橿原日記 平成17年2月27日

髪を切られ頭皮を剥がされて惨めな姿の高松塚古墳


現地説明会風景
高松塚古墳発掘の現地説明会風景

朝も奈良県地方は冷え込んだが、久しぶりに自転車を駆って高松塚古墳に会いに来た。正面から見ると、まるでコンクリートで固めらたトーチカのように、今にも機関銃の弾が飛び出してきそうな顔は、相変わらず好きになれない。それでも、この中にあの明日香美人たちの壁画が眠っているのかと思うと、明日香を訪れるたびに、つい立ち寄って見たくなる。
高松塚

近では、出来の悪い高校生が手入れもしないで頭髪を伸ばしっぱなしでいるように、墳丘に繁茂する竹林を載せた姿になんとなく愛着を抱くようになった。昨年の秋、最後にここを訪れたときは、学校で先生に叱られたように、その頭髪をそり落として坊主頭になり、恥ずかしそうに頭を布で隠していた。

日は頭髪はおろか、その頭皮まで剥ぎ取った古墳の様子を一般に公開するという。頭皮を剥ぎ取られた古墳など見たくもなかったが、これも後学のためと割り切って出かけてきた。高松塚古墳発掘調査の現地説明会が10時半から行われると聞いたためだ。

下は、本日見学した高松塚古墳の現状と、説明会会場で受けた説明の要旨である。



 高松塚古墳の歴史を振り返る

松塚古墳が発掘調査され、石室内に描かれた色あざやかな彩色壁画がマスコミを通じて報道されたとき、この壁画古墳の発見は全国民に驚きと感動を与えた。今から33年前の昭和47年(1972)3月のことである。マスコミは連日、西壁の男子像と白虎や月,東壁の婦人像,青竜と太陽,北壁の玄武,天井の星宿などを色刷りで伝え、「世紀の大発見」とセンセーショナルに騒ぎ立てた。その評価は現在も変わっていない。筆者などは、新聞の関連記事を毎日切り抜いてスクラップブックを作ったことを、今でも鮮明に覚えている。


ああああ
元禄年間の高松塚 (*)
松塚古墳の存在がそれまで知られていなかった訳ではない。江戸時代の元禄10(1697)年頃、奈良奉行所が作成し京都所司代に提出した『諸陵考』が残されている。時の将軍綱吉は天皇陵の修復を行うために陵の所在の調査を京都所司代に命じた。所司代配下の奈良奉行が大和の各地を調査したが、そのとき平田村の庄屋から現在地に御陵山高松塚という古墳があるという報告を行った。報告を受けて山稜吟味役が現地に赴いて描かせた絵が『諸陵考』に載っている高松塚である。その絵には墳頂に松の木が一本生えていて、これが古墳の名称の語源になったようだ。ただし、当時は文武天皇陵と認識されていたようだ。


紀の壁画古墳の発見のきっかけは、発見の10年ほど前にさかのぼる。村民の一人が芋やショウガの貯蔵穴を墳丘南側に掘ったところ、穴の底で凝灰岩の四角い切り石が見つかったことだ。だが、切り石は貯蔵穴から顔をのぞかせたまま、10年近く放置されたままだった。

ああああ
壁画発見直後の高松塚 (*)
和45年(1970)になって、高松塚古墳の近くに遊歩道を通す話が持ち上がった。説明会に出向いた明日香村の観光課の職員が、地元の住民から切り石の話を聞きつけた。観光課長は、住民から聞いた話を網干善教氏や橿原考古学研究所の関係者に伝えた。「これは大変なことかもしれない…」と、網干氏は直感的にそう思ったそうである。同年10月、網干氏は早速、関西大の学生数人を連れて墳丘部の測量の実測調査が行っている。

日香村から古墳の調査依頼を受けた県立橿原考古学研究所(橿考研)の初代所長・末永雅雄氏は、昭和47年に橿考研が発掘調査の主体となることを決断し、関西大考古学研究室の学生を中心に調査隊を編成した。こうして、その年の3月6日に発掘が着手し、3月21日に石槨の内部にある壁画が発見された。そのときの発掘の経緯については、高松塚光源に詳しい。


画は石槨(せっかく)の内面に塗った漆喰の上に描かれている。しかし、長い年月や盗掘によって、傷つけられていた。壁画発見から2週間後には、さっそく「高松塚古墳応急保存対策調査会」が作られ、早急に石室内の三方の壁と天井に描かれた壁画の現地調査を実施した。4月には剥落止めの作業を行い、カビ対策としてパラホルムアルデヒドを布置している。そして、早急に石槨を密閉し、後世に伝えるために文化庁に保存を委託した。

