「任那日本府」とは・・・筆者の年代は、中学校および高校の歴史の時間に、「任那日本府」について次のように教わってきた。すなわち、”4世紀の半ばに日本列島を統一した大和朝廷は、その余勢をかって4世紀後半には朝鮮半島に出兵して、百済・新羅・加耶を服属させた。とりわけ任那(みまな)と呼ばれた地域については「任那日本府(みまなのやまとのみこともち)」という統治機関を設置して国内の官家(みやけ)と同様な直轄支配をおこなった。それが6世紀中葉まで存続した・・・云々” 筆者が受けた歴史教育では、さすがに任那に内官家(うちつみやけ)を置いたのは神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の結果であるとは教えられなかった。だが、大和朝廷が朝鮮半島に軍隊を送り込んだ事実は、高句麗好太王(こうたいおう)の碑文や石上神宮所蔵の七支刀に刻まれた銘文、あるいは倭王・武の南宋への上表文の文面からも証明され、半島南部にあった任那地域を朝廷の直轄領として支配したのは事実であろうとされた。 その任那と称してきた地域が欽明天皇23年(562)に新羅(しらぎ)によって討ち滅ぼされた。それによって、任那の内官家を復興することがヤマト朝廷の悲願となった。欽明天皇は新羅を討って任那を復興することを遺言し、その後歴代の天皇は任那復興を旗印になんどか半島出兵を試みた・・・。 戦後世代が歴史教育で教わった「任那日本府」の定義は、『日本書紀』が記す4世紀後半から6世紀後半にいたる300有余年の日韓関係の体系的な叙述を見直し、上に述べた金石文および中国の『宋書』の中の倭の五王に関する記述を基礎資料として構築されたものだった。 小帝国主義論あるいは小中華思想を下敷きにしたこうした「任那日本府」の理解は、もはや現在では通用しない。先ず、「任那」という名称自体がふさわしくない。「任那」は『日本書紀』だけに用いられている独特の表現であるという理由で、地域全体を指す場合は「加耶(=加羅)諸国」、特定の国を指す場合は「金官加耶(=加羅)」と呼ぶようになってきた。 「日本府」という呼称についても、その信憑性が疑われている。現在では「日本」という国名が使われ出したのは7世紀末頃からという認識が一般的になってきている。そうでれば6世紀に安羅国に置かれた組織に「日本府」という名称が用いられるのはおかしいという訳である。おそらく『日本書紀』の編者が別の呼び方をされていたものを「日本府」に変更したにちがいないということで、戦後の歴史学会は意見が一致している。 だが、1970年代に入ると、北朝鮮の金錫享氏によって『三韓・三国の日本列島内の分国について』で分国論が提唱され、李進煕氏の『広開土王陵碑の研究』によって碑文改ざん説が世に問われた。これらの著作の出版が契機となって、「任那日本府」の研究は新たな段階にはいったとされている。 新たな「任那日本府」の研究では、さすがに旧説のようにヤマト朝廷による官家(みやけ)支配に類似した領土的、直轄地的支配機構であるとする理解は否定されている。その代わりに、日韓の歴史学者からさまざまな説が提唱されていて、さながら百花繚乱といった感じすら与える。主な説の一部を拾ってみよう。
●「任那日本府」は加耶在地の豪族によって構築された合議体であり、ヤマト朝廷のみならず日本列島の政治勢力とはまったく無関係である(井上秀雄『任那日本府と倭』)
これらの説では、「任那日本府」がヤマト朝廷の直轄領を統治する機関とする旧説の考えは上記のようにさすがに影をひそめた。しかし、「任那日本府」の”府(ミコトモチ)の解釈をめぐって、特定の機能を備えた”組織・機関”とする説と、そうではなくて、安羅国に在住した”官人”であるとする説が対立している。 組織または機関と見なす説は、それを設置した主体や目的によって、さらに複数の説に分かれる。ヤマト朝廷が加耶諸国との外交窓口として設置した組織であるとする説があるかと思うと、そうではなくて加耶諸国またが百済が倭国との外交のために設置した機関とする説がある。 