”若葉して御目(おんめ)の雫(しずく)拭(ぬぐ)はばや”
唐の揚州大明寺の高僧だった鑑真が、天平勝宝6年(754)、聖武天皇の招きに応じて伝戒の師として来朝し、10年目の天平宝字7年(763)の旧暦5月6日、現在の唐招提寺がある地で示寂した。76歳だったという。鑑真像は、国宝の乾漆像である。弟子たちが師の大往生を予知して作った寿像であるとされている。
俳人・松尾芭蕉は、唐招提寺を訪れて、鑑真大和上像と対面したとき詠んだ有名な句を、『笈の小文』に残している。 現在、唐招提寺では、開祖・鑑真和上の来朝1250年を記念して、10年の歳月をかけた金堂の解体修理工事の真っ最中である。奈良県立橿原考古学研究所は、解体修理工事にともなう金堂基壇の発掘調査を本年1月から7月まで実施した。本日、奈良県社会福祉総合センター6階大ホールでは、第21回の橿考研公開講習会が開かれ、その発掘調査の成果が発表された。 |
鑑真の来朝と奈良仏教
天平5年(733)の第9次遣唐使に随行して唐土にわたり、戒師招請のために苦労する栄叡と普照の話は、井上靖の『天平の甍』でおなじみである。物語のハイライトシーンは二人が揚州の大明寺を訪れて、戒師の来朝を懇願したときの鑑真の対応だった。そのとき鑑真は、法のために日本に渡る希望者を募ったが、誰も応じる者はいなかった。そこで和上は次のように言ったという。 この話は、来朝して布教したいとする鑑真の熱意を示した場面として感動的である。しかし、仏典の中に「法を惜しんではならない」という教えがあり、渡海を要請された以上、鑑真はこの教えに従わざるを得なかったのが実情だったようだ。 当時の日本には正式な僧尼の資格を与える授戒の作法が整っていなかった。そのため、納税義務を逃れるため私度僧となる者たちがあとを立たなかった。仏教の国家管理を推進する時の政府としては、授戒師を招き正式に授戒したものしか僧尼として認めない体制を作るのは緊急の課題だった。しかし、鑑真の戒律に対する考えは朝廷や仏教指導者の意向とは異なったものだったと、東野教授は分析する。 鑑真は来日するとき3000粒もの舎利を携えてきた。和上はこれを分与しながら、できるだけ多くの人に授戒を行いたいと考えていたようだ。実際、唐では行く先々で授戒していた。だが、授戒の自由を制限された鑑真は、東大寺戒壇院における戒和上の任務を終えた後、戒律を教えることにのみ専念せざるを得なかった。 教授の説明で思わず傾聴したのは、鑑真がまず開いたのが講堂であるという指摘だった。寺院を建立するとき、最初に建てるのは金堂であり塔であると思っていた。寺は仏像を金堂に安置し仏舎利を塔に奉納して仏を祈り祀るところであれば、そんなことは自明だと思っていた。だが、鑑真が建立した唐招提寺は違った。和上は戒律を教える寺を作ったのだ。そのために必要な伽藍がまず講堂であることは、言われてみれば当然である。その後、弟子たちよって金堂や塔が建てられ、仏教寺院としての体裁を整えていく。だが、それは天平宝字7年(763)に76歳で入寂した鑑真和尚のあずかり知らぬことだった。 |