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| 橿原神宮の深田池から望む葛城山(右)と金剛山(左)(H17/05/03 撮影) |
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いつかは自分の足で歩いてみたい、長い間そう思い続けてきた古道がある。大和盆地の西にそびえる金剛山(海抜1125m)と葛城山(海抜959m)の鞍部にある水越峠(みずこしとうげ)を越えて大阪府の富田林市へ続いている道である。穴虫峠越えや竹ノ内街道ほど知名度は高くないが、この峠越えの道は、古代から大和葛城と南河内を結ぶ重要な往還だった。 毎朝の散歩で、橿原神宮の深田池の縁から眺める葛城・金剛の山並みはいつ見ても美しい。いつか自分の足で両山の鞍部を越える道を歩いてみたいと思うようになった。その思いが最近は義務感に変わった。馬齢を重ねるにつれて、体力の衰えを痛感しだしたからだ。今朝は、晴れ渡った空の下で、朝日を真っ正面に受けた葛城・金剛山の稜線がくっきりと見えた。その山容が私を誘っているように見えた。そのうち天の声のようなものが聞こえた。「今日こそチャレンジして見ませんか」と・・・ |
旅の起点:室の大墓と呼ばれている室宮山古墳
葛城・金剛の山麓を走る国道24号線は、「宮戸橋」交差点で、国道309号線と交差する。その交差点から400mほど東に行った所に、室宮山古墳が前方部を西に向け国道に沿うように長々と横たわっている。本日の葛城・金剛越えにこの古墳を起点に選んだのには、理由がある。 全長238mを誇る室宮山古墳は、巨勢山古墳群の中で最大規模の前方後円墳として知られている。5世紀前半の築造とされる古墳の被葬者は、考古学的には特定されていない。しかし、葛城・金剛山の東山麓に盤踞したとされる葛城一族の長、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ、以下”ソツヒコ”と略称)の墓であるという従来からの説が根強い。 室宮山古墳の東に、応神天皇を祭神として祭る八幡神社がある。この場所は孝安天皇の室秋津島宮の跡地に比定されていて、境内に宮址の碑が建っている。何故か神武天皇遙拝所の碑まで境内の隅にある。 神社の拝殿横から古墳の後円部に上る小道が続いている。頭上を鬱蒼と覆う常緑樹の根本を縫って墳頂まで上り詰めると、植林された木々がまだ若いせいか、そこは意外に明るい。高さ142.6cmの靫形埴輪(ゆきがたはにわ)のレプリカが立っており、その横に竪穴式石室の入り口が露出している。露出した部分から、石室内に安置された誇大な長持ち型の組み合わせ式石棺を見ることができる。
「ソツヒコの霊よ、君がまだこの墓に留まっているなら、かって君が何回も往復したはずの水越峠の道を一緒に歩いてみる気はないか」 私には、ソツヒコにいろいろ確かめたいことがあった。本日の水越峠越えに同道してくれるなら、道すがらさまざまな疑問をぶつけることができる。この古墳を本日の出発点に選んだのは、実は彼の霊に呼びかけてみたかったからである。 むろん、ソツヒコからの返答はなかった。しかし、気のせいか、背負ったリュックの重みが少し増したような気がした。目には見えないが、ソツヒコの霊が背中に飛び乗ったのであろう。
墳丘から西を見ると、葛城・金剛山が間近に見える。 |
関屋谷に架かる滝の尾橋から大和盆地を眺める
