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今朝も奈良県地方は冷え込んだが、久しぶりに自転車を駆って高松塚古墳に会いに来た。正面から見ると、まるでコンクリートで固めらたトーチカのように、今にも機関銃の弾が飛び出してきそうな顔は、相変わらず好きになれない。それでも、この中にあの明日香美人たちの壁画が眠っているのかと思うと、明日香を訪れるたびに、つい立ち寄って見たくなる。
最近では、出来の悪い高校生が手入れもしないで頭髪を伸ばしっぱなしでいるように、墳丘に繁茂する竹林を載せた姿になんとなく愛着を抱くようになった。昨年の秋、最後にここを訪れたときは、学校で先生に叱られたように、その頭髪をそり落として坊主頭になり、恥ずかしそうに頭を布で隠していた。 本日は頭髪はおろか、その頭皮まで剥ぎ取った古墳の様子を一般に公開するという。頭皮を剥ぎ取られた古墳など見たくもなかったが、これも後学のためと割り切って出かけてきた。高松塚古墳発掘調査の現地説明会が10時半から行われると聞いたためだ。 以下は、本日見学した高松塚古墳の現状と、説明会会場で受けた説明の要旨である。 |
高松塚古墳の歴史を振り返る高松塚古墳が発掘調査され、石室内に描かれた色あざやかな彩色壁画がマスコミを通じて報道されたとき、この壁画古墳の発見は全国民に驚きと感動を与えた。今から33年前の昭和47年(1972)3月のことである。マスコミは連日、西壁の男子像と白虎や月,東壁の婦人像,青竜と太陽,北壁の玄武,天井の星宿などを色刷りで伝え、「世紀の大発見」とセンセーショナルに騒ぎ立てた。その評価は現在も変わっていない。筆者などは、新聞の関連記事を毎日切り抜いてスクラップブックを作ったことを、今でも鮮明に覚えている。
世紀の壁画古墳の発見のきっかけは、発見の10年ほど前にさかのぼる。村民の一人が芋やショウガの貯蔵穴を墳丘南側に掘ったところ、穴の底で凝灰岩の四角い切り石が見つかったことだ。だが、切り石は貯蔵穴から顔をのぞかせたまま、10年近く放置されたままだった。
明日香村から古墳の調査依頼を受けた県立橿原考古学研究所(橿考研)の初代所長・末永雅雄氏は、昭和47年に橿考研が発掘調査の主体となることを決断し、関西大考古学研究室の学生を中心に調査隊を編成した。こうして、その年の3月6日に発掘が着手し、3月21日に石槨の内部にある壁画が発見された。そのときの発掘の経緯については、高松塚光源に詳しい。 壁画は石槨(せっかく)の内面に塗った漆喰の上に描かれている。しかし、長い年月や盗掘によって、傷つけられていた。壁画発見から2週間後には、さっそく「高松塚古墳応急保存対策調査会」が作られ、早急に石室内の三方の壁と天井に描かれた壁画の現地調査を実施した。4月には剥落止めの作業を行い、カビ対策としてパラホルムアルデヒドを布置している。そして、早急に石槨を密閉し、後世に伝えるために文化庁に保存を委託した。 2年後の昭和49年(1974)、墳丘は国の特別史跡に、壁画は国宝に,出土置物は重要文化財に指定された。また、多数の遺跡が開発の波にさらされていた当時、石室の壁画を永久保存することに決定した。
昭和49年8月末には、壁画の保存技術を海外に学びに行っていた技術陣が帰国し、修復作業が始まった。彼らは、痛んでいる部分が剥げ落ちるのを防ぐため合成樹脂をしみこませた。修復作業は昭和56年(1981)まで集中的に続けられ、危険個所はおおむね安定した。 一方、正確な記録を残すために前田青邨画伯を代表とする日本画家チームが編成され、精巧な模写も作られた。壁画模写は昭和49年3月に完成している。こうした作業の後に、高松塚古墳の石槨はふたたび密閉され、国宝に指定された壁画は永久保管されることになった。 文化庁は定期点検を毎年おこなっており、平成9年(1997)には壁画の様子が報道陣に公開された。約20年ぶりの公開だったが、はく落やカビの繁殖はなく、保存施設の有効性は明らかだった。こうして国民的財産である壁画は、後世に永久に伝えることができると思われた。
