橿原日記 平成16年12月12 日

朝鮮渡来系氏族出自の万葉歌人たち

『万葉集』は朝鮮渡来人・渡来文化の産物???

在、雄山閣から昭和63年(1988)に出版された『古代日本文化と朝鮮渡来人』を図書館から借りて読んでいる。著者は当時朝鮮大学校の講師だった権又根(クォンウグン)氏。その中に「万葉の朝鮮渡来歌人」と題する一節があり、著者は朝鮮渡来万葉歌人の出自について考察している。

抵の日本人は、『万葉集』は我が国の最初の国民文学であると認識している。だが、著者によれば、『万葉集』は決して日本土着文化・純血文化としての創造ではなく、朝鮮古代文化の移植と、朝鮮渡来人の手の相乗によって生成されたものであるという。その証拠に、『万葉集』に名を留めている歌人は約460名いるが、その出自を調べていくと、朝鮮渡来系以外の歌人はむしろ僅少に過ぎないと言われる。

えば山部赤人、山上憶良、柿本人麻呂、額田王、大伴旅人・家持父子といった『万葉集』を代表する巨星たちが、実は朝鮮渡来系であると考察されている。『万葉集』に収録された総歌数4561首中、読み人知らずの1900首を除いた2600余首のうち、これら6人の歌人の作品は40%を越え、歌の質と存在感の重さで他を圧倒する。この事実をもってしても、朝鮮渡来人・渡来文化が『万葉集』の創造に如何に寄与しているかが分かる、と氏は主張される。

者にとっても、いささかショッキングな古代文化論なので、その一部を以下に整理して今後の参考にしたい。


お、ついでながら言い添えておくと、渡来人に対する権又根氏の概念規定に、筆者はいささか疑問を感じている。

ず、朝鮮渡来系氏族の出自を、権氏は『新撰姓氏録』に基づいて高句麗系、新羅系、百済系の3系統に分類しておられる。しかし、朝鮮半島からの移住は半島における戦乱時期が背景にあり、大きな渡来の波は、半島南部にあった加耶諸国が新羅に併合された前後にもあったはずであり、厳密に言うならば、この地域からの渡来氏族は百済系および新羅系とは区別して扱うべきである。

らに、権氏の記述によれば、我が国の古代大和政権を構成した主要氏族のほとんどが渡来系として扱われている。日本列島の地理的特殊性から、この島国には旧石器時代から多くの種族が移り住んでいる。縄文人しかり、弥生人しかり、天皇家すら騎馬民族の末裔とする説があるくらいである。もともと固有の日本民族などない。いろんな種族の血が混血して日本人が出来上がった。

たがって、5世紀〜8世紀の時点でどの氏族が朝鮮渡来系氏族と認識されていたかは、微妙な問題である。以前に「帰化人」という用語が歴史用語として不適当であるとして「渡来人」を用いるべしとの主張がなされた。徳を慕って帰化すべき主体が当時の日本にはなかったというのがその背景にある。だが、筆者は朝鮮渡来人とされる人々の祖先のほとんどは、基本的に戦争遺民であると考えている。もちろん、文化向上のために来朝を招聘された人々や、外交的な理由で我が国に派遣されそのまま住み着いた文化人の子孫もいるであろう。だが、本国の戦乱を避けてこの島国に移り住んだ人々が大半であったという事実には変わりがない。

世紀、当時の倭国は朝鮮半島南部にあった加耶諸国とすでに通交しており、4世紀後半には百済とも友好国の関係を結んでいる。4世紀末には高句麗好太王の南下を阻止するために軍隊を派遣して百済と共同戦線を張ることができる主体が、すでにこの国にあった。そうした主体を築いた人々も、もとは半島から移ってきた人間であろうが、彼らまで朝鮮渡来人の範疇で捉えるとしたら、歴史の認識を誤るのではなかろうか。

史の記述にナショナリズムを持ち込むのは危険である。しかし、韓国にルーツを持つ歴史学者や古代史研究家の中には、自国びいきで何事もルーツは朝鮮にあるといった論調で著述をされる人がいる。『日本書紀』ですら、渡来系氏族を「今来」と「古来」に区分している。渡来して何世代も経た氏族に属する人々まで一括して朝鮮渡来人とするのは、如何なものだろうか。



主な万葉歌人の出自

山上憶良(やまのうえのおくら)

