橿原日記 平成17年3月12日

あれから1年、飛鳥京跡と島庄遺跡の発掘に新しい進展


年の3月13日、奈良県明日香村では発掘遺跡の現地説明会(現説)が3カ所で開かれ、大勢の考古学ファン押しかけた。そのため明日香村は騒然とした一日だった(H16/03/13 明日香騒然! 3カ所の現場説明会に多数の古代史ファン参集参照)。あの日から1年、今年も2カ所で現説が開かれた。

年度に引き続いて飛鳥京跡の飛鳥正宮を学術調査してきた橿原考古学研究所(橿考研)は、去る8日、昨年発掘された天武・持統両天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」の中心部の構造がほぼ明らかになったと発表した。一方、明日香村教育委員会は9日、昨年「嶋宮(しまのみや)」の遺構が見つかった島庄(しまのしょう)遺跡で、この時期の建物跡7棟が新たに出土したと発表した。

年と同じく、本日も双方の発掘現場で同時平行的に現説が開かれ、早朝から考古学ファンが数多く訪れて、研究員の説明を熱心に聞き入っていたという。私用で自宅に戻っている筆者は、いずれの現説にも出席できず、悔しい思いで一日を過ごした。以下は、今回の発掘状況の備忘録として、新聞発表やネット上に公開された情報などから得た知見を整理したものである。



今回の発掘で飛鳥浄御原宮の正殿の全容がほぼ解明

鳥盆地のほぼ中央に、史跡「伝飛鳥板蓋宮跡」が位置している。「伝」という文字が冠されているのは、この場所が643年から645年まで女帝・皇極天皇が宮居としていた宮殿の跡との伝承が残されていたためだろう。それとも、飛鳥板蓋宮跡であるとの確証が得られなかったためだろうか。いずれにしても、その発掘跡は整備されて、現在史蹟公園になっている。

ころが、最近は「伝飛鳥板蓋宮跡」に代わって「飛鳥京」という呼称が一般的になってきた。明日香村岡に位置するこの付近は、舒明・皇極・斉明・天智・天武・持統の5人6代の天皇の宮が置かれた場所であることが、近年の発掘調査の成果として分かってきたためである。これらの天皇の宮の複合遺跡である「飛鳥京」跡は、大まかにT期(舒明天皇の飛鳥岡本宮 629年〜)、U期(皇極天皇の飛鳥板蓋宮 643年〜)、V期(斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮 656年〜、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮 672年〜)に区分でき、その跡が重層しているという。

イラスト
苑池遺構発掘時のイラスト(*)
明天皇が西暦629年に飛鳥岡のほとりに「飛鳥岡本宮」を営んで以来、持統天皇が「藤原京」に遷都する694年までの66年間、歴代天皇の宮殿は上記のようにほとんどこの地に営まれた。”7世紀が飛鳥の時代である”と言われるゆえんである。橿考研は、この「飛鳥京」の実体を解明するために、長年にわたって発掘調査を実施している。

鳥京跡第140次調査で、飛鳥京の苑池遺構が出土し、橿考研がその現地説明会を行ったのは平成11年(1999)6月である。この苑池遺構の発見が、飛鳥京跡に対する古代史フアンの関心を一挙に高めた。筆者などは、イラスト付で報道された現地説明の様子に胸を躍らせたものである。つい最近のことのように思っていたが、それからすでに6年の歳月が流れている。

大型建物遺構
昨年度の発掘で見つかった大型建物遺構
年度の第151次調査で、橿考研は飛鳥京跡の内郭中枢部分を調査し、飛鳥浄御原宮の正殿と思われる大型建物の一部と、その南にひろがる大規模な石敷広場、池状遺構などを発掘した。大型建物は斉明天皇や天武天皇が日常的な執務や生活に使った「正殿(せいでん)」の跡と推定されたが、建物跡全体が発掘されたわけではない。南西部分1/4が見つかっただけで、東西12m、南北6mの建物跡が確認されたにすぎない。建物の南正面には、予想に反して南北12m幅で人頭大の川原石が敷き詰めた広場があった。儀式用の広場と想定されている空間だったが、ほぼ完全な形で石敷きが残っているのは、まさに驚異だった。

