橿原日記 平成16年10月18日

遣唐留学生・学問僧の遺児たち


遣唐留学生・井真成の墓誌発見される

成16年10月11日付けの朝日新聞の朝刊は、一面トップを中国名「井真成」という遣唐留学生の墓誌発見のニュースで飾った。中国国営新華社通信が10日付けの「西安晩報」で報じた”西安の西北大学博物館で最近入手した”という記事の内容を転載したものである。39.5センチ四方の石には12行に171文字が刻まれていた。
墓誌
発見された中国名「井真成」の墓誌

誌によると、埋葬者は姓を「井」、字を「真成」という日本人の遣唐留学生である。国命により入唐して学問を修め、正式な官僚として唐朝に仕えた。しかし、開元22年(734)正月某日急病のため36歳で死去、万年県の川のほとりに埋葬された。玄宗皇帝は大変その死を悼み、尚衣奉御(尚衣局の責任者)という高官の位を追贈したという。

真成の日本名は分からない。奈良大教授の東野治之教授は、「井」を日本名の痕跡と考えて、渡来系氏族の「葛井(ふじい)氏」の出身者で、”ふじいのまなり”という姓名ではなかったかと推測されている。遣唐留学生や学問僧が五位以上であれば、史書にその名を留めているはずだが、見あたらないところから、身分はそれほど高くなかったものと思われる。

真成の死亡年齢から推して、彼は717年(養老元)に派遣された第8次遣唐使に同行して入唐した当時19歳の青年だっただろうと推測されている。この時の遣唐使船に乗り込んだ留学生や学問僧の中には、少壮気鋭の若者たちがいた。留学生の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、当時19歳)、下道真備(しもつみちのまきび、22歳、後に吉備真備と改名)、大和長岡(やまとのながおか、29歳)、学問僧の玄ム(げんぼう)、理鏡(りきょう)たちだ。彼らは選ばれた栄えある秀才たちで、年は若くても遣唐副使なみに優遇されていたという。

元717年は、玄宗皇帝の開元5年にあたる。30歳をすぎたばかりの英邁な君主を頂いた唐は、燎爛たる文化の開花期で、当時の長安の人口は100万を超えたと言われている。その華やかな文化のメッカである唐都・長安で修学することは、彼らにとって生涯の夢であっただろう。中国名「井真成」もそうした夢を実現した1人だった。

真成は生まれつき優秀だったのだろうが、墓誌によれば、長安に入って猛烈に勉強し、唐王朝の正式な官僚として抜きんでた活躍をしたという。在唐17年、おそらく故郷に錦を飾る日を待ち望んでいたであろう。だが、次の遣唐使船はなかなか来ない。第9次の遣唐使船が日本を出発したのは天平5年(733)5月、遣唐使の一行が長安に入ったのは、その年の秋のころだった。真成はこの第9次遣唐船での帰国を願い出て、おそらく許可を得ていたであろう。だがその年の暮れに急病で倒れ、年があけた開元22年(734)正月に亡くなった。彼の葬儀には同期で入唐した阿倍仲麻呂をはじめとする留学生や学問僧、さらには第9回遣唐使の大使・多治比広成(たじひのひろなり)や副使・中臣名代(なかとみのなしろ)が参列したものと思われる。

の遺骸は、通下門から東7里のところにある長楽駅の近くを流れる●(シ+産)水(さんすい)の河原に埋葬された。帰国を目前にして異国の土になる無念さはいかばかりであっただろうか。真成の気持ちをおもんばかって、墓誌は「形は異土に埋葬されたが、魂は故郷に帰ることを願う」と結んでいる。第9次遣唐使の一行は、その年の10月帰国の途についた。彼らに同行して、下道真備や玄ム、理鏡などが帰国した。真成の遺髪や形見の品は彼らに託されて親族に渡ったことであろう。阿倍仲麻呂も玄宗に帰国を願い出ていた。しかし、今や唐朝の官吏として左補欠の要職にある彼は玄宗の信任が厚く、帰国は許されなかった。仲麻呂は帰国する遣唐使の一行を●(シ+産)水に架かる橋のたもとまで見送り、楊柳を折って遣唐使たちの旅の無事を祈ったにちがいない。