「どこか見晴らしのよい場所はないか? 大和盆地を見てみたい」 ここまで上ってくるまでに、何度も後ろを振り返ってみたが、生い茂る樹木に邪魔されて盆地が見下ろせる適当な場所はなかった。しかし、坂道を上りながら、気になっている場所があった。山腹の途中で緩やかな弧を描いてわん曲している橋の姿が、ときどき見え隠れしていた。その名を滝の尾橋という。あの橋の上に立てば、見晴らしはきっと素晴らしいにちがいない。 滝の尾橋は水越トンネルに向かう新道の途中にある。分岐点からそれほどの距離でもなさそうなので、分岐点を通り越して先へ進んだ。ほどなく、関屋谷に架かる巨大な滝の尾橋が見えてきた。橋は空中でゆったりと放物線を描いていた。新道の水越トンネルを抜けてきた車がひっきりなしに、かなりのスピードで橋を下ってくる。橋の上に立つと、大和盆地が一望できた。 ソツヒコの瞳にうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。尋ねもしないのに、「あれが巨勢山、あれが葛城川・・・」と盆地に点在する山川を指し示した。橋の上からは、遠方の大和三山の姿も確認できた。ソツヒコは欄干から身を乗り出すようにして長柄から森脇あたりを探している様子だった。だが、樹木の生い茂った丘陵がせり出して、その一帯は見えない。 長柄から森脇にかけての一帯は、葛城氏の高殿があったあたりで、当時は高宮と呼ばれていた。ソツヒコの娘の磐之媛(いわのひめ)が詠んだ歌に「我が見が欲し国は 葛城高宮 我家(わぎえ)のあたり」とある。 大和盆地を見下ろした瞬間、1600年という時間の隔たりなど一瞬で吹き飛んだのかもしれない。問いもしないのに、彼は大王の命令で初めて朝鮮半島に赴いた日のことをポツリポツリと話し出した。その声は家族を慕う懐かしさで震えていた。 彼に与えられた任務は、帰国する新羅の奈勿王(なぶつおう)の子・未斯欣(みしきん)の警固隊長として、王子を無事に新羅の王都まで護衛することだったとされている。当時の朝鮮半島南部は、南下してきた高句麗の軍勢と百済や伽耶諸国から支援を求められて派遣された倭軍が対峙し、常に小競り合いが続いていた。『三国史記』という韓国の史書によれば、そんな情勢の中で、西暦402年(新羅の実聖王元年)新羅と倭の講和が成立し、新羅は未斯欣を質として送り込んでいた。 それ以来16年、未斯欣は我が国で人質として暮らしてきた。しかし、西暦418年、新羅は朴堤上(ぼくていじょう)を大使とする使節を我が国に派遣してきた。朴堤上は人質奪還の密命を国王から受けていた。彼は策略によって未斯欣の一時帰国の許可を大王から取り付けた。そして、帰国する船に未斯欣と警護兵を同乗させることで、はやばやと大和川を下り、難波津に向かった。 一行に合流するため大和を発つ前の日、ソツヒコは久しぶりに妻の館を訪れ、一人娘の磐之媛を挟んで川の字に寝ながら最後の夜を過ごした。だが、娘が寝入ったのを見届けると、妻がにじり寄ってきて明け方までまぐあったという。妻にとってみれば、朝鮮半島は想像もつかない遠国である。あるいはこの夜が今生の最後の別れになるかもしれない。そうした思いが、彼女を激しく燃え立たせたのであろう。 明け方、山霧が立ちこめる中を、迎えに来た従者を従えてソツヒコは妻の館を後にした。旅だっていく父親を笑顔で見送りなさいと、妻は優しく娘に語りかけていた。だが、母の言葉の意味が分からないのか、娘は妻に抱かれて泣きじゃくっていたという。長い別れになることを予感していたにちがいない。その声は山霧で親子の姿が見えなくなっても、後ろ髪を引くように聞こえていた・・・と、ソツヒコは述懐した。後に、仁徳天皇に皇后として迎えられ、履中・反正・允恭の3人の天皇を生むことになる磐之媛は、まだ5歳に満たない幼子だった。 |
旧道に分け入り、ジグザグの山道を登る午前10時5分、分岐点まで戻って、旧の国道309号線に入った。旧道は水越川の上流に沿って峠へと続く単線道路である。新道ができて、道路保全に身が入らなくなったのか、アスファルトの舗装にひび割れが目立つ。見上げると山肌に幾重にも白いガードレールが横切っている。今までひっきりなしに流れていた車も、旧道に入ってくる様子がない。旧道を行く昔の旅人は、谷川のせせらぎを聞き、時折近くの梢でさえずる鳥の声に耳を傾けながら、深い森の中に立ち入ったにちがいない。
