近畿地方の弥生後期土器のイメージ
通常、この前後600年におよぶ弥生時代を、考古学会では前期・中期・後期の3期、あるいはI〜Vの5期に分類している(この場合、前期はT期、中期はU〜W期、後期はX期にそれぞれ対応する)。そして、前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世前半または中頃から3世紀後半頃まで続いたとされている。 もっとも、弥生時代の前期・中期・後期の年代的な位置や長さは、今までの研究の進展で大幅に変わってきている。最近では放射性炭素C14AMS法(加速器質量分析法)による年代測定で、弥生時代の開始期を500年ほど大幅に繰り上げるべきだと主張する説も出され、考古学会に波紋を呼んでいる。 弥生時代の後期に近畿地方で使われた土器は「畿内第V様式」と呼ばれている。この第V様式土器は大きく3つの時期(後期前葉・中葉・後葉)に分けることができるという。装飾豊かだった中期の土器とはうって変わって、後期前葉の弥生土器は文様が少なく、厚手で、ずっしりしたものが多い(図1)。 後期中葉になると、タタキ技法で作られた甕(かめ)と口の長い長頸壺(ちょうけいつぼ)が代表的な土器となる。その他に広口壺、器台、鉢、高坏(たかつき)なども作られている(図2)。後期後葉では、新たに口の部分が段になった二重口縁壺、平たい鉢にドームのような覆いをつけた手あぶり形土器が出現する(図3)。総じて、第V様式土器は全体にシンプルで、同じようなものが沢山出土するという。(*) |
弥生後期の大和とその周辺のムラの変貌
河川に近い微高地に営まれた拠点集落
主な拠点集落遺跡としては、平等坊・岩屋遺跡(天理市)、唐古・鍵遺跡(田原本町)、芝遺跡(桜井市)、大福遺跡(桜井市)、四分遺跡(橿原市)、鴨都波遺跡(御所市)、巨勢山中谷遺跡(御所市)などがある。拠点集落の多くは、周囲に幾重にも巡らした濠、すなわち環濠を備え、耕作地と一体化してムラを維持しており、また唐古・鍵遺跡を中心とするネットワークを形成していたと考えられている。 これらの環濠集落では、後期後葉から後期末になると不思議な現象が見られるようになる。理由はわからないが、それぞれの集落で一斉に環濠が埋められた。埋め立てのために大量の土器が環濠に捨てられた。そのため、環濠から発掘される土器は完全な形を留めているものが多いという。環濠がなくなっても、拠点集落の多くは次の時代の古墳前期まで続くが、その終焉の時期はムラによって違いがあるようだ。 地域の開発と急増するムラ奈良盆地の北部では、拠点集落は少なかったが、弥生後期になると新たにムラが作られた。あまり大きくないムラが点々とあったようだ。たとえば六条山遺跡(奈良市)は矢田丘陵に近い低い丘の上に営まれた後期前葉から後葉にかけてのムラの住居跡である。 住みやすい場所や水田を求めてムラが移動したと推測される場所もある。矢田丘陵の南側に弥生中期に栄えた西田中遺跡(大和郡山市)があるが、このムラが衰えると、その南側に後期前半から中葉にかけてムラが築かれた。小泉遺跡である。さらに、後期後半になると富雄川に近い平地に田中垣遺跡が登場してくる。 弥生後期後半はムラの数が急増する時期である。拠点集落からあまり離れていない場所に小規模なムラが発生したり、今まで人が住まなかった地域にムラが現れるようになる。たとえば和爾(わに)・森本遺跡(天理市)は弥生中期から古墳時代にかけて存続した遺跡だが、本格的なムラに成長したのは後期後半からのようだ。 奈良盆地と外部世界との交流
河内系の土器は弥生時代の全期間を通じて見られるが、後期に目立つようになるのは、近江系の土器である。口縁が受け口状で、櫛描門や突帯で飾られた甕や鉢が特徴的な近江系の土器は、近江から直接運ばれたものだけでなく、在地で真似て作られたものも多いという。
日本海沿岸で作られた北近畿系と称される土器も、数は少ないものの出土している。段になった口縁部に擬凹線と呼ぶ条線を巡らしているのが特徴で、平等坊・岩室遺跡では後期後半の北近畿系甕や器台が出土している。奈良市の三条遺跡でも後期末と考えられる壺が出土している。