桜
窮問答歌の作者で知られる山上憶良の出自については、万葉学者の中西進氏がすでに論証しておられ、百済から天智天皇の時代に渡来し近江朝に仕え、天智の侍臣にもなった医師の憶仁(おくに)が憶良の父とされている。

良は百済の首都扶余で660年に生まれ、百済王朝滅亡により4歳のとき父に連れられて日本に亡命し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口(みなぐち)町あたりに住んだとされている。甲賀の地は、敏達天皇13年(584)に百済から弥勒菩薩の石像一体をもたらした鹿深臣(かふかのいみ)の居住地である。

の甲賀の地は、同じく百済からの亡命者が集団移住させられた蒲生郡、神崎郡と隣接しており、鬼室集斯(きしつしゅうし)を祭る鬼室神社のある蒲生郡日野町と憶良が居住したとされる水口町とは近江鉄道でわずかひと駅にすぎない。なお、水口から直線距離で数キロのところに、山之上の地名がある。現在の竜王町に属しているが、権又根氏はこの地を憶良の居住地と想定したいとされている。

山部赤人(やまべのあかひと)

コスモス
部赤人の名は史書にはいっさい登場しないが、『万葉集』には山部宿禰赤人とある。山部宿禰は天武13年(684)に「宿禰(すくね)」の姓を与えられた「連(むらじ)」姓50氏の一つであり、それ以前は山部連と称していた。山部連の系図をさかのぼると、清寧天皇の時代に億計(おけ)・弘計(おけ)(後の顕宗・仁賢の両天皇)の兄弟を播磨の国で発見して天皇家の家計を継承するのに功績があった山部連の先祖・伊予(愛媛県)来目部小盾(くめべのおだて)にたどり着く。

『姓氏録』によれば、伊予の来目氏(久米氏)は高御魂神 (たかみむすひのかみ)を祖先伝承に持つ氏族の一つであり、これらの氏族は朝鮮渡来系と見なされている。こうしたことから、山部氏も朝鮮渡来氏族と見なしてよい。

米はコマ→クマ→クメと母音の転化したものであり、もとは高(句)麗、狛、熊などであったと考えられる。久米氏は物部氏に連なる軍事氏族であるから、高句麗、百済を下る扶余系氏族と見ることができる。山部という職業部氏は山林、狩猟の専門部であり、小盾が望んでそのポストについたとされている点を考え合わせると、山部赤人は山岳系の高句麗族の流れを組んでいると想定できる。

平8年(736)6月に読んだ歌が、製作年代の分かる赤人の最期の作品とされている。737年に疫病が流行して時の権力者である藤原4兄弟が病死している。赤人も感染してこの時死亡したとも言われているが、史書はなにも教えてくれない。

柿本人麻呂(かきもとのひとまろ)

ハス
葉のみならず日本和歌史上最高の歌人とされている柿本人麻呂について、史書は全くなにも語ってくれない。このためこの巨星についてその出自や経歴についてさまざまな憶測がなされてきたが、未だ定説はない。

『姓氏録』では、柿本朝臣は春日朝臣と同祖であり、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の後裔としている。そして、敏達天皇の世に、門に柿の木があったので柿本氏を名乗ったという。つまり、6世紀の後半の今来(いまき)の渡来人が大和国に移住して、和珥(わに)氏を本宗とする和珥(わに)・春日(かすが)氏族に組み入れられ、柿本氏を氏名としたことになる。

珥・春日氏は百済渡来の古来の豪族であり、和珥氏は応神から敏達天皇に至る間7人の天皇に9人の后妃を出した名門氏族である。和珥氏の勢力範囲は、現在の天理市和珥町から奈良市(春日野)、南山城、宇治と連なり、大津市とそれに隣接する志賀町和珥まで続いていた。天理市櫟本(いちのもと)にある和珥下(わにした)神社の参道脇に、樹木に囲まれて、歌聖・柿本人麻呂の歌塚が建っている。櫟本町は、柿本人麻呂の生地であると伝えられている。おそらく、柿本氏はこの地に居住したため、地縁によって和珥・春日氏族と同族とされたのであろう。

本人麻呂の妻は依羅娘子(よさみのおとめ)であり、『万葉集』に短歌3首を載せている。現在の大阪府松原市天美はかって依羅連(よさみのむらじ)が居住した依羅郷である。『姓氏録』では依羅連は百済人の素彌志夜麻味美(そみしやまみ)の君の後裔とされていて、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。

