橿原日記 平成16年11月5日

国際シンポジウム「東アジアの梵鐘」を聴講する


会場での講演風景
会場での講演風景
日、奈良文化財研究所の飛鳥資料館が主催する国際シンポジウム「東アジアの梵鐘」が地元の橿原ロイヤルホテルで開催された。

際シンポジウムと銘打っているだけあって、基調講演は中国の大鐘寺古鐘博物館の全錦雲女史、韓国の国立春川博物館の崔応天氏、そして日本の飛鳥資料館の杉山洋氏が行った。その他に、妙見山麓遺跡調査会の神崎勝氏が「鋳造技術とその変遷」について、また枚方市文化財研究調査会の吉田晶子氏が「梵鐘鋳造の民族技術」について、それぞれ個人研究を発表された。

スライド画面
スライド画面
鐘の「梵」という字は、中国語ではインド仏教のことを意味する。したがって、厳密な意味では、梵鐘とはインドから伝わってきた仏教のための鐘、すなわち仏鐘を指す。だが、中国の古代では、梵鐘と呼ばれていたものは口縁部が円形をしている正円体の鐘の一般的な呼称で、仏教の枠を大幅に超えていたという。

にはともあれ、中国、韓国、日本の3講師のスライドを駆使した基調講演は、各国の梵鐘の違いを知る上で非常に参考になった。備忘録としてポイントとなる内容を以下に示しておく。



「中国古代の梵鐘文化」 − (中国)大鐘寺古鐘博物館 全錦雲

中国の梵鐘の起源


最古の梵鐘
陳太建七年銘鐘

●漢代以降、それまでの青銅文化が衰えていったのに伴い、礼楽の中核的な媒体だった箱瓦形の青銅製編鐘に代わって、口縁部が円形の正円体鐘が現れた。これを人々は「梵鐘」と呼び習わしていた。

●一般に、仏教は漢代に中国に伝わったとされ、最も古い梵鐘も漢代に登場したと推測されている。文献上は、建武20年(西暦44年)に石鐘を作ったことが『燕京訪古録』に記述されている。

●魏晋南北朝以降、仏教が普及するにつれ、梵鐘は寺院と切っても切れないものとなり、「寺があれば必ず鐘があり、鐘がなければ寺ではない」とさえ言われ、梵鐘と寺院がまったく同列に扱われるようになった。

●現存する最も古い梵鐘は、南朝の陳の太建7年(西暦575)の鐘であり、実物は奈良国立博物館に収蔵されている。

梵鐘の地方的特色


国の古鐘の造形上の特徴は、長江を境として南北2つの大きな体系に分けることができる。

●南方の梵鐘の際だった特徴は、
@鐘身が比較的直線的で直筒状を呈している
A口縁部が平たく、後期になると口縁部が外反している
B鋳造方法が比較的シンプルで、造形も装飾もシンプルである
C鐘体で最も重要な部位である竜頭の造形は本来、蒲牢(ほろう)すなわち竜でなければならなにのに、せいぜい麒麟とみなすことができる程度である
ことなどが上げられる。

●北方の梵鐘は、
@上部が小さくて下部が大きい兜状を呈している
A口縁部がハスの花弁状の波形になっており、一般に6〜8個の耳がある
B早期にはさまざまな図案(四神など)で鐘体を修飾し、後期になると銘文で修飾していることが多い
などの特徴を有する。

●遼以来の中国後半期の5王朝の古都である北京で作られた梵鐘は、同じ北方でも次のような明確な違いがある。
@合金の成分が普通のものとは異なっており、いずれも銅質で、しかも平らで光沢がある
A銅身は高さが幅より大きく直方体をしている
B頂部が比較的狭く、腰部が内側にすぼんでから外へ広がってラッパ状を呈している
C図案が天子を象徴する竜が中心になっている
D一種の装飾として、かなり長文の仏教経典の銘文や幸運を願う願文、寄進者の姓名などがある。

古鐘の用途


以来の正円体鐘が梵鐘と呼ばれてきたのは、それが広く仏鐘として使われてきたのが主な原因であるが、同様に道鐘、朝鐘、時報鐘としても使われてきた。

●仏鐘は、もっぱら寺院や仏教徒の使用に供せられた。僧侶を招集したり読経や勉学の時間を知らせたり、起床や就床、食事の招集の際にも必ず鐘が撞(つ)かれた。
仏鐘は、例えば銘文で述べられている内容に基づいて、さらに細かく分類することができる(寺院の建築や鐘の鋳造の経過を書き記した記事鐘、神仏の名号や仏典・呪文を刻んだ供奉鐘、特定の願い事のために仏祖の加護を祈る祈福鐘、寄進者の姓名と寄進した金額を記した功徳鐘、など)。