年後の昭和49年(1974)、墳丘は国の特別史跡に、壁画は国宝に,出土置物は重要文化財に指定された。また、多数の遺跡が開発の波にさらされていた当時、石室の壁画を永久保存することに決定した。

ああああ
高松塚古墳保存管理施設(*)
画を永久保存するには、石槨の内部を発見当時の環境に保つことが一番望ましいとされた。そこで、一年を通じて気温摂氏11度から17度、湿度95%以上に保つ空気調整施設の設置が決定され、昭和49年(1974)8月に建設工事が開始され、昭和51年(1976)3月に最新式の施設が完成した。

和49年8月末には、壁画の保存技術を海外に学びに行っていた技術陣が帰国し、修復作業が始まった。彼らは、痛んでいる部分が剥げ落ちるのを防ぐため合成樹脂をしみこませた。修復作業は昭和56年(1981)まで集中的に続けられ、危険個所はおおむね安定した。

方、正確な記録を残すために前田青邨画伯を代表とする日本画家チームが編成され、精巧な模写も作られた。壁画模写は昭和49年3月に完成している。こうした作業の後に、高松塚古墳の石槨はふたたび密閉され、国宝に指定された壁画は永久保管されることになった。

化庁は定期点検を毎年おこなっており、平成9年(1997)には壁画の様子が報道陣に公開された。約20年ぶりの公開だったが、はく落やカビの繁殖はなく、保存施設の有効性は明らかだった。こうして国民的財産である壁画は、後世に永久に伝えることができると思われた。


ああああ
発掘調査前の高松塚(*)
ころがである。平成14年(2002)になって想定し得なかった事態が次々と明るみに出た。カビが大量発生して壁画が劣化していることが分かった。考えられないことだが、槨内にムカデやワラジムシの死骸が10匹あまり見つかり、ムシまで侵入していることが明らかになった。

平成15年3月には、文化庁はそれまでの緊急対策保存検討会に代わって、保存科学や美術史、考古学など12人の専門家による「国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会」を設置し、下部機関として壁画の修復やカビの専門家を集めた作業部会おいた。そして、この検討会の提言を得て応急のカビ対策を行うことにした。

ああああ
調査用覆屋の建設風景(*)
業部会は定期的に点検を行い、カビの処置を行いながら、カビ発生の原因を究明してきた。しかしカビの発生は治まらず、壁画は劣化し続けた。文化庁は発掘調査で原因を究明することとし、奈文研に調査を委託するとともに、明日香村と奈良県に協力を願った。そこで奈文研、橿考研、明日香村教育委員の共同で、昨年10月から今年3月までの予定で発掘調査が実施されることになった。

掘調査はまず、墳丘に生えている竹その他の樹木の撤去から開始された。撤去した後の墳丘全体は防水断熱シートで覆われた。そして、壁画に損失を与えないように配慮して墳丘全体を仮設覆屋(おおいや)で覆い、表土を剥ぎ取っていった。墳丘および墳丘廻りの調査が終わったというので、本日は発掘の成果と発掘現場を一般に公開することになった。



墳丘を剥ぎ取られた古墳と発掘で得られた知見

巨大な仮設覆屋
墳丘を覆う巨大な仮設覆屋
日は巨大な仮設覆屋の周囲に張り巡らされていた目隠しの幕がたくし上げられ、発掘現場が一般に公開された。その現状を以下に写真で紹介しよう。ご覧の通り、墳丘を覆っていた竹やその他の樹木は、ものの見事に取り払われ、随所に深い切り込みが入っている。版築で築かれた墳丘封土は、あちこちにボコボコと穴が穿かれている。竹の根を抜き取った跡である。

松塚古墳は、東西に延びる丘陵の緩やかな南斜面に築かれている。これまで壁画の保存対策が優先され、古墳に関しては最低限の調査にとどまっていた。墳丘の大きさや構造ははっきりしておらず、”直径16mか18mで、高さ5.4mの円墳”というのが定説となっていた。だが、今回の墳丘発掘調査の結果から、さまざまな新しい知見が得られたという。

