橿原日記 平成17年4月9日

講演会「蘇我入鹿暗殺事件の真実」を聴講 


さくら
宅近くの公園の桜が満開に咲き揃ろったこの日、「歴史に好奇心!市民勉強会」が主宰する歴史講演会に初めて参加した。タイトルは「入鹿暗殺事件の真実」で、”「原鎌足伝」の存否を手掛かりに”というサブタイトルがついている。不勉強で「原鎌足伝」とはどんな史料か知らなかったが、講師が学習院大学および日本大学講師の遠山美都男氏と聞いて、是非聴講しなければならないと思った。

山美都男氏は12年前に『大化改新 六四五年六月の宮廷革命』(中公新書1119 1993年)を上梓され、「大化改新」の序幕となった乙巳(いっし)の変のクーデターに関して、通説とは異なる独自の見解を示された。通説では、乙巳の変は中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)が中心となって律令国家建設の障害になっている蘇我蝦夷・入鹿父子を討ち滅ぼした事件とされている。しかし、中大兄皇子や中臣鎌足らは単に実行部隊に過ぎず、本当の黒幕は他にいた、その黒幕は軽皇子(かるのみこ、後の孝徳天皇)であるというのが、遠山氏の説だった。

古代史ドラマスペシャル「大化改新」
古代史ドラマスペシャル「大化改新」
近になって、遠山氏は自説を少し軌道修正され、乙巳の変の首謀者は軽皇子とその姉で時の女帝だった皇極天皇であるとする孝徳・皇極共謀説を唱えられておられる。昨年暮れの12月8日NHKは「その時歴史が動いた」でミステリー・大化改新という番組を放映した。番組の中で、遠山氏はこの新しい説を紹介しておられた。非常に興味深い説だったが、違和感も感じた(12月8日 その時歴史は動いた ミステリー・大化改新参照)。

にはともあれ、本日は遠山氏が「原鎌足伝」の存否を手がかりに入鹿暗殺事件の真実に迫るというので、どんな話が聞けるが楽しみに出かけてきた。場所はJR王子駅北口にある”北(ほく)とぴあ”。講演は午後1時半から始まった。

山氏の講演の内容は、大きく2つに区分できる。前半は、いわゆる「原鎌足伝」は存在しなかったとする自説の説明であり、後半は氏が唱えられている乙巳の変の孝徳・皇極共謀説の概説だった。



「原鎌足伝」などという史料は存在しなかった!!

桜

巳の変に関する記述を掲載している史書は、720年に編纂された『日本書紀』以外にも存在する。書記編纂から40年後の760年に、時の太政大臣・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(=恵美押勝、えみのおしかつ)が執筆した『藤氏家伝』である。

なみに、『家伝』と通称されている『藤氏家伝』は上下2巻からなる。上巻は藤原氏の始祖である鎌足の伝記で、仲麻呂がじきじきに執筆したとされている。下巻は仲麻呂の父である武智麻呂の伝記で、鑑真の通訳を務めたことがある延慶という僧侶が執筆したという。


麻呂が『家伝』を執筆した目的は、政権の延命を狙ってのことだとされている。当時、仲麻呂の政治的スポンサーだった叔母の光明皇太后は、余命幾ばくもない状態にあった。後ろ盾を失えば、最高権力の座にいる藤原南家の仲麻呂とて足下をすくわれかねない。しかも、敵対者は他氏とは限らず、藤原家の他の分家である可能性が高い。そこで、鎌足に始まる藤原氏の嫡流は鎌足−不比等−武智麻呂−仲麻呂とつながる藤原南家であることを、内外に公言する必要があった、とされている。

巳の変に関する記述内容を見てみると、『日本書紀』と『家伝 上』では、表現が完全に一致もしくは類似している箇所がかなり多い。だが、『日本書紀』に記載されていないが『家伝 上』に記述がある部分、あるいは『日本書紀』に記載されているが『家伝 上』には記述されていない部分もある。

うした差分を比較分析して、歴史学者の横田健一氏は、『日本書紀』の編纂者や藤原仲麻呂が執筆の際に利用した別の鎌足伝記があったとし、両書の作者は必要に応じてその内容を取捨選択して記述したとする説を立てられた。現実には、元の史料と思われるものは何も伝わっておらず、書名も分かっていない。そのため、歴史学会ではそのバーチャル史料を「原鎌足伝」、「入鹿誅滅物語」、あるいは単に「史料X」といった仮題で呼んできた。