大和の高地性集落平和な農耕社会のイメージとは裏腹に、弥生時代は戦乱の時代だと言われている。理由は高地性集落の出現である。弥生中期後半から後期にかけて、瀬戸内海には高地性集落が急増する。魏志倭人伝には2世紀頃「倭国大乱」があったと記している。そのため、かっては、列島の後半な範囲で戦闘状態が続き、戦闘を避けるために高地性集落が営まれたとされた。 だが、弥生後期は1世紀半ばに始まっていて、「倭国大乱」には結びつかない。高地性集落が営まれる時期は各地でさまざまである。奈良盆地では、後期前葉の忌部山遺跡をのぞくと、ほとんどの高地性集落は後期中葉から後葉にかけて営まれた。東大寺山遺跡や巨瀬山中谷遺跡などがその例である。 弥生時代を代表する祭祀道具としての銅鐸
近畿式の銅鐸は、大きな紐(ちゅう、つまみ状のもの)に双頭渦巻文の飾り耳をもつこと、銅鐸の身の断面が円に近いこと、鰭(ひれ)が鐸より上で終わっている点などに特徴があり、近畿地方を中心に中国・四国、東海地方に分布する。一方、三遠式は紐に耳飾りを持たず、文様の横帯中央の突線が鰭まで延びていること、裾が短く鰭が身の下端に近いものがあるなどの特徴を有し、東海地方、特に三河や遠江に分布する。 突線紐式銅鐸の多くは弥生後期末には埋納されてしまったと考えられている。だが、奈良県では、大型銅鐸は出土していない。わずかに和銅6年(713)に出土記録があるほか、桜井市の纒向遺跡で双頭渦巻文の耳の破片が出土しただけである。 弥生時代の終焉大和盆地では弥生後期末から古墳前期にかけて、劇的な変化が訪れた。具体的には、土器では、庄内式・布留式と呼ばれる様式の土器が登場してきた。環濠集落が姿を消し、唐古・鍵遺跡を中心に築かれていた拠点集落ネットワークが解体し、代わって纒向地方に巨大な前方後円墳が作られるようになった。この新たな墓は、最初から突出した王陵として誕生したという。 |
ふたたびムラが変貌したとき王が現れた!!
午後1時から、橿考研一階の講堂で研究講座が開かれるというので、参加した。講師は今回の特別展を企画した小池香津江女史と、芦屋市教育委員会の森岡秀人氏である。 小池女史は特別展と同じ「弥生後期の大和とその周辺」というタイトルで、スライドを多用しながら、弥生後期における大和および周辺地域におけるムラの変貌を解説された。彼女の講演から受けた印象では、大和盆地の弥生時代はその後期も比較的穏やかな農耕社会だったようだ。ところが、弥生後期の終焉が劇的に訪れ、古墳時代が到来したと、彼女は説明される。 劇的な変化を象徴するものが2つある。まず、弥生後期の末に、それまでにない土器が作られるようになる。先の尖った薄い甕(かめ)と小さな丸底の鉢や器台を特徴とする「庄内式土器」の登場である。 庄内式の甕に着目した場合、著しい特徴がある点を彼女は指摘された。この土器は大和と河内の二つの地域で生まれ、出土する遺跡も大和盆地東南部と中河内に集中し、ほかの場所ではほとんど出土しない。その代わり、遠方地域との盛んな交易を象徴するように、瀬戸内海や九州、関東などの各地で出土するという。こうした交流は以前にはなかったとのことだ。また、この時期になると、大和では東海系土器が直接運ばれてくるようになった。 一方、「庄内式土器」の出現のすこし前あたりから、奈良盆地東南部にあたる纒向に新たなムラが現れた。纒向遺跡の発掘調査で、後期中葉ころからの遺構がこの遺跡から出土していて、ムラは庄内式直前から古墳前期にかけて発展したことがわかっている。ただし、纒向遺跡はもはや環濠を持たない。 大和地方では、弥生中期以降に方形周溝墓は作られてきたが、その数はすくなく、規模も小さい。ところが後期末の庄内式土器が出現するころになると、纒向遺跡の内部に纒向石塚古墳やホケノ山古墳、箸墓古墳といった初期の前方後円墳が作られるようになる。纒向遺跡に突如出現した前方後円墳は、その形も、規模も、内容も、弥生後期の大和にとってまったく異質のものであった。次々と築かれていく巨大な墓は王の墓と呼ぶにふさわしいものだった。 ムラという概念から見た、こうした弥生後期末の劇的な変化は何に起因するものか、小池女史は講演の中では特に言及されなかった。おそらく「邪馬台国」畿内説と結びつくことになるのだろうが、弥生時代のムラが纒向地域で突然変異のように成長して国となったのでなく、他からの移住者による国家建設というような事態が背景にあるなら、「邪馬台国」東遷説に結びつく。 引き続いて、森岡秀人氏が「弥生文化の継続と断続」というテーマで講演された。しかし、マイクの調子が悪いのか、それとも講演者の声の質なのか、話の内容がよく聞き取れなかった上に、話の中身もバライティに富んでいてよく理解できなかった。残念である。 |
(*) 特別展図録より転記。