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2004年10月11日付けの新聞各紙の朝刊は、一面トップで中国名「井真成」という遣唐留学生の墓誌が中国の西安で発見されたと報じて、世間を驚かせた(H16/10/18 遣唐留学生・学問僧の遺児たち参照)。その井真成の墓誌をめぐる日中共同研究シンポジウムと市民セミナーを、専修大学は朝日新聞と共催で昨日と本日の二日間にわたって開催した。 シンポジウムには参加できなかったが、本日の「墓誌発見記念市民セミナー」は聴講できた。セミナーは専修大学神田キャンパスの303教室で行われた。熱心な聴講者が会場を埋め尽くし、会場に入れなくて別室のモニターで聴講する者も出るほど盛況だった。午後1時に始まったセミナーは午後6時過ぎまで延々5時間以上も続いたが、聴講者は熱心に講演に聞き入っていた。日中交流や遣唐使の歴史に関する市民の関心の深さを、改めて知らされた思いである。
以下は、講演内容から興味を惹いた点のメモである。 |
墓誌が示す「井真成」という人物墓誌は死者の生前の業績や徳行を称え、その死を哀悼し、死亡年月日や埋葬地を記して後世に伝えようとするものである。6世紀以降の中国では、銘文を刻んだ墓誌石の上に同じ大きさの蓋をのせて、墓室の入口付近に置くのが一般的になったとされている。
唐代の誌石は、升目の周囲を蓮華文や流雲文などで飾るものが多い。だが、「井真成」の墓誌石にはそうした周囲の装飾文がない。さらに、墓誌石の4分の一(4行分)が空白で残されている、などこの誌石にはいくつかの特徴がある(墓誌の拓本参照)。 この墓誌に刻まれた文の訓読は以下の通りである。
昨年の10月に「井真成」墓誌発見のニュースが大きく報じられたとき、マスコミは青史に名を残さなかったこの人物におおいに興味を抱いた。そして、遣唐留学生でありながら唐朝に仕え政府高官に登りつめた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)に劣らぬ人物として紹介した。だが、一時のフィーバーが過ぎ去った今、研究者が描く彼の人物像は当時とはずいぶん変わってきている。
墓誌から伺うことができる事実を要約すると、 問題は、同じ時期に入唐した阿倍仲麻呂のように太学に入り科挙に合格して唐朝に仕えたかどうかである。その点に関して、墓誌の内容は分かりづらい。一方で、”衣冠を着ける身分を踏襲し、朝服姿で宮廷に立てば誰も並び比べる者はないほどだった”と言いながら、他方では”勉学の努力を続け、道を聞き知ること未完のうちに不慮の死をとげた”と記している。この部分の解釈については、学者の間でも意見が分かれる。 死者を称える墓誌では、唐朝の官職を歴任したのであれば、必ずその職歴を示して功績を賛美するはずであるが、この墓誌には官職が見えない。皇帝付きの衣服係であった尚衣奉御という清官(従五品上)は、井真成の存命中の官職ではない。彼の死が玄宗皇帝の耳に入り、追贈された位である。さらに、専修大学の亀井明徳氏の研究によれば、井真成の墓誌の大きさは無品の官吏のそれに相当するサイズであるという。こうしたことを考慮すると、井真成が第二の阿倍仲麻呂だったというイメージにはどうしても結びつかなくなる。 |
井真成の日本名と出自は?墓誌が記すように、中国名「井真成」という人物は、日本から唐土に渡った遣唐留学生であり、開元22年(天平6,734)正月某日、急病のため唐の都・長安で36歳で没したという。逆算すると文武3年(699)の生まれである。 井真成の年齢から推して、遣唐留学生に任命されたのは霊亀2年(716)とされている。彼が18歳のときである。そして翌年の養老元年(717)3月に難波を出発した第8次遣唐使船で唐に渡った。同じ時に入唐した留学生に阿倍仲麻呂(19歳)、下道真備(22歳、後に吉備真備と改名)、大和長岡(29歳)、さらに学問僧の玄ム(げんぼう)、理鏡(りきょう)などがいる。 在唐17年、おそらく故郷に錦を飾る日を待ち望みながら、不運にも異国の土に眠ることになった井真成は、何という日本名でその出自は何氏だったのだろうか。主な候補者として二人の名前があがっている。
