橿原日記 平成16年10月31日

古墳壁画は暗黒の中の芸術?


パネリストたち
壇上に並んだパネリストの諸先生

京都橘女子大学主催の東アジア文化財シンポジウム「古墳壁画」

在、飛鳥にある2つの彩色壁画古墳では、カビの発生や壁面の剥離の問題でとかく話題が多い。そんな中、タイミングよく京都橘女子大学が「古墳壁画」と題するシンポジウムを開催するというので申し込んだら、案内が来た。

猪熊教授
基調講演をする猪熊教授
内状を見たら、会場は祇園甲部歌舞練場となっている。地図で調べると京都の祇園の真ん中である。歴史のシンポジウムをずいぶん変わった場所で開催するんだなァ、と変な感心のしかたをした。だが、この年になるまで祇園に足を踏み入れたことがない。どんなところか見ておくのも勉強だと思って、出かけることにした。

場は、花見小路といういかにも祇園らしい町名のついたところの奥にある。花見小路は道の両側に小粋な料亭が並ぶ通りである。日曜日とあって、昼ひなたから観光客が多い。歌舞練場は花見小路の奥の左側にあった。正面に豪壮な門が立ち、その奥に武家屋敷を思わすようなたたずまいの会場が見える。

定通り、定刻の午後1時、基調講演からシンポジウムが始まった。講演の題目と講演者は以下の通りだった。
『古墳壁画の諸問題』・・・京都橘女子大学 猪熊兼勝(いのくま かねかつ)教授
『古墳壁画と寺院壁画』・・・神戸大学 百橋明穂(どのはし あきお)教授
『高松塚古墳の年代と被葬者について』・・・中国社会科学院考古研究所 王仲殊(Wang Zhongshu)教授
『四神図から十二支神へ』・・・韓国・梨花女子大学 姜友邦(Kang Woobangu)教授
『檜隈の地域特性と壁画古墳』・・・京都橘女子大学 門脇禎二(かどわき ていじ)名誉教授

調講演の後は、コーディネーターの猪熊教授の司会で、お決まりのシンポジウムが開かれた。閉会したのは、予定より10分遅れて5時40分である。外はすっかり夜のとばりが降りて、花見小路の両脇は料亭の落ち着いた感じの看板に火がはいり、いかにも祇園の雰囲気の街に変わっていた。



高松塚の築造時期は8世紀初頭、被葬者は忍壁親王

想していた高松塚古墳のカビ問題やキトラ古墳の壁画剥離処理は、ほとんど話題にならなかった。主に壁画古墳一般論の話題が中心であり、いずれの基調講演も傾聴に値する内容だった。

王仲殊教授
中国社会科学院考古研究所の王仲殊教授
国社会科学院考古研究所の王仲殊教授は、20数年前西安を訪れたとき、大明宮跡や始皇帝陵を案内していただいた考古学者である。始皇帝陵を訪れたとき、畑の中で小さな瓦の破片とおぼしき遺物を拾った。当時の中国は(そしておそらく今も)考古学の遺物の海外持ち出しを禁止していた。教授に破片を見せて持ち帰ってもよいかと尋ねると、これくらいはよいでしょうとの返事だった。今でもそのとき拾った破片は、宝物のように書斎の本棚の隅に置かれている。

角縁神獣鏡は中国人技術者が日本にきて国内で製作した、とする王仲殊教授の持論は我が国でも有名である。しかし、本日は高松塚古墳から出土した怪獣葡萄鏡が、1958年に発掘された唐代・独孤思貞墓の副葬品として出土した銅鏡と「同笵鏡(どうはんきょう)」である可能性を指摘された。独孤思貞は武即天の万歳通天2年(697)になくなり、神功2年(698)に埋葬された人物である。教授は詳しい考証の結果、2つの銅鏡は同笵鏡であり鋳造年代を7世紀末ごろ、すなわち独孤思貞が死亡する数年前と見なし、その一枚を第7次遣唐使が704年に帰国するとき持ち帰ったと推論された。

のように、8世紀初頭に遣唐使が持ち帰った同笵鏡は、親王などの皇族顕官に朝廷が分与したはずであり、その後に死亡した天武天皇の皇子を調べれば被葬者は自ずから推定できる。教授は忍壁(おさかべ)親王(または刑部親王)が大宝3年(703)に知太政官に任じされ、朝廷でもっとも高い地位にあったが、慶雲2年(705)に亡くなっている点に着目され、この皇子こそ高松塚の被葬者としてふさわしい、と語られた。

授の忍壁親王被葬者論は傾聴すべき内容だったが、筆者が一番感銘を受けたのは、日本の歴史学会に対する氏の苦言である。日本では考古学者や歴史学者が勝手な推論だけで古墳の被葬者を云々するのは避けるべきとの風潮がある、と前置きして、実際は逆にあらゆる資料を考証して被葬者を想定するのは、学者としての使命であると断言された。至言である。