999年、沖森卓也・佐藤信・矢島泉の3氏が共同執筆した『藤氏家伝 鎌足・貞慧・武智麻呂伝 注釈と研究』(吉川弘文館)が出版された。3氏は『家伝 上』の記述を詳細分析した結果、横田氏の説を否定して「原鎌足伝」といった史料は存在しなかったと結論づけた。そして、仲麻呂は『日本書紀』を参考にしながら『藤氏家伝』を執筆し、『日本書紀』と異なる部分はすべて仲麻呂の創作であるとした。

山氏も、基本的には「原鎌足伝」の存在を否定する立場に立っておられる。しかし、『日本書紀』と異なる部分がすべて仲麻呂の創作であるとする考えには、異を唱えておられる。氏によれば、仲麻呂の創作とされている部分も厳密に検証すると、次のような3つのパターンがあり、仲麻呂の創作とは言い切れない。おそらく仲麻呂は『日本書紀』を座右におき、その記述を参照しながら『家伝 上』を執筆したものと推測しておられる。

パターン1: 鎌足のような朝廷に仕える人間の履歴をまとめたような書類(家譜)を参考にした部分。例えば、『家伝 上』の冒頭に記された鎌足の略歴は、そうした家譜を引き写していると考えられる。

パターン2: 『日本書紀』の記述をそのまま転記したが、話の本筋には変更をきたさない程度の改変をおこなった部分。遠山氏の言葉を借りれば、料理ですこしスパイスを加味した程度の変更で、話の筋には影響はない。

パターン3: 『日本書紀』の記述を下敷きにしながら、話の内容を大幅に改変した部分。料理で言えば、素材を大幅に変えて記述に深みを持たせたような部分がこのパターンに相当する。

山氏は、講演に先立って配布された『家伝 上』のテキストで、それぞれのパターンの例を示されて、具体的になぜ『日本書紀』の記述に”スパイスを添加されたのか”、あるいは”大幅に素材を変えてしまったのか”を話された。その内容は十分に説得力があり、面白かった。

えば、パターン3の例として指摘された箇所は、『日本書紀』では中大兄皇子と中臣鎌足がともに南淵請安のもとに通って周孔の教えを学んだと記述しているにすぎない。だが、『家伝 上』では、僧旻(みん)の私塾で鎌足が蘇我入鹿を机を並べて勉強したことになっている。さらに、僧旻をして、塾生の中で入鹿が最優等生であるが、鎌足には神織奇相があり入鹿に勝っているから自愛せよと、語らせている。仲麻呂は、この二人が近い将来に不倶戴天の敵となることを強調したかったにちがいない。


平宝字元年(757)、すなわち仲麻呂が『家伝 上』を執筆する3年前に、諸奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、仲麻呂に対する反乱を画策した。反乱は未然に鎮圧され、奈良麻呂をはじめとする関係者は逮捕された。このクーデター未遂事件は、後世、橘奈良麻呂の変と呼ばれている。

いたことに、遠山氏は、山背大兄皇子殺害事件や乙巳の変を執筆する際に、仲麻呂は橘奈良麻呂の変の関係者を念頭においていたとの見解を公にされた。氏によれば、奈良麻呂のイメージが蘇我入鹿に投影されているという。同様に、皇極天皇は光明皇太后を、山背大兄皇子は淳仁天皇を、舒明天皇は聖武天皇を、そして諸皇子は塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王にの4人を、それぞれ念頭において執筆したとされる。

なわち、遠山氏が想定される2つの事件の人間像の対応を整理すると、次の表のようになる。

山背大兄殺害事件・乙巳の変橘奈良麻呂の変
中臣鎌足藤原仲麻呂
蘇我入鹿橘奈良麻呂
皇極天皇光明皇太后
舒明天皇聖武天皇
山背大兄皇子淳仁天皇
入鹿に共謀した諸皇子塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王 の4人