旧道に入ってすぐの所で、石垣に案内板が垂れ下がっていた。神社の説明が書かれている。それによれば、この石垣の上に鎮座しているのは、天水分神(あめのみくまりのかみ)と国水分神(くにのみくまりのかみ)を祀る式内社・葛木水分神社(かつらぎみくまりじんじゃ)である。大和国には古くから吉野、宇陀(うだ)、都祁(つげ)、およびこの葛木の4箇所に水分(みくまり)社があり、その中の一つだそうだ。祭神は田畑の灌漑を司る水にちなんだ農業神で、古くから尊崇されていて、貞観元年(859)正月27日には、正五位下に叙せられたという。 矢印に従って上っていくと、アラカシやシラカシ、マデバシイなどの常緑樹の枯れ葉が散乱している参道の先に、桁行3軒、梁行1軒半の拝殿があった。その奥に樹木に覆われた春日造りの本殿がある。境内の雰囲気から判断して、それほど手入れが行き届いている神社にも見えなかった。 参道の石段に腰をかけて、小休止をとった。散らばった枯れ葉の上に木漏れ日が縞模様を作っている。風もないのに、時折木の葉がヒラヒラと舞いながら落ちてきた。落ちた葉を見ると、まだ緑色をしている。今はカシなどの常緑樹の衣替えの時期なのだろう。新芽に道を譲って古い葉が梢を離れる。必ずしも枯れたから落ちてくる訳ではないようだ。
「警護隊長に任命されて、嬉しかったか?」 先ほどの出発の朝の話の続きを聞きたかった。あの朝、ソツヒコは数人の従者を連れて、朝霧の中を馬でこの峠道を上っていったに違いない。若き妻や幼子との別れはやはり辛かったはずである。そうした返事が返ってくることを期待した。だが、ソツヒコの返事はいかにも武人らしかった。 10時17分に葛木水分神社を出発したが、その後はつづら折りの坂道がずいぶんと続いた。かなりの高みまで上ったと思う頃、前方に水越トンネルの入口が見えた。トンネルの上まで来ると、もう一つのトンネルが見えた。関屋トンネルである。長さ202mの関屋トンネルは、小さな谷を挟んで全長2、370mの水越トンネルに続いている。旧道はトンネルの上を通って峠へと続いている。この付近からも宅地開発の波が押し寄せている巨勢山(こせやま)を望見できる。あのあたりは巨勢山古墳群があることで知られている。 |
祈りの滝から水越峠へ
小さな祠の背後の赤茶けた岩肌を流れ下っているのが「祈りの滝」である。落差は11mほどあるが、水量は乏しい。以前はもっと水量があった。この付近の土質は、神戸の六甲山と同じく花崗岩の破砕帯なので、わき水は六甲のミネラルウォーターと同じように大変良質とのことだ。だが、水越トンネルの工事の影響で水が枯れてしまった。利用者の要望から、地元土木局が水脈を探し、滝を復活させたとのことだ。ちなみに、トンネル工事では当初は日量6000トンのわき水がわき出し、そのわき水を止めるために大変な難工事だったと聞いている。現在でも、日量2000から1500トンもの良質な水がわき出しているという。 六甲の名水ならぬ水越の名水を持ち帰る利用者の便をはかって、滝の近くに水道の蛇口に似た取水口が設けられてある。ポリの容器を持って毎日ここへ取水に来る地元の人は多いらしい。たまたまポリ容器に取水している男性に声をかけると、この水でコーヒーを湧かしたりご飯を炊くと、他の水はとても使えないという。それほどミネラル分が多くて美味しいと言いたいのだろう。少し飲んでみたらと勧めるので、手ですくって口に入れてみた。残念ながら、味音痴の舌には他の水との違いはあまり分からなかった。 道の反対側は、水越川の砂防事業に伴って公園として整備された親水空間が広がっている。石積堰堤が多く設けられていて、堰堤上にできた砂溜りの浅い河原に親水デッキがあり、ピクニックに来た家族連れでにぎわっていた。道路の端に立って、ソツヒコは水遊びに興じる子供たちをまぶしそうに見ていた。