額田王(ぬかたのおおきみ)

百合
『万葉集』第一の女流歌人とされている額田王の名は、正史にただ一度だけ登場する。『日本書紀』天武2年(673)2月の記述の中に「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して十市皇女を生めり」とあるのがそれである。この額田王は新羅系渡来人の後裔と見なすことができる。理由は下記の通りである。

田王の父・鏡王は近江の国の鏡山の麓に居住したので鏡王と呼ばれた。旧滋賀県蒲生郡鏡山村は、現在は苗村(なむら)と合併して竜王町となっているが、鏡の里を北端にして、弓削(ゆげ)、須恵、薬師などの字名が、標高385mの鏡山の山麓に連なっている。これらの字名は渡来人氏族の名残であり、天日槍(あめのひほこ)の伝承を裏付ける新羅系の先住民の跡とされている。なお、鏡山の由来は、天日槍が出石に立ち去るとき、宝物の中の鏡を取り出して山に埋めたので、鏡山の名が生まれたと伝えられている。

師寺縁起には額田王を額田部姫王としている。そのため、額田王の出生地についてはもう一つの説がある。大和額田部の里(現在の田原本町大字八尾)であり、その近くに鏡作神社がある。平群郡額田郷(旧平端村)には額田村主という百済渡来氏族が居住していたが、額田王の姉とされる鏡王女(かがみのおおこみ)は、そこの出身とする説もある。そうであれば、額田王を百済渡来系と考えることも可能である。

大伴旅人(おおとものたびと)大伴家持(おおとものやかもち)

アジサイ
伴旅人と大伴家持父子で合わせて558首の歌が『万葉集』に収録されている。この歌数は読み人の知れる歌2600余首の5分の1に相当し、特に巻17から巻20は家持の歌日記、私歌集の感があるとさえ言われている。その家持の最後の歌は天平宝字3年(759)に作られており、『万葉集』はなぜかその歌をもって幕を閉じている。そのため、家持が『万葉集』の編者に擬せられているが、定かではない。

の旅人は斜陽大伴家にあって大納言まで上ったが、家持は中納言で没している。家持は死後、桓武天皇の寵臣・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺に関与したとして、墓を暴かれるという屈辱を受けている。この古代の名門氏族大伴氏の出自は、実は高句麗系渡来氏族であるとする説がある。

伴氏の氏始祖伝承に神武東征に出てくるヤタガラスの説話がある。鳥類を氏祖とするのは北方系鍛冶神信仰種族の特徴である。また、氏祖伝承に顔を見せる高魂神の後裔とされる氏族は、高句麗系に属すとされている。その中の少なからぬものが、朝鮮半島東岸に沿って南下し、日本海を渡って、弥生時代から次々と渡来し、越から近江路、大和山間部に広がった。こうした高句麗系の山民が、大伴氏が統率する八十伴緒(やそとものお)であるという。

伴氏は、畿内の豪族の中でも最も早く渡来した氏族の一つである。後になって、今来の百済系氏族や新羅系氏族も組み入れたと思われる。大伴室屋や大伴金村など、大伴氏最盛時に、その後裔であるとする家系伝承を作っている氏族が多いためである(例えば、高志連、高志壬生連、佐伯宿禰、林宿禰、大伴連など)。



豪族の系譜から見たその他の朝鮮渡来系万葉歌人

1.阿倍氏(阿倍、阿部、安部)

桜
倍氏の本貫としては、現在の奈良県桜井市の阿倍丘陵と大阪市阿倍野が推定されている。いずれも朝鮮系渡来氏族の密集地である。大和阿倍氏は高句麗系で、北陸に上陸し、そこに拠点を作り、近江の新羅系氏族(狭狭城山)を同族に組み入れて大和に至り、今来郡(高市郡)のはずれにある阿倍丘陵に定着した。一方、摂津阿倍氏も同じ高句麗系で、百済・北九州と南下し、瀬戸内海から難波津に上陸し、阿倍野に定着したものと言える。

『万葉集』に姿を表す阿倍氏の歌人としては、老人(おきな)、奥道(おきみち)、子祖父(こおおじ)、沙弥麻呂(さみまろ)、継麻呂(つぎまろ)、豊継(とよつぐ)、広庭(ひろにわ)、虫麻呂(むしまろ)の8人を数えることができる。

