美浦村文化財センター 美浦村出土の文化財を保存・展示する施設
美浦村文化財センターは昨年5月にオープンしたばかりの施設である。陸平貝塚をはじめ美浦村から出土した文化財の保存と活用を目的に設置され、資料の保管・整理・調査・活用を行っている。茨城県内では4番目の文化財センターだそうだが、村として文化財センターを持ったのは初めてのケースであり、全国的に見ても珍しい。 建物内には70平米ほどの、ささやかではあるが常設の展示室がある。その他に、地元の小学生などを対象にした体験学習室もあり、土器作りなどが体験できるとのことだ。展示室は生涯学習課の川村勝氏に案内していただいた。時計回りの展示になっていて、入口の近くに、「川岸屋の壁画」が展示してあった。
その中に、明治30年代に当地を訪れた大野雲外(おおのうんがい)がいた。彼は東京大学人類学教室の画工として勤務していて、画が非常に巧みだった。川岸屋に投宿している間に、彼は縄文土器の文様を壁に描いた。川岸屋の建物は十数年前に取り壊されてしまったが、壁画は壊すには惜しいため、取り外されて保管されていた。この文化財センター設立を機に、その壁画の保存処理を一昨年の秋に行なって、ここに展示することになったという。
その後、佐々木忠二郎は1年後輩の飯島魁(いいじまいさお、1861-1921)を伴って再び奥平貝塚を訪れ、本格的な発掘調査を行なった。調査中、佐々木は本国に帰国した師のモースに手紙を送り、調査に関するさまざまな指導を仰いだという。こうして、佐々木と飯島は自分たちの手で貝塚遺跡の最初の学術調査を成し遂げた。そのため、陸平貝塚は日本考古学の原点として広く知られている。 陸平貝塚は霞ヶ浦南岸に面した台地の傾斜面に形成されている。縄文時代早期から晩期まで、この台地は長期にわたって縄文人の生活の舞台となっていた。貝塚が形成された時期は縄文中・後期(約5,000〜3,000年前)が中心だが、早・前期(約7,000〜5,000年前)の貝層も確認されている。現在約90,000平米が国史跡として保存されているが、その中にはA貝塚からI貝塚まで8つの貝塚がある。
案内していただいた川村氏の話では、開館当時この展示室が盗難にあい土器が3点ほど紛失したそうだ。心ない見学者がいたものである。ガラスケースに納められている土器もすべて本物だと思ったが、これらはレプリカで本物は東京大学に保管されているそうだ。このセンターが開館したとき、遺物の管理について大学と検討し、年に3ヶ月だけこちらに里帰りすることになったとのことだ。 陸平貝塚のシンボル的な土器は、双口土器(そうこうどき)であろう。美浦村教育委員会が作成したパンフレットの表紙にも描かれている縄文時代後期の土器である。現在、現品は東京大学総合研究所博物館に収蔵されているが、この土器は発掘調査で出土したものではない。土地の者が畑で見つけて家に飾ってあったものを、前述の大野雲外(うんがい)が聞き出して寄贈させたとのことだ。
(*)展示室内の説明パネルから転記 |
陸平(おかだいら)貝塚遺跡 台地周辺部に8つの貝塚が散在する国指定史跡
雑草や草花が繁茂するこの広大な台地が国史跡に指定された陸平貝塚(Okadaira Schell Mound)の中心部分である。1987年に実施された確認調査では、この台地平坦部から多数の住居跡や墓抗、貯蔵穴などが検出され、貝塚を残した縄文人の住居の場だったことが明らかになった。縄文時代だけではない。まだ発掘調査されたわけではないので、正確なことが分からないが、弥生時代を飛ばして、古墳時代、奈良時代、平安時代頃までの住居跡が残っているらしい。