だが、彼の目に映ったのは、1600年の昔、磐之媛や他の男子の子供たちと共に葛城川の川原で楽しく過ごした光景だっただろう。 そのソツヒコが、突然空を指さして大きな声を発した。何事かと空を見上げると、雲一つなく晴れ渡った青空を切り裂くように、ジェット機雲が一直線に延びていた。その先頭を銀色の翼を光らせた飛行機が音もなく飛んでいる。おそらく関西国際空港から飛び立って関東方面へ向かう国内便であろう。 「怪鳥だ! 怪鳥だ!」と、ソツヒコは刀の柄に手をかけながら、大空に向かって叫んでいる。それが鳥ではなく、現代の乗り物であることを納得させるのは大変だった。対向線を疾走してくる車に対してすら、最初は身構えた古代人である。迷い出た時代が余りに違っていて、ソツヒコはさぞかしカルチャーショックを受けているであろう。
「そうさな、曲がりくねった道だが、せいぜい2キロってとこかな」 礼を言うと、その男はさらに付け加えてこう言った。 「途中、車が駐車しているところがあるから、注意しろよ」 「?」 彼の忠告の意味が理解できなかった。それが理解できたのは峠付近に来たときである。 水越峠は標高517mで、金剛山と葛城山の鞍部にあたる。なぜ「水越」というのか、地名の由来は知らない。しかし、地勢上では河内方面に流れるはずの水を、人工的に奈良側に行くようにしてあることにどうやら関係があるのかもしれない。水越川の上流の水利権は、古くから奈良側に属する。元禄年間には深刻な水争いが河内と奈良の間で起こったという。なお、河内側も奈良側も、旧道沿いに流れ下る川を同じように「水越川」と呼んでいる。 その水越峠に近づくにつれて、道路脇に駐車中の車が増えてきた。それが半端な数ではない。何百台と連なっているのである。しかも、いずれの車にも搭乗者はいない。峠付近で何か特別の催しでもあるのだろうかと気になった。祈りの滝でドライバーに駐車中の車に注意しなさいよ、と言われた理由がやっと理解できた。狭い道幅の片側が駐車で占領されているため、峠を上ってくる、または下ってくる車を避けるには、路肩に身を寄せなければならない。 駐車中の車はすべて、、ダイトレに出向いてきたハイカーたちのものであることに、やっと気づいた。ダイトレとは、ダイヤモンドトレールの略で、金剛葛城山系の稜線を縦走する長距離自然歩道のことをいう。北は奈良県香芝市の屯鶴峯(とんずるぼう)から、南は大阪府和泉市の槇尾山(まきおさん)に至る全長45kmの縦走路である。 水越峠は金剛山の山頂に登るにも、葛城山の山頂に登るにも格好の場所にある。ここからだと、いずれの山頂にもゆっくり歩いて2時間足らずで行けるという。国道309号線の旧道では、余り車に出会わなかったわけである。ほとんどの車はおそらく夜明けを待ってこの峠を目指して旧道を上ってきたに違いない。 午前11時20分、駐車中の車に気を取られながら進んでいくと、今までの上り坂がいつの間にか下り坂に変わっている。車の脇に標識が立っていて、「大阪府」と書いてある。どうやら水越峠に到達したようだ。だが、実感が湧かない。水越峠であることを示す標識も、海抜を示す標識も、周囲には見あたらない。峠に立てば、南河内平野が一望できるのでは、と期待したが、植林された杉の木立に阻まれて、前方には何も見えない。見えるの下りの坂道に延々と駐車しているマイカーの列である。いずれの車も「和泉」や「なにわ」のナンバープレートをつけている。 |
長い坂道を下りながら、ソツヒコは事件の全貌が語る