の新説の根拠として、遠山氏は『家伝 上』の一文の中で”臨朝”という表現が使われている点をあげられた。『家伝 上』には、蘇我入鹿が山背大兄皇子討伐に先だって、入鹿が討伐の理由を述べている段落がある。仲麻呂はその記述の中で「まさに今、天子崩(かむ)あがりたまひて、皇后臨朝し、心、必ずしも安くあらず」と記している。

朝とは、皇帝や天皇でない人間が皇帝や天皇として振る舞うことをいう。しかし、山背大兄皇子討伐の時点では、皇極天皇はすでに即位している。即位している女帝が朝(ちょう)に臨むというのは意味をなさない。したがって仲麻呂がこの一文をものにするとき、頭の中でイメージしていた皇極天皇は光明皇太后にちがいないと推理された。

巳の変は、仲麻呂の時代から100年以上も前に生じたクーデターである。古い話を紙上で再現する場合、誰しも卑近な事件や人物をイメージして執筆しがちである。したがって、遠山氏の指摘は、話としては面白い。しかし、”臨朝”という表現以外に確固たる証拠はなく、果たしてそこまで言い切ってよいか疑問が残る。史料を余りに深読みしすぎて、荒唐無稽な説にならない事を祈るばかりである。



遠山氏が唱える乙巳の変の孝徳・皇極共謀説

桜
般には、乙巳の変は、中大兄皇子と中臣鎌足を中心とする若手グループが律令国家建設の障害となる蘇我本宗家を実力で排除したクーデターであると理解されている。だが、1993年に出版された『大化改新 六四五年六月の宮廷革命』の中で、遠山美都男氏は全く異なった理解を提示された。乙巳の変の究極の目的は、皇極(こうぎょく)天皇から実弟の軽皇子(かるのみこ、後の孝徳天皇)へ史上初の生前譲位を断行するためだったとされたのである。

前譲位とは、天皇が在位中に次の皇位継承候補に天皇の位を譲ることである。では、なぜ皇極天皇の時代になって生前譲位が必要になったのか。遠山氏は次のように説明する。

〜7世紀の皇位継承について、単なる兄弟継承ではなくて、世代と年齢に重点を置いた世代内継承の原理に基づいて行われたと、遠山氏は説かれる。つまり、血統だけでなく、天皇としてふさわしい年齢と経験も大いに加味して、群臣たちが同一世代内の継承資格者を順番に推挙し、その世代に該当者がいなくなって、次の世代に移って行くという皇位継承のルールがあったとされる。

時は、天皇位は終身だったが、同一世代の候補が年齢順に登極していく間は、在位期間は比較的短かった。しかし、6世紀末に第32代崇峻(すしゅん)天皇が、蘇我馬子が放った刺客に暗殺されるという事件が生じた時点で、皇位継承候補が複数存在し紛争の火種となる可能性が生じた。そこで、皇位継承の緩衝として我が国初の女帝が登極した。第33代推古(すいこ)天皇である。ところが、推古天皇の治世が36年という予想以上に長期に渡ったため、その間に厩戸皇子(うまやどのみこ、=聖徳太子)や押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのみこ)といった皇位継承候補が即位できずに死んでしまった。

入鹿誅殺の場面
多武峰縁起絵巻−入鹿誅殺の場面
34代舒明(じょめい)天皇の後に即位した35代皇極天皇も、やはり女帝である。女帝の登極は複数の皇位継承候補間の争いを一時的に先送りするが、推古天皇時代に生じたような皇位継承の弊害も生む。こうした問題を解決するには、女帝の在位を長期化させてはならない。”複数の候補の中から一人の皇位継承者を特定できる客観的状況を速やかに作り出し、何らかの機会を捉えて、しかるべき方法で譲位を実現する”必要があった。

巳の変の直前の皇極女帝が即位した時点では、4人の皇位継承候補がいた。一人は、聖徳太子の長子・山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)で、欽明(きんめい)天皇の曾孫にあたり、候補中最年長だった。二人目は皇極女帝の同母弟の軽皇子。父・茅淳(ちぬ)王が営んだ河内・和泉地方の勢力を継承し、阿倍・蘇我倉・巨勢・大伴をはじめとしてかなり広範な支持勢力を擁していたとされる。

