橿原日記 平成16年11月21日

志貴皇子の御魂しずまる高円・田原の里を歩く



講師の富田敏子女史
講師の富田敏子・万葉の大和路を歩く会代表
312回の万葉の大和路を歩く会は、「み魂しずまる高円・田原の里」と題する徒歩約10キロのハイキング。集合場所は近鉄奈良駅。講師は万葉の大和路を歩く会代表の富田敏子女史である。

回のルートは奈良市の東の高原をグルーッと回るように設定されている。そのキーワードは万葉歌人の志貴皇子(しきのみこ)だ。天智天皇の皇子として高貴な身分でありながら、天武天皇の皇子たちが我が世を謳歌する時代を不遇のまま生きなければならなかった皇子である。しかし、光仁天皇の父として皇統を天武系から天智系へ戻す橋渡し役的存在であり、人口を膾炙した次の歌の作者としても名高い。
 ●石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出ずる春に なりにけるかも (巻8-1418)

円(たかまど)山の西麓に建つ白毫寺(びゃくごうじ)は、志貴皇子の山荘跡を寺としたものと伝えられている。奈良盆地の東方約6km、標高390mほどの山間部にある田原(たわら)と呼ばれる地域には、志貴皇子の墓である田原西陵や、その子の光仁天皇の田原東陵がある。正暦寺(しょうりゃくじ)や奈良時代前期の太安萬侶(おおのやすまろ)の墓は、たまたまそのルート上にあるため立ち寄ってみるにすぎない。

今回のコース hspace=

【コース】 近鉄奈良駅→バスで菩提山川橋→正暦寺→蜂伏山→須山・ムササビ万葉歌碑→田原西陵・志貴皇子墓→太安万呂墓→田原東陵・光仁天皇陵→日笠バス停→尾上町バス停→白毫寺→ささやきの小道→春日野(解散)
徒歩役10km、少々健脚向き



一条天皇の発願により、関白九条兼家の子・兼俊が創建した正暦寺(しょうりゃくじ)

ああああ
“苔むした石垣と美しい紅葉のトンネル
加者を乗せて9時30分に近鉄奈良駅を出発した3台のバスは、奈良市街地を抜けると国道169号線を一路南下していった。「下山町」の交差点を右折すると、山村御殿の名で知られる円照寺方面へ向かうが、途中で道を分かれてどんどんと谷間の狭い山道を登っていく。谷川の上を吹き抜ける風があるらしい。梢を離れた枯れ葉が一枚、また一枚と谷底へと落ちて行く。

条天皇が発願し、関白九条兼家の子兼俊が正暦3年(992)に創建したと伝えられる正暦寺は、奈良市菩提山町157に所在する。かつては伽藍が並び建つ大寺だったようだが、今は本堂、鐘楼、福寿院を残すだけである。菩提山(ぼだいせん)川の渓流に沿う山道に、苔むした石垣が続いていて、豪壮な寺坊があったことを物語っている。
ああああ
紅葉が美しい正暦寺の参道

の付近は“錦の里”と呼ばれるほど、紅葉が美しいことでも知られている。 日曜日の行楽日とあって、今年最後の紅葉狩りに訪れた観光客で駐車場はどこも一杯だ。大型観光バスとのすれ違いは大変で、到着が予定の時間から大部遅れた。寺の境内に万葉歌碑が建っているらしいが、時間の都合で見学は省略された。渓流沿いの紅葉した楓並木の参道を抜けて鉢伏山(はちぶせやま)の山頂へ向かった。

田女史が用意したレジメには、紅葉(もみじ)に関する面白い情報が載っていた。先ず、奈良時代まではモミチと清音で発音したそうだ。モミジと濁音になったのは平安時代からである。次に、万葉集で「黄葉」と表記されているのは70余例あるが、「紅葉」と書いてあるのは、たった次の一首だけだそうだ。
 ●妹許(いもがり)と 馬に鞍置きて 生駒山 うち超え来れば 紅葉(もみちば)散りつ (巻10-2201)