陸平貝塚とその周辺を含めた約9ヘクタールの範囲が、平成10年9月に国の史跡に指定された。この国史跡陸平貝塚を中心にしたエリア一帯は、「美浦村陸平貝塚公園」として現在整備されている。 タンポポの花が咲き乱れる台地の片隅で小学生の団体がテントを張ってキャンプしていた。体験学習らしく、彼らは木片を相手に何かを造ろうと必死になっていた。その向こうに竪穴式住居が一つポツンと復元されていた。現在の手洗所が建っている場所から発掘された縄文時代中期(約4,500年前)の住居跡を、場所を移してボランティアによって2年がかりで忠実に復元したものだそうだ。 この復元竪穴式住居は、他の史跡などで見慣れた住居と何かが違う。竪穴式住居は通常地面を掘り下げて建てるものだが、ここのは逆に盛り土の上に建っている。その理由を聞いてみると、地下に遺跡が埋まっているため、遺跡を傷つけないための配慮だそうだ。 貝塚を巡る遊歩道は、遺跡を痛めないように木道で築かれている。木道を谷の方へ降りていくと丘の麓に湧き水が流れ出していて、近くに立て看板があった。台地にしみ込んだ雨水が、長い時間をかけてこの場所に湧き出してくるそうだ。縄文時代の人々も活用した湧き水で、土地の人々は「ブクブク水」と呼んでいる。しかし、”ブクブク”と激しく地下から湧き出ているようには見えない。どちらかというと、台地からしみ出してくるといった感じだ。 |
上高津貝塚 「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」として整備された国史跡
特別展「山野を駆ける土偶」が開かれているのは、土浦市内の「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」(所在:土浦市上高津1843、 0298-26-7111)の中にある考古資料館である。参加者は若者が運転する3台の車に分乗して、国道125号線を西に向かった。正面に筑波山が山塊が大地からそり上がって見えた。ふるさと歴史の広場は、常磐自動車道の「土浦北」または「桜土浦」ICから15分ほどのところにある。
自然環境に恵まれた霞ヶ浦沿岸には、縄文時代多くの貝塚が築かれた。その中でも上高津貝塚は、最大規模を誇り保存状態も良いことから、昭和52年(1977)に国の史跡に指定された。発掘調査でこの貝塚は縄文時代の後期・晩期(約3,000〜4,000年前)に形成されたことが判明している。
台地の平坦部へ上る坂の途中に、貝層の断面を展示した覆い屋の施設がある。その中では、直方体に切り出した貝層の断面を目の前で観察することができる。 |
第10回特別展「山野を駆ける土偶」 その移り変わりと祈りの道具
土浦市の「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」では、「山野を駆ける土偶」と題する特別展を考古資料館特別展示室で3月19日から5月8日まで開催している。上高津貝塚を中心とする土浦市内の貝塚から出土した土偶や、茨城県内および隣接地域から出土した土偶が系統だって展示されていて見応えがある。 展示構成は、土偶のはじまりの頃の出土品、阿武隈山麓で見つかったハート形土偶、霞ヶ浦のほとりで出土した山形土偶とみみずく形土偶、そして山並みを越えて造られた遮光器土偶の4つのパートに区分されている。こうした区分は主催者のたぶん意図的なものだろうが、阿武隈地方から霞ヶ浦に向かって山野を駆け下りるように発展してくる土偶の変遷がよく理解できる。 土偶とは、縄文時代の人々が粘土をこねて”ひと形”を作り、それを縄文土器と同じように野焼きで焼いたものである。およそ1万年続いた縄文時代の中で、土偶が出土する時期は地域に偏りが見られるものの、長い間作り続けられた。不思議なことに、弥生時代になるとほとんど作られなくなったという。 縄文時代の文献資料が残されていない以上、土偶の製作目的は不明のままであり、その用途は想定に頼る他ない。神像説や護符説など様々な想定がなされているが、土偶の多くに女性の乳房など身体的な表現が見られることから、安産などの祈願に用いられたのではと推測するむきもある。ただ、土偶が完形で出土するのは稀で、ほとんどは破壊された形で埋められているという。その意味するところはよく分かっていない。 