2.巨勢(許勢)氏

コスモス
勢氏は、蘇我氏と同じく大和高市郡を本貫とする渡来系氏族である。巨勢氏が史実に近い形で姿を見せるのは、継体擁立時(507年)の巨勢男人(こせのおひと)が大臣として大伴金村と行動を共にした要人としてである。その後、欽明元年(540)9月に難波祝津宮へ天皇が行幸したとき、巨勢臣稲持(いなもち)が政権第二の高官として従っている。こうしたことから、巨勢氏は6世紀前後の今来(いまき)であること、突如倭政権の首脳として登場してきたことが分かる。

『万葉集』には宿奈麻呂(すくなまろ)、豊人(とよひと)、奈■麻呂(なでまろ)、郎女(いらつめ)、対馬(つしま)の4歌人が名を連ねている。

3.石川氏(石川朝臣)

ハス
川氏は蘇我氏の直支流であり、百済渡来氏族とされている。蘇我氏政権の中でも、最も権力が集中した馬子の子の倉麻呂(くらまろ)より分かれ、山田石川麻呂・石川朝臣連子の兄弟より出た氏である。石川朝臣連子の子孫が、石川臣・石川朝臣として氏名を受け継いでいった。

の氏族からは、老夫(おきな)、君子(きみこ)、年足(としたり)、広成(ひろなり)、水通(みみち)、足人(たるひと)の6人が見える。他に石川郎女(いらつめ)、石川女郎とする歌人も『万葉集』には登場する。石川の系譜に連なる女性と思われる。

4.紀氏(紀朝臣)

百合
『姓氏録』では、紀氏は石川朝臣と同祖となっていて、百済系渡来人であることを明記している。だが、紀氏の出自はどうも単純ではないようである。考えられるのは、高句麗・百済と下り紀伊国に定着した紀国造系が最も古く、ついで新羅系が移住し、最も新しい百済系と続いたと思われ、この百済系の紀氏(後の紀臣)に同族化したものであろう。

氏のような大豪族は一渡来氏族のみで枝分かれして大族化したと考えるのは無理である。血縁・非血縁を含めて数流が一元化して豪族紀氏と称したのであり、本宗として百済系紀氏(紀朝臣)があったと思われる。

朝臣で万葉歌人は、清人(きよひと)、男梶(おかじ)、豊河(とよかわ)、少鹿(おじか)、鹿人(かひと)、男人(おひと)の6人を数える。

5.藤原朝臣

アジサイ
原氏が朝鮮渡来氏族、とくに百済渡来系氏族であるとする説はかなり有力である。中臣氏と中臣鎌足(なかとみのかまたり)の家系は同祖ではないとする見方がある。おそらく新羅・加耶系の中臣が5世紀前後に大和に定着し、高句麗・百済系を含む多くの氏族を同族化して豪族化したものと思われる。鎌足の家系は7世紀前後に百済から渡来し、中臣氏の系譜の中に入ったのだろう。

原氏の万葉歌人は鎌足をはじめ13人の多きを数える。これは7〜8世紀が藤原氏隆盛の発展期であったためである。宇合(うまかい)、清河(きよかわ)、久須麻呂(くすまろ)、執弓(とりゆみ)、広嗣(ひろつぐ)、房前(ふささき)、麻呂(まろ)、八束(やつか)、永手(ながて)、仲麻呂(なかまろ)、藤原夫人(ふじわらのぶにん)と称された氷上娘(ひかみのいらつめ)と五百重娘(いおえのいらつめ)などである。

臣朝臣と称する歌人には、東人(あずまひと)、清麻呂(きよまろ)、武良自(むらじ)、宅守(やかもり)の4人と中臣女郎(なかとみのいらつめ)の名が見える。

6.物部(もののべ)・石上(いそのかみ)氏

桜
武13年(684)の八色姓(やくさのかばね)制定で、物部連麻呂が物部朝臣となり、朱鳥元年(686)には石上朝臣麻呂となり、物部本宗を継いだこの一族は、以後石上朝臣を称している。物部氏は倭政権有数の豪族であり、大伴氏と並んで大王家を支える軍事氏族だったが、物部守屋(もののべのもりや)の代に没落した(587年)。物部の部は百済の部司制(新羅の六部、高句麗の五部)から来たもので、物は武器を表すと言われている。物部は血縁のない多くの氏族、部民を氏族としてまとめていて、「八十物部」といわれ、日本各地に分散していた。