蜂伏山(はちぶせやま)から奈良盆地を展望

沢道の行軍
ぬかるみが続く沢道の行軍
茶畑からの展望
鉢伏山頂上近くの茶畑からの展望
暦寺の裏手からは、菩提山川の源流の谷に沿って沢道が鉢伏山の山頂に向かって続いている。この付近は数日前に雨が降ったが、昨日と一昨日は晴天だった。それでも樹木の保水力がよいのか、山のあちこちからしみ出した雨水が谷川に流れ落ちる前に、ハイカーたちに踏み固められた遊歩道に集まってきて、ぬかるみを作っている。おまけに、この付近の山は岩山なので、遊歩道は苔むした瓦礫の山だ。

1時間かけて足場の悪い山道をゆっくりと登ると、やがてぬかるみの沢道が地道に変わる。さらに坂道を上っていくと、突然遊歩道が車道にぶつかり、広々とした空間が広がった。

伏山の斜面を利用した茶畑があたり一面に広がっていて、茶畑の中に立つと奈良盆地がよく見える。その展望の良さに、今までの疲れが一瞬にして吹っ飛んだ。遠方に見える山々など良く写らないのを承知で、何枚かシャッタを切った。

の付近は今の時期風が強いのだろう。茶の木を霜から守るため、畑のあちこちに設置されている扇風機が勢いよく回っていた。遊歩道を登ってきたため、ずいぶん山奥へ入ったと思ったが、奈良市の東の高原地帯は結構人家が多い。



志貴皇子の奥津城・田原西陵(たわらにしりょう)(=春日宮天皇陵)

伏山峠を越えると、後はゆったりとした下り道である。参加者たちはが雑談をかわしながら、舗装された県道80号線の端を長い隊列を作って歩いていく。上空の空は晴れ渡り、高原を吹き抜ける風にやはり冷たさを感じる。ススキの穂や笹の葉が風に吹かれて、一斉に同じ方向になびき、時折空中から枯葉が落ちてくる。晩秋というべきか、あるいは初冬というべきか、高原のハイキングは実に気持ちがよい。

歌碑
伏山の先にある須山の山頂に、奈良県のヘリポートがあるらしい。突然、山陰から一台のヘリコプターが姿を現すと、轟音とともにヘリポートの方へ飛んでいった。ヘリポートの近くに犬養孝氏揮毫(きごう)の万葉歌碑が建っていて、志貴皇子の次の歌が刻まれている。
 ●むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山の猟夫(さつを)に あいにけるかも (巻2-267)

ササビは、四肢の間の皮膜を広げて樹木の間を飛び、果実や木の芽、昆虫などを食う動物である。一回飛翔すると、木の頂きまで上って、次の飛翔をおこなう。猟師は空中を飛翔しているムササビを射落とすことは難しいが、木の根元から頂上を目指して動く間は標的にしやすい。この歌の意味は、木の末を求めて飛び回っている間に、猟師に見つかってしまったなァ、という意味だが、そこには何か寓意が隠されているとされている。第38代天智天皇の第7皇子であることをなるべく表にださないように、自重して暮らしている間は何もないが、天智の皇子であることが余り公になりすぎると、自分もムササビのように猟師に捕らえられてしまう・・・との自戒かもしれない。

ああああ
田原西陵の参道
ああああ
田原西陵の正面
道80号線を県ヘリポートの先へ少し下った丘の上に、「県茶業振興センター」があり、さらにその先を下ったところに、志貴皇子が眠る墓がある。車道からは細い参道が北に向かって延びていて、その奥に石垣に囲まれた御陵がある。正式には「春日宮天皇陵」という。その理由は、子の白壁王が第49代光仁天皇(在位770 - 781)として即位し、即位後に父の志貴皇子に春日宮天皇の尊号を追贈したためである。一般には、「田原西陵」と呼びならわされている。