それにしても、土偶の型に付けられた名称はいかにも即物的である。ハート形土偶は文字通り顔の形がハートの形をしている。この土偶の特徴として、細く括(くび)れた胴体にアゴを前に突きだした顔が付き、後頭部に把手(とって)が付いているものが多いそうだ。茨城県では約4000年前の縄文時代後期前半ごろ県北部に広がる阿武隈山麓で作り始められたという。 縄文時代後期中頃(約3500年前)になると、霞ヶ浦のほとりで数多くの土偶が作られた。頭部の形がオムスビのような山形をしていることから、山形土偶と呼ばれるものと、山形土偶から変化してミミズクの顔を連想させるようなみみずく形土偶である。みみずく形土偶は今から約3000年前の縄文時代後期後半から晩期前半に作られたという。 約3000年前の縄文時代晩期には、東北地方北部に亀ケ岡文化が栄え、沈線(ちんせん)で大きな目を表現する独特の土偶が作られた。その目の表現が雪の反射を防ぐ雪メガネ(遮光器)に似ていることから、遮光器土偶と名付けられた。茨城県でも本場の遮光器土偶を模倣した土偶が作られたという。 文化庁美術学芸課文化財調査官の原田昌幸氏の特別講演「土偶の移り変わりと造形」は、定刻どおり午後1時から始まった。会場に当てられた考古資料館二階の会議室はほぼ満員に近い聴講者で占められた。土浦市も考古学ファンの多い土地柄らしい。 原田氏は講演の冒頭を、縄文時代の区分から始められた。概説書によって縄文時代区分や各時期の長さにばらつきがあり、初心者には今ひとつ分かりにくい。時代の大まかな流れを把握する上で、この時代区分の説明は有り難かった。 縄文時代は、日本において今から約1万2000年前あたりから紀元前3世紀ごろまでの約1万年続いた時代である。昭和に入ると、関東地方に見られる縄文土器の新旧を順に把握した上で、縄文時代はまず前期、中期、後期と3区分された。だが、その後に発見された尖底土器群を早期、亀ケ岡式土器を晩期として組み込まれ、5期区分が一般的になった。さらに土器の起源が遡るとともに、早期の年代期間が膨らんだことから、早期を2分して草創期を設定し、今日の縄文時代6期区分が成立したという。
原田氏は、さらに面白いデータを披瀝された。文化庁が昭和46年以降10年毎に実施している統計によると、日本における埋蔵文化財包蔵地(これを「周知の遺跡」と呼んでいる)の数は約30万カ所にのぼるとのことだ。さらに、縄文遺跡に限って言えば、明らかに東高西低であり、その比は20:1であるという。また、土偶に関しては、平成4年の段階で全国に出土した数は約11.800個。縄文時代には約30万個の土偶が作られたと推定されているという。
原田氏は用意された4枚の図に基づいて、縄文時代早期・前期・中期・後期・晩期について、懇切な説明をされた。お陰様で、学生時代の歴史教科書に挿絵として載っていた遮光器土偶くらいしか知識がなかった筆者には、土偶の変遷や地域的な傾向がかなり理解できた。 氏の説明によれば、最も古いの土偶は三重県にある縄文時代草創期の粥見井尻(かゆみいしり)遺跡から出土している。長さ4.5cm、幅1.5cmの小型の爪形文土器で、頭部はないが、乳房が表現されれていることから人型であることは明らかだ。この種の土偶は関西の神並遺跡などからも出土していて、押型文タイプと呼ばれている。その変形は、愛知や北陸に広がりを見せる入海・天神山タイプに引き継がれているとのことだ。少し遅れて関東地方にも撚糸文タイプや沈線文タイプの土偶が出現するようになる。近畿や関東地域以外にも、縄文早期後半には、東北地方に貝殻沈線文タイプ、南九州にも上野原タイプの土偶が出土している。このように、縄文前期の頃の土偶が6つのエリアで出土しているが、同時発生的で互いに影響しあった形跡は見あたらないとは、原田氏の見解だ。
