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この日の参加者は約160名とのことだった。一行が長蛇の列をなしながら歩いたルートは、添付の「太子堂スタンプマップ」の通りである。なお、道路状況が悪い穴虫峠越えは、近鉄大阪線の「二上」駅近くから太子町春日までバスを利用した。 |
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太子道とは、7世紀前半以前に建設されたそうした筋違(すじかい)道の一つである。『日本書紀』は推古13年(605)冬10月、聖徳太子がそれまで居所とされた磐余(いわれ)の上宮(かみつみや)から新装なった斑鳩宮(いかるがのみや)に遷られたと伝えている。当時、推古女帝の小墾田宮(おはりだのみや)は飛鳥にあった。そこで、太子は愛馬の黒駒にまたがり、従者である調子麿(ちょうしまろ)を従えて、小墾田の宮まで通われたと伝えられている。そのときの通勤(?)に利用された筋違道が、後年「太子道」と呼ばれるようになった(太子道参照)
しかも、これらの史料は太子の実の母である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が推古天皇29年の12月に亡くなり、翌年正月22日に太子が病に倒れたという。そして、太子を看病した膳菩岐々美(かしわでのほききみ)郎女が看病疲れで倒れ、2月21日に息を引き取り、翌22日、太子もこの世を去ったと伝えている。 三人の遺骸は斑鳩の地から現在の太子町にある太子廟に運ばれ葬られたとされている。同時期に埋葬されたのか、あるいはまず穴穂部間人皇女を埋葬した墓に、太子とその后が追葬されたのかは不明である。いずれにしても、太子町の叡福寺にある聖徳太子磯長墓には3つの棺が埋葬されていて、三骨一廟形式の古墳であることが分かっている。
しかし、香芝市と王寺町の東端を南北に流れて大和川に注ぐ葛下(かつげ)川の左岸には古代寺院遺跡や古墳が点在していて、道の存在をうかがわせる。さらに、『日本書紀』の履中天皇即位前紀から、穴虫峠越えは当時の主要なルートであったと推測されている。聖徳太子葬送のためにたった一回通っただけ道を「太子道」と呼ぶのがふさわしいかどうかは別として、当時の葬送の行列を再現する形で仮想の道を歩くのは楽しい。 |
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龍田神社と法隆寺との関係は深い。伝説によれば、聖徳太子が斑鳩寺の建立地を探しているとき、龍田明神が翁(おきな)の姿になって現れ、「この地に建立すれば、われ、守護神ならん」と告げた。太子はその啓示に従って斑鳩の地に斑鳩寺を建てたという。 だが、守護神を祀るのに龍田大社(本宮)のある三郷町立野は遠いというので、この地に龍田大社の新宮を建て、法隆寺の鎮守としたという。現在も秋の祭礼などに龍田大社と法隆寺の関係が続いている。祭神は、天御柱大神、国御柱大神、龍田比古大神、龍田比女大神、恵比須神その他を祀っている。もっとも、神社のはじまりは、神社北方の「御廟山(御坊山)」と呼ばれた丘陵が竜田における神南備であり、御神体として祀られていたのが、その南麓へ移ったものと考える説もあるという。 神社の境内には、大和能四座のひとつ能楽金剛流発祥の地の石碑が建っている。金剛流は能楽シテ方の一流で、大和能楽四座の中の坂戸座を源流とする。坂戸座は法隆寺周辺にあった古代郷で、法隆寺に所属して発展をみた猿楽の座とされている。 |
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昭和橋を渡って国道168号線の歩道を進むと、やがてJR王寺駅近くの陸橋を越える。その先でまた川を渡った。葛下(かつげ)川である。この川は香芝市や王寺町の東の端を南から北流して、下流で大和川に合流する。どうも往事の”太子道”はこの川に沿って平行して走っていたようである。これから訪れる達磨寺(だるまでら)も香芝市の尼寺廃寺(にんじはいじ)も、葛下川に沿った場所にある。