良時代の律令制度では、都の中に墳墓の築造が禁じられ、平城京から遠く離れた田原の里辺り一帯に、貴族、官人らの墓が造られたようだ。光仁天皇の御陵も田原にあり、田原東陵と呼ばれている。『古事記』を筆録した太朝臣安万呂も、近くにある。

貴皇子の出生年は分からない。彼の名が史書に登場するのは、天武天皇8年(679)5月6日の吉野の会盟が最初である。この日、吉野宮に行幸した天皇は、皇后および6人の皇子(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子)に千年の後までも継承の争いを起こさないことを誓わせた。草壁皇子を皇太子にするための巧妙な布石である。

のとき会盟に参加した6人の皇子の中に、2人だけ天智天皇の皇子がいた。河嶋皇子と志貴皇子である。その後の皇位は天武系の皇子によって引き継がれ、天智系の皇子は冷や飯を食わされた。そうした環境に対して2人の皇子はまったく対照的な生き方をした。河嶋皇子は、天武天皇の殯宮の儀がはじまった日、大津の謀反を密告することで持統天皇にすり寄った。

貴皇子も常に天武天皇の皇子たちの下に置かれた。身を守るために政治的な活躍の場を求めず、目立たぬように一生を送ったようだ。しかし、歌や学問の世界において非凡な才能を見せる。持統天皇3年(689)年、志貴皇子は撰善言司に就任したが、この役職は軽皇子(のちの文武天皇)を始めとする皇族・貴族のための教養書の選定事業であったと推測されている。政治的な要職といったものではない。

智系であるために、不遇な一生を送らされた志貴の皇子は、霊亀2年(716)年(万葉集は霊亀元年9月とする)にこの世を去った。その遺骸を埋葬した田原西陵の参道の入口の脇に、彼の代表作とも言える次の歌の碑(揮毫 犬養孝氏)が建っている。
 ●石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出ずる春に なりにけるかも (巻8-1418)

葉集には、志貴皇子が詠んだ6首の歌を収録されていて、後世、万葉歌人として人々に愛されている。だが、彼にはもう一つの功績がある。我が子の白壁王(しらかべのおおきみ)が第49代光仁天皇として即位したことで、 皇統を天武系から天智系に戻すことができた。志貴皇子の流れを汲む天智系の皇統によって、皇位は今日まで受け継がれている。



『古事記』を筆録した太安万呂(おおのやすまろ)の墓

太安万呂の墓
太安万呂の墓
和54年(1979)のことである。奈良市此瀬町で、丘陵の斜面に作られた茶畑を拡張しようとして、偶然に一枚の銅板が見つかった。銅板には次のように刻まれていた。
「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶、癸亥の年七月六日を以て卒(しゆつ)す。養老七年十二月十五日乙巳」

の銘文から『古事記』の撰者として知られる太安万呂(おおのやすまろ)の墓誌であることがわかり、話題をさらったことがある。墓誌は火葬した骨を納めた木櫃の下の、木炭を敷いた上に裏向けに置かれていた。なお遺骨と一緒に4粒の真珠が見つかっている。この真珠は冥界に輝く珠であり、4は冥数とされている。

参拝路
上から見下ろした茶畑の中の参拝路
安万侶は、壬申の乱で大海人皇子軍の武将として活躍した多臣品治(おおのおみほんじ)の子供とされている。安万侶の代から太氏を称するが、奈良時代末には再び多氏に表記を戻している。安万侶は和銅4年(711)9月、元明天皇の命を受けて『古事記』の撰進を行い、翌5年正月に完成し奏上したことで知られている。墓誌に「勲五等」とある以上、文官としてだけではなく武官としても功績を挙げたと推測されれている。養老7年7月6日に死亡し、同年12月13日この地に埋葬された。亡くなったときは民部卿だったという。

誌が発見された場所は、安万侶の墓として保存されている。山の斜面に開墾された茶畑の上に位置し、急な坂道を上って行かなければならない。墓跡が円形に小石で囲ってあり、その傍らに「史跡 太安萬侶墓」の碑が建っている。ここを訪れたとき、墓の横に植えられたサザンカの根本に散らした赤い花びらが絨毯のように鮮やかだった。