部氏の本拠は河内渋川(大阪府八尾市)であり、高句麗・百済系氏族が盤踞した土地である。このため、物部氏もその系列にあると考えられる。一方、石上朝臣を称した物部麻呂らの系統は大和石上を本貫としている。この一族は氏神である石上の祭祀とも関連して百済七支刀などから考えて百済系と思われる。こうしたことから、物部・石上氏は、高句麗より出て、新羅・百済系氏族を結合した大部族と言える。

部本宗の系列で『万葉集』に顔を見せているものはいない。物部支配下と思われる地方の物部族が防人として10人ほど名を出しているが、出自は不明である。石上朝臣の系列では、乙麻呂(おとまろ)、堅魚(かつお)、麻呂(まろ)、宅嗣(やかつぐ)の4名が万葉歌人として載っている。

7.上記系譜外の豪族

コスモス

秦氏 現在の京都市全域の開拓者であった大豪族秦(はた)氏が新羅渡来氏族であったことはよく知られている。だが秦氏の大きさと広さは、部族大集合の双璧とされる大伴、物部の「八十(やそ)」とも違った独特のもので、同族意識の強さは特出している。さらに、現在日本各地に秦氏ゆかりの地名が多く、秦氏の分布は畿内・近江にとどまらず、東国・西海道・南海道と、奥羽と南九州を除く全日本に及んでいる。

加えて、秦氏の氏神である賀茂、稲荷、八坂、松尾の各社の末社が日本全国に分布していて、他氏に類を見ない桁外れの量にのぼる。このため、古代日本の土台を支えた最も根幹氏族だったと言える。

秦氏の万葉歌人には、八千島(やちしま)、許遍麻呂(こへまろ)、田麻呂(たまろ)、間満(はしまろ)の4人が見える。

大伴氏 大伴旅人・家持父子を併せて20数名の歌人が『万葉集』に載っていて、一氏族としては『万葉集』第一の歌人群を誇る。大伴郎女、大伴女郎、大伴坂上大嬢、大伴坂上郎女、大伴田村大嬢、家持の妹と女流歌人が多いのも特徴の一つである。

佐伯氏 大伴氏と同系の佐伯氏には、赤麻呂(あかまろ)、東人(あずまひと)、東人の妻の3人の歌が『万葉集』に収録されている。

蘇我・巨勢氏と同系氏族 小墾田(おはりだ)朝臣からは東麻呂(あずままろ)、広耳(ひろみみ)が、平群(へぐり)氏からも2人、田口朝臣からは4人、波多(はた)朝臣からは小足(おたり)の名が『万葉集』に残っている。

その他の氏族 久米氏からは継麻呂(つぎまろ)、広縄(ひろなわ)、久米女郎、久米女王、久米禅師の名が見える。物部・石上系には穂積朝臣(阿曾)、老(おゆ)の二人と若桜部朝臣君足(きみたり)が万葉歌人である。和珥・春日氏に連なる粟田氏からは3歌人、同系の小野氏には老(おゆ)以下3人が『万葉集』に名を残している。



朝鮮渡来系万葉歌人群像

ハス
「万葉の朝鮮渡来歌人」の中で、権又根(クォンウグン)氏は朝鮮渡来人とその後裔の中から代表的な万葉歌人として、さらに以下の人物の名を列挙している。

●麻田連陽春(あさたのむらじやす)

『万葉集』に短歌4首を残している。その他に『懐風藻』にも五言詩を1首を残していて、この期を代表する知識人だった。百済王朝滅亡により近江朝に移住した答本春初(たほしゅんそ)の子で、麻田連の姓を与えられ中央政府の官職にあった。『懐風藻』では石見守外従五位下とある。

●消奈行文大夫(せなのぎょうもんのまえつきみ)

武蔵国高麗郡の人で、東国の豪族子弟でありながら従三位まで上った高倉朝臣福信の叔父である。学業にすぐれ、奈良朝初期の代表的な文人の一人だった。『万葉集』巻16に一首残すとともに、『懐風藻』にも五言詩を2首残している。

●調首淡海(つきのおびとおうみ)

壬申の乱(672年)で天武の東国入りに行を共にした舎人の一人。大宝元年(701)に詠んだ歌が『万葉集』巻1に1首載っている。

●高丘連河内(たかおかのむらじかわち)