解説者の卜部氏は、この場所は3つの点で特徴的であると指摘した。まず『日本書紀』推古天皇21年(613)に記された片岡尸解仙(しかいせん)説話に因んで創建された達磨寺が存在すること、次に、達磨寺近辺はこの付近には珍しく3基の古墳が集中して存在する達磨寺古墳群があること、そして、国道を挟んで西側の王寺小学校の敷地に、王寺町の町名の由来となった片岡王寺の中心伽藍があったこと、の3つである。 片岡山飢人伝説『日本書紀』の推古天皇21年条には、聖徳太子伝記の中でもっとも有名で、その後の太子信仰に大きな影響を与えたとされる「片岡山飢人(きじん)伝説」が記載されている。その内容を以下の示すことにする。
聖徳太子の中国天台宗第二祖・慧思(えし)禅師後身説上記の片岡山飢人伝説に見られるように、聖徳太子は深い慈悲の心の持ち主であり、また仏教興隆の功労者であるとして、奈良時代の初期においてすでに神霊化・伝説化され、青史である『日本書紀』においてすら、聖人として扱われている。 聖徳太子に対する讃仰はさらにエスカレートし、奈良朝末期には中国の慧思(えし)禅師の後身説が登場する。中国において、華厳宗とともに二大宗教思想として展開した天台宗は、北斉の慧文(えもん)に起こり、第二祖・慧思(515 - 577)を経て、智(ちぎ、538 - 597) によって隋の代に大成したとされるが、聖徳太子はその第二祖の生まれ変わりだというのが、慧思禅師後身説である。 こうした説は、鑑真(がんじん)に随行して日本に来た思託(したく)の著書「上宮皇太子菩薩伝」などに早くも現れている。思託はその著作の中で「慧思禅師は日本に降生し、聖徳太子になった」と書いている。そして、鑑真の来朝公法を権威づけるために、鑑真を日本に駆り立てたのは、慧思の生まれ変わりの聖徳太子の故地を訪れてみたかったからだとしている。思託の発想で生まれたこの慧思禅師後身説が、やがて平安朝の太子信仰の主流となるのである。 現代の我々の目から見れば、この説には矛盾がある。聖徳太子の出生は通説では574年とされている。一方、慧思の入寂は577であり、太子4歳のときである。したがって、慧思の生まれ変わりが太子であることはあり得ない。しかし、信仰というものは史実の矛盾など簡単に糊塗してしまうらしい。 片岡山の飢人が達磨大師であるとする説の登場
「達磨面壁九年」で有名な菩提達磨は、釈迦の涅槃の後その法灯をついだ迦葉(かしょう)から28代目とされ、南インドの印度の香至王の子として生まれた。般若多羅について出家師事し、諸法を修得した。師に仕えて40余年してはじめて教説を伝授されたが、そのとき、師の死後67年を待って中国に遊化するように命じられたという。師の言を守って本国で教化を行い、梁武帝の普通元年(502)のとき、初めて中国に渡った。武帝は国賓の礼をもって招き王宮正殿において会見したという。その後、達磨大師は嵩山少林寺に止まり、終日ただ壁に向かって黙って座禅を組んで修行した。彼の名声は大いにあがったが、梁の大通2年(528)年10月5日、洛陽付近の寺で端座のまま静かに150歳の生涯を閉じたとされている。 片岡山の飢人が達磨であると称されるようになるのは、奈良朝も終わりに近い光仁天皇の宝亀2年(771)に教明が著した「大唐国衝山道場釈慧思師七代記」(七代記)が最初らしい。その後、藤原兼輔が延喜17年(917)に編纂した「聖徳太子伝暦」でも、割り注に飢人を達磨らしいとしている。 達磨大師がどうして飢人となって聖徳太子の前に現れたのか、いきさつが良く分からなかった。ところが、その接点は中国の衝山道場にあった。衝山道場で慧思と達磨が問答を行なったというのである。そのとき、達磨は「この地で教化に努めるより、東海に生まれて正法を宣揚し殺生を諌死すべきである」と慧思に勧め、自分は一足先に日本に行くと語ったという。そして、奥州松島に来て、太子誕生まで30余年待ったとされている。