者は、このとき、幼い子の手を引いて一行を見送る1人の女性が、仲麻呂の近くにいたような気がしてならない。井真成の在唐17年の生活は、長安で結婚し子をなした唐の女性に支えられていたと思うからである。井真成は長楽駅の近くを流れる●(シ+産)水(さんすい)の河原に埋葬された。彼に妻子があったなら、必ずその墓に参り、そのついでに遣唐使の帰国を見送ったはずである。



盛唐の都・長安に咲いた異国の恋

ああああ
千余年にわたる日中交流史の中で、遣唐使はその白眉とされている。630年(舒明天皇2年)に最初の遣唐使が派遣されてから、894年(寛平6)に菅原道真の建白で廃止されるまで、200数十年にわたって遣唐使は派遣され続けてきた。しかし、遣唐使の派遣回数は、中止になったものや送唐使を遣唐使とみなすかどうかで、諸説がある。本稿では18回説によって、遣唐使の派遣回数を示すことにする(「遣唐使一覧」を参照のこと)。

れくらいの日本人が遣唐使船で唐土に赴いたかは、正確には分かっていない。一説には6千人を超えると推定している歴史学者がいる。彼らのすべてが唐の都・長安を訪れたわけではないが、彼我の文物交流を促す主役として活躍したことは疑いない。特に留学生および学問僧の中には、10年、20年あるいはそれ以上の歳月を彼の地ですごした者たちがいた。彼らは自らの学識と教養を中国人に強く印象付け、実際に唐朝の官吏として高位に昇った者もいる。

うした留学生および学問僧のほとんどは、20歳前後の若い時期に遣唐使に同行して長安に入っている。彼らが滞在した唐の都・長安は、当時100万以上の人口を抱える世界一の首都だった。街にはあちこちに華麗で悦楽に満ちた歓楽街があった。若さ故に歓楽のるつぼに身を委ね、唐の女性と激しい恋に落ちて一夜の契りを結んだり、結婚した者も大勢いたであろう。こうした唐留学生や学問僧の異国の恋によって、日唐の混血児として生を受けなければならなかった遺児たちの数は多かったにちがいない。しかし、この種の日唐の国際ロマンスを記録した記述は、わずかな例外を除いて青史にはほとんど見あたらない。そのわずかな例から、本稿では遺児たちの姿を追ってみたいと思う。



羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)の遺児・(つばさ)(かける)

ああああ
学生たちは●(にんべん+兼)従(けんじゅう)と呼ばれる従者を伴って入唐することができた。717年(養老元)の第8次遣唐使船で唐に渡った阿倍仲麻呂はまだ19歳の若さだったが、従者を1人連れて行った。羽栗吉麻呂という名の若者だった。彼は在唐中に唐の女性と結婚して、二人の男子をもうけた。その名を翼(つばさ)と翔(かける)という。当時としてはずいぶんとモダンな名前である。

34年(天平6)に第9次遣唐使が帰国するとき、吉麻呂は帰国の許しを阿倍仲麻呂に申し出た。許可を得た彼は、翼と翔を連れて帰国船に同乗し、17年ぶりに帰国した。長男の翼は719年の生まれとされている。ということは、吉麻呂が長安に着いてまもなく唐の女性と知り合って結婚したことになる。帰国したとき、長男の翼はすでに16歳に達していた。

国に際して、吉麻呂は唐で娶った女性を同行させていない。唐での居住が認められれば、外国人も唐人女性と結婚することを法律で認めていた。ただし、その女性をつれて本国に帰ることは許されなかった。780年(建中元)にウイグルの使節がこの禁を犯したため、国際問題になったことがある。ウイグル使節は帰国の荷物に唐の女性を隠匿して国を出ようとしたが、そのことが露見したため殺害されてしまった。そのため、両国の関係が悪化したという。