■奈良大学教授の東野治之教授が、「井」を日本名の痕跡と考えて、百済系渡来系氏族の「葛井(ふじい)氏」の出身者で、葛井真成(ふじいのまなり)という姓名ではなかったかと推測されている。 両教授の説は、日本の氏族名の一字を取って姓とし、名は日本名をそのまま用いたとする点で一致している。ただ、東野教授は葛井氏を、鈴木教授は井上氏を出自としている点が異なる。 葛井(ふじい)氏はもともと南河内の藤井寺付近を根拠とした渡来系氏族白猪(しらい)氏のことで、7世紀から8世紀前半にかけて遣唐使少録、遣新羅使、遣唐留学生など外交使節や留学生を輩出した氏族である。この白猪氏は養老4年(720)5月に葛井(ふじい)氏に改姓した。こうしたことを理由に、東野教授は井真成の出自を葛井氏と見なすのが一番妥当であるとされる。 これに対して、鈴木教授は白猪氏から葛井氏への改姓は井真成が入唐した3年後のことであり、入唐当時葛井氏を名乗っていたとは思えないとして、東野説を退けられる。そして、奈良時代に井の字がついた姓氏の井上連、井上忌寸、井上値、井手宿禰などを候補にあげ、これらの中で井上忌寸が最も高いとされる。井上忌寸は現在の大阪府藤井寺市惣社付近を本拠とする氏族だった。 井上忌寸は中堅官吏を輩出した氏族ではあるが、外交使節や留学生は輩出していない。この点に関しては、鈴木教授は第8次遣唐使首席の押使となった多治比真人県守(たじひのまひと・あがたもり)の存在に注目される。多治比連の本拠は河内国丹比郡であり、井上忌寸とは隣郡同士で、いわば同郷であった。そこで、井真成は県守自身の縁故によって見いだされ、その仲介や推挙で留学生に選ばれたのでは、と推測されている。 井真成の本名が葛井真成であったか、それとも井上忌寸真成であったかは、いずれも推測の域をでない。別に新たな資料がでない限り、どちらかに特定するのは難しい。京都教育大教授の和田萃教授は、葛井氏の出身であれ、井上忌寸の出身であれ、いずれも藤井寺市一帯を拠点とした渡来系の氏族であることから、真成が藤井寺出身であることは間違いないとされている。 |
井真成は、阿倍仲麻呂に匹敵する唐朝の官吏だったか?
唐名を晁衡(ちょうこう)と名乗った仲麻呂は、その誠実な人柄と文才から、多くの友人知己を得た。37歳になった731年には左補欠に進んだ。左補欠は天子の侍従職で、親しく側近に仕える要職である。時の玄宗皇帝は仲麻呂を厚く信任した。733年に多治比広成(県守の弟)を大使とする第9次遣唐使が来たとき、仲麻呂は帰国を願い出たが、許されなかった。 中国名「井真成」も、仲麻呂と同じ遣唐使船で唐に渡った。仲麻呂と同じように学業に精を出し、科挙試験に合格して唐朝の官吏に採用され、官職を歴任したであろうか。残念ながら、墓誌は井真成の官品や官人としての業績を何も記載していない。 よく知られているように、遣唐留学生や留学僧は、唐土で長期間勉学するための学費目的で、遣唐副使とほぼ同量の織物や布を出発にあたって下賜されている。一方、彼らの唐土における生活費は唐朝が負担し、留学生・留学僧に対して「時服糧料」を給付していた。ただし、「時服糧料」には支給年限があった。大学の在学期間は最長で9年とされていたから、支給期間も最長9年程度だったであろう。 その頃の長安には、国立の上級大学として、国子舘、太学館、四門館、律学館、算学館、書学館の6つの学館があった。国子舘は上流貴族の子弟が入学する学校で、規模も最大だった。太学館はそれ以下の貴族の子弟を養育するところ、四門館は一般庶民の秀才が勉学するところだった。阿倍仲麻呂は太学館で学んだが、井真成が太学館や四門館に在学していた証拠はない。 しかし、墓誌には勉学に勤しんでいたとある点を考慮すると、留学生として最長9年間は日本と唐から経済的支援を受けていたと思われる。問題はその後の8年間である。残念ながら、その間の井真成につながる資料は存在せず、全く不明としか言いようがない。しかし、以下のような推測が可能なようだ。 西北大学歴史博物館の副館長・賈麦明氏は、井真成の死後尚衣奉御の位を贈官されている点に着目して、井真成は宮廷で「納室宿衛」をしていたのでは、と推測される。納室宿衛とは唐朝廷に金銭を払って官職を買い宿衛することで、朝鮮半島三国でも唐朝廷とこうした便宜をはかっていたという。 一方、専修大学の亀井明徳教授は、入唐して9年後に留学生の「時服糧料」が打ち切られた井真成は、職掌人として鴻臚寺典客署などの所属して吏人として唐の朝廷と関わりを持ち、長安で生きたと推測しておられる。教授がこのように推測される根拠は、墓誌に記述されている「官弟に終れり」という表現にある。 唐朝では、九品官に入らない吏・胥吏・流外・職掌・雑食人など多数の官庁勤務者が働いていた。彼らは総称して職掌人と呼ばれ、その数は文官や武官など官人の13倍もいて、諸司に所属し実務を担当していたという。