太子が自ら彫った達磨の木造を安置して創建された寺は、その後荒廃したという。建久年間(1190 - 1198)には、笠置の解脱上人によって復興され、初めて達磨寺と称した。しかし、嘉禎年間に興福寺の僧たちに焼かれ、再び荒廃した。その後、建仁寺の南峰禅師が大いに中興したが、戦国時代には兵火で焼かれた。そのため、現存するのは開山堂、庫司、および片桐且元によって建てられた庫裡、方丈だけである。 達磨寺周辺は7世紀後半の古墳が集中する達磨寺古墳群があった場所王寺町は交通の要衝だったが、古墳の数は多くない。そんな中にあって、達磨寺の境内およびその周辺で、横穴式石室を持つ古墳が3基見つかっている。6世紀の後半頃、連続して、しかも集中して築造されたもので、考古学では「達磨寺古墳群」と呼ばれている。
片岡山飢人伝説で仙人を埋葬したのは、この3号墳とされてきた。発掘調査でそれを裏付けるような遺構が出土した。中世に立てられた旧本堂の基壇を彫り込み、自然石と瓦で小さな石室を構築してあった。そして、その中には高さ74cm、幅32cmの凝灰岩製の石塔を埋納してあった。さらに、石塔の中には水晶でできた高さ2.5cmの五輪塔の舎利容器と舎利があった。 この遺構は達磨大師を供養するために造られた舎利信仰に基づく施設だったと推測されている。しかし、達磨寺にはこの石塔を埋納したという記録は一切残っていない。こうした例は他になく、解説者は秘儀的な儀式で納められたものと思われると話していた。 王寺町の町名の由来になっている片岡王寺跡国道を挟んで達磨寺の西側に王寺小学校がある。その敷地は、片岡王寺の中心伽藍があった場所であるとされている。片岡王寺は7世紀前半頃に創建された寺で、寺の名前は694年に作られた「金銅僧徳聡等造像記」(法隆寺所蔵)にも記されているという。この寺を創建したのは、奈良時代に大原真人の姓を与えられた門部王につながる敏達天皇系統の人物だったと見られている。
現在、国道の両側の拡幅工事が行われており、それに先だって発掘調査が行われた。昨年、小学校の校庭の一部から、中心伽藍を取り囲むように南北および東西に延びる塀と溝が出てきた。溝は石積みで護岸され、塀には瓦が葺かれていた。その瓦は平城京で用いられたものと同じ軒丸瓦と鬼瓦だった。また尼寺廃寺で用いられたものと同系統の8世紀初頭の丸瓦と平瓦も出土した。こうしたことから、葛下川沿いの二つの古代寺院は密接な関係があったとされている。 |
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塔の基壇が良好な形で残っており、塔心礎や四天柱、側柱の礎石も元の位置にあるという。山下氏はその基壇上に立って要領よく発掘の経緯を説明してくれた。心礎は南北3.7m、東西3.8m、厚さ1.2mの巨大な花崗岩で、基壇の中央に据えられている。心礎の上面に穿たれた柱座の大きさから、直径72cmの丸い柱が心柱として使われていたと思われ、また心柱の孔に納入されていた耳環や水晶玉、ガラス玉、刀子などの舎利荘厳具も出土しているという。
塔心礎の形状が法隆寺の若草伽藍のものと同じである。そのため、この寺跡は聖徳太子が建立したとされる葛城廃寺(尼寺)ではないかと一時はマスコミで大きく報じられた。しかし、最近の研究成果から、敏達天皇系の後裔の王族、具体的には敏達天皇の孫にあたる茅淳王(ちぬのおおきみ)が建立した寺であると推測されている。ちなみに茅淳王の系統は孝徳、皇極、天智、天武天皇を輩出し、最終的には長屋王まで続いていく。 茅淳王と推測する根拠として、般若院の先の丘陵に築かれた平野窯跡と平野古墳群の存在があげられる。平野窯跡は6世紀後半に奈良盆地で初めて須恵器を焼いた窯跡である。一方、丘陵の南斜面には6基が築かれているが、その一番端にある7世紀後半の平野塚孔古墳は、立って歩ける横口式石槨を持つ。645年の薄葬令にもかかわらず、そうした大きな石槨をもつ古墳を造ることができたのは、孝徳・皇極天皇の父である茅淳王を葬った墓だからであると考えられている。このように、奈良盆地で初めての須恵器の窯を作り、また薄葬令を無視した超法規的な墓を造ることができたのは、この付近に進出してきた敏達系王族以外に考えられない。 北廃寺の南東約3kmに牧野(ばくや)古墳がある。敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を埋葬した墓であると言われている。茅淳王は押坂彦人大兄皇子である。牧野古墳からその近くを流れる滝川を1kmほど北に下った桜ヶ丘で、瓦の窯跡が見つかっている。さらにそこから1kmほど北の薬井(くすりい)にも窯跡がある。片岡王寺の瓦はこの窯で焼いたと推測されている。また、長屋王の邸宅に葺かれていた瓦はこの窯で焼かれたものと同じだった。 こうした事実を積み重ねていくと、敏達天皇系が滝川の川筋を押さえていたと考えざるを得ない。茅淳王がこの付近に進出して片岡王寺や池寺廃寺を造ったと推定される所以である。 一方、北廃寺から200mほど南に位置する薬師堂や般若院辺りからも古代の瓦が出土していて、古代寺院が存在したことは分かっていた。3年前から範囲確定の発掘調査を行い、般若院で東西に並ぶ基壇跡が昨年見つかった。西側が塔、東側が金堂の基壇跡と推定され、南に中門を配した法隆寺式伽藍配置の寺だったと推定されている。200mの距離を隔てて同じ様式の寺院が存在したこと、および同じ瓦が用いられていたことで、両寺院は僧寺と尼寺の関係にあったと推測されている。 南遺跡を掘ったとき、薬師堂の土壇の東側で若草伽藍以外では出たことがない軒平瓦が一点出土した。このことは、薬師堂に若草伽藍と同じ瓦を葺いた堂が存在した可能性を示唆していて、今後の調査が待たれる。ひょっとしたら、聖徳太子と刀自古郎女(とじこのいらつめ)の間に生まれた片岡女王が南遺跡付近に寺を建てたのかも知れない。しかし、643年に上宮王家の滅亡のとき、片岡女王も亡くなった。その後に、茅淳王など敏達系王がこの地域に進出してきたと思われる。 |
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午後1時に正福寺浄苑を出発すると、武烈天皇陵を遠望しながら、次の休憩所である志都美(しずみ)神社に向かった。この神社は天児屋根命 中筒男命 誉田別命を祭神として祀る神社で、創建は、弘仁4年8月9日に藤原鎌足六世の孫・従四位民部少輔片岡綱利によって創建されたとされる古社である。神社の境内で、卜部解説員から平野古墳群についての説明を受けた。 6基の古墳で構成されていた平野古墳群
1号墳は7世紀前半に造られた円墳で、直径が25m前後の大きさである。埋葬施設は全長9.2mの横穴式石室で、羨道は1段、玄室は2段積みの花崗岩で造られている。 2号墳は1号墳から20m西に位置する7世紀中頃に造られた円墳で、直径が26m前後の大きさである。埋葬施設は全長10.6mの横穴式石室で、羨道と玄室はともに1段積みで造られている。その点が1号墳より新しい要素と見られている。 平野塚穴古墳は一辺が18m、高さ4mの方墳である。埋葬施設は二上山の凝灰岩を切石として精巧に組み合わせた横口式石槨である。玄室が主体でその前に短い羨道が着いている。玄室の高さが1.76mと人が立って歩けるほど高いのが特徴である。1号墳や2号墳の玄室は高麗尺を用いて設計されているが、。平野塚穴古墳の玄室は1尺=約29.7cmの唐大尺を用いている点でも新しい。そのため、築造時期は7世紀末頃と推定されている。 平野古墳群は、7世紀の終期古墳の石室の変遷を時系列的に追うことができる珍しい例である。また、この古墳群は敏達系王族に関係した奥津城だったと想定されている。特に、平野塚穴古墳は、孝徳・皇極天皇の父にあたる茅淳王の墓と想定する説もあるという。
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二上山の北にあり、標高70mm程の白色の小高い峰々がひろがる景勝地・屯鶴峰(とんずるぼう)の近くを通るこの県道は、ダンプカーなどの行き来が激しいくせに、道幅が狭い。大勢の人間が隊列を組んで歩くのは危険なため、この区間だけはいつもバスを利用するらしい。5台のバスは太子町の春日まで参加者を運んだ。 「穴虫峠」を越えて太子町に入ると、山肌を這うように築かれたブドウ畑が車窓に見えてくる。いずれも大きなビニールシートで覆われていて、太陽の光を反射してまぶしい。10分ほどバスに揺られた後、参加者は太子町の春日でバスを降りると、徒歩で太子町役場に向かった。 午後3時少し前に太子町役場に到着すると、大広間に通された。そこで、町長の挨拶を受けた後、卜部解説員が約30分かけて太子町の遺跡と叡福寺にある聖徳太子磯長墓について説明された。 磯長谷の古墳
