満を持して行われる中国の遺跡発掘筆者が兵馬俑坑を初めて見学したのは昭和56年(1981)の11月。すでに秦始皇帝兵馬俑博物館のドームは完成していた。中国社会科学院考古研究所の王仲殊氏の案内で、ドームの下で掘り出された兵馬俑を見た。そのときの興奮を、今でもはっきりと覚えている。発掘された兵馬俑は復元され隊列を組んで並べてあり、まさに地下から甦った軍団を見る思いだった。これらは兵馬俑はほんの一部にすぎず、ほとんどはまだ未発掘の状態だった。
見学のとき、王仲殊氏の口から意外な言葉を聞いた。兵馬俑の発掘は当分の間中止しているというのだ。その理由を尋ねると、氏はこう答えられた。「発掘された俑は粘土を乾かしたような灰色をしているが、もともと彩色されていた。それを掘り起こし大気に触れることで、残っていた色が変色してしまう。今の技術では、その変色を抑えることができない。それが可能になる時期まで発掘は見合わせる」とのことだった。 そのときの王仲殊氏の言葉が、なぜか強烈な印象として今も耳に残っている。さすがは4千年の歴史を有する中国だと思った。ここでは時間は実にゆったりの流れているのだ、10年や20年待つことなど全く苦にならないのだろう。高宗と即天武后を合葬した乾陵(けんりょう)を見学したときも、同じ言葉を氏から聞いた。「試掘の結果、乾陵が未盗掘であることは分かっている。ここを発掘することで世界的な遺産が続々出土することは間違いない。だが、それを完全な形で永久保存できる技術が開発されるまで、発掘は行わない、云々・・・」。 何処かの国みたいに、永久保存の方法も確立しないままに発掘を行ない、貴重な国民的遺産である装飾壁画を駄目にしてしまうのとは、えらい違いだ。 |
さまざまな発見があった永遠の都−秦始皇帝陵園始皇帝陵と兵馬俑坑は1987年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)としてすでに登録されている。兵馬俑坑に関しては上記の通りで、秦始皇帝兵馬俑博物館では、300人もの研究者や職員が博物館で生活を共にしながら、発掘と保存と展覧の仕事を進めている。一方、始皇帝陵とその周辺でも新しい発見が相次いでいる。
秦の咸陽(かんよう)城が生ける始皇帝の都だったとすれば、秦始皇帝陵園は死せる始皇帝の永遠の都だったと言える。陵園の地下宮殿では生前の地上の宮殿を再現した設備が作られ、地上には始皇帝の鬼神(死者の魂)を祭るためのさまざまな施設が造営され、実際に多くの官吏が働いていたと思われる。始皇帝の鬼神は地下宮殿から地上に現れ、陵園に作られた便殿(べんでん)で休息し、寝殿で食事や衣服を供せられた。死せる始皇帝の移動には精巧に作られた銅車馬が用いられた。 司馬遷が著した『史記』によれば、秦の末期に咸陽を手中に収めた項羽(こうう)は、降伏してきた秦王・子嬰とその一族800名、加えてそれに仕えていた官人四千名を皆殺しにし、さらに、咸陽宮、阿房宮に火を放ち、始皇帝陵を暴いて地下宮殿の財宝を尽く運び出した。その財宝は項羽の軍30万人が30日かかっても運びきれなかったという。だが、『史記』のこうした記述は必ずしも史実ではなかったのではと疑われている。
リモートセンシング技術や地球物理学という最先端技術によって始皇帝陵を探査する「八六三計画」という国家プロジェクトが、2002年にスタートした。その成果の一部は2003年に公表された。それによれば、始皇帝陵の地下宮殿は東西170m、南北145mの規模で、中央には石灰岩でつくった墓室(東西80m、南北約50m、高さ15m)があると考えられる。また、地下宮殿には大量の水銀が流し込まれていたことも明らかになり、司馬遷の『史記』で始皇帝陵について「水銀の川や海がある」という記述は裏付けられた。しかし、墓室の周囲には厚さ16〜22mの頑丈な壁が巡らされており、内部の墓室は壊れていないとの測定結果もでている。 今後、地下宮殿の発掘でどのような発見があるのか楽しみである。すでに1999年には始皇帝陵墳丘の東南から11体の百戯俑が発見された。いずれも上半身が裸で、その仕草も変化にとんでいる。2000年には始皇帝陵園の中の六号陪葬坑から8体に文官俑が出土している。地下帝国では、武人のほかにこうした文官も始皇帝に仕えていたことが明らかになった。また、2001年夏には、外城の東北で七号坑が発見された。そこには、地下に河川を作り、そのほとりに青銅製の鶴や白鳥、雁などが配置されていた。水鳥を飼育する官吏の俑も出土していて、地下世界に人工的な自然を持ち込んでいたことも分かってきた。 さらに、2003年には、始皇帝陵の外壁の西500mにある磚房村移民集落で、多くの陵墓が発見され、そのうち規模の大きい6基の陵墓は秦代のものとみられ、調査の結果、いずれも秦の始皇帝陵と関係があることが確認された。この6基の陵墓のうちの1基が「中」字型をしていることから、考古学者の関心を集めているという。同陵墓は秦の始皇帝陵に次いで大きく、漆の彩色の跡、緑青(銅のさび)、織物などが確認された。