麻呂は帰国すると、山背(やましろ)国乙訓(おとくに)郡を本貫とした、連れ帰った翼と翔は、成長して奈良の朝廷に仕えた。混血児である二人は当然語学に堪能であり、その才能を買われて後年使節の一員に加えられた。まず、759年(天平宝子3)に第11次遣唐使が派遣されたとき、弟の翔は禄事に任命され生まれ故郷に渡った。彼はそのまま唐土に止まって、ついに帰国することはなかった。おそらく年老いた母親に再会し、その老後の面倒をみるために止まったのであろう。

本に連れてこられた羽栗兄弟のうち、兄の翼は一時出家したようだ。いつ出家したかは、文献上には明記されていない。中国語しか話せない翼は、長期の留学体験を持つ玄ムに師事したのではないかと推測されている。しかし、『類従国史』によれば、翼の学業が抜きんでて優れているため、朝廷はその才能を惜しんで還俗させたという。彼は775年(宝亀6)に外従五位下となり、翌776年には臣(おみ)の姓を賜った。この賜姓をきっかけに、翼は姓を羽栗から葉栗に変え、葉栗臣翼と称するようになった。

も40年ぶりに生まれ故郷の土を踏んでいる。776年、彼は第14次遣唐使の准判官に任命された。すでに60歳近い老人だった。弟の翔が入唐してから18年の歳月が経ってから入唐したことになり、母親と再会することはなかっただろうと思われる。弟の翔と再会できたかどうかもわからない。778年の9月に帰国すると、遣唐使の功績により従五位下に叙せられた。その後も順調に出世し798年(延暦17)5月に正五位下で数奇な人生を閉じた。行年80歳だったという。

の子孫は平安京の左京に居住して繁栄したようだ。『文徳実録』には、854年(斉衡元)、無位の葉栗臣乙貞が従五位下を授かったことをしるしている。彼はおそらく翼の孫か曾孫に当たると推測されている。

血児として父の母国で過ごすことになった運命を、2人の兄弟は果たして幸福だったと感じていただろうか。少年時代のもっとも多感な時期に、母親と別れ別れに暮らさざるを得なかった思いは複雑だったろう。その後、唐土に戻った弟は母親の面倒を見ながら唐土に骨を埋める道を選び、兄は日本に戻って80年の生涯を閉じた。



学問僧・弁正(べんしょう)の遺児・朝慶(ちょうけい)朝元(ちょうげん)

ああああ
01年(大宝元2)の第7次遣唐使に同行したと思われる学問僧に、弁正という人物がいる。俗姓は秦氏であることから、渡来系氏族の子孫である。若くして出家し、老荘儒仏に通じた上に、談論が巧みで、また囲碁の名手でもあった。唐に渡った後、皇太子時代の玄宗の厚遇を受け、二人はよく碁を打って楽しんだという。

安で、彼は唐の女性を愛し、還俗して結婚した。そして2人の男子が生まれた。朝慶と朝元という。717年(養老元)の第8次遣唐使に同行して入唐してきた阿倍仲麻呂を、弁正はその才能を愛し、親身になって世話をした。仲麻呂も弁正を慕い、弁正の家をしばしば訪れて一家の者たちと親しくなっている。その頃、長男の朝慶は13,4歳、次男の朝元も12歳ぐらいにはなっていたと思われる。

唐すでに10数年、望郷の念もひとしおだったが、異国の妻を迎えて帰国をきっぱりとあきらめた弁正は、第8次遣唐使が帰国するとき、次男の朝元を単身乗船させて日本に渡らせた。長男の朝慶は父とともに唐土に止まったという。日本に渡った朝元は父の俗姓を継いで秦忌寸朝元(はたのいみき・ちょうげん)を名乗り朝廷に仕えた。

れから16年後の733年(天平6)、第9次遣唐使が派遣されるとき、朝元は判官として随行し、生まれ故郷に渡った。当然父母や兄との再会を果たして互いの無事を喜んだであろうが、その後の朝元の消息は伝わっていない。



