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「ならまち」は猿沢池を五分程南へ下ったところにある。江戸時代の末期から明治時代にかけての古い町家風景が今も残り、町自体が当時の暮らしを伝える貴重な文化財として大切に保存されている。散策していると古い歴史が味わえて、昔の庶民の香りが漂ってくるくる一画である。 筆者のメル友であるAさんとBさんから、秋の奈良を歩きたいが「ならまち」を案内して貰えないかとの依頼メールが来た。11月の初めのことである。「ならまち」と言っても元興寺くらいしか興味がなかった筆者であるが、聞くところによると頭塔と呼ばれる珍しい史蹟も近くにあるらしい。喜んで2人の依頼を受けることにした。 |
元興寺極楽坊 南都浄土信仰の中心として栄えた寺
元興寺の正門は、国の重要文化財に指定されている四つ脚門の「東門」である。東門から境内に一歩入ると、正面に国宝の「本堂」が悠然とたたずんでいる。桁行6間、梁間6間、寄せ棟造り瓦葺きの建物である。 「本堂」は「曼荼羅堂」または「極楽坊本堂」ともいう。本来は「禅室」と一続きだったが、以下のような理由で、禅室の一部を独立させ、本堂とした。
平安時代の末に、僧坊は本堂と禅室に改装された。、智光の住んだその僧房は本堂となり、阿弥陀の極楽浄土のさまを描いた智光曼荼羅を本尊として祀ったため、「極楽坊」と呼ばれて阿弥陀信仰の聖地のひとつとなった。鎌倉時代の寛元2年(1244)には、本堂が東向きに改造され、同じころ禅室も改修された。 南都七大寺の一つとして、奈良時代の元興寺は南北4町、東西2町の広大な寺地を有し、各方面で指導的な役割を果たした。だが、平安・鎌倉時代になると。寺勢が衰え、伽藍も縮小していった。皮肉なことに、折から澎湃として起こった浄土信仰の波に乗って、極楽坊だけは南都系浄土信仰の中心となって栄え、元興寺の別院のような性格を呈するようになった。 宝徳3年(1451)におこった土一揆で、元興寺の金堂や小塔院などが焼失し、極楽坊と五重塔・観音堂だけが残った。この後、焼け跡に民家が進出してきたため、元興寺の寺地は、極楽坊と五重塔・観音堂の二つに分かれてしまった。安政6年(1859)には、五重塔と観音堂が焼けてしまい、古くからの建物は極楽坊の本堂と禅室だけとなり、今日に至っている。
瓦葺で丸瓦を重ね葺きする場合、丸瓦の一方に重ねしろを取るために、継ぎ目がフラットになる。しかし行基葺では、重ねる丸瓦の一方を細くしただけなので、継ぎ目に瓦の厚みが現れ、どうしてもデコボコした継ぎ目になる。よく見ると、「行基葺」の瓦屋根の部分には色の異なる瓦が混じっている、創建飛鳥寺で使用していた1400年も昔の瓦だという。 かって本堂の左に「収蔵庫」があり、一階正面に国宝の木造五重小塔や重文の木造阿弥陀如来坐像、智光曼荼羅図、庶民信仰資料などが多数保存されている。「収蔵庫」の横に財団法人元興寺文化財研究所がある。この研究所は仏教民俗文化財を中心とした調査、研究を目的に昭和36年(1961)に発足した。今日では出土埋蔵文化財の保存科学分野に加えて、著名な資料の保存処理や修復事業に数々の業績をあげている。昭和53年(1978)に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した国宝「辛亥銘鉄剣」の保存処理で115文字の金象嵌銘文を発見したことは有名である。 元興寺の前身は、蘇我馬子が6世紀末に現在の明日香村に建立した「飛鳥寺」である。仏法興隆を祈願して、馬子はこの寺を「法興寺」と名付けた。和銅3年(710)に都が藤原京から平城京に遷ると、主な寺院も新京に移建させられた。元興寺も例外ではない。養老2年(718)に、法興寺を現在の地に移建して、寺号を「元興寺」と改称したとされている。
東門を入って右手にある黄色のイチョウと紅色のモミジが、真っ青な空を背景にして見事な色で迎えてくれた。風もなく暖かい日差しが散乱する境内を散策しながら、ゆっくりと二本の木に近づき、その下に立って見上げると、色づいた葉の鮮やかな色が目に痛い。 |
史跡頭塔
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【所在地】 奈良市高畑町921 【アクセス】近鉄奈良駅から徒歩30分以上。市内循環バス「破石町」 【文化財指定】 大正11年3月8日、国の重要文化財に指定 |
【見学方法】入り口が施錠されている場合、管理人(仲村建具店)を訪ねて、頭塔入口の扉のカギを借りて見学できる。
