橿原日記 平成16年11月3日

祈る寺院ではなく、教えるための寺院を建てた鑑真和上


”若葉して御目(おんめ)の雫(しずく)拭(ぬぐ)はばや”

鑑真和上像
鑑真和上像
年の6月6日、唐招提寺に参詣して初めて鑑真和上像を拝した。唐招提寺では、鑑真の命日の旧暦5月6日を新暦の6月6日に当てて、毎年さまざまな行事を行っている。その一つに、遠忌当日を中心にして前後3日間、境内の開山御影堂に安置された鑑真和上の乾漆夾紵像(かんしつきょうちょぞう)の特別開扉がある。

の揚州大明寺の高僧だった鑑真が、天平勝宝6年(754)、聖武天皇の招きに応じて伝戒の師として来朝し、10年目の天平宝字7年(763)の旧暦5月6日、現在の唐招提寺がある地で示寂した。76歳だったという。鑑真像は、国宝の乾漆像である。弟子たちが師の大往生を予知して作った寿像であるとされている。

人・松尾芭蕉は、唐招提寺を訪れて、鑑真大和上像と対面したとき詠んだ有名な句を、『笈の小文』に残している。
 ”若葉して御目(おんめ)の雫(しずく)拭(ぬぐ)はばや”
俳人としての感性で、芭蕉が即座に読み取った鑑真の涙は何の涙だったのだろうか?

在、唐招提寺では、開祖・鑑真和上の来朝1250年を記念して、10年の歳月をかけた金堂の解体修理工事の真っ最中である。奈良県立橿原考古学研究所は、解体修理工事にともなう金堂基壇の発掘調査を本年1月から7月まで実施した。本日、奈良県社会福祉総合センター6階大ホールでは、第21回の橿考研公開講習会が開かれ、その発掘調査の成果が発表された。



発掘調査で得られた知見

発掘調査現場
基壇の発掘調査現場(講演会のレジメより)
招提寺は、鑑真が東大寺戒壇院における戒和上の任務を終えた後、天平宝字3年(759)、平城京の右京に律を講じるために開いた寺である。この地は新田部親王の邸宅だったが、息子の塩焼王が罪を得て失脚したため、官に没収されていた所だった。

真はゆかりの人々の助力を得て、新田部親王の邸宅の家屋を再利用するなどして、寺を造営した。天平勝宝3年(759)、72歳の時である。和上はその4年後に入寂したが、その後も伽藍の造営は続けられた。弘仁元年(810)の塔の建立をもって、最終的に伽藍が完成した。実に50年の歳月を要したことになる。

献上、これまで4回の大規模な修理が行われたことがわかっている。文永7年(1270)、元亨3年(1323)、元禄6−7年(1693-94)、明治31−32(1898-99)の4回である。今回の平成の大修理は、阪神・淡路大震災などで柱の内倒れによる構造変形が進行し、放置できない状態になったためだという。

堂が解体された後、創建当時の基壇の様相を把握するため発掘調査が実施された。そして、当時の基壇は現在とほぼ同じ高さまで版築を行ない、東西南北に取り付けられた階段も基壇と一体で築造されていたこと、基壇の規模は東西36.4m、南北23.0mで現在の基壇より一回り大きかったこと、現在の単層基壇とは異なり、二重基壇であった可能性があることなど、新しい知見が得られた。



鑑真の来朝と奈良仏教

唐招提寺金堂
解体修理前の唐招提寺金堂
後の講演者は奈良大学教授の東野治之氏だった。教授は「鑑真の来朝と奈良仏教」というタイトルで、鑑真来日の背景と来朝後の和上の苦悩についてわかりやすく説明された。来朝の経緯は、彼に随行した思託が書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』3巻の内容を取捨選択し、一部加筆して淡海三船が一巻にまとめた『唐大和上東征伝』に詳しい。

平5年(733)の第9次遣唐使に随行して唐土にわたり、戒師招請のために苦労する栄叡と普照の話は、井上靖の『天平の甍』でおなじみである。物語のハイライトシーンは二人が揚州の大明寺を訪れて、戒師の来朝を懇願したときの鑑真の対応だった。そのとき鑑真は、法のために日本に渡る希望者を募ったが、誰も応じる者はいなかった。そこで和上は次のように言ったという。
「これ、法の為の事なり。何ぞ身命を惜しまん。諸人行かずんば、我すなわち行かんのみ」と。

の話は、来朝して布教したいとする鑑真の熱意を示した場面として感動的である。しかし、仏典の中に「法を惜しんではならない」という教えがあり、渡海を要請された以上、鑑真はこの教えに従わざるを得なかったのが実情だったようだ。

時の日本には正式な僧尼の資格を与える授戒の作法が整っていなかった。そのため、納税義務を逃れるため私度僧となる者たちがあとを立たなかった。仏教の国家管理を推進する時の政府としては、授戒師を招き正式に授戒したものしか僧尼として認めない体制を作るのは緊急の課題だった。しかし、鑑真の戒律に対する考えは朝廷や仏教指導者の意向とは異なったものだったと、東野教授は分析する。

真は来日するとき3000粒もの舎利を携えてきた。和上はこれを分与しながら、できるだけ多くの人に授戒を行いたいと考えていたようだ。実際、唐では行く先々で授戒していた。だが、授戒の自由を制限された鑑真は、東大寺戒壇院における戒和上の任務を終えた後、戒律を教えることにのみ専念せざるを得なかった。

授の説明で思わず傾聴したのは、鑑真がまず開いたのが講堂であるという指摘だった。寺院を建立するとき、最初に建てるのは金堂であり塔であると思っていた。寺は仏像を金堂に安置し仏舎利を塔に奉納して仏を祈り祀るところであれば、そんなことは自明だと思っていた。だが、鑑真が建立した唐招提寺は違った。和上は戒律を教える寺を作ったのだ。そのために必要な伽藍がまず講堂であることは、言われてみれば当然である。その後、弟子たちよって金堂や塔が建てられ、仏教寺院としての体裁を整えていく。だが、それは天平宝字7年(763)に76歳で入寂した鑑真和尚のあずかり知らぬことだった。


2004/11/03作成by n_ohsei2002@yahoo.co.jp

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