峠道を下り始めてしばらくすると、バス停があった。金剛バスの「水越峠」停留所である。運行表を見て驚いた。この終着駅までバスが運行されるのは、土・日・祝祭日だけで、しかも午前中は8時55分と10時25分の2回、午後も14時55分と16時25分の2回だけである。マイカーなしで週末にダイトレに来る客を意識した運行になっている。 さらに下っていくと、水越トンネルの富田林側出口に出た。時計を見ると12時18分だった。約1時間をかけて水越峠から下ってきたことになる。トンネルの出口近くで国道309号線の新旧道路がやっと合流した。そこからまた、交通の激しい、しかし相変わらず下りの坂道が続いている。道路の脇を、こちらも水越川と呼ばれる細流が平行して流れていた。
単調な山村風景が続く坂道だったので、私はソツヒコに声をかけた。
「それでは、まず聞きたい。君が新羅の王子・未斯欣を送り届けるために朝鮮半島に赴いたのは何時のことか?」 未斯欣が新羅に逃げ帰ったという伝承は、我が国の『日本書紀』にも、韓国の史書『三国史記』と『三国遺事』にも、同じように記載されている。そして、彼我の史書が同じ事柄を記録していることから、この伝承は史実に基づくものと、一般には理解されている。ただし、人名や時期に関しては、違いがある。例えば、『日本書紀』は神功摂政5年の記述でこの出来事を述べているが、『三国史記』では納祗王(ヌルジワン)2年(西暦418年)、『三国遺事』では訥祗王10年(西暦425年)に未斯欣が倭から逃げ帰ったと伝えている。(『日本書紀』に記された葛城襲津彦の伝承参照)
「しょせん、歴史書というものはそのようなものでしょう。我々の時代は語り部が昔の話を伝えていた。だが、語る人間によって中身は随分違っていた。時代が下れば、誰も本当の年代など分からなくなってしまう」 応神天皇は庚寅(かのえとら)の年に軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)で即位し、41年間在位したとされている。通常、干支の庚寅年は西暦270年に当てられる。しかし、応神天皇の在位は四世紀末から五世紀初頭とする見解が、現在は一般的である。通説にしたがって干支を二運下げれば、応神天皇は西暦390年に即位したことになる。この場合、治世29年目とは西暦418年となり、ソツヒコは『三国史記』が事実を記していると言っているようだ。
「ところで、君は対馬で朴堤上の策略にはまって、未斯欣をみすみす逃してしまったようだが、朴堤上とはどのような人物だったのかね。半島の史書では、国に背いて倭国に逃亡した人物として描いているが・・・」
「麻呂には、外国使節を処罰する権限は与えられていない。やむを得ず、大王に処断していただくべく使節たちを捕らえてヤマトへ送った」 「それで、君は彼らを護送してヤマトへ戻ってこなかったのかね」 「麻呂は、もう一つの重要な使命を受けていた。安羅国に駐在している倭国兵たちの司令官の交代だ」 彼の話では、西暦400年に新羅の軍事支援要請を受けて高句麗軍が南下してきて以来、半島南部は長年にわたって小競り合いが続いていた。それ以前に、新羅に対抗するために百済や加耶諸国に乞われて軍隊を半島に送り込んだ倭は、一時的に新羅の王城を占拠するほどの勢いだった。しかし、高句麗軍によって新羅から駆逐されて安羅国まで退いた倭軍は、新羅を属国化して領内に駐屯すると高句麗の軍団としばしば戦火を交えていた。ソツヒコは倭軍の新しい司令官に任命され半島に渡る途中だった。新羅王子の一時帰国に同道してきたのは、いわば片手間の仕事のようなものだった。ソツヒコはそのまま対馬から半島へ渡ったと語った。
