|
冬の気圧配置のせいで今朝の奈良盆地は冷え込んだ。金剛山麓にある御所(ごせ)市では、時折小雪が舞った。それにもかかわらず大勢の考古学ファンや古代史ファンが、本日は御所市を訪れた。県立橿原考古学研究所(橿考研)が発掘調査していた極楽寺ヒビキ遺跡と二光寺廃寺跡で、現地説明会が同時に行われると聞きつけて集まってきた人たちである。
海抜960mの葛城山とそれに続く海抜1125mの金剛山の東麓は、かって古代豪族・葛城氏が盤踞した土地であり、葛城氏が朝鮮半島南部から連れてきた多くの渡来系氏族が住んでいた地域である。極楽寺ヒビキ遺跡が葛城氏の中枢施設であり、二光寺廃寺が渡来系氏族の氏寺だった可能性が高いとなれば、本日の現地説明会を見逃すわけにはいかない。 そんな訳で、友人のT.Y氏、およびそのまた友人のT.O氏と共に説明会に出かけてきた。T.O氏が車を出していただいたのは大いに助かった。現場は奈良盆地を見下ろす金剛山の中腹にあり、決して交通の便が良いところではない。奈良交通は近鉄忍海(おしみ)駅から現場近くまで、商魂たくましく臨時の有料バスを走らせていた。 |
極楽寺ヒビキ遺跡は丘陵の先端に築かれた葛城氏の中枢施設?
金剛山の東麓を南北に横切る県道30号線の路上で、整備員が見学者の流れを整備している。車を降りると、人の流れに加わって集落の中の生活道路を下っていった。二光寺廃寺の現地説明会場の近くに、受け付けがあり、そこで説明資料を受け取った。そして、先ず極楽寺ヒビキ遺跡を先に見学するよう指示された。 字(あざ)の名をとって二光寺廃寺跡と名付けられた遺跡は御所市西北窪にある。同様に、字の名をとって極楽寺ヒビキ遺跡と名付けられた遺跡は、そこより約300mほど北の御所市極楽寺に位置している。いずれも、県の農地整備事業に先行して、昨年の秋から暮れにかけて発掘調査が開始された。 現場にアクセスするために竹藪を切り開いた道を下っていくと、やがて南と北を深い谷に挟めれた独立丘陵の先端に出る。表土をはぎ取った調査面積4000平方メートルほどの発掘現場が、その先端にあった。東北方面を見ると、木立が幾分邪魔していたが、その先に奈良盆地を見下ろすことができた。西を見ると、間近に迫った金剛山の頂が時雨れて霞んで見えた。 丘陵の先端に築かれた遺構のレイアウト
この遺跡のハイライトは、やはり調査地の西で発掘された大型の掘立柱建物(建物1)跡であろう。建物跡にはほぼ正方形に巡る二重の柱列があり、さらに西側と南側だけに、もう一重の柱列が加わる。中心部で約8メートル四方、三重目で東西14.5メートル、南北15.5メートルになる。床面積は約225平方メートルで、5世紀代の建物跡としては国内最大級となる。天皇家に比肩する権勢を誇った葛城氏の実像に迫る第一級資料と、専門家の評価も高い。
しかし、渡り堤に続く場所で塀は途切れていた。途切れた箇所に門があったと想定されている。東側にも2列の塀があったが、柱の大きさに違いがある。建物1の正面に位置することから、目隠し的な塀だったと推定されている。 建物1と塀が存在する範囲は、約15メートルの幅を持つ濠で区画されていて、区画の西辺と南辺の斜面は葺石が施されていた。東辺と北辺の濠は、後世に地形が改変されているため、濠が存在したかどうかは不明である。濠の中には意識的に置かれた立石があった。 調査区の北東の隅には、別の掘立柱建物(建物2)跡があった。梁間2間(4.5m)、桁行4間(7.0m)の建物だが、塀の区画の外にあり、物見櫓だった可能性が高い。 濠で囲まれた内部に出入りするために陸橋の遺構が出土している。盛り土で築かれ3メートルの幅の渡り堤である。南に向かってハの字状に広がっていて、その取り付け部分から、意識的に割られたと思われる初期須恵器や土師器の高坏が出土している。 石張りの濠に囲まれた巨大な出土遺構の性格
