展示品の圧巻は「馬埋納土坑
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| 本邦初公開の馬埋納土坑 |
馬骨は永久保存のために土ごと取り上げられ保存処理を施して、移動式の陳列ケースに収められた。その陳列ケースが今回の展示で初めて一般に公開された。馬の体高は約125cmで意外と小さい。宮崎県などに生息する御崎馬のたぐいとのことだ。
馬蔀屋北遺跡からは、1500以上にのぼる多量の製塩土器も出土している。馬は人間の10倍近い塩を摂取すると言われ、馬の飼育には多量の塩が必要である。さらに、この遺跡の井戸から船の廃材を井戸枠としてリサイクルされていた。その廃材は、埴輪の船と同じような構造を持った、外洋を航行できる準構造船の部材だった。
その他にも、5世紀後半の須恵器や土師器と共に、朝鮮半島との深い関わりを示す陶質土器や、移動式の竈(かまど)、U字形土製品も次々と見つかっており、蔀屋北遺跡は馬飼いの人々が住んでいた集落跡であることが濃厚になった。
1500年前の生駒山の山麓は幾筋もの川が河内湖に流れ込む湖岸で、馬の放牧に適した地形だったようだ。蔀屋北遺跡に住んでいた人々は、朝鮮半島から船に乗り、馬を連れてやってきた渡来人たちであろう。彼らも乗馬や馬飼いの技術を我が国に伝えた「今来才伎」であり、河内に住んでいた人々と共に牧場を経営していたと推測されている。
なお、付近の奈良井遺跡では、馬の頭を切り落として神に捧げる祭りが行われた祭場跡が見つかっている。また近くの古墳群からは周溝に埋葬された馬も見つかっていて、生駒山麓が河内の馬飼に関係した土地だったことが次第に明らかになってきている。
軍事的要請から倭国に受容された馬匹文化
しかし、現在では、騎馬民族征服説を持ち出すまでもなく、4〜5世紀の東アジアの激動する情勢から、我が国が騎馬戦術を受容せざるを得なかったとする見方が圧倒的である。この時期、中国の漢人の国家は北方民族の侵入によって南に押しやられ、南北朝時代を迎えた。その余波を受けて、朝鮮半島では北の強国・高句麗が南下政策を取り、南の百済や、新羅、加耶諸国に大きな影響を及ぼす。 この危機に対して、新羅はいち早く高句麗に下る道を選んだが、百済は加耶諸国と共に倭国を味方に引き入れて高句麗と戦う政策を取った。その結果、倭国は半島に出兵し高句麗と戦うことになる。だが、高句麗の騎馬軍団と戦うためには、騎馬文化の受容は不可欠だった。こうして倭国は百済や加耶諸国の援助を受けて急速に騎馬文化を取り入れた、とされている。 近つ飛鳥博物館長・白石太一郎氏は、今回の展示図録の巻頭を飾る論文の中で今来才伎に関して鋭い指摘をされておられる。我が国は上記のような軍事的要請から騎馬文化を受容したが、その一環として伝えられた馬具製作技術は、鉄器加工技術、金銅技術、木工技術、皮革加工技術、織物技術などを含む、きわめて総合的な技術であった、とされている。まさにその通りで、こうした技術は今来才伎によって急速に我が国に根付いていった。 |
当時の馬飼い集団は先進的な諜報機関だった?
そのときの森氏の話が面白い。馬飼を馬の手綱を引っ張っているような人物を連想しては駄目で、今でいうとトヨタ自動車の社長ぐらいを連想して欲しいとのことだった。荒龍はおそらく今の東大阪市から四条畷市あたりに根拠地をもった大豪族で、新しい産業を開拓した渡来人と思われる。その後も継体王朝を支える重要な政治的なブレーンとして活躍している。 馬飼氏族については、元関西外国語大学教授の金谷信之氏が面白い説を出しておられる(産経新聞04/02/21)。荒龍は全国に張り巡らされた情報ネットワークを牛耳る親玉であるというのだ。古代の豪族たちが乗馬のために馬を手に入れたとしても、自ら飼育することはない。必ず馬と一緒に馬を世話する従僕や馬曳きも抱き合わせで荒龍から手に入れた。その場合、荒龍は一族の若者を指名して馬と共に豪族の館に送り込んだはずである。 若者は馬の世話や馬曳きをしながら、自然とその豪族のさまざまな情報を耳にする。あらかじめ、そうした情報を荒龍の元に定期的に送るよう指示しておけば、荒龍は居ながらにして、すべての豪族の動静を知ることができる。男大迹王が即位に先立って荒龍に相談したということは、荒龍が握っている大和の豪族の情報によって、登極に賛成する者・反対する者の動向を探りたかったに違いない。 |