●道鐘は、道教の寺院である道観で用いられた。

●朝鐘は、宮廷で用いられた。もっぱら皇帝や百官の出勤や外出のために備えられた儀礼用の重要な器具である。

●時報鐘は、寝ずの番をしながら時を知らせる鐘である。


を撞く回数は108回と決められている。108という数字には神秘的なニュアンスが含まれており、「吉祥」「崇高」「人生の悩みをすべて払いのける」という意味を表している。先秦以来、中国文化は「9」を至高至尊の数としてきた。「9」の12倍は「108」なので「9」に含まれている意味を極限まで推し進めていくと「108」になる。一方、仏教は、人には108の煩悩があり、鐘を108回撞けば悩みをのぞき去ることができると考えてきた。



「韓国の梵鐘の特性と変遷」 − (韓国)国立春川博物館 崔応天

韓国梵鐘の起源


●韓国の梵鐘は舎利荘厳具と同様に三国時代の仏教伝来以降に用いられたと考えられる。文献上では、天寿6年(565)に梵鐘を吊した記事が『三国遺事』に見えるが、現存するものは統一新羅8世紀以降のもののみである。

●韓国の梵鐘に装飾された4つの方形廊と、その中に9つずつ36個が配された鐘乳、さらに撞座のような独特の意匠面から推して、その起源は「甬鐘」と呼ばれる中国の古銅器から変化・発展したものと推測されている。

●すなわち、この古代の甬鐘が中国に仏教が流入したのち新しく寺で使われた仏教梵音器として活用され、これが韓国の梵鐘にまで受け継がれた。


韓国梵鐘の様式的特徴


存する統一新羅以降の韓国の梵鐘は、中国や日本と異なる独特な形態と意匠が保たれていて、次のような様式的特徴がある。

龍の爪
天板を力強く押す龍の爪
音筒
龍鈕の首の後ろにある音筒
●鐘身の外形は、瓶をひっくり返してかぶせたように、上が狭く、鐘腹が膨らみ、また鐘口側に行くほどだんだん窄(せま)くなる。

●鐘を吊す龍鈕(りゅうちゅう)部分の龍の両足が各々前後に広がって、足の爪で鐘の上部にある天板を力強く押している。このため、鐘を吊すための輪の部分を強化するとともに装飾的な効果を与えている。

●龍鈕の首の後ろの部分には、韓国の鐘にだけ見られる丸い筒の音筒(音管、甬筒ともいう)が突き出している。音筒は大部分内部が空いていて、下部側が鐘身内部と貫通していて、笛のような小さな穴があいているため、鐘の共鳴と関連する音響調節装置と見られてきた。しかし,実験の結果、特別な相関関係はないことが判明している。

●鐘の胴体上部と下部に同じ大きさの文様帯が巻かれていて(上帯、下帯)、唐草文、宝相華文、蓮花文などで装飾されている。

●上帯のすぐ下にくっつけて、4方向に梯子状の廊を作り、その中に9個ずつ合わせて36個の突出した鐘乳が装飾されている。その形状が蓮の花が咲く直前のつぼみのようである。

●下帯の上には、円形の撞座が前後の2カ所に配置してある。撞座の位置は鐘身の1/3程度のところで最も膨らんだ場所である。撞座と撞座の間の余白部分には、楽器を演奏する天人像や飛天像、または供養者像で装飾されている。

韓国梵鐘の様式的変遷


2体の奏楽像
2体の奏楽像
●統一新羅の梵鐘は、上記のような特徴を備えているが、時代とともに細部の文様や奏楽飛天などに変化が生じている。最も特徴的なのは奏楽飛天の変化である。統一新羅前期(8世紀初め〜9世紀初め)には奏楽像は2体1組が鐘身の前後に配置されていたが、後期(9世紀前半〜10世紀前半)になると、2体1組の奏楽像が単独の独立した奏楽像になる。

●高麗時代の梵鐘は、当初は統一新羅時代の梵鐘を忠実に継承していたが、時代とともに形態と意匠面で多様な変貌を遂げた。まず、胴体が直線化し、下の部分が鐘口側に行くにしたがって次第に外側へ広がる傾向を見せた。天板の上面である上帯に立状花文帯という突起装飾が新しく加えられた。龍鈕はその頭が鐘の天板から離れて前方を見つめるようになり、口の中にあった如意珠が足の上か音筒の上に装飾されるようになった。飛天に代わって仏菩薩像や三尊像が天蓋とともに表現されるようになった。13世紀に入ると高さ40cm内外の小鐘が大量に作られるようになった。高麗末には、典型的な韓国鐘様式を離れて、元代の中国鐘式に急激に変化する。

