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昨年度に引き続いて飛鳥京跡の飛鳥正宮を学術調査してきた橿原考古学研究所(橿考研)は、去る8日、昨年発掘された天武・持統両天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」の中心部の構造がほぼ明らかになったと発表した。一方、明日香村教育委員会は9日、昨年「嶋宮(しまのみや)」の遺構が見つかった島庄(しまのしょう)遺跡で、この時期の建物跡7棟が新たに出土したと発表した。 昨年と同じく、本日も双方の発掘現場で同時平行的に現説が開かれ、早朝から考古学ファンが数多く訪れて、研究員の説明を熱心に聞き入っていたという。私用で自宅に戻っている筆者は、いずれの現説にも出席できず、悔しい思いで一日を過ごした。以下は、今回の発掘状況の備忘録として、新聞発表やネット上に公開された情報などから得た知見を整理したものである。 |
蘇我馬子邸宅跡とされる島庄遺跡で見つかった7棟の建物跡蘇我馬子の墓に比定されている石舞台古墳の西側に、現在駐車場として使われている広場がある。以前はここに高市小学校があった。その校庭跡の下には7世紀の島庄(しまのしょう)遺跡が眠っている。昨年、明日香村教育委員会はこの場所の約500平米を調査し、大小9棟以上の掘立柱建物跡が重なっている様子を発掘した。これらの建物跡は、7世紀前期、中期、後期の三つの時代のものだった。
一方、正確に南北を軸として建てられた建物群(現場では青色テープで表示)があり、上記の建物跡と重なっていた。そのため、馬子の邸宅が撤去された後に新しく造営された嶋宮(しまのみや)の建物跡であろうと推定されている。 蘇我馬子は、一族の権力の象徴である飛鳥寺や、姪の推古女帝の小墾田宮(おはりだのみや)を眼下におさめることができるこの地に、邸宅を構えた。島庄と呼ばれる付近一帯は、飛鳥京を見渡せる高台にあり、当時の「一等地」だったとされている(実際は山の稜線で遮られれるため、飛鳥京全体が見渡せたかどうかは疑問)。馬子は推古34年(626)に死亡した。彼の死後も蘇我本宗家が邸宅とその周辺を所有し、馬子の墓を邸宅の東側に造営した。だが、645年の乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家が滅亡すると、朝廷はこの地を接収して、馬子の邸宅を皇族たちの離宮「島宮(しまのみや)」に建て替えたとされている。天武天皇の時代には、「日並(ひなみし)皇子」と呼ばれ皇位継承者だった草壁皇子(くさかべのみこ)が、「島宮」を宮殿として住んでいたと言われている。
7世紀中ごろの建物跡とされる4棟に関しては、『日本書紀』に、中大兄皇子(天智天皇)の離宮が馬子邸に隣接していたとの記述があり、その関連が注目される。だが、これらの建物跡は馬子邸とは向きが違う。その上、馬子の邸跡の北側に隣接して約1mしか離れておらず、邸宅としては近接し過ぎとの異論もある。このため、馬子の子の蝦夷(えみし)か、その子の入鹿(いるか)が建て増ししたものとの推測もなりたつという。 嶋宮の建物跡とされる2棟のうち1棟は、この4棟が取り壊された後、同じ場所に建てられていた。嶋宮の建物跡の最大のものは、南北3.2m、東西4.8m以上だった。前回の調査結果を含めると、嶋宮は南北約100m、東西約10mの範囲に計5棟が確認されたことになるという。 天智天皇10年(671)10月19日、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)は、兄・天智天皇の病気平癒を祈願するため吉野への出家隠遁を願い出て許されると、直ちに大津宮を出発し、その日の夕方嶋宮に到着したと『日本書紀』に記されている。この吉野行きに同行したのは、鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)、草壁皇子、忍壁皇子(おさかのみこ)、および朴井連雄君(えのいのむらじ・おきみ)をはじめとする40人余りの舎人(とねり=地方出身の近侍の護衛)たちと10人余りの侍女たちである。一行は、嶋宮で一泊し、強行軍で疲れ切った身体を休めた。