吉備真備(きびのまきび)の子・忍海原魚養(おしうなばらのうおかい)

ああああ
17年(養老元)に派遣された第8次の遣唐使に同行して入唐した留学生の中に下道真備(しもつみちのまきび)という22歳の青年がいた。後の吉備真備である。真備が吉備姓を名乗るようになったのは、29年後の746年(天平18)に、朝廷から特に吉備姓を賜って以後のことである。

備は下道臣(しもつみちのおみ)という地方豪族の出身である。15歳頃大学寮に入り、式部省試の難関を突破して従八位下の位を授けられた。716年(霊亀)、8回目の遣唐使派遣が決定るすと、22歳になった真備はその才学が認められて留学生に選ばれ、その翌年唐土に渡った。真備は阿倍仲麻呂とならんで早くからその英才を唐の人々にも認められ、日本の留学生の双璧とうたわれた。しかし、仲麻呂が唐の正規の大学館に入学したのに対して、四門助教(四門学教官)の肩書きを持つ趙玄黙に個人的に師事して勉強したとされている。しかも、経史などの正学よりも、法学・軍学・経済・暦法といった実利的な学問の方に力をそそいだ。微官の家柄の出であることから、実用の学問・知識を帰国後役立て立身しよう考えていたと思われる。

34年(天平6)、第9次遣唐使が長安に到着し、学業なった真備はその船で帰国した。故国の土を踏んだ真備は735年(天平7)4月、舶来文物の品々を天皇に献上して、従八位下から正六位に昇進し、大学助(だいがくのすけ)になった。以後、玄ム(げんぼう)と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ね、橘諸兄の顧問役を果たすようになった。真備および玄ムの破格の出世は政敵の恨みを買い、740年(天平12)には「君側の二盗」を除くとして、藤原広嗣が反乱を起こすほどだった。

の後も、のちに孝謙天皇となる皇太子・阿倍皇女の愛顧を受け、743年(天平15)には従四位に昇位、東宮大夫も兼ねた。上記のように、746年(天平18)には朝廷から特に吉備姓を賜っている。しかし広嗣に代わって頭角を現してきた藤原仲麻呂に警戒され、750年には筑紫守に左遷された。752年(天平宝勝4)第10次遣唐使が派遣されることになり、真備は遣唐副使に選ばれた。再び唐に渡った真備は、青春を過ごした思い出の地で、かっての同学で今は唐の高官に登り詰めていた阿倍仲麻呂との再会を喜んだという。

国後、太宰大弐(だざいのだいに)として憂鬱な地方生活を強いられたが、10年後に造東大寺司長官に任じられて都に帰任すると、「恵美押勝の乱」で功を立てて従三位となり、766年に大納言・正三位から右大臣、769年には正二位まで登り詰めた。しかし、770年(宝亀元)称徳天皇や道鏡の失脚などで政界の庇護者を失い、右大臣を辞した。死亡したのは775年(宝亀6)、83歳だった。


備真備の留学生活は17年間に及んだ。17年間も唐土の生活すれば、言葉も不自由しなくなり、違和感なく現地の人々と交わり、親しい人間関係を結ぶことができたはずで、真備に男女の交際がなかったとは考えにくい。愛の結晶として、唐の女性に生ませた子供も当然いたであろう。ただ、そうした私的な面は歴史書からは伺いしることができない。

倉時代の説話集『宇治拾遺物語』の巻14には、「魚養(うおかい)の事」と題して真備と思われる人物にまつわる恋物語が記されている。それによると、唐に渡った留学生が異国の女性を娶り子供まで生ませたが、妻子を残して日本に帰国するとき、次の遣唐使が来るときは必ず便りをやる、我が子が大きくなったら必ず迎えにくると、約束したという。夫の約束を信じた妻は、遣唐使が来るたびに「手紙はないか」と聞くが、その都度、期待は裏切られる。

