自殺に追い込んで、蘇我本宗家を滅亡させた事件である。

時の国定教科書は、「その直後、皇極天皇が弟の軽皇子(かるのみこ)に位を譲り、クーデターの首謀者だった息子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)を皇太子に立てた。皇太子は登極した孝徳天皇を助けて大いに政治改革を行った。この改革を、このとき初めて定めた年号をとって「大化改新」と呼ぶ」、としている。つまり、乙巳の変とそれに続く国政改革を「大化改新」として教えてきた。そして、戦後の学校教育でも同様なことを学生たちに教え込んでいる。

尾教授は、こうした「乙巳の変」と「大化改新」との癒着に決別して、別の出来事として理解すべきであることを強調された。それができないのは、史書に記述された”資料的事実”と”歴史的事実”を区分しないで、研究よりも前に権威ある「歴史」を信じる風潮が、一般のみならず歴史学会内にもあると苦言を呈された。その上で、『日本書紀』の孝徳紀に記された大化の改新と称される一連の制度改革が大化年間に実行されたとするには無理がある、とする自説を要領よく説明された。

分の不勉強を棚に上げて申し訳ないが、今まで山尾氏の著作を読んだことがない。山尾氏は「乙巳の変」が実際に行われたクーデターだったことを否定しておられない。では何故「大化改新」はなかったとするとの説を立てられているのか。その説がどのような根拠に基づくものか、非常に興味を持った。今回の講演会に参加を決意した最大の理由はここにあった。


山尾教授あ
講演される山尾教授
尾氏の講演およびレジメの内容から判断すると、氏の「大化改新」論の出発点は、どうやら孝徳朝に出された詔(みことのり)に対する疑問にあるようだ。『日本書紀』の孝徳紀には645年から647年にかけて天皇が下した11の詔が記されている。氏の研究によれば、これらの詔はいずれも和化漢文で書かれた宣命(せんみょう)として群臣の前で読み上げた形をとっているという。

ころが、日本語の表記法の発達史から見ると、漢字の音訓交用の和化漢文は西暦663年の白村江の敗戦の後に我が国に亡命してきた百済知識人の「朝鮮俗漢文」を応用したものである。この和化漢文が一般化するのは、670年ごろからで、乙巳の変前後の640年代までさかのぼることはない。また宣命の形で群臣の前で読み上げることも640年代にはあり得なかったとのことだ。

こで、山尾氏は、我が国に国家制度として律令制度が本格的に導入されるのは、孝徳朝ではなく、天智朝の時代であるとする自説を展開される。その理由として、白村江の敗戦を経験し国家存亡の危機に直面して、初めて制度の改革を痛感するようになったことを挙げられる。資料的事実で言えば、『日本書紀』には668年には「近江令」が制定され、670年には「庚午年籍」に着手したことが記録されている。『日本書紀』以外の文献、たとえば『大織冠伝』、『続日本紀』、『懐風藻』などにでも、近江朝廷で大宝律令の起源となる律令成文条項が制定されたことをうかがわせる記述が散見する。こうした点を総合的に判断すれば、”大化改新はなかった、あったのは天智朝での改新だった”と言わざるをえない、というのが山尾説の骨子のようだ。

は、なぜ天智紀で律令制度導入に伴う諸制度改革の記述が少なくて、孝徳紀に集中するのか? こうした疑問に対して、教授は実に巧妙な答えを用意されていた。『日本書紀』が編纂された奈良時代の初めは天武系皇子が我が世の春を謳歌していたが、天智系皇子は冷や飯を食わされていた時代である。そんな時代に天智天皇の業績を評価するような史書が記述されるはずがない。『日本書紀』編纂局はなんらかの政治的な意図で、天智天皇の治績を格下げするために孝徳紀に移し替えた可能性がある、云々。

して、『日本書紀』の編纂が50年遅れて770年代以降に完成していたら、『日本書紀』の「近代史」(舒明〜持統)の中身は大幅に違っていたかもしれない、と付け加えられた。何故なら、天智天皇の孫の白壁王(しらかべのおおきみ)が770年11月に光仁天皇として即位し、以後天智系が復権することになったからである。



山尾説に対する疑問

入鹿誅殺の場面
多武峰縁起絵巻−入鹿誅殺の場面
尾氏の講演は、最近拝聴した講演の中では非常に論旨が明快で説得力があった。用意されたレジメも、今までの研究の成果を物語るように、非常に要領よく纏められていた。その意味では今日の講演会参加は非常に勉強になった。だが、山尾氏の講演を聞きながら、釈然としないものを感じたのも事実である。

演の内容が「大化改新」に焦点が絞られていたせいか、もっと大きな歴史的展望に立って語られなかったのは残念である。律令制度の導入が「大化改新」の目的であったならば、その動きはすでに40年以上も前に始まっていたと筆者は理解している。その理由は以下の通りである。


