『万葉集』は朝鮮渡来人・渡来文化の産物???現在、雄山閣から昭和63年(1988)に出版された『古代日本文化と朝鮮渡来人』を図書館から借りて読んでいる。著者は当時朝鮮大学校の講師だった権又根(クォンウグン)氏。その中に「万葉の朝鮮渡来歌人」と題する一節があり、著者は朝鮮渡来万葉歌人の出自について考察している。 大抵の日本人は、『万葉集』は我が国の最初の国民文学であると認識している。だが、著者によれば、『万葉集』は決して日本土着文化・純血文化としての創造ではなく、朝鮮古代文化の移植と、朝鮮渡来人の手の相乗によって生成されたものであるという。その証拠に、『万葉集』に名を留めている歌人は約460名いるが、その出自を調べていくと、朝鮮渡来系以外の歌人はむしろ僅少に過ぎないと言われる。 例えば山部赤人、山上憶良、柿本人麻呂、額田王、大伴旅人・家持父子といった『万葉集』を代表する巨星たちが、実は朝鮮渡来系であると考察されている。『万葉集』に収録された総歌数4561首中、読み人知らずの1900首を除いた2600余首のうち、これら6人の歌人の作品は40%を越え、歌の質と存在感の重さで他を圧倒する。この事実をもってしても、朝鮮渡来人・渡来文化が『万葉集』の創造に如何に寄与しているかが分かる、と氏は主張される。 筆者にとっても、いささかショッキングな古代文化論なので、その一部を以下に整理して今後の参考にしたい。 なお、ついでながら言い添えておくと、渡来人に対する権又根氏の概念規定に、筆者はいささか疑問を感じている。 まず、朝鮮渡来系氏族の出自を、権氏は『新撰姓氏録』に基づいて高句麗系、新羅系、百済系の3系統に分類しておられる。しかし、朝鮮半島からの移住は半島における戦乱時期が背景にあり、大きな渡来の波は、半島南部にあった加耶諸国が新羅に併合された前後にもあったはずであり、厳密に言うならば、この地域からの渡来氏族は百済系および新羅系とは区別して扱うべきである。 さらに、権氏の記述によれば、我が国の古代大和政権を構成した主要氏族のほとんどが渡来系として扱われている。日本列島の地理的特殊性から、この島国には旧石器時代から多くの種族が移り住んでいる。縄文人しかり、弥生人しかり、天皇家すら騎馬民族の末裔とする説があるくらいである。もともと固有の日本民族などない。いろんな種族の血が混血して日本人が出来上がった。 したがって、5世紀〜8世紀の時点でどの氏族が朝鮮渡来系氏族と認識されていたかは、微妙な問題である。以前に「帰化人」という用語が歴史用語として不適当であるとして「渡来人」を用いるべしとの主張がなされた。徳を慕って帰化すべき主体が当時の日本にはなかったというのがその背景にある。だが、筆者は朝鮮渡来人とされる人々の祖先のほとんどは、基本的に戦争遺民であると考えている。もちろん、文化向上のために来朝を招聘された人々や、外交的な理由で我が国に派遣されそのまま住み着いた文化人の子孫もいるであろう。だが、本国の戦乱を避けてこの島国に移り住んだ人々が大半であったという事実には変わりがない。 4世紀、当時の倭国は朝鮮半島南部にあった加耶諸国とすでに通交しており、4世紀後半には百済とも友好国の関係を結んでいる。4世紀末には高句麗好太王の南下を阻止するために軍隊を派遣して百済と共同戦線を張ることができる主体が、すでにこの国にあった。そうした主体を築いた人々も、もとは半島から移ってきた人間であろうが、彼らまで朝鮮渡来人の範疇で捉えるとしたら、歴史の認識を誤るのではなかろうか。 歴史の記述にナショナリズムを持ち込むのは危険である。しかし、韓国にルーツを持つ歴史学者や古代史研究家の中には、自国びいきで何事もルーツは朝鮮にあるといった論調で著述をされる人がいる。『日本書紀』ですら、渡来系氏族を「今来」と「古来」に区分している。渡来して何世代も経た氏族に属する人々まで一括して朝鮮渡来人とするのは、如何なものだろうか。 |