くら待っても便りをよこさない夫に腹を立てた妻は、ついに我が子の首に「遣唐使某の子」と書いた札をつけ、宿縁があればどこかで父親に会えるだろうと、その子を海へ流してしまう。幸い、海魚に助けられて稚児は難波の浜辺に流れ着き、そこを通りかかった元留学生に拾い上げられて札に記された書き付けで我が子であると分かったという。稚児は海中の魚に助けられたことにちなんで魚養(うおかい)と名付けられた。魚養は、漢字の素養を高く要求される書道に優れていた。空海は魚養の門から出たと伝えられているが、真偽のほどは不明である。



阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の遺家族

ああああ
唐使の活躍を語るとき、唐土における阿倍仲麻呂の活躍はひときわ抜きんでている。仲麻呂は717年(養老元)に派遣された第8次の遣唐使に同行して入唐した留学生である。同じ時に唐に渡った留学生に吉備真備や大和長岡が、また学問僧には玄ムや理鏡がいる。仲麻呂19歳のときだった。長安に落ち着くと、仲麻呂は唐の正規の太学館に入学した。

の頃の長安には、国立の上級大学として、国子舘、太学館、四門館、律学館、算学館、書学館の6つの学館があった。国子舘は上流貴族の子弟が入学する学校で、規模も最大だった。太学館はそれ以下の貴族の子弟を養育するところ、四門館は一般庶民の秀才が勉学するところだった。太学館を優秀な成績で卒業した仲麻呂は、当時最高の国家試験だった科挙の試験に挑戦し、見事合格して進士となった。そして、725年に洛陽の司経局校書を拝命し、それ以後唐朝の官吏の道を歩み始め、順調に出世していった。

麻呂は唐名を晁衡(ちょうこう)と名乗った。その誠実な人柄と文才から、多くの友人知己を得た。37歳になった731年には左補欠に進んだ。天子の侍従職で、親しく側近に仕える要職である。時の玄宗皇帝は仲麻呂を厚く信任していた。したがって、733年に多治比広成(県守の弟)を大使とする第9次遣唐使が来たとき、仲麻呂は帰国を願い出たが許されなかった。

52年、藤原清河率いる第10次遣唐使の一行が来たとき、仲麻呂はすでに在唐35年を経過していた。そのため、許されて清河らとともに翌年帰国することになった。753年11月15日、遣唐使たちは蘇州の黄●(さんずい+四)浦(こうしほ)で4隻の船に分乗した。満月の夜だった。仲麻呂は江上に輝く満月を眺めて、次の歌を詠んだとされる。
 あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に いでし月かも

かし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流され、中国領安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着してしまう。再び長安にもどって官途に就いた仲麻呂は、左散騎常侍(従3品)から鎮南都護・安南節度使(正3品)として再びベトナムに赴き総督を勤めた。761年から767年まで6年間もハノイの安南都護府に在任したと言われている。770年、73歳で唐の都長安で死亡した。


唐53年にわたる阿倍仲麻呂に、唐土で愛した女性がいなかったはずはない。仲麻呂が唐の女性を娶ったという記録はないが、妻子の存在を裏付ける不思議な一文が『続日本紀』に記載されている。仲麻呂が唐で客死して9年後の宝亀10年5月26日に、「わが朝廷が、唐使に託して仲麻呂の遺家族の妻子らに葬礼費用を送った」というのである。遺家族が貧しくて葬礼を欠くことがあると聞いたことによる処置らしい。そうであるならば、仲麻呂は長安で唐の女性と結婚し家族を持っていたことになる。19歳で海を渡り、その一生を唐土で過ごした仲麻呂に、愛する異国の妻子がいたのは当然であろう。だが、それ以上のことは何も伝わっていない。

(参考) 阿倍仲麻呂が安南で死亡したという誤った訃報に接して李白が詠んだ歌

 晁卿衡(ちょうけいこう)を哭(こく)す 李白
日本の晁卿 帝都を辞し  征帆一片 蓬壺をめぐる  名月帰らず 滄海に沈み  白雲 愁色 滄梧に満る
(日本の晁君は帝都長安を去って、一ひらの帆船で東海中の蓬壺の島をめぐるはずだった。しかし名月のように秀でた君は、碧(みどり)の海に沈んだきり帰らぬ人となり、白雲は愁わしげに南方の滄梧の山に立ちこめる)