後期前半になると阿武隈山の麓でハート形土偶が多く作られるようになり、後期中頃になると霞ヶ浦沿岸で山形土偶が多く作られる。後期後半になると山形土偶はみみずく形土偶に移り、関東一円でみみずく形土偶の製作が流行する。晩期前半になると、東北地方で遮光器土偶が盛んに作られるようになり、晩期中頃には茨城県でも遮光器土偶を模倣したものが作られたが、晩期後半になると土偶は作られなくなってしまう、とのことだ。 |
考古資料館二階の会議室で行われた「さわらび考古学教室」
原田昌幸氏の特別講演を聴いた後、すでに午後4時を過ぎていたが、今回の参加者は考古資料館の別室に集まった。その部屋を借りて、第一回の「さわらび考古学教室」を開くことになっていたためである。「さわらび考古学教室」という名称は、たぶん日本考古学協会会員の鈴木正博氏が独断で付けられたようだ。鈴木氏はさいたま市の「馬場小室山遺跡」の保存に尽力されておられる。考古学教室設立の趣旨は、さわらび通信のBBSが機縁で遺跡保存のために自然発生的に集まった関係者に、考古学にさらに馴染んで貰おうというものらしい。この会合には茨城県立歴史館の斉藤氏も同席された。
鈴木氏の説明によると、現物も横幅5センチ前後の小型の土偶だそうだ。馬場小室山遺跡の今は宅地化で破壊されてしまった1号土塚から出土したとのことだ。鈴木氏自身もこの土偶に愛着を抱いておられるようで”かわゆい土偶”と呼んでおられる。 鈴木氏が、この土偶を本日の勉強会に選ばれたのには理由がある。土偶の写真を観察すると一角獣のように頭に角が一方生えている。二本あったようにも見えるが、製作された時から一本だったとのことだ。鈴木氏はこの土偶を「突起土偶」と呼ばれた。突起土偶という名称が学術用語かどうか不勉強で分からないが、少なくとも先ほど聞いた講演の中にはこうした土偶の分類はなかった。 「突起土偶」は、ハート型土偶の頭部の突起が強調されて、顔面がハート型から変化し、やがて突起が顔面よりも目立つようになったものである。だが、この過程では山形土偶はまだ成立していないから、土偶の研究者はおそらくハート形土偶のカテゴリーで理解しようとすると言うのが、鈴木氏の見方だ。そして、氏が参加者の注意を促したい点はまさにこうした考古学界の姿勢にあったようだ。残念ながら、現在の考古学会では縄文土器の研究者は土偶にまったく注意を払わない、逆に土偶の研究者は縄文土器にまったく注意を払わず、それぞれ独自の体系の中で研究を進めているらしい。 したがって、「突起土偶」のように一風変わった形状のものも従来の範疇に押し込められてしまう。だが、土偶だけでなく、視野を縄文土器まで広げてみれば、土器の縁に突起を持つ形状はごく当たり前である。鈴木氏は土器と土偶の形状や文様を対照しやすいように、資料の中からいくつかの例を示して具体的に説明された。 学問が専門化すればするほど、象牙の塔ではないが独自の理論を体系化して、他が見えなくなってしまう。しかし、縄文時代の当時の生活を想像して見れば、何かがおかしいことに気づくはずだ。縄文集落で土器製作に従事したグループと土偶製作に従事したグループがそれぞれ別にあった訳ではないだろう。同じグループ内で土器も作れば土偶も作ったと考えるほうが、納得しやすい。当然、土器製作のさまざまな技術が土偶製作に反映したと考えるべきである。 考古資料館を出る頃、真っ赤な円盤を思わせる太陽が史跡公園の向こうに沈もうとしていた。一行は、また3台の車に分乗してJR「土浦」駅の前に出た。日が沈むと、途端に夜風に冷たさが増した。軽く食事を取りながら懇親会を・・・というのが、いつものパターンだ。しかし、日曜日とあって学生諸君が利用する行きつけの店は閉まっていた。何軒か探し歩いてようやくテーブルを囲むことができた。 しばしの歓談の後、店を出て「土浦」駅で列車に乗ったときは、すでに夜の8時を過ぎていた。我が家にたどり着くには、それから2時間かかった。しかし、久しぶりに有意義な休日を過ごせたという満足感を抱いて床につくことができた。今回の見学会を企画した主催者に、この場を借りてお礼を述べたい。どうも有り難うございました。 |