これらの古墳は6世紀後半から7世紀前半にかけて築かれ、大王陵が前方後円墳から方墳に変遷していく時期のものとされている。また、これらの王陵の周辺には、仏陀寺古墳や松井塚古墳、二子塚古墳、太平塚古墳、御嶺山古墳など多くの古墳が分布している。これらの古墳は7世紀後半から7世紀末にかけて石室が小型化していく時期の古墳とされている。 太子町から隣りの羽曳野市にかけての一帯は、飛鳥時代に多くの渡来系の人々が住んでいた地域でもある。彼らはその奥津城を群集墳の形で残している。磯長谷を挟んで北の丘陵地帯には飛鳥千塚古墳群が、南の丘陵には一須賀古墳群が分布している。 考古学的には「叡福寺北古墳」と呼ばれている聖徳太子磯長墓
叡福寺は南北朝の戦乱と織田信長の兵火により焼失したが、豊臣秀頼によって再建された。そのため考古学的には、中世以前の状況はよく分かっていない。境内から出土する瓦は平安時代後期を遡るものではないとされている。ただし、東京国立博物館には「河内国太子堂出土」とされる重弁8弁軒丸瓦が存在するという。この7世紀後半の瓦が叡福寺のものであれば、寺の創建はさらに遡ることになる、 南大門から仁王像に迎えられて叡福寺の境内に入ると、多宝塔、金堂、聖霊殿などがならび、正面の二天門の奥に聖徳太子廟が見える。多宝塔は承応元年(1652)、金堂は享保17年(1732)、聖霊殿は慶長8年(1603)にそれぞれ再建された堂宇であるが、いずれも 聖徳太子廟の正面を避けて建てられている。 考古学は聖徳太子を埋葬したとされる磯長墓を「叡福寺北古墳」と呼んでいる。文字通り叡福寺境内の北側にあり、磯長山の丘陵を利用して構築された古墳で、従来、内部に横穴式石室を備えた高さ7.2m、直径54.3mの円墳とされてきた。しかし、墳丘を二重に巡る結界石を保存するため、平成14年(2002)に宮内庁書陵部が墳丘の裾部を発掘した結果、本来の墳丘は結界石の石列よりさらに内部に位置し、その直径は50mよりも小さいことが分かった。 江戸時代以前は石室の内部に入ることができた。さまざまな記録から、内部の様子が分かっている。この墓は三骨一廟式と呼ばれ、奥に生母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女、手前東側に聖徳太子、手前西側に妃の膳郎女(かしわでのいらつめ)の3つの棺が配置されている。石室の形態は、明治12年の実見記録から復元されており、奈良県岩屋山古墳に近い切石積み石室となっているという。 墓前で行われた太子奉賛の儀式
午後4時、今回の「太子道を訪ねる集い」に参加した全員が聖徳太子磯長墓の前に参集した。その群衆が参加する形で、法隆寺の僧侶たちによる太子奉賛の儀式が、厳かに執り行われた。彼らが唱える「太子和讃」の読経が朗々と境内に響き渡った。同じ儀式は二天門の左下にある聖霊殿の前でも行われた。 午後4時半に、太子廟参拝を目的とした今回の集いは予定通り終了した。境内では参加者に甘酒がふるまわれた。参加者は歩いてきた道をバスで戻っていった。 近鉄大阪線の「二上」駅でバスを降りた筆者は、駅のベンチに腰掛けると、快晴に恵まれた今日一日の流れをゆっくりと思い出してみた。聖徳太子の時代へタイムスリップしたというほどの実感はなかった。それでも嬉しかった。太子の葬送の列に参列した人々が見たはずの景観を体感できたと思う。心地よい疲れを全身に感じながら電車のシートに座ると、電車の進行にしたがって、車窓に見える二上山が見慣れた2こぶラクダの形を徐々に取り戻していく。冬の太陽が一日の最後の光芒を放って、その稜線に隠れようとしていた。 (*)付きイラスト: 橿考研の卜部行弘氏がこの日のために準備されたレジメより転記させていただきました。 |