主な万葉歌人の出自
山上憶良
憶良は百済の首都扶余で660年に生まれ、百済王朝滅亡により4歳のとき父に連れられて日本に亡命し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口(みなぐち)町あたりに住んだとされている。甲賀の地は、敏達天皇13年(584)に百済から弥勒菩薩の石像一体をもたらした鹿深臣(かふかのいみ)の居住地である。 この甲賀の地は、同じく百済からの亡命者が集団移住させられた蒲生郡、神崎郡と隣接しており、鬼室集斯(きしつしゅうし)を祭る鬼室神社のある蒲生郡日野町と憶良が居住したとされる水口町とは近江鉄道でわずかひと駅にすぎない。なお、水口から直線距離で数キロのところに、山之上の地名がある。現在の竜王町に属しているが、権又根氏はこの地を憶良の居住地と想定したいとされている。
山部赤人
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『姓氏録』によれば、伊予の来目氏(久米氏)は高御魂神 (たかみむすひのかみ)を祖先伝承に持つ氏族の一つであり、これらの氏族は朝鮮渡来系と見なされている。こうしたことから、山部氏も朝鮮渡来氏族と見なしてよい。
久米はコマ→クマ→クメと母音の転化したものであり、もとは高(句)麗、狛、熊などであったと考えられる。久米氏は物部氏に連なる軍事氏族であるから、高句麗、百済を下る扶余系氏族と見ることができる。山部という職業部氏は山林、狩猟の専門部であり、小盾が望んでそのポストについたとされている点を考え合わせると、山部赤人は山岳系の高句麗族の流れを組んでいると想定できる。
天平8年(736)6月に読んだ歌が、製作年代の分かる赤人の最期の作品とされている。737年に疫病が流行して時の権力者である藤原4兄弟が病死している。赤人も感染してこの時死亡したとも言われているが、史書はなにも教えてくれない。
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『姓氏録』では、柿本朝臣は春日朝臣と同祖であり、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の後裔としている。そして、敏達天皇の世に、門に柿の木があったので柿本氏を名乗ったという。つまり、6世紀の後半の今来(いまき)の渡来人が大和国に移住して、和珥(わに)氏を本宗とする和珥(わに)・春日(かすが)氏族に組み入れられ、柿本氏を氏名としたことになる。
和珥・春日氏は百済渡来の古来の豪族であり、和珥氏は応神から敏達天皇に至る間7人の天皇に9人の后妃を出した名門氏族である。和珥氏の勢力範囲は、現在の天理市和珥町から奈良市(春日野)、南山城、宇治と連なり、大津市とそれに隣接する志賀町和珥まで続いていた。天理市櫟本(いちのもと)にある和珥下(わにした)神社の参道脇に、樹木に囲まれて、歌聖・柿本人麻呂の歌塚が建っている。櫟本町は、柿本人麻呂の生地であると伝えられている。おそらく、柿本氏はこの地に居住したため、地縁によって和珥・春日氏族と同族とされたのであろう。
柿本人麻呂の妻は依羅娘子(よさみのおとめ)であり、『万葉集』に短歌3首を載せている。現在の大阪府松原市天美はかって依羅連(よさみのむらじ)が居住した依羅郷である。『姓氏録』では依羅連は百済人の素彌志夜麻味美(そみしやまみ)の君の後裔とされていて、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。