百済王朝滅亡により、天智2年(663)に渡来した百済の文人・官人の一人だった沙門詠の子。高丘連河内の名は、和銅5年(715)に『続日本紀』に初めて登場し、その後10回近く登場する。文人としては最高官位である大学頭に任じられており、養老5年(721)には東宮の侍講になっている。当初は楽浪(さざなみ)を名乗っていたが、神亀元年(724)に高丘連に改姓している。『万葉集』に2首残している。

●文忌寸馬養(ふみのいみきうまかい)

文忌寸は百済系渡来人の集中地であった河内で、王仁(わに)以来文筆専門氏族の中心的存在であり、現在の羽曳野市古市が居住地だった。父の根麻呂は壬申の乱で天武側の武将として活躍した。父の七光りで、天平宝字元年(757)には鋳銭長官になり、翌年には従五位下になっている。『万葉集』には短歌2首が収められている。

●三方沙弥(みかたのさみ)

山田史(ふひと)御方と同一人であり、留学僧として新羅に渡ったが、仏法よりも新羅儒学を究めて来たものと思われ、還俗して学者として頂点に立った。出自は百済渡来とも新羅渡来ともされている。当代を代表する学者大学頭従五位下山田史御方の名で、五言絶句、五言律詞、五言排律各1首が『懐風藻』に載せられ、『万葉集』にも長歌1首、短歌6首が収められている。

●葛井連広成(ふじいのむらじひろなり)

藤井寺(南河内志紀郡)を本貫とする葛井(藤井)氏は、今日に至るも朝鮮渡来氏族としての存在を確かにしている数少ない名門である。天平20年(748)8月21日、聖武天皇は葛井連広成(ひろなり)の家へ行幸され、宴飲、宿泊して、広成と妻の県犬養八重を共に正五位に叙したことが『続日本紀』に記録されている。『万葉集』に短歌4首を載せている。


●安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)

南河内安宿郡を本貫とする百済渡来人。『万葉集』の短歌1首を載せる。

●軍王(いくさのおおきみ)

百済渡来人。具体的な人物としては、百済王朝最後の王義慈の子・豊璋(ほうしょう)とする説と、その子孫だとする説がある。『万葉集』に長歌1首と反歌1首が収められている。

●安都宿禰年足(あとのすくねとしたり)

安都(阿都、阿刀、迹、安斗)は物部氏と同じく高句麗系百済渡来人の氏族とされている。安都年足は短歌1首を『万葉集』に残している。その歌から、佐保川の近くに住んでいたと思われる。

●板氏安麻呂(いたうじのやすまろ)

正式には板茂連安麻呂という。伊吉連と同祖とされているので、百済系渡来人と思われる。太宰帥(だざいのそち)大伴旅人の邸で歌人が集まり正月13日に宴会を開いたとき梅花の歌32首が詠まれた。その中の一首は板氏安麻呂の作である。

●宇努首男人(うののおびとひと)

『姓氏録』に、宇努首は百済国の君男弥奈曽富意弥(きみのこみなそほおみ)より出ずとあり、百済渡来人である。神亀5年(728)11月、香椎浦で詠んだ歌1首が『万葉集』に収められている。

●馬史国人(うまのふひとくにひと)

『続日本紀』に馬史真主などが「春沢史の姓を賜る。その先百済国人なり」とあり、馬史は百済系渡来氏族である。天平勝宝8年(756)年、聖武天皇が光明后とその子の孝謙を伴って河内国伎人郷(くれのさと、大阪市住吉区喜連)の馬史国人の家に行幸し、宴を行なうとあり、相当の豪家だったようだ。そのとき詠んだ歌1首が『万葉集』に載っている。

●生石村主真人(おいしのすぐりまひと)

『姓氏録』逸文に、阿智使主(あちのおみ)と渡来した村主の中に生石村主が見え、百済渡来系である。『万葉集』に志都の石室を詠んだ1首の短歌がある。

●大石蓑麻呂(おいしのみのまろ)

『姓氏録』に「大石は高丘宿禰と同祖」とあり百済渡来系である。安芸国の長門志摩で船泊りして詠んだ歌1首が『万葉集』に見える。

●大蔵忌寸麻呂(おおくらのいみきまろ)

大蔵忌寸系はすべて、阿智使主(あちのおみ)の後裔となっているので、百済渡来系である。天平8年(736)正七位上で遣新羅使の小判官として対馬の竹敷浦に泊まったときの歌1首が『万葉集』にある。

●大神朝臣奥守(おおみわのあそんおきもり)