一方、官弟すなわち官第とは、官庁が保有する官舎・公舎のことをいう。井真成が鴻臚寺典客署に所属する職掌人だったならば、彼はこの役所の所管である皇城内の鴻臚客館や長安城外郭東北部にあった礼賓院、あるいは鴻臚寺典客署が保有する雑賃官弟(賃貸官舎)を住まいとしていたはずである。亀井教授はそこで急死したものと推測されている。 墓誌には井真成の官歴はもとより、学歴についても触れていない。ただし、勉学半ばだったと記している。おそらく国士監の所管する正式な教育機関に属さず、鴻臚寺において四門助教授に私淑するなど特殊な形態をとって勉学していたのであろうと、専修大学の矢野健一教授は推測されておられる。その場合でも、皇城の外にあった留学生の宿泊設備、すなわち鴻臚寺の雑賃官弟こそ彼の住まいとしてふさわしい。 |
「形は異土に埋葬されたが、魂は故郷に帰ることを願う」
遣唐使の一行が蘇州に到着したのは開元21年(733)8月。しばらく現地に逗留した後、彼らは遅くともその年の秋(10月〜11月)には長安に入京した。井真成は遣唐使の一行と会い、彼らと一緒に帰国することを願い出、おそらく許可を受けていたであろう。だが、その年の暮れにおそらくは急病で倒れ、年があけた開元22年(734)1月某日、帰国を目前にして逝去してしまった。享年は36歳だった。墓誌の一部が欠損しているため、彼の命日が何日だったのか分からない。 井真成の葬儀は開元22年の2月4日に行われた。墓誌によれば、葬儀に先立って、玄宗皇帝は詔を発して皇帝付きの衣服係の地位である尚衣奉御を追贈し、葬儀を官給でおこなうことを命じたという。葬儀の日の早朝、礼にのっとって赤い旗に先導され、井真成の柩(ひつぎ)を乗せた白木の車は、西安東郊の郭家灘に向かった。郭家灘は萬年縣●(シ+産)水(さんすい)の東岸の白鹿原と呼ばれる台地の上の墓地集合地である。 葬儀には、阿倍仲麻呂をはじめ第8次遣唐使船で入唐した同僚たちや、第9次遣唐使船で新たに西安に訪れた人々も参列したであろう。井真成の墓は斜坡式墓道をもつ単室土洞墓であったと推定されている。夕日が傾く頃、参列者は墓前でそれぞれ追悼の辞を述べた。故郷に錦を飾る日を夢見ながらも、帰国直前に異国の土に埋葬された故人に想いを馳せ、その無念さに同情したであろう。墓誌も「肉体はすでに異国の土に埋もれたけれども、霊魂は故郷に帰ることを願うものである」と結んでいる。 ところで、井真成の葬儀は不自然さが伴うとされている。矢野教授の研究によれば、唐代には墓主から葬儀までの期間は平均7ヶ月であるのに、井真成の葬儀は前後に例を見ないほどあわただしく執りおこなわれた。その背景には、開元21年(733)の暮れから翌開元22年(734)の正月にかけての中国側の特殊事情が指摘されている。 開元21年、長安をはじめとする関中一体は深刻な飢饉に見舞われた。このため玄宗も開元22年の正月から東都洛陽へ緊急避難をせざるをえなかった。第9次遣唐使はせっかく長安入りしたが、正月に皇帝に拝謁できないままで長安に待機・逗留を余儀なくされた。『冊符元亀』によれば、玄宗皇帝との拝謁がかなったのは開元22年の4月、洛陽においてであった。 石山寺には、奈良時代に招来した『遺教経』という大乗教典を所蔵している。その奥書から、洛陽の玄宗皇帝に拝謁するため第9次遣唐使が長安を発ったのは2月8日であることが判明している。つまり、井真成の葬儀のわずか4日後のことである。見方を変えれば、洛陽への移動日がすでに決まっていたために、当時の慣例を破って葬儀を早めたとも言える。 そうした慌ただしさは、墓誌の銘文からも伺える。官撰の碑文などを司る秘書省著作局の官吏たちも玄宗に随行して洛陽に移っていたため、本人の詳しい経歴が分からず、誌石の四分の一(4行分)が空白のまま残されたとも考えられる。 井真成の墓誌の大きさは、一辺が39.5cmと小型である。亀井教授によれば、この数値は官・吏人として業績のない官人夫人や無品庶人のものに近いという。それにしては、玄宗が追贈した尚衣奉御という地位が気になる。尚衣奉御は従五品上相当の位階である。通常こうした位階の追贈は1〜2階級特進というのが一般的であり、無位の職掌人だったと思われる人物に、これほど高位の追贈があるのだろうか。 この点に関しては、731年にすでに天子の侍従職である左補欠に進み、玄宗皇帝の信任が厚かった阿部仲麻呂が、同郷の友に送った餞(はなむけ)だったとの推測も可能とのことだが、果たして事実はどうであっただろうか。 |