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遠山美都男氏は12年前に『大化改新 六四五年六月の宮廷革命』(中公新書1119 1993年)を上梓され、「大化改新」の序幕となった乙巳(いっし)の変のクーデターに関して、通説とは異なる独自の見解を示された。通説では、乙巳の変は中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)が中心となって律令国家建設の障害になっている蘇我蝦夷・入鹿父子を討ち滅ぼした事件とされている。しかし、中大兄皇子や中臣鎌足らは単に実行部隊に過ぎず、本当の黒幕は他にいた、その黒幕は軽皇子(かるのみこ、後の孝徳天皇)であるというのが、遠山氏の説だった。
なにはともあれ、本日は遠山氏が「原鎌足伝」の存否を手がかりに入鹿暗殺事件の真実に迫るというので、どんな話が聞けるが楽しみに出かけてきた。場所はJR王子駅北口にある”北(ほく)とぴあ”。講演は午後1時半から始まった。 遠山氏の講演の内容は、大きく2つに区分できる。前半は、いわゆる「原鎌足伝」は存在しなかったとする自説の説明であり、後半は氏が唱えられている乙巳の変の孝徳・皇極共謀説の概説だった。 |
「原鎌足伝」などという史料は存在しなかった!!
乙巳の変に関する記述を掲載している史書は、720年に編纂された『日本書紀』以外にも存在する。書記編纂から40年後の760年に、時の太政大臣・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(=恵美押勝、えみのおしかつ)が執筆した『藤氏家伝』である。 ちなみに、『家伝』と通称されている『藤氏家伝』は上下2巻からなる。上巻は藤原氏の始祖である鎌足の伝記で、仲麻呂がじきじきに執筆したとされている。下巻は仲麻呂の父である武智麻呂の伝記で、鑑真の通訳を務めたことがある延慶という僧侶が執筆したという。 仲麻呂が『家伝』を執筆した目的は、政権の延命を狙ってのことだとされている。当時、仲麻呂の政治的スポンサーだった叔母の光明皇太后は、余命幾ばくもない状態にあった。後ろ盾を失えば、最高権力の座にいる藤原南家の仲麻呂とて足下をすくわれかねない。しかも、敵対者は他氏とは限らず、藤原家の他の分家である可能性が高い。そこで、鎌足に始まる藤原氏の嫡流は鎌足−不比等−武智麻呂−仲麻呂とつながる藤原南家であることを、内外に公言する必要があった、とされている。 乙巳の変に関する記述内容を見てみると、『日本書紀』と『家伝 上』では、表現が完全に一致もしくは類似している箇所がかなり多い。だが、『日本書紀』に記載されていないが『家伝 上』に記述がある部分、あるいは『日本書紀』に記載されているが『家伝 上』には記述されていない部分もある。 こうした差分を比較分析して、歴史学者の横田健一氏は、『日本書紀』の編纂者や藤原仲麻呂が執筆の際に利用した別の鎌足伝記があったとし、両書の作者は必要に応じてその内容を取捨選択して記述したとする説を立てられた。現実には、元の史料と思われるものは何も伝わっておらず、書名も分かっていない。そのため、歴史学会ではそのバーチャル史料を「原鎌足伝」、「入鹿誅滅物語」、あるいは単に「史料X」といった仮題で呼んできた。 1999年、沖森卓也・佐藤信・矢島泉の3氏が共同執筆した『藤氏家伝 鎌足・貞慧・武智麻呂伝 注釈と研究』(吉川弘文館)が出版された。3氏は『家伝 上』の記述を詳細分析した結果、横田氏の説を否定して「原鎌足伝」といった史料は存在しなかったと結論づけた。そして、仲麻呂は『日本書紀』を参考にしながら『藤氏家伝』を執筆し、『日本書紀』と異なる部分はすべて仲麻呂の創作であるとした。 遠山氏も、基本的には「原鎌足伝」の存在を否定する立場に立っておられる。しかし、『日本書紀』と異なる部分がすべて仲麻呂の創作であるとする考えには、異を唱えておられる。