橿原日記 平成17年5月1 日

謎の古墳出土品「円筒銅器」が暗示するもの


「円筒銅器」とは・・・・・・・

筒形銅器
筒形銅器(韓国福泉博物館図録より)
が国の古墳から出土する不思議な遺物がある。円筒の形をした青銅器で、その名もズバリ「筒形銅器(つつがたどうき)」。なんとも素っ気ない学術用語だが、使用目的もよく分からないため致し方ないらしい。面白いことに、出土する古墳が古墳時代前期(4世紀)後半から中期(5世紀)前半を中心とするごく限られた時期に築造された墓に限定されているという。

形銅器は、その名の通り長さ10数センチ、直径2センチほどの円筒形をしている。しかも円筒の壁の厚さは1mmから2mmと非常に薄く、筒の一端は閉じている。さらに、上下2段に四方向に細長い穴が穿(うが)たれているだけでなく、上部には目釘穴がついている。

筒形銅器
巴形銅器と筒形銅器(韓国国立金海博物館図録より)
の不思議な青銅器について、現在2つの用途が推測されている。一つは、ヤリの石突(いしづき、ヤリの尖端の逆側に取り付けられた金具)ではないかとする説である。しかし、口径が小さく器の壁も非常に薄いことから実用ではなく、棒状の威儀具の枝先に石突のようにつけたものとする見方もある。内部に青銅や意石の小さな棒が入れられていることがあり、振るとカラカラと音がする。どうやら共鳴器としての機能も備えていたようだ。

ころで、筒形銅器は我が国の古墳だけに出土しているわけではない。筆者がこの不思議な青銅器を初めて見たのは、3月の末に伽耶地方を巡る旅行に参加したときである。金海市にある国立金海博物館に巴形銅器と称する遺物と一緒に展示してあった。しばし見とれていると講師としてツアーに同行された徳島大学の東潮(あずまうしお)教授が、これらは我が国からもたらされたものですよ、と耳元で解説された。驚いて振り返った筆者に、教授は意味ありげな微笑を返された。その微笑がなぜか気になっていた。

のことがきっかけになって、4世紀代から5世紀代の日韓交渉史を少し本格的に勉強しようと思っている矢先に、大阪の市民グループ「日韓古代文化研究会」から5月の定例学習会の通知が届いた。なんと、池田市立歴史民俗資料館館長の田中晋作氏を招き、「筒形銅器について」と題する講演をしていただくことになったというのだ。昨日までの好天が午後から小雨まじりの天気に変わったが、どんな話が聞けるのか楽しみにJR森ノ宮駅近くの会場に出かけた。



筒形銅器は日本列島製? それとも朝鮮半島製?

中氏から面白い話を聞いた。日本列島で今までに出土した筒形銅器の数は71本で、朝鮮半島での出土例はかっては数個だった。しかも、巴形銅器、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)、碧玉製石鏃(せきぞく)など日本の前期古墳の副葬品を特徴づけるものと一括して出土している。したがって、何らかの目的で日本列島からもたらされたものが、半島で出土したとする説はそれなりに説得力があった。

筒形銅器
我が国で出土した筒形銅器の例
左−新沢千塚500号墳、右−谷畑古墳
(出所:池田市立歴史民族館作成図録)
ころが、最近は事情が違ってきたという。朝鮮半島の出土数が68本に達し、発掘が進めばこの数はさらに増えそうだ。つまり、出土数において日本列島をやがて追い抜く。日本列島では畿内およびその周辺を出土地域の中心とするが、範囲は埼玉県から熊本県まで散在している。しかし、半島では出土地域が南東部地域にある大成洞、良洞里、および福泉洞古墳群に集中している。これらの古墳群がある場所は、かって金官伽耶国があった地域だ。

形銅器が埋葬されていた古墳は、日本列島の場合、4世紀前葉から5世紀にかけての古墳である。朝鮮半島でも4世紀の第2四半期から5世紀の第1四半期に造られた古墳から出土するという。だが、それぞれの古墳に埋葬されている数量に顕著な差がある。列島では圧倒的に一本だけが副葬されているが、半島では通常、複数個の筒形銅器が副葬されている。

本列島でも朝鮮半島でも、現時点では筒形銅器の祖型が存在しない。それに加えて、実に奇妙な現象が見られる。半島では、一つの墓から時代が違う型式の筒形銅器が複数本出土する例が多い。事情は列島でも同じである。新沢千塚500号墳では、3つの型式の筒形銅器が同じ墓から出土している。

のように、筒形銅器の解析には様々な問題が残っていて、考古学会では日本列島製作説、朝鮮半島製作説、あるいは朝鮮半島で製作されたものを日本列島で模倣したとする説、の3つに分かれて論争しているそうだ。現状では、この奇妙な青銅器が朝鮮半島東南地域で製作されたか、あるいは同地を経由して日本列島にもたらされた可能性が高くなってきているという。