藤原清河(ふじわらのきよかわろ)の娘・喜娘(きじょう)

ああああ
史に名を残す混血児のほとんどは男性である。ところが、遣唐使時代を通じて、出自が明らかな女性の混血児が1人いる。『続日本紀』に記されている喜娘だ。彼女の父親は藤原清河。752年(天平勝宝4)閏3月の末、4隻の船で船団を組んで難波を出航した第10次遣唐使で大使を勤めたあの清河である。彼は藤原房前の4男で、光明皇太后の甥にあたる。

53年11月16日、帰国する第10次遣唐使たちは四隻の船に乗り込み蘇州の港を出て帰路についた。その第一船には大使藤原清河や35年ぶりに故郷に帰る阿倍仲麻呂が乗船していた。東シナ海に乗り出した4隻の船は冬の季節風に遭遇し、たちまチリヂリになってしまった。清河や仲麻呂の乗船した船は暴風雨に遭って南方へ流され、中国領安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着してしまう。長安に戻った清河は「河清」と名前を変え、玄宗に仕えて秘書監(帝室図書館長)という高官にまで登り詰めたが、以後帰国することなく唐土で一生を終えた。喜娘は、安南の地から再び長安に戻った清河が唐の女性と結婚して生まれた晩年の娘である。

河が九死に一生を得て長安に戻ったという情報を我が国が得たのは、ずいぶん後になってからである。759年(天平宝字)正月、清河を迎えるために第10次遣唐使の特別派遣を決定し、高元度(こうげんたく)を特別に迎入唐大使使に任命した。上に述べた羽栗翔(はぐりのかける)はこの遣唐使の録事として生まれ故郷に赴いている。

10次遣唐使は、渤海国使節の送迎使も兼ねていたため、途中渤海国に立ち寄ったが、そこで唐の情勢を聞かされた。現在、安禄山の乱に続いて史思乱が起こっていて、唐の内外が騒然としているというのである。そして、全員の渡唐は危険であると助言された。そこで、人数を11人に絞って唐の長安に入ったが、高元度は藤原清河に会うことができず、むなしく帰国した。おそらく、清河や仲麻呂は戦火を避けて都を遠く離れていたのだろう。このとき、羽栗翔は清河のもとに仕えたいとして、自ら望んで唐土に留まることを願い出、許された。

77年(宝亀8)6月、第14次遣唐使が派遣された。この遣唐使には大使が任命されず、副使の小野石根が最高責任者だった。このとき、羽栗翼が准判官として同行している。一行は翌年の778年正月に長安の都に到着した。その年の4月、代宗皇帝によって遣唐使帰国のための送別の宴が催された。その席上で皇帝は、黒い瞳をした美しい少女を宴会の席上に呼び入れて小野石根らに紹介した。それが15歳になった喜娘だった。

野石根は皇帝からその娘を日本に無事送り届けるよう依頼された。亡き父の国を一目みたいという喜娘の切なる願いに、代宗は応えようとしたのだ。喜娘は小野石根らと共に帰国の第一船に乗船した。ところが途中で暴風雨に遭い、石根ら63人は一瞬のうちに海中に投げ出された。喜娘は大伴継人の献身的な助けによって奇跡的に九死に一生を得て、その年の11月天草に漂着した。だが、見知らぬ父の国に足を踏み入れた後の消息は伝わっていない。



高内弓(こうないきゅう)の妻子

ああああ

に述べたように、唐王朝は外国人が唐の女性と結婚することは認めたが、帰国の際に連れ帰ることは禁止していた。しかし、その法の目をかいくぐって妻子を国外に連れ出すことに成功した日本人留学生がいる。彼の中国名は「高内弓」だったが、日本名は伝わっていない。また、いつ唐に渡ったのかも知られていない。だが、彼は留学中に唐の女性と恋愛し、結婚して二子をもうけた。

