橿原日記 平成16年11月23日

二上山博物館の特別記念シンポジウム「大海人皇子、吉野を発つ」



香芝市の「市ふたかみ文化センター」
香芝市の「市ふたかみ文化センター」
在、香芝市の「市ふたかみ文化センター」の1階にある二上山博物館で、平成16年度特別展として、「大海人皇子、吉野を発つ」を開催している。本日はその特別展に関連したシンポジウムが開かれるというので出かけることにした。

報によれば、文筆家で東京立正女子短期大学非常勤講師の玉城妙子(たまきたえこ)氏の「壬申に翔ぶ」と題する基調講演の後、館長の石野博信氏の司会・進行でシンポジウムが開かれる。パネリストは、上記の玉城妙子氏の他に、滋賀県立大学教授・菅谷文則氏、京都教育大学教授・和田萃氏、奈良芸術短期大学教授・前園実知雄氏の4名である。

は、今年の春、友人たちの協力を得て、壬申の乱の道程を車で踏査する2日間の小旅行を敢行した。そのレポートは筆者のホームページに古代最大の内乱「壬申の乱」を追うというタイトルで掲載してある。

申紀は、乱に勝利した大海人皇子の立場で書かれたものである。さまざまな虚実が隠されているはずである。筆者たちの即席の車旅行とはちがって、壬申紀の記述を実際の踏査によって検証するためための学術調査隊がすでに30年近く前に発足していた。1977年7月に発足した「壬申の乱を歩く会」である。

回のパネリストのうち、和田萃氏以外の3名はいずれもその会員だった。特に、基調講演者の玉城妙子氏は第1回から第6回までのすべての踏査に参加したとのことだった。車で駆けめぐっただけでは見えなかった真実を、いろいろ語ってくれるものと期待した。



基調講演「壬申に翔ぶ−壬申の乱踏査の章−」

玉城妙子氏
基調講演者の玉城妙子氏
芝市二上山博物館の平成年度特別展「大海人皇子、吉野を発つ」の図録は、「壬申の乱を歩く」と題する玉城妙子氏の寄稿を巻頭に掲載している。氏の基調講演は、その寄稿を基にした実際の踏査報告のような内容だったが、己の足で歩いた体験談だけあって、話には傾聴すべき内容が多かった。

えば、壬申紀は天智天皇10年(671)10月19日、吉野宮に入るために、大海人の一行は早朝に近江を発ち、その日の夕方、飛鳥にある島の宮に到着したとある。この吉野行きに同行したのは、鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかのみこ)、および朴井連雄君(えのいのむらじ・おきみ)をはじめとする40人余りの舎人(とねり=地方出身の近侍の護衛)たちと10人余りの侍女たちであるとされている。

「歩く会」でこの行程の踏査に参加したのは15名(うち女性2名)だった。大津から飛鳥まではおよそ80km。午前5時43分に大津を出発した踏査隊が実際に石舞台前に到着したのは日付が変わった翌日の午前0時34分、実に19時間を費やしてやっと到着できたという。大勢の人間で行軍する場合、先頭と最後尾ではずいぶんと長い隊列となり、途中で最後尾が追いついてくるのを待つ余分なロスタイムが随所に発生する。ましてや子供は女官たちを伴っての行軍である。大海人とともに近江を発ったすべての人間が「夕べ」に島の宮に揃って到着したとするには、少々無理があるとのことだった。

うした事実は、紙面や地図上で吉野行のルートを思い描くだけでは、決して発見できない。また、当時と現代では2点間を結ぶ道路のルートも道路状態も異なり、状況は現代よりさらに厳しかったであろう。それとも、現代人に比べて古代人ははるかに健脚だったのだろうか。

城妙子氏はその他にも、実際に踏査して気づいた壬申紀の矛盾をいくつか指摘された。中でもハイライトは、名張から刺萩野(たらの)に至るルートが、通説では大友皇子の母・伊賀采女宅子娘の出身地、つまり敵地である伊賀郡を通過することに疑問を抱き、現実的ないとしてこの通説を排し、私説として伊賀中山から比自岐(ひじき)、平田を通って御代(みだい)に至る道を提唱された。

者には、玉城氏の私説を云々するバックグラウンドを残念ながら持ち合わせていない。だが、歴史を検証するにはいろいろな仮説があってよいと思う。視点が変われば、導き出される結論も異なってくる。そのあたりが古代の史実を検証する楽しみであり、また苦しみでもある。



壬申の乱は計画的に仕組まれた軍事クーデター?

パネリストたち
シンポジウムのパネリストたち

調講演の後開かれた2時間に及ぶシンポジウムは、聞いていて非常に楽しい内容のものだった。まず、冒頭で和田教授は『壬申紀』の記述は、わかりにくい記述になっているとの発言があった。記述は大海人軍の行動、近江朝廷側の対応、倭古京防衛軍の行動からなっているとし、大海人軍の行動は主に従軍した舎人たちの記録に基づいているらしく、時系列的に書かれている。しかし、近江朝廷側の反応や倭古京防衛軍の行動は、大海人軍の行動の間に挟み込まれて、日を遡って、しかも何日のことか不明のまま記述されていて、まことにわかりにくい。その理由として、教授は『日本書紀』の編者が意図的にわかりにくくしているのでは、と指摘された。

の背景にあるものは、史実の隠蔽であろうと教授は言われる。『日本書紀』の記述は「近江朝廷側の数々の挑発があるから、大海人皇子はやむを得ず立ち上がった」と主張している。だが、その主張が事実だったとは考えにくい。むしろ、この日があることを大海人皇子側は早くから予測し、その準備を進めていた、つまり壬申の乱は計画的な軍事クーデターであったと位置づけられた。

の後は、壬申の乱が計画的なものだったか、偶発的なものだったかで、かなり意見が交わされた。4人のパネリストはいずれも計画説に組しておられるが、その度合いについてはかなり温度差があった。

田教授は、皇太弟という立場にいる大海人皇子を無視して、天智天皇が大友皇子を太政大臣に任じ次期天皇候補とした事実を重視される。その時点から、従来の兄弟相続の慣習を破った天智天皇に対して、大海人皇子はすでに叛意を抱いていており、十分に計画的なものだったと推測される。しかし、玉城氏は計画はあくまで大海人皇子の頭の中だけのことで、人に相談すればどんな緻密な計画も露見するおそれがあることを知っている皇子は、一人で計画を進めたとされた。

ネリストの共通の認識は、7世紀後半に起こった壬申の乱は、天智天皇亡き後の大友皇子と大海人皇子との間で、当時の朝鮮半島情勢を睨みつつ、皇位継承を賭けて争われた内乱である点では一致していた。最近の歴史学会の風潮として、我が国の古代史の事件を単に島国の中で起こった事件とは見ないで、もっと広く視野を広げて東アジアの中での事件として捕らえようとする傾向がある。それはそれで正しい。だが、すべてが東アジアの動向とリンクして捕らえようとするのは、いかがであろうか。

えば、壬申の乱は、朝鮮情勢を反映して百済と新羅の代理戦争だったとする説もある。だが、当時の情報入手の事情は現代ほど迅速ではない。半島情勢や中国大陸の事件など数ヶ月から数年遅れで届いたはずである。我が国の出来事がそうした東アジア情勢にリンクしていると見なすのは、すこしやりすぎの印象を受ける。当時は決して情報化社会ではなかったはずである。



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