橿原日記 平成16年11月14日

今来才伎(いまきのてひと)をテーマにした特別展示


近つ飛鳥博物館の開館10周年記念特別展示は「今来才伎(いまきのてひと)

仁徳陵古墳の模型
仁徳陵古墳の1/150の模型
築家・安藤忠雄氏設計の大阪府立近つ飛鳥博物館は、好きな博物館の一つだ。常設展示室の中央に設置された直径10mの仁徳陵古墳の模型が良い。150分の1の縮尺だそうだが、周囲の回廊部分から俯瞰しても、大きいと実感できる。

の博物館が開館10周年を迎え、記念特別展示として「今来才伎(いまきのてひと)−古墳・飛鳥の渡来人」が現在開催されている。今来才伎とは、『日本書紀』の雄略天皇7年の記事にみられるように「新たに百済から献上された手工業技術者たち」という意味だそうだ。彼らは単なる渡来人ではなく、高度の学芸的な知識や技術をもって当時の政権に仕え、5世紀から7世紀にかけておおいに活躍した。

『日本書紀』や『古事記』が編纂された8世紀の初め頃は、5世紀後半の雄略天皇の時代を、我が国の古代史で一つのエポックをなした時代と認識していたようだ。事実、それ以前の豪族連合政権が、雄略朝には、大王を中心とした専制君主政権に変わっている。渡来人に対する見方もそうであり、雄略朝より前に渡来した人々は、「今来」に対して古渡(ふるわたり)と呼ばれた。

渡来人
渡来人
渡の渡来氏族としては、応神朝に弓月君にひきつられて朝鮮から渡来したとされる秦(はた)氏や、阿知使主(あちのおみ)とその子・都加使主(つかのおみ)に率いられて渡来したとされる東漢(やまとのあや)氏、あるいは王仁(わに)を始祖とする西文(かわちのふみ)氏などがある。一方、今来才伎としては、『日本書紀』は雄略7年に陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、晝部(えかき)、錦部(にしごり)、訳語部(をさ)などの職掌を冠した新漢(いまきのあや)の人名を列挙している。彼らは須恵器作り、馬具作り、画工、錦織り、通訳を専門とする技術集団の長だったと思われる。

回の特別展示は、渡来人をめぐる5つのキーワードにまとめられていた。(A)渡来人のイメージ、(B)渡来した新技術と風習、(C)渡来人と古墳、(D)渡来人の寺院、そして(E)文字である。

の中で渡来人のイメージを具体的に示すものとして、特別展示室の入り口に、6世紀末葉に築造された千葉県山倉1号墳と埼玉県酒巻14号墳から出土した人物埴輪が展示されていた。尖った天冠をかぶり、イヤリングと大玉のネックレスをつけ、筒袖で合わせ目を蝶々結びした服を着て、尖った履をはく姿は、当時の一般的な渡来人の服装だったのだろうか。



展示品の圧巻は「馬埋納土坑(うままいのうどこう)

馬埋納土坑
本邦初公開の馬埋納土坑
回の特別展示の最大の目玉は、なんと言っても展示室の中央に置かれた「馬埋納土坑」である。大阪府四条畷市に、平成11年度に新たに発見された蔀屋北(しとみやきた)遺跡という遺跡がある。その遺跡の5世紀後葉の土坑の中から、馬の遺骨が横倒しになった完全な状態で発見された。平成14年夏のことである。

骨は永久保存のために土ごと取り上げられ保存処理を施して、移動式の陳列ケースに収められた。その陳列ケースが今回の展示で初めて一般に公開された。馬の体高は約125cmで意外と小さい。宮崎県などに生息する御崎馬のたぐいとのことだ。

蔀屋北遺跡からは、1500以上にのぼる多量の製塩土器も出土している。馬は人間の10倍近い塩を摂取すると言われ、馬の飼育には多量の塩が必要である。さらに、この遺跡の井戸から船の廃材を井戸枠としてリサイクルされていた。その廃材は、埴輪の船と同じような構造を持った、外洋を航行できる準構造船の部材だった。

の他にも、5世紀後半の須恵器や土師器と共に、朝鮮半島との深い関わりを示す陶質土器や、移動式の竈(かまど)、U字形土製品も次々と見つかっており、蔀屋北遺跡は馬飼いの人々が住んでいた集落跡であることが濃厚になった。

500年前の生駒山の山麓は幾筋もの川が河内湖に流れ込む湖岸で、馬の放牧に適した地形だったようだ。蔀屋北遺跡に住んでいた人々は、朝鮮半島から船に乗り、馬を連れてやってきた渡来人たちであろう。彼らも乗馬や馬飼いの技術を我が国に伝えた「今来才伎」であり、河内に住んでいた人々と共に牧場を経営していたと推測されている。