『姓氏録』逸文に「賀茂神社の賀茂朝臣と大神朝臣は同祖」としているので、新羅系渡来人である。『万葉集』に笑哄歌を残している。大神女郎(おおみわのいらつめ)という女流歌人も2首残している。

●刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)

『姓氏録』に「刑部は百済国酒王より出ず」とあり、百済系渡来人である。『万葉集』に2首の歌を載せている。

●他田広津娘子(おさだのひろつおとめ)

他田は訳語田(おさだ)、長田(おさだ)と同じであり、阿部氏族に属している。高句麗系百済人である。『万葉集』巻8に短歌2首を残している。

●上古麻呂(かみのふるまろ)

上古麻呂の出自の詳細は不明であるが、『姓氏録』には上曰佐(かみのおさ)、上勝(かみのすぐり)、上村主(かみのすぐり)などを百済渡来系としている。『万葉集』巻3に短歌1首を残している。

●鴨君足人(かものきみたるひと)

鴨・賀茂・加茂はみな同じで、新羅渡来系と見なして間違いない。秦氏と同系である。巻3に長歌2首、短歌2首を続けて載せている。

●鞍作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)

『姓氏録』逸文には、阿智使主(あちのおみ)と渡来した村主の中に鞍作村主が見える。百済渡来系である。『万葉集』巻3と巻6に短歌1首ずつを残している。

●境部宿禰老麻呂(さかいべのすくねおゆまろ)

境部(坂合部)は阿智使主(あちのおみ)と渡来した7姓の一つで百済渡来系である。同族に遣唐大使となった坂合部連石布(いわしき)がいる。連から宿禰への改姓は天武13年(684)。『万葉集』巻17に老麻呂の長歌1首と短歌1首が載っている。

●田辺史福麻呂(たなべのふひとさきまろ)

田辺史は百済渡来系。藤原不比等は、山科の田辺史大隅の家で養われたので不比等=史と名付けられたことで知られる。福麻呂は最後の長歌作家といわれ長歌10首、短歌34首を残している。

●田部忌寸櫟子(たなべのいみきいちいこ)

田部は田辺と同じく”たなべ”とも読み、同族である。百済系渡来人。『万葉集』巻4に短歌3首を残している。

●刀理宣令(とりのみのり)

『続日本紀』に「百済の人刀利甲斐麻呂ら7人には丘上連」を賜姓しているので、宣令も百済渡来人と思われる。養老5年(721)に、憶良、三方、河内などとともに東宮(後の聖武)に侍しているので、学者であった。『万葉集』に短歌2首を残す。

●長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)

『万葉集』に短歌16首を残す代表的万葉歌人の一人。長(なが)氏は東漢(やまとのあや)氏族に属する百済渡来人である。長忌寸娘(ながのいみきのおとめ)という女流歌人も短歌1首を残している。

●土師稲足(はにしのいなたり)

『姓氏録』には土師は天穂日命(アマテラスの子)の後としていて、新羅系または百済系である。天応元年(781)に土師を改め菅原が賜姓されている。



上記以外の万葉歌人で出自が渡来系と見なすことが可能な存在

百合

●阿氏奥島(あうじのおくしま)

阿氏は阿部氏と思われる。阿部氏となれば当然高句麗系である。『万葉集』に短歌1首を残す。

●置始東人(おきそめのあずまひと)

置始連は石上朝臣と同系とされており、染色を事とする専門職業部であることから渡来氏族と考えることができる。『万葉集』に長歌1首、短歌3首を残す。

●忍坂部乙麻呂(おさかべのおとまろ)

百済の阿智使主(あちのおみ)の後裔で、百済渡来系。『万葉集』に短歌1首を残す。

●鏡王女(かがみのおおきみ)

額田王の姉とされているが、確定的ではない。鏡王の娘であることから、新羅渡来系と思われる。短歌5首が『万葉集』に載っている。

●笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)

吉備氏と同族で新羅渡来系と考えられる。万葉歌人として著名であり、長歌11首、短歌29首、計40首を『万葉集』に残している。

●春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)

僧籍にあった弁紀の還俗名。春日蔵は春日一族とみることも可能なので、百済渡来系歌人と思われる。短歌8首が『万葉集』に載る。

●神社忌寸老麻呂(かみこそのいみきおゆまろ)

『姓氏録』に「神人は高麗国人許利都の後なり」とあり、神=みわと称する職能貴族はこの流れをくむと思われる。老麻呂の短歌2首が『万葉集』に載っている。

●巫部麻蘇娘女(かんなぎのまそおとめ)