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| 発掘調査前の頭塔 |
国道169号線の「福智院北」交差点から県道80号線を東へとる。緩やかな上り坂が続き、真っ赤に色づいた街路樹や逆に緑色の濃い常緑樹が目に付く。Bさんは不思議な方である。やたらと植物に詳しい。街路樹や足下の草花を指さしながら、友人のAさんに樹木は花の名前を教えている。二人は長年の親友だそうだ。
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| 頭塔の入口にある木戸 |
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| 頭塔の東面 |
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| 東面の浮彫如来および両脇侍 |
奈良県教育委員会が建てた説明板によると、この土塔は、神護景雲元年(767年)、良弁僧正の命により東大寺僧の実忠が造営した土塔であることがすでに明らかになっている。五重塔などと同じように仏舎利を納める塔である。
いつの頃からか、「福智院」開祖である玄ムの首塚と云われるようになった。そして、天平18年(746)6月18日藤原広嗣の亡霊によって、筑前大宰府の観世音寺で首を取られた玄ムの頭が奈良まで飛んで来たので、それを埋めた塚であるとの伝承が作られた。頭塔(ずとう)と呼ばれているのは、本来の土塔(どとう)がなまったものとされている。
外見は森であるが、元々の形は方形32mの四角錐台で、7段に築かれた仏塔である。各段の四方には現在27基の石仏が残っている。石仏の高さ61〜111cmで、それぞれ浮彫り、線彫りなどで如来三尊や侍者等をあらわした一群は変化に富んでいる。奈良時代の彫刻として価値の高いこれらの石仏のうち、当時確認できた13基は昭和52年6月11日、重要文化財に指定された。
頭塔の周囲は、見学者の便を図って木道が組まれている。この見学路を巡ることで、東西南北から頭塔を見ることができる。
名作「暗夜行路」が生まれた志賀直哉旧居
史跡頭塔の近くにある交差点「高畠」町から東へ350mほど進み、小さな道を北へ入ると、白壁の塀に囲われた「志賀直哉旧宅」がある。白樺派の文豪志賀直哉が自ら筆を執って設計し、昭和4年から9年間住んだ二階屋の住宅(敷地435坪、建物134坪)である。和風、洋風、中国風の様式を取り入れ、当時としては大変進歩的で合理的なものだったようだ。春日山や若草山を見渡せる閑静な土地に位置していて、周囲はほとんど静寂そのものである。 数奇屋作りの書斎は、わざわざ京都から名大工を呼んで作らせたと伝えられている。ほとんどが当時のままに保存されていて、あの有名な「暗夜行路」はここで執筆した。執筆に関係ないものは一切排除し、余計なものを置かず、しかも子供達の立ち入りも禁じていたそうだ。書斎の中に入ることができないが、窓越しに見学できる。
直哉が昭和13年に奈良を去った後、邸宅は昭和28年に厚生省に買収され、厚生年金保養施設「飛火野荘」として利用されていた。しかし、汚損老朽が激しくなったため、一時取り壊しが決定した。 しかし、志賀直哉旧居を保存することが奈良文化を研究する上で有益である、と考える市民運動が起こり、昭和53年6月27日、奈良文化女子短期大学がセミナーハウスとして現状利用することを条件に、この旧居を買収した。そして、当時の写真や当時のことを知る人々の意見を取り入れ、直哉が新築した当時の姿に修復する作業に着手し、昭和53年11月8日に開館した。 平成12年には、有形登録文化財に指定されている。 |
飛火野の「ささやきの小径」から浮見堂へ
Bさんが浮見堂をみたいというので、すこし遠回りして帰ることにした。奈良公園の中にある鷺池(さぎいけ)という池がある。その池に張り出した水上の憩いの場が、浮見堂である。木造檜皮葺きの六角形の建物であり、老朽化した先代に代わって平成6年春新しく造り替えられた。春は桜、秋は紅葉に彩られ、特に浅芽ヶ原をバックにしたポイントのロケーションで写生する人も多い。 「なら燈花会」(ならとうかえ、8月6日〜15日)の10日間は浮見堂がライトアップされる。点灯時間は、午後7時から午後9時30分までで、期間中は、池の周囲が通行止めになるという。 午後3時半、ほぼ予定通りに「ならまち」を中心とする5時間の散策を終えて、近鉄奈良駅に着いた。2人が秋の奈良を満喫してくれたのかどうかは分からない。何はともあれ、11月下旬にしては暖かい日差しの一日だった。2人のお陰で、筆者も今まで知らなかった奈良市街の一部を散策できたことに感謝したい。 |