田原西陵から東に位置する光仁天皇の田原東陵(たわらひがしりょう) 

田原東陵遠望
田原東陵遠望
御陵
人影が去った後の御陵
に光仁天皇となる白壁王(しらかべのおおきみ)は、和銅2年(709)に志貴皇子の第6子として誕生した。天智天皇の孫にあたる。神護景雲4年(770)年、女帝・称徳天皇が亡くなると、白壁王は左大臣の藤原永手らの支持を受けて、11月に光仁天皇として即位した。すでに62歳だった。

壁王は皇位継承をめぐる政争に巻き込まれることを恐れて、孝謙天皇の時代以後は、「酒を縦(ほしいまま)にして迹を晦(くら)ま」していたという。父の志貴皇子を見習って、身を守るために政治的な活躍の場を求めず酒におぼれたフリをしていたのであろう。

位の歳に井上内親王を皇后とし、翌年他戸親王を皇太子に立てた。しかし宝亀3年(772)、巫蠱の罪に連座した皇后を廃し、続けて皇太子も廃した。皇太子の地位には、翌年山部親王(のちの桓武天)が就いた。これには、山部親王を推す藤原百川の陰謀であったとされている。天応元年(781)4月、光仁天皇は病に伏したため皇太子に譲位し、同年12月23日、崩御した。翌年広岡山陵に葬られたが、延暦5年(786)、田原東陵に改葬された。

葉集が現在の形に近いところまで編纂整備されたのは、光仁天皇の時代だったとする説が有力である。



五色椿と萩の花で名高い白毫寺(びゃくごうじ)

参道
両脇に萩の植え込みが続く参道
ああああ
白毫寺の本堂
良市白毫寺町392には、四季を彩る花の中でも春の五色椿と秋の萩で有名な真言律宗白毫寺がある。奈良交通のバス停「白毫寺」からは、歩いて数分のところに位置している。高円(たかまど)山の西の麓に建つこの寺の草創は、天智天皇と越道君伊羅都売(こしのきみのいらつめ)との間に生まれた志貴皇子(施基皇子とも書く)の山荘跡を寺にしたと伝えられている。

貴皇子が亡くなったのは、霊亀2年(716)(万葉集は霊亀元年9月とする)とされているから、奈良時代の初め頃に寺院が建立されたと思われる。しかし、その後は衰微し、鎌倉時代に 西大寺の叡尊によって再興された。特に、叡尊の弟子の道照が中国から「宋版一切経」の摺本を持ち帰ってからは、一切経寺とも呼ばれて庶民信仰の場として栄えた。 室町時代に入ると、兵火で堂宇はすべて焼失してしまった。現存する仏像は、その火から難をのがれたものである。

戸時代の寛永年間に、興福寺の学僧空慶上人によ って再度復興され、現在は当時の建物として本堂と御影堂などが残っている。境内にある樹齢400年の五色椿は奈良三名椿の一つとして知られ、天然記念物に指定されている。春には一本の木が色々な花を咲かせる。秋は萩と紅葉が美しいお寺である。

内からの眺望はすばらしい。奈良市街から二上山や葛城連峰まで一望できる。宝蔵には兵火を免れた仏像が陳列してある。ほとんどが重要文化財に指定されているが、室町時代の作と伝えられる観音菩薩座像と勢至菩薩座像は、膝をついて前屈みになった造形で、他ではあまり見かけられない。筆者が好きな仏像の一つである。

万葉歌碑
犬養孝氏揮毫(きごう)の万葉歌碑
内の一画に犬養孝氏揮毫(きごう)の万葉歌碑が建っている。昭和55年(1980)9月14日に序幕された御影石の碑には、笠金村作の次の挽歌が万葉仮名で刻まれている。
 ●高円の 野辺の秋萩 いたずらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(巻2-231)



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