宗教的職能氏族で、物部氏と同祖である。高句麗系の流れをくむものであろう。麻蘇娘女の短歌4首が『万葉集』に載っている。

●河内百枝娘子(かわちのももえのおとめす)

河内直、河内連などを称した百済渡来系氏族の出と思われる。『万葉集』に短歌2首を載せている。

●元仁(がんにん)

元が氏で仁が名を現しているので渡来人とする説があるが、確定的ではない。『万葉集』に短歌3首を載せている。

●草嬢(かやのおとめ、くさのおとめ)

草氏は百済渡来系。草氏は後に蚊屋忌寸、蚊帳宿禰に姓を改めている。草嬢の短歌1首が『万葉集』に載っている。

●内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)

忌寸姓は朝鮮渡来系と考えてよい。内蔵忌寸は倭漢氏系の百済渡来氏族である。縄麻呂の短歌4首が『万葉集』に載っている。

●坂上忌寸人長(さかのうえのいみきひとおさ)

坂上田村麻呂などと同じ一族で、百済渡来系。『万葉集』に短歌1首がある。

●薩妙観(さつのみょうかん)

文武天皇の時代に音博士で、大宝律令の制定にも加わった薩弘恪の娘と言われている。新羅渡来系。『万葉集』に短歌2首がある。

●椎野連長年(しいいののむらじながとし)

百済亡命貴族四比(しひ)福夫は憶礼福留とともに天智4年(665)に筑紫に二城を築いたとされる。この四比氏は神亀元年(724)に椎野連に改姓している。『万葉集』に短歌1首がある。

●高安大島(たかやすのおおしま)

高安氏は高句麗系と思われる。『万葉集』に短歌1首がある。

●当麻真人麻呂妻(たぎまのまひとまろのつま)

坂上氏と同祖関係にあるとされるので、百済系渡来人とみなすことができる。『万葉集』に短歌2首(重出)がある。

●丹波大女娘子(たにはのおおめおとめ)

丹波史・宿禰・朝臣系は坂上氏と同族の百済渡来氏族。丹波国造・直系なら天日槍の伝承にまつわり新羅渡来氏族の可能性がある。『万葉集』に短歌3首がある。

●史氏大原(ふひとうじのおおはら)

百済渡来系と考えられる。『万葉集』に短歌1首がある。

●山口忌寸若麻呂(やまぐちのいみきわかまろ)

山口忌寸・宿禰・朝臣は、坂上氏と同族の百済系渡来氏族である。若麻呂は『万葉集』に短歌2首を載せている。その他に、相聞歌5首、秋相聞歌1首を載せる山口女王(おおきみ)がいる。

●倭大后(やまとのおおきさき)

天智天皇の皇后。百済渡来系の東漢(やまとのあや)氏出の母を持ち、東漢氏のもとで成長した。『万葉集』に長歌1首、短歌3首を載せる。

●雪連宅麻呂(ゆきのむらじやかまろ)

雪氏は壱岐氏と同氏で、百済渡来系。

●余明軍(よのみょうぐん)

余氏は百済王系の氏族。『万葉集』に短歌8首を載せる。

●高氏(たかのうじ)を称する歌人

高氏は、高橋・高麗・高丘・高向などの氏と考えられる。『万葉集』には、老(おゆ)、海人(あま)、義通(ぎつう)の3人がそれぞれ短歌1首を載せている。

●田口朝臣(たぐちのあそん)に属する歌人

田口朝臣は石川朝臣と同祖の武内宿禰を祖先伝承に持つので、百済渡来系と見ることができる。『万葉集』には馬長(うまおさ)が1首、大戸(おおと)が短歌11首、広麻呂が短歌1首、益人(ますひと)が短歌2首を載せている。


アジサイ
又根氏は、上記の万葉歌人の他にも、高橋連虫麻呂(たかはしのむらじむしまろ)、小鯛王(おだいのおおきみ)、小田事(おだのつかう)など多数の人名をあげて、朝鮮渡来歌人としている。また、防人(さきもり)の歌の中にも、作者の氏や姓から判断して朝鮮渡来系の後裔と考えられる人物がかなりいると指摘され、その例を挙げておられる。



【参考・引用文献】権又根著『古代日本文化と朝鮮渡来人』、雄山閣出版


2004/12/12作成by n_ohsei2004@bell.jp return