橿考研は、大型建物の規模と池状遺構の全容解明、建物の東側の様子を明らかにするために、昨年11月から約900uを対象に今回の発掘調査を実施してきた。そして去る3月8日、その結果を新聞発表した。新聞各社の報道によれば、飛鳥浄御原宮の正殿跡の全体が発掘され、東西23.5m(8間)、南北12.4m(4間)の切り妻造り高床式の建物だったことが判明した。建物の周囲は石敷きで、旗を掲げた柱と思われる直径60cmの穴が四隅にあった。

発掘現場
西から見た今回の発掘現場(*)
殿の正面中央には入り口がなく、中軸線を挟んで東西に階段が設けられていた。北側(後ろ側)の同じ位置でも階段を取り付けた跡が見つかった。正殿の東側には東西6m以上、南北12.4mの別棟があり、渡り廊下(東西6.2m、南北5.4m)でつながっていた。

方、西側には縁側と細長い建物(東西9m以上、南北3.1m)があった。周囲やくぼみの形状から池のある庭園が近くにあったとみられ、縁側から眺めることができたと推測されている。さらに、正殿跡の南には柵跡があり、その外で正殿よりやや小さい建物跡が出土した。

回の発掘で、三棟の建物が縁や廊下でつながる複雑な構造だったことが判明した。実際の建物は、左右対称と考えられてきた正殿のイメージとは異なっていた。建物を廊下で接続する構造は、平安宮の内裏(だいり)にもみられるが、飛鳥浄御原宮にその原型があったと考える研究者もいる。

『日本書紀』には、天武天皇10年(681)正月7日、「天皇が向小殿(むかいのこあんどの)で宴(とよのあかり)を催し、皇子らを内安殿(うちのあんどの)に招いた。臣下は外安殿(とのあんどの)で酒を振る舞われ、舞楽を楽しんだ」との記述がある。この記述から、正殿跡が内安殿、東側の別棟が向小殿、 南の柵の外のやや小ぶりな建物が臣下を集めた外安殿と推測され、天武天皇の正月の宴の様子を伝える『日本書紀』の記述を裏付ける配置が確認されたことになる。

なみに、宴(とよのあかり)とは新嘗祭(にいなめさい)の翌日に、天皇が新穀を召し上がり群臣に賜る儀式のことで、正月7日の節会とも言った。この儀式は、吉野の国栖の奏楽や五節の舞なども催される盛大な大宴会である。この日、正殿の内安殿には皇后の鵜野讃良(うののささら)皇女をはじめ、後に宿命のライバルとなる草壁皇子や大津皇子も居並んで、華やかな儀式だったにちがいない。

(*) 橿考研作成現地説明会資料より転載


蘇我馬子邸宅跡とされる島庄遺跡で見つかった7棟の建物跡

我馬子の墓に比定されている石舞台古墳の西側に、現在駐車場として使われている広場がある。以前はここに高市小学校があった。その校庭跡の下には7世紀の島庄(しまのしょう)遺跡が眠っている。昨年、明日香村教育委員会はこの場所の約500平米を調査し、大小9棟以上の掘立柱建物跡が重なっている様子を発掘した。これらの建物跡は、7世紀前期、中期、後期の三つの時代のものだった。

昨年の現地説明会
昨年3月13日の現地説明会
の発掘の現地説明会は、昨年の3月13日に行われた。見学者に分かりやすいように、7世紀前期の建物跡3棟は黄色のテープで表示してあった。これらの建物はいずれも北から約30度振れる方向に建てられていた。この方位は北約40mに位置する人工池「勾(まがり)の池」の方位と同じであり、『日本書紀』に度々登場する馬子の邸宅跡の可能性が高いと判断された。

方、正確に南北を軸として建てられた建物群(現場では青色テープで表示)があり、上記の建物跡と重なっていた。そのため、馬子の邸宅が撤去された後に新しく造営された嶋宮(しまのみや)の建物跡であろうと推定されている。