新しく着任した司令官の最初の仕事は、策略を持って人質を奪還した新羅に対して懲罰を加えることだった。ソツヒコは、安羅に常駐する兵の一部を率いて、金官伽耶国の多大浦(たたらのうら、現在の釜山の南)に布陣して、未斯欣を返すよう要求した。だが、新羅から何の返答もなかったので、草羅城(さわらのさし、現在の慶尚南道梁山)を攻め、これを攻め落としたという。草羅城を守っていたのは新羅と高句麗の混成軍だった。敵軍との激しい戦闘の様子を、ソツヒコはまるで昨日のできごとのように語った。 草羅城を攻略したことで、新羅側は降伏した。しかし、再三に渡って未斯欣を渡すように要求したにもかかわらず、新羅は応じず、代わりに美女二人を送りつけてきた。敵に愚弄されたと知ったソツヒコは、その美女を公衆の面前で処刑し、城に火を放ち、城内にいた新羅人を捕虜としてことごとく金官加耶に連行した。さらに、捕虜の中から鋳造師など手に職を持つ工人たちを選び出すと、船でヤマトへ送った。彼らは葛城の桑原・佐味・高宮・忍海(おしぬみ)に土地を与えられ、そこに住み着いた。これらの工人たちがもたらした手工業技術で、やがて葛城氏はヤマト最大の豪族に成長していくが、それはもう少し後の時代である。
「言い伝えでは、君は新羅の美女を受け入れて、金官伽耶に引き返して金官国を滅ぼしたことになっている。金官伽耶の王族は百済に亡命し、王の妹はヤマトにやって来て君の乱暴ぶりを大王に訴えた。大王は大いに怒り、木羅斤資(もくらこんし)を派遣して、金官国を回復させたというが、実際はどうだったの?」
「面白い糒(ほしいい)ですね」 ソツヒコの時代、米を蒸かして乾燥させたものを携帯食として袋に入れて持ち歩き、水やお湯でもどして食べていた。これを「糒(ほしいい)」とか「枯飯(かれいい)」と呼んでいた。彼は珍しそうに、海苔を巻いた握り飯を眺めていたが、やがてパクリと食らいついた。特に旨いとか不味いとか言った印象は、彼の口から聞けなかった。 千早赤坂村の標識を過ぎて国道309号線を下っていくと、平行して流れる水越川の水流も少しは増えてきたようだ。せせらぎの音が耳にかしがましい。 道の駅「ちはやあかさか」まで残り2kmのところに、年金福祉事業団が運営する公園墓地「千早赤坂メモリアルパーク」がある。その手前の道路脇に、赤城館(せきじょうかん)という名の喫茶店が目に入ったので、しばらく休憩することにした。店に入っていくと、一人の年配者が手を挙げて私を呼んだ。実は、先ほど昼食を食べているとき、彼は私に声をかけて先に坂道を下っていった。 彼と同じテーブルに座ってアイスコーヒーを注文すると、問いもしないのに、彼はいろいろな事を話し始めた。話の内容から推して千早赤阪村の住人らしいが、驚いたことに、今まで2000回以上も金剛山に登ったという。すでに75歳らしいが、その顔つきからはとてもそれほどの老人とは思えない。登山愛好家のグループに属し、25年前から金剛山の山歩きを始めたそうだ。今日も、歩いて1125mの金剛山頂まで登り、水越峠から下りてきたという。世の中には、随分と贅沢な余暇の過ごし方をしている人間がいるものだと感心した。 午後1時30分、赤城館の喫茶店を出て、また国道309号線の坂道を下る。右手の丘陵の上にグロワール・ゴルフのクラブハウスが見えた。午後2時、国道309号線と県道27号線の分岐点まで降りてきた。この付近は千早赤坂村の水分(すいぶん)という集落らしい。そのまま国道を行くと、やがて左手に建分水神社(たけみくまりじんじゃ)の前に出た。
建分水神社は延喜式神名帳にも記載されている古社である。崇神天皇5年に金剛山の山麓に水の分配を司る神を祀ったのがこの神社の起源とされている。以前は下の宮というところに祀られていたが、元弘の役(1331年)で焼失してしまった。建武元年(1334年)に後醍醐天皇の命を受けて、楠木正成が現在の場所に再建したと伝えられている。 この神社の鳥居の前に立つと、急な石段が拝殿に向かって続いている。拝殿の奥のさらに高い位置に本殿が建っている。この本殿は春日造りだが、左右に流造りの社殿と渡り廊下で連絡されていて「水分様式」と呼ばれている。祭神として、本殿は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を、左殿には天水分神(あめのみくまりのかみ)と罔象女神(みずはのめのかみ)を、また右殿には国水分神(くにのみくまりのかみ)をそれぞれ祀っている。