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額田王の父・鏡王は近江の国の鏡山の麓に居住したので鏡王と呼ばれた。旧滋賀県蒲生郡鏡山村は、現在は苗村(なむら)と合併して竜王町となっているが、鏡の里を北端にして、弓削(ゆげ)、須恵、薬師などの字名が、標高385mの鏡山の山麓に連なっている。これらの字名は渡来人氏族の名残であり、天日槍(あめのひほこ)の伝承を裏付ける新羅系の先住民の跡とされている。なお、鏡山の由来は、天日槍が出石に立ち去るとき、宝物の中の鏡を取り出して山に埋めたので、鏡山の名が生まれたと伝えられている。
薬師寺縁起には額田王を額田部姫王としている。そのため、額田王の出生地についてはもう一つの説がある。大和額田部の里(現在の田原本町大字八尾)であり、その近くに鏡作神社がある。平群郡額田郷(旧平端村)には額田村主という百済渡来氏族が居住していたが、額田王の姉とされる鏡王女(かがみのおおこみ)は、そこの出身とする説もある。そうであれば、額田王を百済渡来系と考えることも可能である。
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父の旅人は斜陽大伴家にあって大納言まで上ったが、家持は中納言で没している。家持は死後、桓武天皇の寵臣・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺に関与したとして、墓を暴かれるという屈辱を受けている。この古代の名門氏族大伴氏の出自は、実は高句麗系渡来氏族であるとする説がある。
大伴氏の氏始祖伝承に神武東征に出てくるヤタガラスの説話がある。鳥類を氏祖とするのは北方系鍛冶神信仰種族の特徴である。また、氏祖伝承に顔を見せる高魂神の後裔とされる氏族は、高句麗系に属すとされている。その中の少なからぬものが、朝鮮半島東岸に沿って南下し、日本海を渡って、弥生時代から次々と渡来し、越から近江路、大和山間部に広がった。こうした高句麗系の山民が、大伴氏が統率する八十伴緒(やそとものお)であるという。
大伴氏は、畿内の豪族の中でも最も早く渡来した氏族の一つである。後になって、今来の百済系氏族や新羅系氏族も組み入れたと思われる。大伴室屋や大伴金村など、大伴氏最盛時に、その後裔であるとする家系伝承を作っている氏族が多いためである(例えば、高志連、高志壬生連、佐伯宿禰、林宿禰、大伴連など)。
豪族の系譜から見たその他の朝鮮渡来系万葉歌人
1.阿倍氏(阿倍、阿部、安部)
『万葉集』に姿を表す阿倍氏の歌人としては、老人(おきな)、奥道(おきみち)、子祖父(こおおじ)、沙弥麻呂(さみまろ)、継麻呂(つぎまろ)、豊継(とよつぐ)、広庭(ひろにわ)、虫麻呂(むしまろ)の8人を数えることができる。
2.巨勢(許勢)氏
『万葉集』には宿奈麻呂(すくなまろ)、豊人(とよひと)、奈■麻呂(なでまろ)、郎女(いらつめ)、対馬(つしま)の4歌人が名を連ねている。
3.石川氏(石川朝臣)
この氏族からは、老夫(おきな)、君子(きみこ)、年足(としたり)、広成(ひろなり)、水通(みみち)、足人(たるひと)の6人が見える。他に石川郎女(いらつめ)、石川女郎とする歌人も『万葉集』には登場する。石川の系譜に連なる女性と思われる。
4.紀氏(紀朝臣)
紀氏のような大豪族は一渡来氏族のみで枝分かれして大族化したと考えるのは無理である。血縁・非血縁を含めて数流が一元化して豪族紀氏と称したのであり、本宗として百済系紀氏(紀朝臣)があったと思われる。 紀朝臣で万葉歌人は、清人(きよひと)、男梶(おかじ)、豊河(とよかわ)、少鹿(おじか)、鹿人(かひと)、男人(おひと)の6人を数える。