我馬子は、一族の権力の象徴である飛鳥寺や、姪の推古女帝の小墾田宮(おはりだのみや)を眼下におさめることができるこの地に、邸宅を構えた。島庄と呼ばれる付近一帯は、飛鳥京を見渡せる高台にあり、当時の「一等地」だったとされている(実際は山の稜線で遮られれるため、飛鳥京全体が見渡せたかどうかは疑問)。馬子は推古34年(626)に死亡した。彼の死後も蘇我本宗家が邸宅とその周辺を所有し、馬子の墓を邸宅の東側に造営した。だが、645年の乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家が滅亡すると、朝廷はこの地を接収して、馬子の邸宅を皇族たちの離宮「島宮(しまのみや)」に建て替えたとされている。天武天皇の時代には、「日並(ひなみし)皇子」と呼ばれ皇位継承者だった草壁皇子(くさかべのみこ)が、「島宮」を宮殿として住んでいたと言われている。

発掘現場
島庄遺跡の発掘現場
日香村教育委員会は、昨年発掘された場所の南北にあたる隣接地約520平米を調査し、3月9日その成果をマスコミに発表した。発掘調査では、嶋宮の建物跡とされる7世紀後半の建物跡が2棟、7世紀前半に建てられた馬子の邸宅跡が1棟、さらに7世紀中ごろの建物跡4棟、合計7棟の跡が見つかった。現地説明会は、本日の午前10時から発掘現場で行われた。

世紀中ごろの建物跡とされる4棟に関しては、『日本書紀』に、中大兄皇子(天智天皇)の離宮が馬子邸に隣接していたとの記述があり、その関連が注目される。だが、これらの建物跡は馬子邸とは向きが違う。その上、馬子の邸跡の北側に隣接して約1mしか離れておらず、邸宅としては近接し過ぎとの異論もある。このため、馬子の子の蝦夷(えみし)か、その子の入鹿(いるか)が建て増ししたものとの推測もなりたつという。

宮の建物跡とされる2棟のうち1棟は、この4棟が取り壊された後、同じ場所に建てられていた。嶋宮の建物跡の最大のものは、南北3.2m、東西4.8m以上だった。前回の調査結果を含めると、嶋宮は南北約100m、東西約10mの範囲に計5棟が確認されたことになるという。

智天皇10年(671)10月19日、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)は、兄・天智天皇の病気平癒を祈願するため吉野への出家隠遁を願い出て許されると、直ちに大津宮を出発し、その日の夕方嶋宮に到着したと『日本書紀』に記されている。この吉野行きに同行したのは、鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)、草壁皇子、忍壁皇子(おさかのみこ)、および朴井連雄君(えのいのむらじ・おきみ)をはじめとする40人余りの舎人(とねり=地方出身の近侍の護衛)たちと10人余りの侍女たちである。一行は、嶋宮で一泊し、強行軍で疲れ切った身体を休めた。

玉城妙子氏
基調講演者の玉城妙子氏(於二上山博物館)
年11月23日に二上山博物館の特別記念シンポジウムで、東京立正女子短期大学非常勤講師の玉城妙子(たまきたえこ)氏から面白い話を聞いた。大津から飛鳥まではおよそ80km。「壬申の乱を歩く会」でこの行程の踏査に参加したことがある玉城氏は、大海人とともに近江を発ったすべての人間が「夕べ」に島の宮に揃って到着したとするには、少々無理があるとの見解を示された。

勢の人間で行軍する場合、先頭と最後尾ではずいぶんと長い隊列となり、途中で最後尾が追いついてくるのを待つ余分なロスタイムが随所に発生するというのだ。ましてや子供や女官たちを伴っての行軍である。午前5時43分に大津を出発した踏査隊が、実際に石舞台前に到着したのは、日付が変わった翌日の午前0時34分、実に19時間を費やしてやっと到着できたという。したがって、その日の夕方嶋宮に到着したと記す『日本書紀』の文章は、単なる文飾であると断言された。



キトラ古墳の被葬者は50代の骨太で頑丈、男らしい体格の人物

キトラ古墳
キトラ古墳
日の現地説明会とは直接関係ないが、明日香村には最近脚光を浴びている史蹟がもう一つある。阿部山にある「キトラ古墳」である。高松塚古墳に匹敵する国宝級の壁画が描かれている古墳だ。しっくいの傷みから壁画の崩落が危ぶまれ、文化庁は昨年7月、「はぎ取り修復」という緊急手術に訴えることを決断した。

