入鹿暗殺の首謀者は中大兄皇子に非ず、黒幕は他にいた???太平洋戦争のきっかけとなった 真珠湾攻撃から63年目の今日、テレビ各局で特別番組を組んだところは1社もなかった。本日のニュースの目玉は横田めぐみさんの遺骨のDNA鑑定結果だった。どの局も夕方のニュース番組のトップに、遺骨が偽物であると判明したことを大々的に報じていた。 自衛隊のイラク派遣の一年延長が、国会でまともな審議も尽くさずに明日9日に臨時閣議を招集して決めてしまおうとしているこの時期、真珠湾攻撃の是非を究明する番組が一つも組まれていないのは、なにかがおかしい。米国では"Remember Pearl Harbor"と戦争忘れじの象徴になっている真珠湾攻撃だが、我が国ではかくも見事に風化してきた世相に、一種の不安を感じるのは筆者だけだろうか。それとも、政府の意図的な世論のミスリードにメディアも荷担しているとみなすべきか。
NHKは平成17年の正月に古代史ドラマスペシャルとして「大化改新」を放映する。その前宣伝を兼ねた番組なのだろうが、内容が内容だけに、興味をもって最後まで見てしまった。見終わって、遠山説に何か納得できないものを感じた。それを以下で検証する。 |
|
山背大兄王一族の殺害は皇極女帝の指示???奈良時代の初めに編纂された『日本書紀』は、天皇家が我が国を支配する正当性を国民に示すために作られた史書である。そして、その編纂に陰で影響力を行使したのは中臣鎌足の子である藤原不比等(ふじわらのふひと)であるとされている。したがって、歴史的事実を忠実に記述した史書であるはずがない。天皇家や藤原家にとって隠蔽しておきたい事件や事実は、当然削除されたり変更されているものと考えなければならない。
例を挙げよう。大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、蘇我氏の祖廟を葛城の高倉に建てて、ヤツラの舞(天皇の行事のみに許された64人の群舞)を舞わせた(皇極元年)。国中の豪族の私有民を徴用して今木(御所市東南)に双墓(ならびのはか)を造り、一つを大陵といい蝦夷の墓とし、一つを少陵といい入鹿の墓とした(皇極元年)。蝦夷は紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた(皇極2年10月)。蘇我入鹿は巨勢臣徳太(こせのおみ・とくだ)と土師連娑婆(はじのむらじ・さば)を軍の将軍として斑鳩(いかるが)を急襲させ、山背大兄王(やましろのおおえのおおきみ)一族をことごとく死に追いやった(皇極2年11月)。蘇我蝦夷・入鹿父子は家を甘樫丘に並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷(はざま)の宮門といい、男女の子を王子(みこ)と呼ばせた(皇極3年11月)。・・・ こうした専横の数々を列挙することで、蘇我本宗家が倒されてもやむなしという雰囲気を『日本書紀』はその記述の中でお膳立てしている。特に、山背大兄王一族を滅亡させたことは、入鹿が次期天皇候補として推す古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)のために、そのライバルを事前に葬ったとされている。この暴挙が直接の契機となって、明日は我が身と恐れた中大兄皇子が、蘇我家に敵意を抱く中臣鎌足と組んで密かにクーデターを準備したことになっている。 『日本書紀』の記述をそのまま素直に読めば、山背大兄王一族を滅ぼしたのは、蘇我入鹿の一存であると理解できる。ところが、遠山教授はそれを指示したのは皇極女帝に他ならず、入鹿は女帝の指示を忠実に履行したにすぎない、とされる。では、何故皇極女帝が次期天皇候補の一人である山背大兄王を排除しなければならなかったのか。 その理由として、教授は実にユニークな説を立てられた。皇極天皇(後に斉明天皇として再度登極)は無類の土木工事好きの女帝として知られる。多武峰の頂上に両槻宮(ふたつきのみや)という高殿を造ったり、新しく皇居として後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)を造ったり、その東に石の山岡を造ったりしている。その理由として、皇極女帝は唐の長安や洛陽の向こうを張って、明日香全域を恒久的な石の都を築くことを目論んだ、と教授は推測される。 そして、その意図を阻止する存在だったのが山背大兄王だったとされる。山背大兄王は聖徳太子が造営した斑鳩宮(いかるがのみや)をそのまま引き継いでいる。もし山背大兄王が次期天皇として即位したら、都は斑鳩に遷る。皇極女帝はそれが我慢ならなかった。その芽を摘むために、入鹿に山背大兄王の殺害を命じたと推測される。 明日香村での最近の発掘調査は、次々と石敷きの宮殿や関係施設の跡を掘り出していて、さながら明日香全体が宮殿と寺院を中心とする石の都だったという印象を与える。しかし、石の都の建設が皇極女帝の指示だったとするには、いささか抵抗を感じる。斑鳩遷都を阻止するために山背大兄王を殺したとするのは、すこし深読みすぎるのではないだろうか。教授の説だと、乙巳(いっし)の変があった大化元年(645)、皇極女帝の後を継いだ孝徳天皇(軽皇子)が都を難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に移した事実を説明できない。 |
|
クーデターの首謀者は軽皇子(後の孝徳天皇)???遠山教授によれば、山背大兄王亡き後、皇位継承候補として3人の皇子がいた。皇極(斉明)女帝の同母弟の軽皇子(かるのみこ)、推定年齢47歳。舒明天皇の皇子で蘇我馬子の娘・法堤郎媛(ほてのいらつめ)を母に持つ古人大兄皇子、推定年齢30歳。そして、皇極女帝の実子・中大兄皇子、当時20歳。 まだ皇位継承が嫡子相続と定まっていなかった当時、血統だけで皇位が決められた訳ではない。教授は天皇としてふさわしい年齢と経験もおおいに加味されたと指摘する。その場合、中大兄皇子はまだ若すぎて、皇位継承の資格はなく、実質的には軽皇子と古人大兄皇子の二人が有力候補だったと推定される。
では、皇極女帝とその寵臣であった蘇我入鹿の間に、軽皇子はどのようにクサビを打ち込んだのか。遠山教授は、その原因を飛鳥板蓋宮の造営に求めておられる。皇極元年、女帝は板蓋宮を造りたいと思い、東は遠江まで、西は安芸までの国々から造営の人夫を集めるように指示された。しかし、当時は氏族制度の社会であり、豪族たちがそれぞれの地域の人民を支配していた。豪族たちが非協力であれば、人夫を集めることはできない。教授は蘇我氏も余り協力的ではなく、宮の造営はスムーズに進まなかったと想定しておられる。 遠山教授は、姉である女帝の苛立ちを見て、軽皇子はあること進言したとされる。なんと、氏族社会に代わって公地公民制を導入することで、天下の人民は天皇の思うままに使役することができる、と進言したと言われる。そのためには、氏族社会の象徴ともいうべき蘇我本宗家を倒さなければならない。こうして、女帝の承諾を得た軽皇子は入鹿誅殺を画策し、中臣鎌足らに実行させた・・・というのが、遠山教授の論旨である。
やはり、『日本書紀』に示すごとく、若い中大兄皇子や中臣鎌足が中心になって旧体制を打破するために結束し、乙巳の変で蘇我本宗家を倒した後、軽皇子を傀儡天皇として即位させ、実際の改新政治は彼ら若手が主導したと見なした方が説得力がある。何時の時代でも、旧体制を打破するのに必要なのは若者たちのエネルギーである。 |