氏によれば、仲麻呂の創作とされている部分も厳密に検証すると、次のような3つのパターンがあり、仲麻呂の創作とは言い切れない。おそらく仲麻呂は『日本書紀』を座右におき、その記述を参照しながら『家伝 上』を執筆したものと推測しておられる。 パターン1: 鎌足のような朝廷に仕える人間の履歴をまとめたような書類(家譜)を参考にした部分。例えば、『家伝 上』の冒頭に記された鎌足の略歴は、そうした家譜を引き写していると考えられる。 パターン2: 『日本書紀』の記述をそのまま転記したが、話の本筋には変更をきたさない程度の改変をおこなった部分。遠山氏の言葉を借りれば、料理ですこしスパイスを加味した程度の変更で、話の筋には影響はない。 パターン3: 『日本書紀』の記述を下敷きにしながら、話の内容を大幅に改変した部分。料理で言えば、素材を大幅に変えて記述に深みを持たせたような部分がこのパターンに相当する。 遠山氏は、講演に先立って配布された『家伝 上』のテキストで、それぞれのパターンの例を示されて、具体的になぜ『日本書紀』の記述に”スパイスを添加されたのか”、あるいは”大幅に素材を変えてしまったのか”を話された。その内容は十分に説得力があり、面白かった。 例えば、パターン3の例として指摘された箇所は、『日本書紀』では中大兄皇子と中臣鎌足がともに南淵請安のもとに通って周孔の教えを学んだと記述しているにすぎない。だが、『家伝 上』では、僧旻(みん)の私塾で鎌足が蘇我入鹿を机を並べて勉強したことになっている。さらに、僧旻をして、塾生の中で入鹿が最優等生であるが、鎌足には神織奇相があり入鹿に勝っているから自愛せよと、語らせている。仲麻呂は、この二人が近い将来に不倶戴天の敵となることを強調したかったにちがいない。 天平宝字元年(757)、すなわち仲麻呂が『家伝 上』を執筆する3年前に、諸奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、仲麻呂に対する反乱を画策した。反乱は未然に鎮圧され、奈良麻呂をはじめとする関係者は逮捕された。このクーデター未遂事件は、後世、橘奈良麻呂の変と呼ばれている。 驚いたことに、遠山氏は、山背大兄皇子殺害事件や乙巳の変を執筆する際に、仲麻呂は橘奈良麻呂の変の関係者を念頭においていたとの見解を公にされた。氏によれば、奈良麻呂のイメージが蘇我入鹿に投影されているという。同様に、皇極天皇は光明皇太后を、山背大兄皇子は淳仁天皇を、舒明天皇は聖武天皇を、そして諸皇子は塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王にの4人を、それぞれ念頭において執筆したとされる。 すなわち、遠山氏が想定される2つの事件の人間像の対応を整理すると、次の表のようになる。
この新説の根拠として、遠山氏は『家伝 上』の一文の中で”臨朝”という表現が使われている点をあげられた。『家伝 上』には、蘇我入鹿が山背大兄皇子討伐に先だって、入鹿が討伐の理由を述べている段落がある。仲麻呂はその記述の中で「まさに今、天子崩(かむ)あがりたまひて、皇后臨朝し、心、必ずしも安くあらず」と記している。 臨朝とは、皇帝や天皇でない人間が皇帝や天皇として振る舞うことをいう。しかし、山背大兄皇子討伐の時点では、皇極天皇はすでに即位している。即位している女帝が朝(ちょう)に臨むというのは意味をなさない。したがって仲麻呂がこの一文をものにするとき、頭の中でイメージしていた皇極天皇は光明皇太后にちがいないと推理された。 乙巳の変は、仲麻呂の時代から100年以上も前に生じたクーデターである。古い話を紙上で再現する場合、誰しも卑近な事件や人物をイメージして執筆しがちである。したがって、遠山氏の指摘は、話としては面白い。しかし、”臨朝”という表現以外に確固たる証拠はなく、果たしてそこまで言い切ってよいか疑問が残る。史料を余りに深読みしすぎて、荒唐無稽な説にならない事を祈るばかりである。 |