墳丘の東側 墳丘の北側
墳丘の東側 墳丘の北側
墳丘の西側 墳丘の南側
墳丘の西側 墳丘の南側

 カビ発生の予想原因の追及

調査は墳丘から表土を剥ぎ取る作業から開始された。表面から40cm位表土を剥いだところで昭和47年の発掘坑が出てきた。東西1.5m 3mほどの長さの坑で、盗掘坑を掘り詰めたものでである。実は、その坑の埋め戻しの不備が石槨にムシが入ったり、カビが繁殖する原因ではないかと指摘されていた。そこで、その埋め戻し状況を確認したが、非常に丁寧に埋め戻されていた。

木の根
深く封土に食い込んだな黐(もち)の木の根
土を剥ぐと、竹の根が版築の封土に40cm〜60cmほどくい込でいて、カビくさい。こうした竹の根から雨水とともにカビの菌がしみこんだ可能性も指摘されてきた。しかし、石槨は墳頂の真下約2.5mの位置していて、竹の根は石槨に達しておらず直接の影響は与えていない。それでも、竹の根を完全に撤去し、表面の腐植土も運び出して環境を整備したという。

はもう一つカビ発生の原因と疑われていたものがある。墳頂部に大きな黐(もち)の木があった。平成年間に枯れたため切り倒されたが、その根株が地中深く張っていて、版築構造に影響を与えている可能性がある。根が何処まで伸びているのか調べるのは古墳を壊すことになり、根の先端までの確認は今回できなかったという。

かし、発掘責任者は石槨に近い黐の木の根が石槨の保存に影響を与えた可能性はあり得ると推測している。

 周溝の発見で古墳の規模が確定

周溝
東側から北側にかけて掘られた周溝
まわりを調査したところ、東側から北側にかけて約16mほど周溝が彫られていたことが判明した。溝の幅は3m、深さ0.5mくらいだった。溝の底は南に傾斜していて、地形の高い北を起点に、墳丘裾に沿って東西に溝を巡らせ、尾根筋の水を墳丘の下の方へ排水した施設だったと思われる。ただし、西側の周溝は畑地造成したときに削り取られてしまったようだ。

に述べたように、この古墳はこれまで直径16mか18m、高さ5.4mの円墳であるとされてきた。だが、墳形が円墳か方墳かそれとも八角墳か、また墳丘の規模が正確にいくらかは確定していなかった。墳丘の裾に巡らされた周溝の発見で、実際は直径23mの円墳であることがわかった。墳丘は後述のように版築工法を用いて上下二段で築造されていて、上段の直径は現在は15mほどだが、当初は約18mの直径だったと思われる。

た、墳丘は南の丘陵下から見ると8m以上の高さになるが、北側は新たに見つかった周溝面から3.6mほどの高さしかないことが判明した。

 版築工法で築かれた墳丘封土

灰岩の切石を組み合わせた石槨は、墳頂の真下約2.5mに位置しているが、その周囲は土を3cm前後の厚さでつき固める版築工法という方法で築かれていた。墳丘はもともと上下二段に築造されていたことも判明したが、中世以降に徐々に削り取られたようだ。下段の墳丘はほとんど失われ、上段の墳丘も上で述べたように直径15mほどに小型化している。特に墳丘の北東斜面は大きく階段状に削られていた。

 古墳の履歴が判明

から見ると、墳丘は4段の築成に見えるが、これは後世の改変によるものである。周溝からは奈良時代中頃の土器片が出てきた。このことは、奈良時代中期には周溝が埋もれていったことを示している。12世紀の平安時代には、盛んに土取りがなされ、古墳の周辺が削られている。墳頂部も削られその北側が段々になっているが、これは戦後の蜜柑畑の造成によるものである。昭和47年ごろはこの一帯は蜜柑畑であり、西側にも蜜柑畑があった。墳丘の裾廻りも蜜柑畑の造成で大きく削られていたことが分かった。

 築造時期は藤原京の時代(694〜710)

墳の下の遺物包含層から7世紀中頃の土器が発見されたが、版築の最下層からは藤原京時代の須恵器の蓋が出土した。この蓋が古墳の築造時期を推定する有力な手がかりとなり、700年前後の築造とするこれまでの説を裏付けた。

松塚古墳の規模は、マルコ山古墳とよく似ていることが分かった。マルコ山古墳は径が24m、上段部分が径18mで、高松塚古墳とマルコ山古墳は同じ規格で作られている可能性がある。ただし、マルコ山古墳は下段部分が六角形、高松塚古墳は円形に作られている。