大勢の人間で行軍する場合、先頭と最後尾ではずいぶんと長い隊列となり、途中で最後尾が追いついてくるのを待つ余分なロスタイムが随所に発生するというのだ。ましてや子供や女官たちを伴っての行軍である。午前5時43分に大津を出発した踏査隊が、実際に石舞台前に到着したのは、日付が変わった翌日の午前0時34分、実に19時間を費やしてやっと到着できたという。したがって、その日の夕方嶋宮に到着したと記す『日本書紀』の文章は、単なる文飾であると断言された。 |
キトラ古墳の被葬者は50代の骨太で頑丈、男らしい体格の人物
「はぎ取り修復」による壁画保存作業は、昨年の8月2日にスタートした。十二支図の戌(いぬ)を手始めに、四神図の青龍から白虎へと、はぎ取り作業が進むことになっていた。しかし、何故か昨年9月中旬から作業が中断していた。作業が再開されたとの発表があったのは、ようやく今月10日になってからのことである。 そのキトラ古墳の被葬者について、文化庁は同じく今月10日、人骨と歯を詳しく鑑定した結果、被葬者は熟年(40〜60歳代)の男性で、50代の可能性が最も高いことがわかったと発表した。奈良文化財研究所(奈文研)は、昨年6月、石室にたまった土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を見つけていた。その鑑定結果が出たのである。
上記の頭骨の状態とともに、被葬者の年齢の特定に役だったのは、23本の歯の存在だった。これらの歯は全体に大きめで、すり減り方や奥歯の根元に付着した石灰などを分析することで、年齢を上記の範囲に絞り込めたという。歯の鑑定では、右上の奥歯1本はかなりひどい虫歯だったことも判明している。 キトラ古墳は7世紀末から8世紀初め頃に作られたと推測されている。 今回の鑑定結果は、被葬者論争に影響を与えるだろう。これまでに被葬者としてさまざまな候補が挙がっている。例えば、猪熊兼勝・京都橘女子大教授(考古学)は高市(たけち)皇子を想定しておられる。高市皇子は「壬申の乱」で父・大海人皇子(後の天武天皇)を補佐して活躍した長男で、太政大臣を務め、持統10年(696)に43歳で亡くなったとされている。 一方、岡本健一・京都学園大教授(文化財論)や白石太一郎・奈良大教授(考古学)、直木孝次郎・大阪市立大名誉教授(古代史)らは、右大臣だった阿倍御主人(あべのみうし)を候補として推しておられる。阿部山の地名から想定された候補者であるが、阿倍御主人は、「壬申の乱」で天武天皇(大海人皇子)に味方して活躍した。彼は大宝3年(703)に右大臣(従二位)で亡くなった。死亡年齢は69歳。 千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)は、百済王禅広(ぜんこう、善光とも書く)を高松塚古墳、息子の昌成(しょうじょう)をキトラ古墳の被葬者と推定しておられる。百済王禅広とは、舒明3年(631)に百済から人質として送られてきた余豊璋(よほうしょう)に同行してきた王子で、日本に残ったまま故国滅亡という悲運に見舞われた。持統天皇の時に百済王の称号を与えられ、死後、正広参(正三位相当)を賜った。息子の百済王昌成は父より先にこの世を去ったという。昌成は天武3年(674)に五十歳前後で死んだと推定でき、「鑑定の範囲内の人物」と千田氏はみておられる。 先日行われた高松塚古墳の現説では、封土を築いた版築の最下層から藤原京時代の須恵器の蓋が出土したという。この蓋が古墳の築造時期を推定する有力な手がかりとなり、700年前後、すなわち藤原京の時代(694 - 710)の築造とするこれまでの説が裏付けた。 キトラ古墳は高松塚古墳より一回り規模が小さいが、ともに二段築成の円墳であり、装飾壁画を石槨内に持つ。このため兄弟墳の可能性が高い。古墳の築造時期と被葬者の死亡年齢を勘案したとき、果たして上記3名の候補の中に該当者はいるのだろうか。 |