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| 発掘調査が行われている弘福寺の境内(*) |
斉明天皇の冥福を祈るために建立された川原寺
だが、川原寺の造営時期についても発願者についても、はっきりしたことは分からない。671年以前であれば天智天皇が存命中であり、672年以降であれば壬申の乱で勝利した天武天皇時代である。一般には、天智天皇の代、しかも大津宮時代以前に創建されたと考えられている。
中金堂の北に講堂があり、講堂を取り巻く回廊のような形でコの字形の僧坊が巡らされていた。この僧坊の規模は大きく、多くの僧がここで起居していたと思われる。現在は、金堂跡、塔跡などの遺構が分かるように復元整備されている。 |
巨大礎石の建物跡確認
さらに、これらの礎石列の南東部で、礎石心から9尺(2.7m)の位置に、逆L字形につながる凝灰岩の列が見つかった。この部分は建物の基壇の縁と思われ、基壇の規模を復元すると、南北39尺(11.7m)、東西33尺(9.6m)になるという。 |
礎石群の上に建っていた建物のイメージ
今回の調査で経楼(or 鐘楼)が想定位置に実際に建っていたことが確認されたことになる。ただ、それが経楼だったか鐘楼だったかは、現状では確認できない。発掘された遺構から建物は中金堂の北西に位置する。礎石が大きいわりに間隔が狭く、さらに礎石から基壇の出(屋根の出)が大きいなどの特徴があり、奈文研では2階建ての庇(ひさし)が四方に張り出す入母屋造りの建物だったのではと想像している。
『日本書紀』によれば、天武天皇は川原寺に写経生を集めて一切経を写させたという。母・斉明天皇のめい福を祈るためだったと言われている。この建物は、あるいはその時写経された一切経を収めた経楼だったかもしれない。経楼であったにしろ、あるいは鐘楼で会ったにしろ、7世紀後半の建物跡であることに変わりはない。経楼・鐘楼の発掘例としては国内最古となる。 (*) 奈文研作成の現地説明資料からの転載 |