木々の枝が邪魔して本殿の建物はよく見えないが、水分様式建築の中でも精巧を極めたもので、建築工芸上の模範とされているらしい。昭和25年には、国の重要文化財に指定された。 南木神社は、楠木正成の衣冠束帯の木像を神体として祀る神社である。建武3年(1336)神戸市湊川の戦いに敗れて正成が自害して果てた後、彼の功績を後世に伝えるために、後醍醐天皇はこの神社の創建と神像の製作を命じたという。昭和9年の第一室戸台風で社殿が大破したため、現在のものは昭和15年に再建された建物である。
境内の脇に広々とした休憩所がある。その縁台に手足を伸ばして横になると、涼しい風が汗ばんだ肌に気持ちがよい。『日本書紀』はその後もソツヒコが朝鮮半島に渡ったことを記している。縁台の端に腰を下ろしたソツヒコに向かって、また質問をぶっつけた。 「120県の民とは、また大仰な・・・。そんな大勢の民を列島に運ぶ舟など当時はなかった。最初に渡来してきた弓月君の民は、せいぜい200人程度にすぎなかったと思う。彼らは百済の民だから、新羅が移住を邪魔したわけではない。彼らはもともと新羅領の住人だ。度重なる戦乱を避けるために集団移住を決意した。だが、首長の弓月君が最初にヤマトに渡った後、彼らの間で内紛が起きた。すべての者が弓月君に従って倭国移住に同意していた訳ではない。生まれ育った土地を離れたくないとするものも多かった。新羅はその亀裂を利用してさかんに引き留め工作を行なった。その工作が功を奏して、ほとんどの者が居残ることに心変わりしてしまった。結局、彼らの気持ちを翻すのに3年を要してしまった」 ソツヒコが連れてきた渡来人の中には、蚕養や機織り、金工、土木などに優れた技術を持った者が多かった。彼らは最初、大和の朝津間の脇上(わきがみ)に居住させられた。しかし、5世紀中頃には彼らの一部が脇上から山背の深草に進出し、5世紀後半にはさらに深草の地から葛野にその本拠を移したとされる。 その後、波状的に何回も渡来が繰り返され、朝鮮半島南部からずいぶん多くの人間が渡来してくるようになった。こうした渡来人は臣(おみ)や連(むらじ)の姓をもつ氏族のもとに分散して居住させられた。後の雄略大王の時代になると、秦造酒(はたのみやつこ・さけ)という人物が、彼らを秦の民として管理するようになった。こうして古代豪族・秦氏は誕生した。その先鞭をつけたのはソツヒコの働きだったと言えるであろう。 |
道の家、楠公誕生地、千早赤坂村立資料館
道の駅の隣接して、駐車場の奥に楠木正成誕生の地を示す石碑が建っている。その左隣は村立郷土資料館である。楠木正成は、永仁2年(1294)ここ千早赤坂村の水分(すいぶん)で生まれたとされている。元徳3年(1331)、鎌倉幕府に対抗するため、正成は下赤坂城で挙兵したが、城は鎌倉勢に奪われてしまった。翌年、正成は上赤坂城を築いて下赤坂城を奪回すると、元弘3年(1333)には長期間千早城に立て籠もって鎌倉勢を悩ました。鎌倉勢が正成に苦戦してい間に、新田義貞は鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府を滅ぼしてしまう。 こうして、正成は鎌倉幕府滅亡の功労者として、後醍醐天皇から検非違使に任命され、建武の中興の中心になっていく。しかし、天皇の政治に疑問を持った足利尊氏が挙兵し、正成は天皇側の武士として足利軍と戦った。だが、建武3年(1336)の湊川の戦いに敗れて自害した。 その正成の出生地を誇るように、巨大な石碑が周囲をクスノキで守られるように建立されていた。その隣にある郷土資料館には、村の史蹟や民俗・民具を展示説明するとともに、上・下赤坂城での壮絶な戦いを立証する遺品や正成ゆかりの品が並べてある。 郷土資料館を出たときは、すでに午後の3時を過ぎていた。さすがに、ここから近鉄電車の富田林駅まで歩く気力は失せていた。