組織名ではなく、安羅国に在住した”官人”とする見方も、さまざまな説が含まれる。ヤマト朝廷から加耶地方に派遣された官人とする説もあれば、安羅の独立のために活動した在地の日系人集団とする説もあって、どれが実体に即したものか一般人にはよく分からない。 現在の学校教育では、「任那日本府」のことを教えていないらしい。「任那日本府」のことを聞かれても「何だ? それは」といった反問が返ってくることが多いという。評価が定まらない歴史上の事実については、混乱を招くことになるから、歴史教育ではことさら触れないことにしているのだろうと思っていた。 だが、「任那日本府」の問題が敬遠されるのは、別の要素もあるようだ。戦前の皇国史観の聖典とされる『日本書紀』の記述を否定する風潮が、我が国の歴史学会にはある。『日本書紀』の内容を批判し否定して、別の解釈や説を提示することが、歴史学会では点数かせぎになるという。 さらに、「壬辰倭乱」(じんしんわらん)や「日韓併合」などで、我が国は朝鮮半島に軍事的侵略を行った歴史がある。その負い目のせいで、とかくナショナリズムに走りがちな韓国の歴史学者の発言に、日本の歴史学会の態度はいささか腰が引けているようだ。古代における我が国の半島進出を史実として正当に評価することは、近代日本の侵略行為をみとめることにつながるという奇妙な倒錯に縛られているためだろうか。 |
鈴木秀夫氏の「任那日本府」に関する考え鈴木氏は、上に述べたように”「任那日本府」は530〜531年にかけて加耶在地支配層に依拠しながら活動したヤマト朝廷の官人および政治集団を起源とする倭人集団であり、おそらく一定の軍事的機能も備えていた”、という自説をお持ちだ。 「任那日本府」という表現は、百済の軍隊が安羅国に進駐した531年の後に初めて『日本書紀』に現れる。この点に着目された鈴木氏は、「任那日本府」の6世紀当時の名称は、『日本書紀』欽明15年12月条にある「在安羅諸倭臣(あらにはべるもろもろのやまとのまへつきみ)」か、あるいはそれに近い名称だったのではないかと推定しておられる。 そして、その実体はヤマト朝廷から派遣された官人・使者、ないしはその集団であるとされている。具体的には、530年(継体天皇23年)、安羅国からの軍事支援の要請をうけて近江毛野臣(おうみのけなのおみ)を安羅に出兵させたのが、その始まりだという。この倭軍派遣の背景には以下のような事情があったとされている。 6世紀初頭の加耶では、大加耶と安羅がそれぞれ北と南の盟主の地位にあった。だが、514年頃には、外交政策をめぐって対倭・百済強攻策をとる大加耶と親百済政策をとる安羅とに分裂し、加耶連合は実質的に瓦解した。この後、安羅が対倭外交権を掌握したらしく、ヤマト朝廷の軍事力を頼るためにヤマト朝廷に臣従すると、軍事援助を求めてきた。ヤマト朝廷は、軍事力の提供を媒介として安羅の軍事と外交権を制約したと思われる。この時期に、百済在住の倭系の人物とされる印支彌(いきみ)を「倭臣」として安羅に派遣している。 531年になると百済が安羅に進駐して軍事支配を確立する。その結果、倭軍や倭臣の自立的活動はほぼ終わり、ヤマト朝廷と安羅国の臣従関係は530−531という極めて短期間のうちに終息している。百済は安羅における「倭臣」らの存在を容認し、ヤマト朝廷に軍事援助を求めた。日増しに強くなっていく新羅の軍事的圧力や、それに呼応する安羅内部の反百済勢力が侮れなかったためである。したがって、倭臣たちは安羅旱岐(=国王)とともに、安羅在住の支配層の協力を得て、倭人集団として安羅国内で活動を続けた。鈴木氏によれば、これが「任那日本府」の実体であるという。 |