国の考古学者が半島製作説を主張するのは分かるが、田中晋作氏も半島製作説を支持しておられる。半島製作説の急先鋒に立っておられるようにも見受けられた。ちなみに東教授は列島製作説に荷担しておられるとのことだ。金海博物館での教授の微笑の意味がやっと説けた。言外にいろんな説がありますよと暗示されたにちがいない。

中氏は、日本列島製作説と朝鮮半島製作説を対比する形で、スライドを使ってそれぞれの説の利点・欠点を説明され、自説を強調された。その当否を判断するバックグラウンドは筆者にないが、講義の内容は理解しやすく面白かった。



筒形銅器の背景にある史実

さがわずか10数センチ、直径2センチにすぎない円筒形の青銅器。この不思議な遺物が、たとえば儀仗兵のヤリの石突として用いられたものであれば、我々に語りかけてくる史実は重い。韓国の博物館でしげしげと眺めた筒形銅器を思い出していると、それに覆い被さるように一つのイメージが湧いてくる。

七支刀
七支刀
れは、隊列を組んで行進する倭の軍隊の先頭を行く儀仗兵の姿である。彼らの持つヤリの石突が燦然と黄金に輝いてみえる。それが筒形銅器である。その軍隊は金官伽耶国に請われて列島から派遣されてきた軍事支援軍であろう。倭国からの侵略軍ではない。彼らを出迎える沿道には、民衆の歓呼の声が響き渡ったことであろう。

西暦369年は朝鮮半島の歴史にとって忘れられない年である。かねて南下を目論んでいた高句麗の故国原王は、この年、2万の大軍を率いて百済領に侵攻してきた。百済は急襲によってかろうじて高句麗軍を撃破することができた。だが、この衝突をきっかけとして、その後の百済と高句麗は長年にわたって対峙することになった。しかも、この軍事的対峙は両国だけにとどまらず、新羅や伽耶地方も巻き込んだ極度の軍事的緊張を朝鮮半島全域にもたらすことになった。

さにその年、百済から倭王に奇妙な刀剣が贈られてきた。天理市にある石上神宮に伝世されてきた七支刀である。この奇妙な刀は百済と倭との間に伽耶南部の勢力を介して成立した通交を記念して贈られたものとされている。通交 − それは、高句麗と対峙する百済から倭への軍事的支援要請と、倭にとっては半島の鉄素材の確保や最新技術の導入といった、双方の利害の一致から生じたものだった。

の倭・百済の同盟関係は伽耶南部の勢力を仲介として成立したと史書は記している。ということは、369年以前に当時の倭国と伽耶南部の国々との間には、何らかの関係が成立していたと考えざるをえない。両地域に筒形銅器が存在することは、七枝刀に示される倭と百済との関係成立以前に、両地域の関係がすでに始まっていたことを物語っている。


ころで、講師の田中氏は面白い指摘をされた。4世紀後半、方形板革綴短甲や小札革綴短甲といった新たな鉄製の短甲が出現する。これらの出土例は現在のところ限られているが、大和にある中小規模の古墳から出土する傾向があるという。しかも、一定数の刀や剣、ヤリや鉾、鉄鏃や銅鏃といった整備された武器とセットとして副葬されているとのことだ。

武具復元
当時の武具復元
うした武具は被葬者が生前に所持していた武装形態を単位としたもので、既存の有力古墳群や大規模古墳では埋納されていた例がない。田中氏によれば、このことは、七枝刀に示された伽耶南部を含む倭と百済との通交関係、すなわち軍事同盟の成立を機縁に、既存の勢力とは別に新たな武装勢力が台頭して来た証であるという。

墳時代中期(5世紀)には500領を超える短甲が出土しているが、その半数近くが近畿地方で出土し、さらにその約3分の1が中百舌鳥・古市古墳群で出土しているという。西暦400年、高句麗の好太王は、新羅の救援要請を受けて5万の歩騎を新羅に送り込んだ。当時、新羅の王城は倭兵に占領されていた。逃げる倭兵を追いかけて高句麗軍は伽耶地方まで進入し、倭軍と対峙した。短甲をはじめさまざまな武具を伴出する中小古墳の被葬者は、あるいは当時高句麗軍と対峙した倭軍の将兵だったかもしれない。

書は当時の対朝鮮外交で活躍した将軍の名を後世に伝えている。古代豪族葛城氏の始祖とされている葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)である。あるいは彼も大和地方の中小豪族で構成される軍団を率いて新羅や高句麗の正規軍と対峙した一人かもしれない。最近は何故かこの人物に心惹かれている。




2005/05/02作成by n_ohsei2004@yahoo.co.jp return