いでながら、教授は独学で日本語を勉強されたとのこと。非常な流ちょうな日本語で話され、講演の最後に自作の短歌を2首披露された。聞くところによると、方丈記や徒然草あるいは源氏物語など日本の古典文学にも精通しておられるとのことだった。
●檜隈の 草葉の陰に 光しは 高松塚の 宝の鏡
●高松の 塚の主を 人問わば 鏡に映る 忍壁皇子



壁画に描かれた雲気は霊気

姜友邦教授
梨花女子大学の姜友邦教授
花女子大学の姜友邦教授の講演は、2つの点で興味を引いた。まず、壁画に描かれた四神図(東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武)は唐の代には描かれなくなり、代わって十二神将が登場する。中国の十二神将は文官の衣を着て合唱するだけだが、朝鮮半島では独自に発展進化し、像の規模が大きくなるだけでなく、着衣が文官の衣から甲冑に代わり武器を手にするようになる。キトラ古墳では四神図だけでなく十二神将も登場するのは、面白いとのことだ。

授は美術がご専門で、壁画に描かれた雲のような訳の分からない図案に興味を持たれ、長年研究されてきた。最近になって、やっとそれが日本で雲気と呼んでいるものらしいことが分かった。しかし、なにも雲の形だけで表現されるのではなく、植物などさまざまな形を借りて表現される。教授はこれを”霊気”と呼ぶことにしたとのことである。言われてみれば、キトラ古墳に描かれた虎にも胸のところに雲のようなものが描かれている。虎が気を吐き、気はまた虎を生むということか。



寺院の壁画とは異なり、絵師にとって古墳の壁画は闇の中の芸術

門脇教授
被葬者論への前提を語る門脇教授
演のトリをつとめられたのは、京都橘女子大学名誉教授の門脇禎二氏である。氏が書かれた『飛鳥−その古代史と風土』や『古代出雲』、『吉備の古代史』などの著作ではずいぶん歴史の勉強をさせて貰っている。

日、門脇教授はまず以下の理由でキトラ古墳の渡来人被葬者説を否定された。その上で、天武天皇の皇位継承順位を勘案すると、高松塚古墳の被葬者は官僚トップの知太政事に上りつめた穂積皇子(?〜715)、キトラ古墳の被葬者は長皇子(?〜715)とする新説を披瀝された(なお、高松塚の被葬者に関しては、猪熊教授は、壬申の乱で軍功があった太政大臣・高市皇子を推定しておられる)。

の説明によると、飛鳥時代に今来(いまき)の郡と言われた地域は、現在の高市郡から葛城郡にかけて相当広い。そこに住んだ東漢氏(やまとのあやうじ)はその構成氏族の数においてもその人口においても圧倒的に多い。宝亀3年(772)に坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が語ったところによると、高市郡内では檜前(ひのくま)忌寸やその同族でいっぱいであり、他の姓のものは10のうち1〜2にすぎないとのことだった。

漢氏は渡来系の技能集団が中心であるが、同時にかっては蘇我一族の番兵となってさまざまな政治問題にも容喙した。そのため、『日本書紀』によると、天武天皇6年(677)6月、天皇は東漢人が犯した7つの大罪を糾弾し、今までのことは大恩をもって許すが、以後罪を犯すものがあったら厳重に処罰するとの詔を下した。

の記事を読んだだけでは、東漢人たちはこのとき過去の罪を糾弾されたが、特に許されて以後は従来通り天武朝に仕えたものと理解していた。だが、教授は延暦4年(785)6月の坂上苅田麻呂の上表文を引いて、そうではなくて下人の卑姓を与えられて、一族の者たちは百年以上にわたり悲惨な生活を余儀なくされてきたと推論された。そして、当然檜隈の居住地の一部も没収され、天武系の王陵の地として確保されたと言われる。7世紀末から8世紀の初めにかけて、東漢氏がそのような境遇にあったならば、たとえ首長層であっても王墓に匹敵するような墓は築けるはずがない、というのが教授の論拠である。

ころで、教授は古墳壁画について新しい見方を示された。高松塚古墳にしろキトラ古墳にしろ、現代の我々が見ることができるのは、まったく偶然の発掘によるもので、本来、古墳壁画は死者のために描かれたものである。寺院の壁画とは異なり、再び白日のもとに曝されるとは絵師たちも予想していなかった。それでも、絵師たちは死者の鎮魂を意味を込めて必死に描いた。それ故に、芸術性を感じるのだと指摘された。教授の言葉を借りるならば、古墳の壁画は”暗黒の中の芸術”である。


2004/11/01作成by n_ohsei2002@yahoo.co.jp

return