橿原日記 平成17年2月25日

川原寺創建期の経楼(or鐘楼)の遺構発掘される

ああああ
発掘調査が行われている弘福寺の境内(*)


弘福寺
川原寺跡に建つ現在の弘福寺
月20日、奈良文化財研究所(奈文研)は、発掘調査中の明日香村川原の弘福寺(ぐふくじ)の境内で、巨大な礎石を伴う7世紀後半建物跡を検出したと発表した。弘福寺は飛鳥四大寺の一つだった川原寺跡に建つ寺で、庫裏の建て替えにともなう事前調査が現在行われている。発掘区は川原寺の中金堂の北西にあたり、経巻を納める経楼かあるいは梵鐘を吊る鐘楼の跡と想定されている。

楼や鐘楼の発掘例は全国的にも少なく、7世紀の経楼・鐘楼は、桜井市の山田寺跡と岐阜県飛騨市の杉崎廃寺でしか見つかっていない。古代寺院の建築物を考える上で重要な遺構であり、2月22日に現地説明会が開かれた。あいにくと当日は法隆寺主催の「太子堂をたずねる集い」に参加したため、説明会には参加できなかった。発掘調査が継続中と聞いて、現場の様子を見ておきたく本日の午後現場を訪れた。


 斉明天皇の冥福を祈るために建立された川原寺

発掘現場
発掘現場
原寺は、斉明天皇の冥福を祈るために飛鳥川原宮を改めて寺としたと伝えられる。斉明天皇は、661年正月、百済再興を支援する救援軍とともに築紫に赴き、その年の7月、現在の福岡県朝倉町に造営された朝倉橘広庭宮で病を得て崩御した。時に68才であった。

が、川原寺の造営時期についても発願者についても、はっきりしたことは分からない。671年以前であれば天智天皇が存命中であり、672年以降であれば壬申の乱で勝利した天武天皇時代である。一般には、天智天皇の代、しかも大津宮時代以前に創建されたと考えられている。

川原寺の復元図
川原寺の復元図
和32〜34年に奈文研がおこなった発掘調査によって、川原寺は一塔二金堂様式の伽藍だったことが判明している。すなわち、正面に中金堂、手前東に塔、西に西金堂を配置している。塔と西金堂が並ぶ点は、法隆寺の伽藍配置と似ているが、位置は逆であり、また西金堂は南面せず東の塔と向かい合っている点が違っている。

金堂の北に講堂があり、講堂を取り巻く回廊のような形でコの字形の僧坊が巡らされていた。この僧坊の規模は大きく、多くの僧がここで起居していたと思われる。現在は、金堂跡、塔跡などの遺構が分かるように復元整備されている。



巨大礎石の建物跡確認

礎石群
掘り出された礎石群(*)
掘調査が行われている寺の境内は、椿などの植え込みなどがあった庭園で瑪瑙の礎石がところどころに置かれていた。その表土を剥いだところ、花崗岩の巨大な礎石がコの字形に6個並んでいるのが見つかった。最大のものは、直径約1.7メートルもあり、中金堂の礎石をしのぐ大きさだという。

発掘調査遺構図
発掘調査遺構図(*)
れらの礎石は7尺(2.1m)間隔で置かれていて、それぞれの上面は平らになっている。また、柱を立てる位置は直径1mの円形に造り出されている。これら6個の礎石は建物の東半分のものである。このため、全体では南北3間(6.3m)、東西2間(4.2m)の建物が建っていたと想定できる。

らに、これらの礎石列の南東部で、礎石心から9尺(2.7m)の位置に、逆L字形につながる凝灰岩の列が見つかった。この部分は建物の基壇の縁と思われ、基壇の規模を復元すると、南北39尺(11.7m)、東西33尺(9.6m)になるという。



礎石群の上に建っていた建物のイメージ

ああああ
奈文研が作成した川原寺の模型(*)
文研は唱和46年、それまでの発掘調査の成果に基づいて川原寺の復元模型を作成している。今回の事前調査対象地域は当時まだ発掘されていなかったが、それでも模型では中金堂の背後に経楼と鐘楼があったと想定されている。

回の調査で経楼(or 鐘楼)が想定位置に実際に建っていたことが確認されたことになる。ただ、それが経楼だったか鐘楼だったかは、現状では確認できない。発掘された遺構から建物は中金堂の北西に位置する。礎石が大きいわりに間隔が狭く、さらに礎石から基壇の出(屋根の出)が大きいなどの特徴があり、奈文研では2階建ての庇(ひさし)が四方に張り出す入母屋造りの建物だったのではと想像している。
建物想像図
奈文研作成の建物想像図(*)

『日本書紀』によれば、天武天皇は川原寺に写経生を集めて一切経を写させたという。母・斉明天皇のめい福を祈るためだったと言われている。この建物は、あるいはその時写経された一切経を収めた経楼だったかもしれない。経楼であったにしろ、あるいは鐘楼で会ったにしろ、7世紀後半の建物跡であることに変わりはない。経楼・鐘楼の発掘例としては国内最古となる。


(*) 奈文研作成の現地説明資料からの転載



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