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| 壇上に並んだパネリストの諸先生 |
高松塚の築造時期は8世紀初頭、被葬者は忍壁親王予想していた高松塚古墳のカビ問題やキトラ古墳の壁画剥離処理は、ほとんど話題にならなかった。主に壁画古墳一般論の話題が中心であり、いずれの基調講演も傾聴に値する内容だった。
三角縁神獣鏡は中国人技術者が日本にきて国内で製作した、とする王仲殊教授の持論は我が国でも有名である。しかし、本日は高松塚古墳から出土した怪獣葡萄鏡が、1958年に発掘された唐代・独孤思貞墓の副葬品として出土した銅鏡と「同笵鏡(どうはんきょう)」である可能性を指摘された。独孤思貞は武即天の万歳通天2年(697)になくなり、神功2年(698)に埋葬された人物である。教授は詳しい考証の結果、2つの銅鏡は同笵鏡であり鋳造年代を7世紀末ごろ、すなわち独孤思貞が死亡する数年前と見なし、その一枚を第7次遣唐使が704年に帰国するとき持ち帰ったと推論された。 このように、8世紀初頭に遣唐使が持ち帰った同笵鏡は、親王などの皇族顕官に朝廷が分与したはずであり、その後に死亡した天武天皇の皇子を調べれば被葬者は自ずから推定できる。教授は忍壁(おさかべ)親王(または刑部親王)が大宝3年(703)に知太政官に任じされ、朝廷でもっとも高い地位にあったが、慶雲2年(705)に亡くなっている点に着目され、この皇子こそ高松塚の被葬者としてふさわしい、と語られた。 教授の忍壁親王被葬者論は傾聴すべき内容だったが、筆者が一番感銘を受けたのは、日本の歴史学会に対する氏の苦言である。日本では考古学者や歴史学者が勝手な推論だけで古墳の被葬者を云々するのは避けるべきとの風潮がある、と前置きして、実際は逆にあらゆる資料を考証して被葬者を想定するのは、学者としての使命であると断言された。至言である。
ついでながら、教授は独学で日本語を勉強されたとのこと。非常な流ちょうな日本語で話され、講演の最後に自作の短歌を2首披露された。聞くところによると、方丈記や徒然草あるいは源氏物語など日本の古典文学にも精通しておられるとのことだった。 |
壁画に描かれた雲気は霊気
教授は美術がご専門で、壁画に描かれた雲のような訳の分からない図案に興味を持たれ、長年研究されてきた。最近になって、やっとそれが日本で雲気と呼んでいるものらしいことが分かった。しかし、なにも雲の形だけで表現されるのではなく、植物などさまざまな形を借りて表現される。教授はこれを”霊気”と呼ぶことにしたとのことである。言われてみれば、キトラ古墳に描かれた虎にも胸のところに雲のようなものが描かれている。虎が気を吐き、気はまた虎を生むということか。 |
寺院の壁画とは異なり、絵師にとって古墳の壁画は闇の中の芸術
本日、門脇教授はまず以下の理由でキトラ古墳の渡来人被葬者説を否定された。その上で、天武天皇の皇位継承順位を勘案すると、高松塚古墳の被葬者は官僚トップの知太政事に上りつめた穂積皇子(?〜715)、キトラ古墳の被葬者は長皇子(?〜715)とする新説を披瀝された(なお、高松塚の被葬者に関しては、猪熊教授は、壬申の乱で軍功があった太政大臣・高市皇子を推定しておられる)。 氏の説明によると、飛鳥時代に今来(いまき)の郡と言われた地域は、現在の高市郡から葛城郡にかけて相当広い。そこに住んだ東漢氏(やまとのあやうじ)はその構成氏族の数においてもその人口においても圧倒的に多い。宝亀3年(772)に坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が語ったところによると、高市郡内では檜前(ひのくま)忌寸やその同族でいっぱいであり、他の姓のものは10のうち1〜2にすぎないとのことだった。 東漢氏は渡来系の技能集団が中心であるが、同時にかっては蘇我一族の番兵となってさまざまな政治問題にも容喙した。そのため、『日本書紀』によると、天武天皇6年(677)6月、天皇は東漢人が犯した7つの大罪を糾弾し、今までのことは大恩をもって許すが、以後罪を犯すものがあったら厳重に処罰するとの詔を下した。 この記事を読んだだけでは、東漢人たちはこのとき過去の罪を糾弾されたが、特に許されて以後は従来通り天武朝に仕えたものと理解していた。だが、教授は延暦4年(785)6月の坂上苅田麻呂の上表文を引いて、そうではなくて下人の卑姓を与えられて、一族の者たちは百年以上にわたり悲惨な生活を余儀なくされてきたと推論された。そして、当然檜隈の居住地の一部も没収され、天武系の王陵の地として確保されたと言われる。7世紀末から8世紀の初めにかけて、東漢氏がそのような境遇にあったならば、たとえ首長層であっても王墓に匹敵するような墓は築けるはずがない、というのが教授の論拠である。 ところで、教授は古墳壁画について新しい見方を示された。高松塚古墳にしろキトラ古墳にしろ、現代の我々が見ることができるのは、まったく偶然の発掘によるもので、本来、古墳壁画は死者のために描かれたものである。寺院の壁画とは異なり、再び白日のもとに曝されるとは絵師たちも予想していなかった。それでも、絵師たちは死者の鎮魂を意味を込めて必死に描いた。それ故に、芸術性を感じるのだと指摘された。教授の言葉を借りるならば、古墳の壁画は”暗黒の中の芸術”である。 |