一条天皇の発願により、関白九条兼家の子・兼俊が創建した正暦寺
一条天皇が発願し、関白九条兼家の子兼俊が正暦3年(992)に創建したと伝えられる正暦寺は、奈良市菩提山町157に所在する。かつては伽藍が並び建つ大寺だったようだが、今は本堂、鐘楼、福寿院を残すだけである。菩提山(ぼだいせん)川の渓流に沿う山道に、苔むした石垣が続いていて、豪壮な寺坊があったことを物語っている。
この付近は“錦の里”と呼ばれるほど、紅葉が美しいことでも知られている。 日曜日の行楽日とあって、今年最後の紅葉狩りに訪れた観光客で駐車場はどこも一杯だ。大型観光バスとのすれ違いは大変で、到着が予定の時間から大部遅れた。寺の境内に万葉歌碑が建っているらしいが、時間の都合で見学は省略された。渓流沿いの紅葉した楓並木の参道を抜けて鉢伏山(はちぶせやま)の山頂へ向かった。
富田女史が用意したレジメには、紅葉(もみじ)に関する面白い情報が載っていた。先ず、奈良時代まではモミチと清音で発音したそうだ。モミジと濁音になったのは平安時代からである。次に、万葉集で「黄葉」と表記されているのは70余例あるが、「紅葉」と書いてあるのは、たった次の一首だけだそうだ。 |
蜂伏山
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| ぬかるみが続く沢道の行軍 |
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| 鉢伏山頂上近くの茶畑からの展望 |
約1時間かけて足場の悪い山道をゆっくりと登ると、やがてぬかるみの沢道が地道に変わる。さらに坂道を上っていくと、突然遊歩道が車道にぶつかり、広々とした空間が広がった。
鉢伏山の斜面を利用した茶畑があたり一面に広がっていて、茶畑の中に立つと奈良盆地がよく見える。その展望の良さに、今までの疲れが一瞬にして吹っ飛んだ。遠方に見える山々など良く写らないのを承知で、何枚かシャッタを切った。
この付近は今の時期風が強いのだろう。茶の木を霜から守るため、畑のあちこちに設置されている扇風機が勢いよく回っていた。遊歩道を登ってきたため、ずいぶん山奥へ入ったと思ったが、奈良市の東の高原地帯は結構人家が多い。
志貴皇子の奥津城・田原西陵
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ムササビは、四肢の間の皮膜を広げて樹木の間を飛び、果実や木の芽、昆虫などを食う動物である。一回飛翔すると、木の頂きまで上って、次の飛翔をおこなう。猟師は空中を飛翔しているムササビを射落とすことは難しいが、木の根元から頂上を目指して動く間は標的にしやすい。この歌の意味は、木の末を求めて飛び回っている間に、猟師に見つかってしまったなァ、という意味だが、そこには何か寓意が隠されているとされている。第38代天智天皇の第7皇子であることをなるべく表にださないように、自重して暮らしている間は何もないが、天智の皇子であることが余り公になりすぎると、自分もムササビのように猟師に捕らえられてしまう・・・との自戒かもしれない。
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| 田原西陵の参道 |
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| 田原西陵の正面 |
奈良時代の律令制度では、都の中に墳墓の築造が禁じられ、平城京から遠く離れた田原の里辺り一帯に、貴族、官人らの墓が造られたようだ。光仁天皇の御陵も田原にあり、田原東陵と呼ばれている。『古事記』を筆録した太朝臣安万呂も、近くにある。
志貴皇子の出生年は分からない。彼の名が史書に登場するのは、天武天皇8年(679)5月6日の吉野の会盟が最初である。この日、吉野宮に行幸した天皇は、皇后および6人の皇子(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子)に千年の後までも継承の争いを起こさないことを誓わせた。草壁皇子を皇太子にするための巧妙な布石である。
このとき会盟に参加した6人の皇子の中に、2人だけ天智天皇の皇子がいた。河嶋皇子と志貴皇子である。その後の皇位は天武系の皇子によって引き継がれ、天智系の皇子は冷や飯を食わされた。そうした環境に対して2人の皇子はまったく対照的な生き方をした。河嶋皇子は、天武天皇の殯宮の儀がはじまった日、大津の謀反を密告することで持統天皇にすり寄った。
志貴皇子も常に天武天皇の皇子たちの下に置かれた。身を守るために政治的な活躍の場を求めず、目立たぬように一生を送ったようだ。しかし、歌や学問の世界において非凡な才能を見せる。持統天皇3年(689)年、志貴皇子は撰善言司に就任したが、この役職は軽皇子(のちの文武天皇)を始めとする皇族・貴族のための教養書の選定事業であったと推測されている。政治的な要職といったものではない。
