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広報によれば、文筆家で東京立正女子短期大学非常勤講師の玉城妙子(たまきたえこ)氏の「壬申に翔ぶ」と題する基調講演の後、館長の石野博信氏の司会・進行でシンポジウムが開かれる。パネリストは、上記の玉城妙子氏の他に、滋賀県立大学教授・菅谷文則氏、京都教育大学教授・和田萃氏、奈良芸術短期大学教授・前園実知雄氏の4名である。 実は、今年の春、友人たちの協力を得て、壬申の乱の道程を車で踏査する2日間の小旅行を敢行した。そのレポートは筆者のホームページに古代最大の内乱「壬申の乱」を追うというタイトルで掲載してある。 壬申紀は、乱に勝利した大海人皇子の立場で書かれたものである。さまざまな虚実が隠されているはずである。筆者たちの即席の車旅行とはちがって、壬申紀の記述を実際の踏査によって検証するためための学術調査隊がすでに30年近く前に発足していた。1977年7月に発足した「壬申の乱を歩く会」である。 今回のパネリストのうち、和田萃氏以外の3名はいずれもその会員だった。特に、基調講演者の玉城妙子氏は第1回から第6回までのすべての踏査に参加したとのことだった。車で駆けめぐっただけでは見えなかった真実を、いろいろ語ってくれるものと期待した。 |
壬申の乱は計画的に仕組まれた軍事クーデター?
基調講演の後開かれた2時間に及ぶシンポジウムは、聞いていて非常に楽しい内容のものだった。まず、冒頭で和田教授は『壬申紀』の記述は、わかりにくい記述になっているとの発言があった。記述は大海人軍の行動、近江朝廷側の対応、倭古京防衛軍の行動からなっているとし、大海人軍の行動は主に従軍した舎人たちの記録に基づいているらしく、時系列的に書かれている。しかし、近江朝廷側の反応や倭古京防衛軍の行動は、大海人軍の行動の間に挟み込まれて、日を遡って、しかも何日のことか不明のまま記述されていて、まことにわかりにくい。その理由として、教授は『日本書紀』の編者が意図的にわかりにくくしているのでは、と指摘された。 その背景にあるものは、史実の隠蔽であろうと教授は言われる。『日本書紀』の記述は「近江朝廷側の数々の挑発があるから、大海人皇子はやむを得ず立ち上がった」と主張している。だが、その主張が事実だったとは考えにくい。むしろ、この日があることを大海人皇子側は早くから予測し、その準備を進めていた、つまり壬申の乱は計画的な軍事クーデターであったと位置づけられた。 その後は、壬申の乱が計画的なものだったか、偶発的なものだったかで、かなり意見が交わされた。4人のパネリストはいずれも計画説に組しておられるが、その度合いについてはかなり温度差があった。 和田教授は、皇太弟という立場にいる大海人皇子を無視して、天智天皇が大友皇子を太政大臣に任じ次期天皇候補とした事実を重視される。その時点から、従来の兄弟相続の慣習を破った天智天皇に対して、大海人皇子はすでに叛意を抱いていており、十分に計画的なものだったと推測される。しかし、玉城氏は計画はあくまで大海人皇子の頭の中だけのことで、人に相談すればどんな緻密な計画も露見するおそれがあることを知っている皇子は、一人で計画を進めたとされた。 パネリストの共通の認識は、7世紀後半に起こった壬申の乱は、天智天皇亡き後の大友皇子と大海人皇子との間で、当時の朝鮮半島情勢を睨みつつ、皇位継承を賭けて争われた内乱である点では一致していた。最近の歴史学会の風潮として、我が国の古代史の事件を単に島国の中で起こった事件とは見ないで、もっと広く視野を広げて東アジアの中での事件として捕らえようとする傾向がある。それはそれで正しい。だが、すべてが東アジアの動向とリンクして捕らえようとするのは、いかがであろうか。 例えば、壬申の乱は、朝鮮情勢を反映して百済と新羅の代理戦争だったとする説もある。だが、当時の情報入手の事情は現代ほど迅速ではない。半島情勢や中国大陸の事件など数ヶ月から数年遅れで届いたはずである。我が国の出来事がそうした東アジア情勢にリンクしていると見なすのは、すこしやりすぎの印象を受ける。当時は決して情報化社会ではなかったはずである。 |