「はぎ取り修復」による壁画保存作業は、昨年の8月2日にスタートした。十二支図の戌(いぬ)を手始めに、四神図の青龍から白虎へと、はぎ取り作業が進むことになっていた。しかし、何故か昨年9月中旬から作業が中断していた。作業が再開されたとの発表があったのは、ようやく今月10日になってからのことである。

のキトラ古墳の被葬者について、文化庁は同じく今月10日、人骨と歯を詳しく鑑定した結果、被葬者は熟年(40〜60歳代)の男性で、50代の可能性が最も高いことがわかったと発表した。奈良文化財研究所(奈文研)は、昨年6月、石室にたまった土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を見つけていた。その鑑定結果が出たのである。

キトラ古墳の石室から出土した人間の歯と頭骨の断片
キトラ古墳の石室から出土した人間の歯と頭骨の断片
定を依頼された片山一道・京大大学院教授(自然人類学)によると、約100片の人骨は、すねの部分の破片1点を除いてすべては頭骨の破片で、重複する部分がなかったとのことだ。このことは、被葬者が1人だったことを示している。しかも、人骨は、目の付近の骨が丸みを帯び、耳の後ろの骨が凸凹して頑丈なことなど、男性の特徴を備えているという。

記の頭骨の状態とともに、被葬者の年齢の特定に役だったのは、23本の歯の存在だった。これらの歯は全体に大きめで、すり減り方や奥歯の根元に付着した石灰などを分析することで、年齢を上記の範囲に絞り込めたという。歯の鑑定では、右上の奥歯1本はかなりひどい虫歯だったことも判明している。

トラ古墳は7世紀末から8世紀初め頃に作られたと推測されている。 今回の鑑定結果は、被葬者論争に影響を与えるだろう。これまでに被葬者としてさまざまな候補が挙がっている。例えば、猪熊兼勝・京都橘女子大教授(考古学)は高市(たけち)皇子を想定しておられる。高市皇子は「壬申の乱」で父・大海人皇子(後の天武天皇)を補佐して活躍した長男で、太政大臣を務め、持統10年(696)に43歳で亡くなったとされている。

方、岡本健一・京都学園大教授(文化財論)や白石太一郎・奈良大教授(考古学)、直木孝次郎・大阪市立大名誉教授(古代史)らは、右大臣だった阿倍御主人(あべのみうし)を候補として推しておられる。阿部山の地名から想定された候補者であるが、阿倍御主人は、「壬申の乱」で天武天皇(大海人皇子)に味方して活躍した。彼は大宝3年(703)に右大臣(従二位)で亡くなった。死亡年齢は69歳。

田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)は、百済王禅広(ぜんこう、善光とも書く)を高松塚古墳、息子の昌成(しょうじょう)をキトラ古墳の被葬者と推定しておられる。百済王禅広とは、舒明3年(631)に百済から人質として送られてきた余豊璋(よほうしょう)に同行してきた王子で、日本に残ったまま故国滅亡という悲運に見舞われた。持統天皇の時に百済王の称号を与えられ、死後、正広参(正三位相当)を賜った。息子の百済王昌成は父より先にこの世を去ったという。昌成は天武3年(674)に五十歳前後で死んだと推定でき、「鑑定の範囲内の人物」と千田氏はみておられる。

日行われた高松塚古墳の現説では、封土を築いた版築の最下層から藤原京時代の須恵器の蓋が出土したという。この蓋が古墳の築造時期を推定する有力な手がかりとなり、700年前後、すなわち藤原京の時代(694 - 710)の築造とするこれまでの説が裏付けた。 キトラ古墳は高松塚古墳より一回り規模が小さいが、ともに二段築成の円墳であり、装飾壁画を石槨内に持つ。このため兄弟墳の可能性が高い。古墳の築造時期と被葬者の死亡年齢を勘案したとき、果たして上記3名の候補の中に該当者はいるのだろうか。



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