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本邦初公開の文官俑と百戯俑これまで日本で何度か兵馬俑展が開催されている。今回の展覧会は21世紀になって初めて我が国で開かれるもので、始皇帝の永遠の都であった陵園に焦点を当てているという。したがって、単に兵馬俑だけでなく、兵士俑が持っていたさまざまな武器、陶製や青銅製のさまざまな生活用品や祭器、装飾品なども合わせて展示してある。
入口を入るとまず目に付くのが、将軍俑を先頭に、三匹の車馬とそれに続いて隊列を組んだ武士俑である。こうした俑を見るたびにいつも感心するのだが、どれ一つとっても同じ顔のものはない。おそらく実在の人物を写したものなのだろう。専門家によると、兵士俑の顔は出身地によって3種類に分類できるという。純朴そうで頬がふっくらしている関中(現在の陝西省)地方の兵士、丸顔で下あごが尖っている巴蜀(現在の四川省)地方の兵士、そして頬骨が高く精悍な顔をした隴東(現在の甘粛省東部)地方の兵士である。 それにしても、いずれも長身である。180cm以上、中には190cmを越える兵士の像もある。春秋戦国および秦の時代、黄土高原や関中に住んでいた人間は、現代人以上に長身だったとも思えない。たくましさを強調するために、いささか体型が誇張されていると考えたい。この展覧会の目玉はなんと言っても本邦初公開の文官俑と百戯俑だろう。文官俑は部屋の中央に一体だけ独立してガラスケースに置かれて立っていた。 2000年7月から12月にかけて発掘調査された六号(文官俑)坑から、12体の陶俑が見つかった。そのうち8体が文官と思われる俑で、地下宮殿に眠る始皇帝に北面する形で一列に整列していた。今回展示されているのはその中で保存状態がよく、顔に赤みを帯びた肌色が残る顔立ちの美しい青年である。腕を袖の中に入れて立ち(裾手という)、右の腰に小刀と砥石の入った袋を下げている。竹簡や木簡に字を書き損じたとき削る小刀とそれを研ぐ砥石なのだろう。秦帝国の日常的な司法行政に従事していた役人を現していると推測されている。 百戯俑(雑戯をする俑)は、始皇帝陵の墳丘の東南から1999年に11体が発見された。いずれも上半身がはだかで、その仕草が変化に富んでいるという。発掘状況から内側向きに整列し、左右は同じタイプの俑が配されていたと考えられ、雑伎の光景を地下世界に再現したものと推測されている。今回展示されていたのは、右手を高くあげた俑で、その右足には「高」という作者名が刻まれている。 |
肉体の死後もその魂が永遠に続くと信じた始皇帝秦の始皇帝(B.C.259 - B.C.210、在位B.C.246 - B.C.210)ほどその人物像がさまざまに形容される人物はいない。厳格な法治を断行した為政者、焚書坑儒や長城建設を命じた暴君、不老不死を追い求めた孤独な男・・・・。そもそもその出生からして異常だった。彼は紀元前259年、趙の人質となっていた秦の王族・子楚(後の荘襄王)の子として邯鄲で生まれた。母は、邯鄲で暮らしていた子楚を「奇貨居くべし」と見出し、後ろ盾となった豪商呂不韋(りょふい)の妾であった。子楚に見初められたその女性は、呂不韋の子供を身ごもったまま嫁いだとされる。そして生まれたのが政、後の始皇帝である。
その施政は、従来の「封建制」に代わって「郡県制」を敷き、度量衡・貨幣・文字の統一を図った。又、春秋・戦国時代を通じて諸国が建設した長城を連結し、「万里の長城」の基礎を作った。こうして自信に満ち帝国の不滅を目指しながらも、一方で一個人として、いずれ訪れる死への恐怖を抱え、不老不死の薬を捜し求めた。 古代の中国人は、人間の肉体に魂(こん)と魄(はく)の二つの魂があり、魂は精神的な霊、魄は肉体に宿る霊であると考えていたとされる。肉体と精神が乖離すれば、人間は死んで鬼神となる。死を迎えることで生命の時間は止まるが、鬼神となった死者の魂は永遠の世界に留まって永続する。その永遠の世界とは地上の世界を地下に再現した暮室に他ならない。肉体の死後もその魂が永遠に続くと信じた始皇帝が、その永遠の世界を実現するために、王に即位したときから陵墓の建設に取りかかり、70万人を動員して38年をかけて造営したといわれている。
紀元前210年7月、第5回目の全国巡行の途中に黄河下流の平原津という渡しで、始皇帝は病気に陥り死亡した。50歳だった。自らの最後を悟った始皇帝は、「兵は蒙恬(もうてん)に任せ、遺体は咸陽で迎えて葬儀を執り行え」と長子の扶蘇(ふそ)に遺言したという。だが、このときの遺書は捨てられ、新たに末子の胡亥(こがい)を皇太子とする旨の遺詔が偽造された。始皇帝の遺体を極秘に載せた車駕は予定通りの巡行の経路を経て咸陽に戻った。そして、喪が発せられ、太子胡亥は始皇帝の遺体の前で皇帝の印璽を受け取り二世皇帝として即位した。9月になって遺体は始皇帝陵に埋葬された。今を去ること2214年前の出来事である。 |