人目は、舒明天皇の皇子で、蘇我馬子の娘の法堤郎媛(ほてのいらつめ)を母に持つ古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)。蘇我本宗家から次期天皇候補として強力に支持されていた。四人目は皇極女帝の皇子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)。遠山氏によれば、中大兄皇子は父母の双方が天皇であり血統的には他の候補より勝っていたかもしれないが、年齢的条件の面でまだ皇位継承の予備軍の位置にあったにすぎないと見ておられる。

たがって、世代と年齢の点から皇位継承者をランク付けすれば、山背大兄皇子→軽皇子→古人大兄皇子→中大兄皇子となる。だが、蘇我本宗家の蘇我入鹿(そがのいるか)は古人大兄皇子の次期天皇即位を強く推していた。一方、皇極天皇は実弟の軽皇子への譲位を考えていた。こうした関係者それぞれの思惑と力関係を押さえることで、乙巳の変の裏側が見えてくると、遠山氏はいう。

巳の変の序幕は、643年11月1日に切って落とされた。4人の皇位継承候補のうち、最年長だった山背大兄皇子の斑鳩宮が急襲され、一族もろとも自殺して果てた。『日本書紀』はこの事件を蘇我入鹿の独断による暴挙として記述している。だが、遠山氏は、斑鳩宮を襲撃したのは古人皇子を次期天皇に推す一派と、軽皇子を次期天皇に推す一派が、それぞれの候補の即位をはばむ「共通の敵」として山背大兄一族の打倒・粛清に踏み切ったと考えられた。

まり、遠山氏はこの事件の首謀者は蘇我入鹿だけではなくて、軽皇子も事件に関与していたと見ておられる。あるいは両者の共同謀議だったのかもしれないと。いずれにしても、この事件によって皇極譲位の条件が一つ整えられたことになる。

雪の板蓋宮跡
乙巳の変の舞台となった雪の板蓋宮跡
の後に来るのは、当然のことながら、次期天皇に古人皇子を推す一派と、軽皇子を推す一派の対立である。先制したのは、軽皇子を推す一派である。かれらはクーデターという暴力的な手段で所期の目的を達成しようとした。それが、乙巳の変であるという。

蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿を誅殺したのは、中大兄皇子や中臣鎌足たちだった。遠山氏によれば、彼らはクーデターの実行部隊に過ぎず、真の首謀者あるいは黒幕は軽皇子だったという。所期の目的を達した軽皇子は姉の皇極天皇から譲位され第36代孝徳天皇として即位する。なお、遠山氏によれば、クーデターのターゲットにされたのは蘇我入鹿だけではなく、古人皇子も狙われた可能性があった。


上が、乙巳の変に関する遠山美都男氏の軽皇子首謀説の概要だが、最近は自説を少し軌道修正され、乙巳の変の首謀者は軽皇子とその姉の皇極天皇であるとする孝徳・皇極共謀説を唱えられている。その説の内容を詳しく拝聴できると期待していたが、残念ながら講演の時間が足りなくなって、自説を軌道修正したきっかけしか話を聞くことができなかった。

のきっかけとなったのは、『日本書紀』を読み返してみて、蘇我入鹿が山背大兄一族の襲撃を決意する箇所に、”独謀”と記されている点に注目したためだそうだ。氏の説明によると、この、”独(ひとり)謀(はか)りて”の意味は、通常解釈されているように”独断で”といった単純な意味ではない。当時の蘇我入鹿は父の蝦夷から大臣の位を譲られていた。だが、この大臣という位は蘇我氏が独占してきた位で、通常のように”おおおみ”ではなく”おおまえつぎみ”と読むべきであるという。

”おおまえつぎみ”は群臣(まえつぎみ)の上にあって、群臣たちの会議を主催するだけでなく、天皇からの命令を群臣たちに伝えて諮問する役目もあった。したがって、この時の”独謀”とは、皇極天皇から下された山背大兄一族の襲撃の指示を、蘇我入鹿が群臣に謀ることなく実行した”と解すべきで、入鹿は天皇の命令を忠実に実行したにすぎないと、遠山氏は説明された。