5.藤原朝臣
藤原氏の万葉歌人は鎌足をはじめ13人の多きを数える。これは7〜8世紀が藤原氏隆盛の発展期であったためである。宇合(うまかい)、清河(きよかわ)、久須麻呂(くすまろ)、執弓(とりゆみ)、広嗣(ひろつぐ)、房前(ふささき)、麻呂(まろ)、八束(やつか)、永手(ながて)、仲麻呂(なかまろ)、藤原夫人(ふじわらのぶにん)と称された氷上娘(ひかみのいらつめ)と五百重娘(いおえのいらつめ)などである。 中臣朝臣と称する歌人には、東人(あずまひと)、清麻呂(きよまろ)、武良自(むらじ)、宅守(やかもり)の4人と中臣女郎(なかとみのいらつめ)の名が見える。
6.物部(もののべ)・石上(いそのかみ)氏
物部氏の本拠は河内渋川(大阪府八尾市)であり、高句麗・百済系氏族が盤踞した土地である。このため、物部氏もその系列にあると考えられる。一方、石上朝臣を称した物部麻呂らの系統は大和石上を本貫としている。この一族は氏神である石上の祭祀とも関連して百済七支刀などから考えて百済系と思われる。こうしたことから、物部・石上氏は、高句麗より出て、新羅・百済系氏族を結合した大部族と言える。 物部本宗の系列で『万葉集』に顔を見せているものはいない。物部支配下と思われる地方の物部族が防人として10人ほど名を出しているが、出自は不明である。石上朝臣の系列では、乙麻呂(おとまろ)、堅魚(かつお)、麻呂(まろ)、宅嗣(やかつぐ)の4名が万葉歌人として載っている。
7.上記系譜外の豪族
秦氏 現在の京都市全域の開拓者であった大豪族秦(はた)氏が新羅渡来氏族であったことはよく知られている。だが秦氏の大きさと広さは、部族大集合の双璧とされる大伴、物部の「八十(やそ)」とも違った独特のもので、同族意識の強さは特出している。さらに、現在日本各地に秦氏ゆかりの地名が多く、秦氏の分布は畿内・近江にとどまらず、東国・西海道・南海道と、奥羽と南九州を除く全日本に及んでいる。 加えて、秦氏の氏神である賀茂、稲荷、八坂、松尾の各社の末社が日本全国に分布していて、他氏に類を見ない桁外れの量にのぼる。このため、古代日本の土台を支えた最も根幹氏族だったと言える。 秦氏の万葉歌人には、八千島(やちしま)、許遍麻呂(こへまろ)、田麻呂(たまろ)、間満(はしまろ)の4人が見える。 大伴氏 大伴旅人・家持父子を併せて20数名の歌人が『万葉集』に載っていて、一氏族としては『万葉集』第一の歌人群を誇る。大伴郎女、大伴女郎、大伴坂上大嬢、大伴坂上郎女、大伴田村大嬢、家持の妹と女流歌人が多いのも特徴の一つである。 佐伯氏 大伴氏と同系の佐伯氏には、赤麻呂(あかまろ)、東人(あずまひと)、東人の妻の3人の歌が『万葉集』に収録されている。 蘇我・巨勢氏と同系氏族 小墾田(おはりだ)朝臣からは東麻呂(あずままろ)、広耳(ひろみみ)が、平群(へぐり)氏からも2人、田口朝臣からは4人、波多(はた)朝臣からは小足(おたり)の名が『万葉集』に残っている。 その他の氏族 久米氏からは継麻呂(つぎまろ)、広縄(ひろなわ)、久米女郎、久米女王、久米禅師の名が見える。物部・石上系には穂積朝臣(阿曾)、老(おゆ)の二人と若桜部朝臣君足(きみたり)が万葉歌人である。和珥・春日氏に連なる粟田氏からは3歌人、同系の小野氏には老(おゆ)以下3人が『万葉集』に名を残している。 |
朝鮮渡来系万葉歌人群像
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上記以外の万葉歌人で出自が渡来系と見なすことが可能な存在
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【参考・引用文献】権又根著『古代日本文化と朝鮮渡来人』、雄山閣出版 |