●朝鮮時代の梵鐘は、音筒がなくなり、一匹の龍鈕は双龍となった。立状花文帯は消滅し、蓮廊が次第に上帯から離れ、より下に下がり、撞座がまったくなくなるか、あってもその個数と位置が一定ではなくなる。


国の寺院を訪れて鐘楼を見ると、日本の場合に比べて梵鐘の位置がずいぶんと低く、地面と余り離れていないことに気づく。しかも梵鐘の下の土に穴が掘ってある。これは共鳴音がこもるように配慮したもので、中国や日本の鐘の音に比べて、余韻が長く続く。



「日本の梵鐘の特徴と変遷」 − (日本)飛鳥資料館 杉山 洋


観世音寺の梵鐘
観世音寺の鐘
当麻寺の梵鐘
当麻寺の梵鐘
妙心寺の梵鐘
妙心寺の梵鐘
本国内で見られる梵鐘のほとんどは、日本独特の形式を持っていて「倭鐘」と呼ばれている。

●飛鳥時代の梵鐘は妙心寺鐘、観世音寺鐘、当麻寺鐘、法隆寺西院鐘、およびその可能性のある大峰山鐘を加えても5例しか現存していない。この時代の鐘はいずれも口径に比べて全高の高い細長い形を特徴とする(法隆寺西院鐘を除く)。撞座の位置も高く、鐘身の下から1/3付近に位置する。上帯と下帯に文様を持つ。

●奈良時代の梵鐘は在銘鐘が3鐘、無銘鐘が11鐘知られている。この時代の梵鐘は、鐘身の高さに対して直径の大きな、どっしりした形態をとるようになる。大型鐘が多いのもこの時代の特徴であり、半数以上の鐘が口径1mを超える。最大のものは東大寺の鐘で、口径2.71m、高さ3.86m、重さ訳27tもある。

●平安時代は、貞元2年(977)から永暦元年(1160)までのおよそ2世紀の間に作られた梵鐘が存在しない。この空白の2世紀を挟んで10世紀までの前期と12世紀以降の後期に分けて梵鐘を考えた場合、前期には奈良時代の名残をとどめたいろいろな形の梵鐘が作られている。しかし、後期は中世梵鐘の成立期にあたり、中世梵鐘に見られる諸特徴が徐々に発現して統一的な形式にまとめられていく時期である。

●鎌倉時代は中世梵鐘の完成期にあたる。その原動力となったのが大阪府美原町を中心として活躍した河内鋳物師の集団である。この時代を代表する鐘に、建長寺鐘と円覚寺鐘がある。建長寺鐘は鎌倉3絶の鐘と呼ばれていて、この時代を代表する鋳物師・物部重光の作である。鐘身が細身で直線的で、下端には駒の爪の張り出しがない。撞座の位置も高く、文様は古風な複弁蓮華文である。龍頭はたてがみが上方になびくとともに額の上に一筋の角状のたてがみがのびている。笠形に接触する口唇部は鋭く反転するが、嘴状には飛び出していない。一方、物部国光の作とされる円覚寺鐘になると、笠形からのびる円柱を喰む龍の唇が鋭く突出する。笠形は高く盛り上がり、龍頭の取りつく上面は平坦となる。上帯には雲文、下帯には唐草文が入り、縦帯と中帯が交差する、などの特徴を有する。

●南北朝時代の梵鐘は、鎌倉時代から室町時代へ移行する過渡的な様相を示す。また、この時代は地方の鋳物師が次第に台頭してくる時代でもある。

●明応元年(1492)を境に室町時代を前半と後半に分けると、前半は各地方で著名な鋳物師集団が誕生して、各地で梵鐘生産が盛んとなる。後半は一転して、戦乱期の影響をうけて、生産数が減少する。鎌倉・南北朝時代を通じて鐘の大きさは口径60cm前後で落ちついていたが、室町時代になると再び大型化する。清水寺の鐘は室町時代前期を代表する大型鐘である。

●江戸時代になると、梵鐘生産は飛躍的に活発になり、江戸時代250年間に作られた梵鐘は3万に達する。それまでの時代には考えられなかった特色を持つ鐘が現れ、乳のない鐘、5縦帯の鐘、さまざまな文様を全面に入れた鐘などがある。


出典: 国際シンポジウム「東アジアの梵鐘」のレジメ


2004/11/06作成by n_ohsei2002@yahoo.co.jp return