翌平成15年3月には、文化庁はそれまでの緊急対策保存検討会に代わって、保存科学や美術史、考古学など12人の専門家による「国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会」を設置し、下部機関として壁画の修復やカビの専門家を集めた作業部会おいた。そして、この検討会の提言を得て応急のカビ対策を行うことにした。
発掘調査はまず、墳丘に生えている竹その他の樹木の撤去から開始された。撤去した後の墳丘全体は防水断熱シートで覆われた。そして、壁画に損失を与えないように配慮して墳丘全体を仮設覆屋(おおいや)で覆い、表土を剥ぎ取っていった。墳丘および墳丘廻りの調査が終わったというので、本日は発掘の成果と発掘現場を一般に公開することになった。 |
カビの発生原因は特定されたか?発掘調査は3月で終了し、墳丘はまた埋め戻される。今回の大規模な発掘調査で、石槨内のカビ発生の原因は突き止められたか? 結論から言うと、どうやらその原因を確定することはできなかったようだ。文化庁は今月22日、「直接的な原因はつかめなかった」と発表した。 この古墳の石槨の中では、北東部分の壁に水分が高く、その水分の高さがカビの発生を招いているのでは、と言われてきた。その原因を究明するために、今回の調査では古墳の周囲に二つの拡張区を設けたという。解説員は以下のような構造的な地形を示して、面白い指摘をした。
古墳を作った当初は周溝を巡らしてあったため、雨水は丘陵の下へ逃げた。奈良時代の中頃から古墳の周囲が埋められ、周溝は完全に機能しなくなってしまった。終末期古墳では、石槨へ雨水が侵入するのをふせぐため、メクラ暗渠を築くのが一般的だった。だが、高松塚古墳の場合は、工事に手抜きががあったのか、そうした仕掛けが見あたらなかったという。 解説者は最後にこう付け加えた。昭和47年の壁画発見当時は、壁画の永久保存に関心が行き過ぎて、古墳そのものの調査がおろそかにされた。今回と同じ規模の発掘調査を当時行っていれば、カビ発生問題もあるいは違った展開を見せたのではないかと。 壁画発見当時と同じ環境に石槨内を保っているといっても、状況は全く当時と同じではない。壁画の模写や内部の状況のチェックのために、過去にかなり多くの人間が出入りしている。知らず知らずのうちにカビの菌が外部から持ち込まれた可能性がなしとは言えない。 「国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会」は今回の発掘調査に基づいてどのような対策を文化庁に答申するのかわからない。文化庁は「調査結果を基に専門家の意見を聞いて、今後の対策を決めたい」としている。国民の財産である文化財を守る最高機関は文化庁である。従来の文化庁の対応を見ていると、責任ある対策を取ってきたとは言い難い。もしこの古墳の壁画のカビ問題が適切に処理できないようであれば、その責任は文化庁の長官にある。彼の行政責任を追求するための関心と熱意を国民も持つべきであろう。 (*) 現場説明会の配布資料より転載。 |
追記:墳丘で過去の大地震による地割れが26カ所見つかる高松塚古墳を発掘調査している文化庁は3月16日、直径約23メートルの円墳の東側と南側で、過去の大地震による地割れが26カ所見つかったと発表した。最大で長さ1.3メートル以上、幅約5センチ。墳丘が約3センチずれた断層もあったとのことだ。割れたすき間は砂状の土で埋まり、伸びてきた樹木の根が腐って空洞ができていた。石室の天井石4枚(いずれも103センチ×65センチ)のうち2枚はひび割れていた。 こうした墳丘の地割れは石室の石のひび割れは、マグニチュード(M)8を超える過去の南海地震によるものと考えられている。地球のプレート同士がぶつかる南海トラフを震源とする南海地震は、日本書紀に記述のある684年以降、約10回起きている。近いうちに南海地震が起きる確率は高く、壁画や墳丘が崩れる危険性を視野に入れた恒久保存対策が急務だとは、調査した京大防災研究所の三村衛・助教授(地盤工学)の弁だ。(H17/03/17) |