6世紀に朝鮮半島で活躍した「ミドルマン」「ミドルマン」という言葉がある。一般には中間業者とか仲買業者、仲介者などと訳されているが、文化人類学では「諸国の事情に通じているため、一時的にある王権に従属して外交に従事した人間」をミドルマンと呼んでいる。 6世紀代、百済王に仕えて外交に従事した日系人に斯那奴(=科野)阿比多(しなぬあひた)という人物がいた。継体11年(515)9月、高句麗の使・安定らに付き添って百済使節が来朝した。『日本書紀』は、その百済使節の中に斯那奴阿比多がいたことを伝えている。 阿比多の名はもう一度『日本書紀』に登場する。欽明11年(551)2月に、ヤマト朝廷は欽明天皇の詔書を百済の聖王に伝えるために使者を派遣した。「百済本紀」は、そのときの様子を「3月12日辛酉に、倭の使人・阿比多が、3つの船を従えて都下に到着した」と伝えている。 翌月の4月1日庚辰に、倭の使人が帰国の途についた。聖王は「任那のことについては、勅のとおりしっかり守りましょう」と伝言を伝え、爾林(にりん)を攻めたとき生け捕りにした高句麗の奴(やっこ)六口を献上した。それとは別に、阿比多にも奴一口を贈ったという。 これらの記事では、阿比多は倭の使人となっている。おそらく高句麗の事情に精通していたために、百済王に仕えたのちに倭王に仕えることになったのだろうとされている。 |
「倭臣」として名を後世に留めた人物『日本書紀』には、「在安羅諸倭臣(あらにはべるもろもろのやまとのまへつきみ)」という表現が、ただ一カ所、欽明15年12月条に出てくる。鈴木秀夫氏によれば、この倭臣(やまとのまえつぎみ)の実体こそ、ヤマト朝廷から安羅国に派遣された官人や使者ないしはその集団であり、『日本書紀』編纂時に「任那日本府」という表現に置き換えられたのだろうと推測しておられる。 『日本書紀』は、その記述の中で何人かの倭臣の名を書き記している。鈴木氏作成のレジメでは、以下の3名が紹介されていた。
印支彌(いきみ)印支彌はおそらく百済在住の倭系の人物だったろうと推測されている。百済の後ろ盾があって「倭臣」に就任し、その後にヤマト朝廷の臣僚となった。彼が安羅王と行動を共にしながら、「倭臣」としての活動を開始したのは、新羅が金官伽耶を滅ぼして安羅の東堺に進出し、一方、百済が安羅に軍を進駐させた532年頃である。 就任当初は、新羅を侵攻するなど百済の意に添った路線をとり、阿賢移那斯(あけえなし)や佐魯麻都(さろまつ)に命じて久礼山を越えて新羅領へ侵攻させた。しかし、移那斯・麻都らが新羅に破れて安羅に逃れ帰った後は、新羅接近策、すなわち新羅従属の政策に傾斜していく。その理由として、「新羅のために耕作できず、百済は遠すぎて安羅を救援できない」とヤマト朝廷に報告している。 百済は、次第に新羅に接近していく印支彌に対して、彼を抑留するという強硬手段に出た。ヤマト朝廷は印支彌の後任としてまず既洒(=許勢)臣を「倭臣」として任命・派遣し、ついで的臣(いくはのおみ)を「倭臣」として安羅に派遣したという。 阿賢移那斯(あけえなし)や佐魯麻都(さろまつ)5世紀末の498年、百済に対して乱を起こした任那左魯の那干陀甲背(なかんだこうはい)という人物がいる。『日本書紀』に引用された「百済本記」に記された彼の系譜によれば、息子は加耶の首長の加猟直岐甲背・鷹奇岐彌((かろうじきこうはい・ようがきみ)である。その息子は百済または加耶の女性との間に二人の子供をもうけた。それが加耶在住の阿賢移那斯(あけえなし)と佐魯麻都(さろまつ)である。 そのほかにも、鷹奇岐彌は倭の女性との間に加不至費直(かわちのあたい)という子供も設けている。したがって、加不至費直は移那斯と麻都の異母兄弟ということになる。加不至費直は倭の河内と関連があり、ヤマト朝廷から派遣されたと推断してよい。鷹奇岐彌が倭に移住した後に生まれたのであろうと、鈴木氏は推察されている。 移那斯と麻都は地位は低いが、「倭臣」として働いた。上記のように、印支彌(いきみ)の命令で久礼山を越えて新羅領へ侵入している。印支彌が新羅従属の政策を取るようになると、移那斯は新羅の冠・衣服を着用して日々新羅へ行き、公私をはばかることがなかったという。 彼らは安羅の外交に大きな影響を与え、高句麗に遣使した可能性もあることが指摘されている。安羅の外交を掌握しながら、倭臣であり、新羅の官位も得ている。複数の王権とのつながりを持ち、外交の場で活躍した彼らもまたミドルマンの典型であろう。 |