天智系であるために、不遇な一生を送らされた志貴の皇子は、霊亀2年(716)年(万葉集は霊亀元年9月とする)にこの世を去った。その遺骸を埋葬した田原西陵の参道の入口の脇に、彼の代表作とも言える次の歌の碑(揮毫 犬養孝氏)が建っている。
●石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出ずる春に なりにけるかも (巻8-1418)
万葉集には、志貴皇子が詠んだ6首の歌を収録されていて、後世、万葉歌人として人々に愛されている。だが、彼にはもう一つの功績がある。我が子の白壁王(しらかべのおおきみ)が第49代光仁天皇として即位したことで、 皇統を天武系から天智系に戻すことができた。志貴皇子の流れを汲む天智系の皇統によって、皇位は今日まで受け継がれている。
『古事記』を筆録した太安万呂
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| 太安万呂の墓 |
この銘文から『古事記』の撰者として知られる太安万呂(おおのやすまろ)の墓誌であることがわかり、話題をさらったことがある。墓誌は火葬した骨を納めた木櫃の下の、木炭を敷いた上に裏向けに置かれていた。なお遺骨と一緒に4粒の真珠が見つかっている。この真珠は冥界に輝く珠であり、4は冥数とされている。
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| 上から見下ろした茶畑の中の参拝路 |
墓誌が発見された場所は、安万侶の墓として保存されている。山の斜面に開墾された茶畑の上に位置し、急な坂道を上って行かなければならない。墓跡が円形に小石で囲ってあり、その傍らに「史跡 太安萬侶墓」の碑が建っている。ここを訪れたとき、墓の横に植えられたサザンカの根本に散らした赤い花びらが絨毯のように鮮やかだった。
田原西陵から東に位置する光仁天皇の田原東陵
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| 田原東陵遠望 |
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| 人影が去った後の御陵 |
白壁王は皇位継承をめぐる政争に巻き込まれることを恐れて、孝謙天皇の時代以後は、「酒を縦(ほしいまま)にして迹を晦(くら)ま」していたという。父の志貴皇子を見習って、身を守るために政治的な活躍の場を求めず酒におぼれたフリをしていたのであろう。
即位の歳に井上内親王を皇后とし、翌年他戸親王を皇太子に立てた。しかし宝亀3年(772)、巫蠱の罪に連座した皇后を廃し、続けて皇太子も廃した。皇太子の地位には、翌年山部親王(のちの桓武天)が就いた。これには、山部親王を推す藤原百川の陰謀であったとされている。天応元年(781)4月、光仁天皇は病に伏したため皇太子に譲位し、同年12月23日、崩御した。翌年広岡山陵に葬られたが、延暦5年(786)、田原東陵に改葬された。
万葉集が現在の形に近いところまで編纂整備されたのは、光仁天皇の時代だったとする説が有力である。
五色椿と萩の花で名高い白毫寺
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| 両脇に萩の植え込みが続く参道 |
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| 白毫寺の本堂 |
志貴皇子が亡くなったのは、霊亀2年(716)(万葉集は霊亀元年9月とする)とされているから、奈良時代の初め頃に寺院が建立されたと思われる。しかし、その後は衰微し、鎌倉時代に 西大寺の叡尊によって再興された。特に、叡尊の弟子の道照が中国から「宋版一切経」の摺本を持ち帰ってからは、一切経寺とも呼ばれて庶民信仰の場として栄えた。 室町時代に入ると、兵火で堂宇はすべて焼失してしまった。現存する仏像は、その火から難をのがれたものである。
江戸時代の寛永年間に、興福寺の学僧空慶上人によ って再度復興され、現在は当時の建物として本堂と御影堂などが残っている。境内にある樹齢400年の五色椿は奈良三名椿の一つとして知られ、天然記念物に指定されている。春には一本の木が色々な花を咲かせる。秋は萩と紅葉が美しいお寺である。
境内からの眺望はすばらしい。奈良市街から二上山や葛城連峰まで一望できる。宝蔵には兵火を免れた仏像が陳列してある。ほとんどが重要文化財に指定されているが、室町時代の作と伝えられる観音菩薩座像と勢至菩薩座像は、膝をついて前屈みになった造形で、他ではあまり見かけられない。筆者が好きな仏像の一つである。
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| 犬養孝氏揮毫(きごう)の万葉歌碑 |