近くのバス停の場所を聞くと、坂道を15分ほど下ったところに「森屋」バス停があるという。バスの時間に間に合うように道の駅を出た。谷底に向かって下っていく道は、まだかなり急な坂道である。側溝を流れる水流が速い。3時35分、千早川に架かる橋を渡って、水分(すいぶん)という交差点に出た。この付近では水越川がいつの間にか千早川に名前が変わっている。村立の千早小学校の前を通り過ぎると、バス停は近い。 「森屋」バス停は、国道309号線との合流点近くにあった。交差点の道路標識には御所まで21kmと記されている。しかし、この距離は水越トンネルを越えて行く新道のものだろう。旧道のジグザグ道の場合は、30km近い山道を歩いたことになる。さすがに立っていられないほど、足腰に疲れがたまってくるはずだ。 |
応神天皇陵に隣接する誉田八幡宮
応神天皇陵は古市古墳群の盟主的存在の前方後円墳で、5世紀中頃に築造されたと考えられている。墳丘の長さは425mで、仁徳天皇陵に次いで全国で二位であるが、体積では日本一の大きさを誇る。周囲には濠と堤を二重に巡らせた大古墳で、全体をカメラにおさめようとしたが、とてもフエンダに収まる大きさではない。宮内庁はこの古墳を恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)と呼んでいるが、考古学では誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)の名で呼んでいる。
「さすがは、わが大王(おおきみ)の陵(みささぎ)・・・」 感極まったのか、その後は声にならなかった。彼は座り込んだまま微動だにしないで、夕日に生える墳墓を見つめていた。その瞳に映っていたのは、墳墓の上に生い茂る木々ではあるまい。存命中に大王と共にあった日々が、走馬燈のように駆けめぐっているに違いなかった。 この古墳の後円部の前面に、応神天皇を祭る誉田八幡宮がある。古墳の外縁に沿って住宅街の中の曲がりくねった生活道を行くと、神社の南大門があった。門をくぐって境内に入ると、左手に応神天皇を主神として祀る本殿と拝殿がある。拝殿の前に植えられた「左近の桜」と「右近の橘」が、青々とした葉を茂らせていた。 誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神として祀り、陵墓の祭祀を司ってきた神社である。神社の縁起によれば、欽明天皇の勅によって応神天皇を祭るために応神陵のそばに建てられたという。拝殿に立ったソツヒコは、ここでも長々と頭を垂れて何かを祈っていた。あるいは、応神天皇の霊に語りかけていたのかもしれない。
突然、ソツヒコが振り返って私に聞いた。 ソツヒコがなぜ放生橋のことを聞いたのかは分からない。しかし、彼を連れて放生橋の方へ向かうと、陵墓の後円部がのしかかるように大きく迫って見えた。陵墓を見上げていると、『日本書紀』の雄略紀に記載された伝承が思いだされて、ソツヒコに話して聞かせた。 雄略天皇9年7月の出来事として、『日本書紀』は河内国から奏上された次のような話を載せている。 河内国の飛鳥戸(あすかべ)郡に、田辺史伯孫(たなべのふひと・はくそん)という人物がいた。彼の娘が古市郡の書首加竜(ふみのおびと・かりょう)と結婚していたが、男の子を出産したというので、伯孫は婿の家へ祝いに行き、月夜に帰ってきた。応神天皇陵のそばまで来たとき、彼は赤馬に乗っている人物に出会った。その馬は普通の馬とは異なり、竜のように蛇行したり鴻(おおとり)のように急に駈けることができた。伯孫はその馬が欲しくなり、自分の葦毛の馬をむち打って轡(くつわ)を並べようとしたが、赤馬はたちまち彼の馬を抜き去って遠ざかり、後を追うことができなかった。
この話を興味深く聞いていたソツヒコは、聞き終わってポツリと言った。 |