お、付近の奈良井遺跡では、馬の頭を切り落として神に捧げる祭りが行われた祭場跡が見つかっている。また近くの古墳群からは周溝に埋葬された馬も見つかっていて、生駒山麓が河内の馬飼に関係した土地だったことが次第に明らかになってきている。



軍事的要請から倭国に受容された馬匹文化

騎馬のイメージ
当時の騎馬のイメージ
が国の古墳文化は、前期と中期・後期できわめて大きな相違がある。前期(4世紀)の古墳を発掘しても馬具などはまったく見あたらないが、中期(5世紀)以降になると、副葬品に馬具が加わり、武器や武具も大きく様変わりするという。第二次世界大戦直後の1949年、こうした古墳時代中頃の急激な変化の理由を説明し、合わせて日本列島における国家形成の要因を説く雄大な仮説が登場した。江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説である。

かし、現在では、騎馬民族征服説を持ち出すまでもなく、4〜5世紀の東アジアの激動する情勢から、我が国が騎馬戦術を受容せざるを得なかったとする見方が圧倒的である。この時期、中国の漢人の国家は北方民族の侵入によって南に押しやられ、南北朝時代を迎えた。その余波を受けて、朝鮮半島では北の強国・高句麗が南下政策を取り、南の百済や、新羅、加耶諸国に大きな影響を及ぼす。

の危機に対して、新羅はいち早く高句麗に下る道を選んだが、百済は加耶諸国と共に倭国を味方に引き入れて高句麗と戦う政策を取った。その結果、倭国は半島に出兵し高句麗と戦うことになる。だが、高句麗の騎馬軍団と戦うためには、騎馬文化の受容は不可欠だった。こうして倭国は百済や加耶諸国の援助を受けて急速に騎馬文化を取り入れた、とされている。

つ飛鳥博物館長・白石太一郎氏は、今回の展示図録の巻頭を飾る論文の中で今来才伎に関して鋭い指摘をされておられる。我が国は上記のような軍事的要請から騎馬文化を受容したが、その一環として伝えられた馬具製作技術は、鉄器加工技術、金銅技術、木工技術、皮革加工技術、織物技術などを含む、きわめて総合的な技術であった、とされている。まさにその通りで、こうした技術は今来才伎によって急速に我が国に根付いていった。



当時の馬飼い集団は先進的な諜報機関だった?

騎馬のイメージ
騎馬人物と馬曳き埴輪
示会場には、石川県矢田野エジリ古墳から出土した「騎馬人物と馬曳き埴輪」(重文)も展示してあった。その埴輪を見ているうちに、1999年11月に春日井市で開催された「継体シンポジウム」で、森浩一氏が行なった基調講演の内容を思い出した。男大迹(おほど)王(後の継体天皇)が倭国全体の大王になれという話が出たとき、越前にいた彼は、河内馬飼首荒龍(かわちのうまかいのおびと・あらこ)という人物に相談しているというのだ。

のときの森氏の話が面白い。馬飼を馬の手綱を引っ張っているような人物を連想しては駄目で、今でいうとトヨタ自動車の社長ぐらいを連想して欲しいとのことだった。荒龍はおそらく今の東大阪市から四条畷市あたりに根拠地をもった大豪族で、新しい産業を開拓した渡来人と思われる。その後も継体王朝を支える重要な政治的なブレーンとして活躍している。

馬飼氏族については、元関西外国語大学教授の金谷信之氏が面白い説を出しておられる(産経新聞04/02/21)。荒龍は全国に張り巡らされた情報ネットワークを牛耳る親玉であるというのだ。古代の豪族たちが乗馬のために馬を手に入れたとしても、自ら飼育することはない。必ず馬と一緒に馬を世話する従僕や馬曳きも抱き合わせで荒龍から手に入れた。その場合、荒龍は一族の若者を指名して馬と共に豪族の館に送り込んだはずである。

者は馬の世話や馬曳きをしながら、自然とその豪族のさまざまな情報を耳にする。あらかじめ、そうした情報を荒龍の元に定期的に送るよう指示しておけば、荒龍は居ながらにして、すべての豪族の動静を知ることができる。男大迹王が即位に先立って荒龍に相談したということは、荒龍が握っている大和の豪族の情報によって、登極に賛成する者・反対する者の動向を探りたかったに違いない。


写真の出典:大阪府近つ飛鳥博物館図録36
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