問題はこの建物の性格である。遺構から出土した土器は高坏(たかつき)が多く、生活用土器などの遺物がほとんど出土していない。そのため、橿考研は「葛城氏の首長が祭儀や政務を行った中枢施設」だったとの見解を示している。さらに、大型建物を持つこの区画は単独で成り立つものではなく、未発掘になっている西側高台にも関連施設が存在すると推測している。 また、この遺跡を面的な広がりの中で理解する必要があるとしている。遺跡の北東には、葛城氏に関連するとされる居館や倉庫群、ガラスや鉄の工房、祭祀に用いた導水施設など、約一キロ四方に約二十か所の遺跡が集中する南郷遺跡群が広がる。一方、築造時期が5世紀前半ということであれば、大和盆地南部では最大の前方後円墳である全長238メートルの宮山古墳との関係も気になるところだ。葛城氏の始祖・襲津彦(そつひこ)の墓として有力視されるこの古墳は北東約3キロのところにある。 葛城氏の始祖・襲津彦(そつひこ)は大和朝廷の「外務大臣兼軍事司令官」を務め、朝鮮半島に遠征。連れ帰った渡来人を領地内に住まわせ、最新技術を取り入れて鉄、ガラス製品などを作らせたとされている。もっとも、襲津彦は実在の人物ではなく、4世紀末から5世紀初頭の倭の対朝鮮外交や軍事行動に関与した葛城氏の複数の首長たちの活躍を、襲津彦という一人の人物に収斂し伝承化したものであるとの説もある(加藤謙吉氏)。 天皇家と比肩する権勢を誇った葛城氏だが、大和朝廷の体制が確立されるに従って遠ざけられ、やがて歴史の表舞台から消えていく。柱穴の中に火災による焼土が残っている点に注目している研究者もいる。456年、襲津彦のひ孫にあたる葛城円(つぶら)が、雄略天皇に焼き殺されたとする日本書紀の記述を裏付けるとしている。 いずれにせよ、この遺跡は奈良盆地を見渡すことを意識して作られた施設の跡であり、葛城氏の首長クラスの人物に関連するものと考えられる。網干善教・関西大名誉教授(考古学)は「支配地を見下ろす形で威容を示し、戦国時代の天守閣と同じ意味を持っていたと思われる」と、コメントしておられる。 |
約200点のせん仏片が出土した二光寺廃寺跡
極楽寺ヒビキ遺跡から竹藪の中の通路を通って二光寺廃寺跡の発掘現場に戻るころ、金剛山の斜面を駆けるように落ちてくる雪がかなり激しさを増した。綿のような雪が表土を剥がれた遺跡の上に降り注ぐ光景は、まことに幻想的である。
二光寺廃寺の存在は古書には一切触れられておらず、地下に埋もれた未知の寺院だった。出土遺物から、飛鳥時代の7世紀後半に創建され、平安時代のうちに倒壊し、鎌倉時代には耕作地となったと推定されている。
二光寺廃寺は自然災害で倒壊したらしく、落ちて堆積した屋根瓦の間に、多数のせん仏(せんは「土」へんに「專」)がはさまっていた。中国・唐では、玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏像を原型にしてせん仏を量産し、堂内を飾ることが流行していたという。今回見つかったものは、遣唐使らが中国から持ち帰った仏像をもとにして焼き上げ、金堂の壁を飾ったものであろう。 出土した遺物の概要二二光寺廃寺の基壇周囲から、瓦、せん仏、螺髪(らほつ)などが出土した。 軒瓦は数種類あった。創建時の瓦と見なされるものは、高宮(たかみや)廃寺や朝妻(あさづま)廃寺で出土した瓦と同笵(どうはん、同じ方で作られた瓦)で、複弁蓮華紋軒丸瓦と偏向唐草紋瓦である。その他に重弧紋軒平瓦や、明日香村の檜隈(ひのくま)廃寺と同笵の複弁蓮華紋丸瓦がある。
(1)は、唐招提寺に所蔵しているせん仏や三重県の夏見(なつみ)廃寺からす出土したものと細部まで酷似しているという。「甲午□五月中」という銘があり、西暦694年に製造されたことを示す可能性が高い。橿考研が、過去の出土品などを元にした全体の復元図に今回の出土品を重ねてみると、中央の如来など11点がぴたりと一致したという。同じ型からいくつものコピーが生まれたようだ。
(3)は、朝妻廃寺から出土したせん仏と同笵で作られたものである。 (4)は、現在のところ二光廃寺独自のものとみられている。 また、高さ3.3cm、直径3.2cmの土製の螺髪も出土している。その大きさから、金堂には高さ2メートルを越える塑像の丈六仏が安置されていたと考えられている。 二光寺廃寺から出土した瓦やせん仏が、本日だけの期間限定で、近鉄忍海駅の西側にある葛城市歴史博物館で特別展示されていた。帰り道に立ち寄って見学した、火災で焼失した寺ではないため、せん仏の色が埴輪のそれのように明るく鮮やかだった。正式な展示は、橿考研の付属博物館で来月に行われるという。 (*) 橿考研作成の現地説明会資料から転載 |