夢殿
斑鳩宮跡に建つ夢殿
は、何故皇極天皇は山背大兄一族の誅殺を命じたのか。この理由づけも、遠山氏の説はユニークである。皇極女帝は飛鳥の地に寺院と宮殿を中心とする壮大な都の建設を夢見ていたという。だが、斑鳩の地には厩戸皇子の時代に築かれた斑鳩宮や斑鳩寺がある。もし、山背大兄皇子が次期天皇位を嗣げば、飛鳥の宮は廃絶となり、新しい都は斑鳩に遷ってしまう。女帝としてはそれが我慢ならなかった。軽皇子も姉の気持ちを十分理解して、入鹿に協力したにちがいないと言われる。

者には、遠山氏の”独(ひとり)謀(はか)りて”の意味を”天皇の命令を受けて大臣の権限で群臣に諮問しないで”と理解するのは、かなり拡大解釈のように思えた。そこで、他に同じ表現を用いた箇所があるか質問すると、もう一カ所、推古天皇が崩御した後、大臣の蘇我蝦夷が次の皇位継承者を定めようとした段落にも出ているとのことだった。

宅に戻るとさっそく『日本書紀』を調べてみた。だが、遠山氏は誤解されていたようだ。舒明天皇前紀の該当箇所の表現は「当是時、蘇我蝦夷為大臣。独欲定嗣位(この時に当たりて、蘇我蝦夷臣、大臣たり。独り嗣位を定めむと欲せり)」であり、”独謀”ではなく”独欲”となっている。したがって、天皇の命令で群臣に諮問することなく皇位を決めようとしたという意味にはならない。その後の文脈から、”独断で”皇位継承者を決めようと欲したと解すべきである。

山氏が指摘された箇所も、実は「戊午、蘇我臣入鹿独謀、将廃上宮王等、而立古人大兄為天皇(戊午(12日)に、蘇我臣入鹿、独り謀りて、上宮の王などを廃(す)てて、古人大兄を立てて天皇とせむとす)」となっている。前後の文脈から、この部分も蘇我入鹿の”独断で”山背大兄一族を滅ぼして古人大兄を天皇にしようとしたとしか解しようがない。遠山氏のような解釈であれば、皇極天皇は山背大兄一族を滅ぼして古人大兄を皇位継承者に指名したとの文意になり、意味をなさない。この場合もやはり従来通り、”独断で”と解釈したほうが素直に文意がとれる。


直な意見を言わせてもらえば、乙巳の変に関する遠山氏の軽皇子首謀説や最近の孝徳・皇極共謀説は、どうも無理があるような気がしてならない。第一の理由は、皇位継承争いの視点からのみ論が展開されているにすぎず、当時の東アジア世界で我が国が置かれていた状況が少しも配慮されていない。

国大陸では隋・唐帝国が出現し、7世紀は東アジア世界は未曾有の混乱を迎える時期にあたる。従来の国の体制では、国が立ちゆかぬことを危惧する一派がそれぞれの国でクーデターを起こす。642年5月には、高句麗で唐に対する徹底抗戦を説く泉蓋蘇文(せんがいそぶん)がクーデターで反対貴族のみならず国王まで殺害して、新しい王を擁立している。644年1月には百済でクーデターが発生し、義慈王の太子・扶余豊が廃され、代わって弟の扶余隆が太子に立てられた。新羅でも、やや遅れて647年に上上等の■曇(びどん)の乱が発生している。

が国でも氏族社会の弊害は極に達して、新しい国造りが模索されている時代だった。そこへ隋・唐の律令制度などの新しい知識を学んだ留学生・留学僧が帰国してくる。彼らから新知識を学びとり、新しい国家建設を目指す若い層が育って来たと想定しても不思議ではない。例えば、明治維新前夜のような熱気が飛鳥の地にみなぎり、それが新しい国政改革を目指したと解釈したほうが、乙巳の変の本質により近いのではないだろうか。645年の時点で、中大兄皇子は数え年で20歳、中臣鎌足は32歳。国政改革を担うに十分な年齢に達していた。

極天皇が壮大な倭京を築くために、山背大兄皇子の斑鳩宮の存在は目の上のコブだったとする、山背大兄一族滅亡の原因は、詭弁である。おそらく、皇極女帝が重祚して斉明天皇となり、さまざまな土木工事を飛鳥で行ったとする話からの類推であろう。もし、本当に壮大な都建設を意図していたなら、弟の軽皇子が即位してすぐに都を難波に遷すことなど許されるはずもなかったと思うが、いかがであろうか。




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