方、キトラ古墳と比べると、キトラ古墳は、二段築成で下段が径13.8m、上段が径9mの円墳である。規模は高松塚より小さい。奈良市の一番北の端にある「石のカラト古墳」は上円下方墳であるが、下の方形部分が一辺13.8m、上段の円墳が径9m強で、キトラとカラトが非常に似た大きさをしている。このため、当時は墳墓築造に関して二つの規格があったのではと推測されている。

お、高松塚古墳をはじめとして、檜隈地域には多くの天皇陵や皇族の墓があり、これらの古墳は、藤原京の朱雀大路を延長した聖なるライン上にあると言われている。被葬者のほとんどは天武・持統天皇と、その系統を引く皇族である。彼らが、藤原京は生前の宮都、檜隈の地は死後の宮都と認識していたとすれば、この偶然も理解できる。



 カビの発生原因は特定されたか?

掘調査は3月で終了し、墳丘はまた埋め戻される。今回の大規模な発掘調査で、石槨内のカビ発生の原因は突き止められたか? 結論から言うと、どうやらその原因を確定することはできなかったようだ。文化庁は今月22日、「直接的な原因はつかめなかった」と発表した。

の古墳の石槨の中では、北東部分の壁に水分が高く、その水分の高さがカビの発生を招いているのでは、と言われてきた。その原因を究明するために、今回の調査では古墳の周囲に二つの拡張区を設けたという。解説員は以下のような構造的な地形を示して、面白い指摘をした。

南北断面概念図
南北断面概念図 (*)
の古墳の作り方を見ると、背面にある丘陵の斜面を水平になるように削り、石槨を置き、その周囲を版築で盛り土をしているという。ところが、その基盤になっている地山が、水を通しにくい白色粘土層であるとのことだ。したがって、周囲に降った雨が白色粘土の上を伝わって徐々に版築の中にしみこみ、石槨の背面までしみこんで来た可能性があるという。

墳を作った当初は周溝を巡らしてあったため、雨水は丘陵の下へ逃げた。奈良時代の中頃から古墳の周囲が埋められ、周溝は完全に機能しなくなってしまった。終末期古墳では、石槨へ雨水が侵入するのをふせぐため、メクラ暗渠を築くのが一般的だった。だが、高松塚古墳の場合は、工事に手抜きががあったのか、そうした仕掛けが見あたらなかったという。

説者は最後にこう付け加えた。昭和47年の壁画発見当時は、壁画の永久保存に関心が行き過ぎて、古墳そのものの調査がおろそかにされた。今回と同じ規模の発掘調査を当時行っていれば、カビ発生問題もあるいは違った展開を見せたのではないかと。

画発見当時と同じ環境に石槨内を保っているといっても、状況は全く当時と同じではない。壁画の模写や内部の状況のチェックのために、過去にかなり多くの人間が出入りしている。知らず知らずのうちにカビの菌が外部から持ち込まれた可能性がなしとは言えない。

「国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会」は今回の発掘調査に基づいてどのような対策を文化庁に答申するのかわからない。文化庁は「調査結果を基に専門家の意見を聞いて、今後の対策を決めたい」としている。国民の財産である文化財を守る最高機関は文化庁である。従来の文化庁の対応を見ていると、責任ある対策を取ってきたとは言い難い。もしこの古墳の壁画のカビ問題が適切に処理できないようであれば、その責任は文化庁の長官にある。彼の行政責任を追求するための関心と熱意を国民も持つべきであろう。

(*) 現場説明会の配布資料より転載。



追記:墳丘で過去の大地震による地割れが26カ所見つかる

松塚古墳を発掘調査している文化庁は3月16日、直径約23メートルの円墳の東側と南側で、過去の大地震による地割れが26カ所見つかったと発表した。最大で長さ1.3メートル以上、幅約5センチ。墳丘が約3センチずれた断層もあったとのことだ。割れたすき間は砂状の土で埋まり、伸びてきた樹木の根が腐って空洞ができていた。石室の天井石4枚(いずれも103センチ×65センチ)のうち2枚はひび割れていた。

うした墳丘の地割れは石室の石のひび割れは、マグニチュード(M)8を超える過去の南海地震によるものと考えられている。地球のプレート同士がぶつかる南海トラフを震源とする南海地震は、日本書紀に記述のある684年以降、約10回起きている。近いうちに南海地震が起きる確率は高く、壁画や墳丘が崩れる危険性を視野に入れた恒久保存対策が急務だとは、調査した京大防災研究所の三村衛・助教授(地盤工学)の弁だ。(H17/03/17)



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