西暦589年、中国全土を統一した隋(ずい)は律令制を導入して、中央集権専制君主制を確立した。均田制によって全国民を土地に縛り付け、府兵制によって膨大な兵士の徴発が可能になった隋は、国力を充実させていよいよ東アジアの帝国支配に乗り出す。その最初のターゲットとされたのは、朝鮮半島の高句麗である。この出兵は、自然災害のために失敗に終わった。だが、14年後には煬帝の数次にわたる高句麗遠征となって、東アジア世界を戦乱のるつぼに陥れていく。

の超大国に対抗するには、隋の制度を学び国政を改革する以外に方法はない。我が国にはそう予見できた人物がいた。それが厩戸皇子(うまやどのみこ)、後の世に聖徳太子として尊崇される人物だった、と筆者は考えている。そのために太子は何をしたか。留学生を大量に隋に派遣して、隋の制度を学ばせた。『日本書紀』には8名の遣隋留学生・留学僧が隋に赴いたと記しているが、実際はもっと大勢の若者が送り込まれた。『隋書』には数十人の留学生が海東の島国からやってきたと伝えている。

は高句麗遠征の失敗が原因で西暦618年に滅亡した。その後を受けた唐は、隋の制度をそのまま引き継いで繁栄の極みに達した。多くの留学生は、後世「貞観の治」として知られる唐王朝の絶頂期を長安で実見している。彼らの多くは長い留学期間を終えて、十分すぎるほど律令制度を学び取って「乙巳の変」以前に帰国してきた。632年 は僧旻(そうみん)が、640年 には南淵請安(みなみぶちしょうあん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)が帰国したことを、『日本書紀』は伝えている。

族の若い子弟は、帰国した彼らから新しい知識を吸収した。『日本書紀』は中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が請安の元に通って周孔の教えを授けたという。単に、儒教を学ぶために通った訳ではなかろう。二人は請安の元に通いながら道すがら蘇我氏打倒の秘策を練ったと伝えている。『大織冠伝』には蘇我本宗家の御曹司である蘇我入鹿(そがのいるか)までが、中臣鎌足とともに僧旻の私塾で勉学に勤しんだと伝えている。

帝の高句麗遠征の失敗で隋が滅んだにもかかわらず、唐でも、やはり第2代皇帝、太宗李世民が645年年から3回の高句麗遠征を行ない、結果は失敗している。帰国した留学生たちは、当然その遠征計画や準備を知って帰国した。再び大帝国のエゴで東アジアに吹き荒れる嵐の予感を、中大兄皇子や中臣鎌足など当時の若者に伝えたはずである。蘇我本宗家が主導する氏族合議制といった古い体制では、もはや国は成り立たぬ。彼らはそう考えたとしても不思議ではない。では、どうするのか。氏族制度を廃止して天皇を中心とする中央集権国家を樹立し、律令制度という新しい制度で国土と人民を治める・・・。これ以外に選択肢はなかった。

者は、「乙巳の変」が単なる皇位継承争いといった低次元で語られるべき事件ではないと考えている。帰国留学生から新しい知識を吹き込まれた若い世代が決起した世直し運動と捕らえるべきだと思っている。その証拠に、「乙巳の変」後の新しいブレーンに僧旻が国博士として参画している。いわば政治顧問である。高向玄理なども遣新羅使節など外交官として活躍している。彼ら以外にも、孝徳朝の政治に参画した帰国留学生は多くいたであろう。そのような性格を有する孝徳朝において、改新政治が何も行われなかったとは到底考えられない。

尾説の盲点は、6世紀初めの遣隋使派遣の目的が、そもそも律令制の導入を目的とした人材育成であったことへの視点の欠落である。そうしたロングスパンで7世紀の歴史を展望するとき、孝徳朝に律令制度の導入を柱とした諸制度が行われなかったとは考えにくい。まして、白村江の敗戦が契機となって、天智朝の時代になって本格的に律令制度が確立されたとする見解には、どうしてもついていけない。それ以前に、東アジア世界は朝鮮半島を舞台にして2度にわたって戦乱を経験しているのだ。当時の世代を担う若者たちがこうした事実を、現在の政治家のように”対岸の火事”と傍観していた訳ではないだろう。

っとも、筆者自身も孝徳朝に律令制度が一気に導入されたとは考えていない。2年や3年で国政を変革することなど無理である。律令制度は天智朝や天武・持統朝を経て段階的に完備していって大宝律令に結実したと考えたい。だが、孝徳朝に何の変革もなされなかったとは思えない。明治維新を実現させた薩長政権が明治憲法の公布にこぎつけたのは、明治22年(1889)2月である。しかし、維新政府が明治初年度から何もしなかったといったら、笑いものにされるだろう。実にさまざまな改革を手がけている。筆者は独断と偏見で、大化改新を”古代の明治維新”になぞらえている。



2005/05/07作成by n_ohsei2004@yahoo.co.jp return