『続日本紀』は高内弓が帰国したのは763年(天平宝字7)とし、その帰国のとき生じたの悲しい話を伝えている。高内弓は何故か遣唐使船が来るのを待つことなく、妻子を連れて渤海国に渡り、そこで、渤海国使を本国に送ってきた判官・平群虫麻呂が帰国する船に便乗させてもらうことになった。彼は広成(こうせい)という4,5歳になる男子とまだ乳飲み子の2人の子供、および妻と乳母を伴ってその乗船した。

群虫麻呂の船は帰国の途中で激しい暴風雨に見舞われ、今にも沈没しそうになった。船長は船中に異国の婦女子がいるために海神の怒りにふれていると考え、泣き叫ぶ彼らを荒れ狂う海中に投げ込んだ。船はその後も時化の中を漂流し、10日余りのちに隠岐の海岸に流れ着いた。帰国後、船長はその残虐な行為を問われて投獄されたという。

内弓の他にも、在唐中に唐の女性と結婚し、帰国の際に日本に連れてきた遣唐留学生がいる。従五位下の大春日浄足(おおかすがのきよたり)である。『日本紀略』の延暦15年5月に次のように記録されている。
"甲子、唐女の李自然(りじねん)に従五位下を授く。自然は従五位下大春日浄足の妻なり。浄足は入唐して自然を娶り妻となす。帰朝の日、相随て来る。”



音楽に結ばれた恋のロマンス

ああああ

後に、第17次遣唐使の准判官として唐に赴いた藤原貞敏(ふじわらのさだとし)と唐の琵琶の名手・劉二郎の娘との恋のロマンスで、本稿を締めくくることにしよう。

原貞敏は807年(大同2)に生まれ、867年(貞観9)死亡した琵琶の名人である。838年(承和5)に遣唐使准判官として渡唐した彼は、長安で劉二郎という琵琶師にめぐリ会い、砂金200両を謝礼に贈って二、三ヵ月のあいだに妙曲をことごとく習得し、さらに曲譜数十巻を贈られた。劉二郎には日ごろから父に芸を仕込まれていて、琴箏が大変上手な愛娘が1人いた。貞敏の才芸を見込んだ劉二郎は、自分の娘を娶ってくれるように頼んだ。貞敏はこの申し出を喜んで受けたという。

時の中国では、婚姻は家柄や身分がつり合っていることがたいへん重視されていた。貞敏は、当時の中国人にとっては異なった民族の出身、さらに小国からの使節の随行員にすぎなかった。当時としては珍しいこの国際結婚について、きっと多くの方面の障害があったと思う。だが、貞敏は劉家の娘と披露の式を盛大に催した。

年の839年、遣唐使が帰国する直前に、劉二郎は餞別の宴をもうけ、花婿に紫檀と紫藤の琵琶それぞれー面ずつ贈った。これが「玄象」「青山」(共に仁明天皇の御物)と呼ばれている琵琶の名器である。貞敏は劉二郎から贈られた琵琶譜も持ち帰リ、「賀殿」の曲を琵琶で習い伝えたといわれる。また、日本に連れてきた妻は箏を日本に伝えたと言われている。

の藤原貞敏と劉家の娘の結婚は、いわば音楽が取り持つ縁で結ばれた国際ロマンスと言えよう。たまたま、『日本三代実録』に貞敏の話が記載されていたため後世に伝えられた。歴史の影にかくれた日唐の国際恋愛は、実際には我々が想像する以上に多かったにちがいない。巨視的みれば、そうしたロマンスの当事者は、日本と中国の文化と血の交流を身をもって深めた人々だったと言えるだろう。



追記:井真成とは誰か

ああああ
毎日新聞夕刊 (平成16年10月21日(木))

誌の発見で、もう一人の阿倍仲麻呂として注目されている井真成とは何者か? 上記では東野治之氏は日本名が葛井真成という留学生ではないかとの推論を紹介したが、國學院大學教授の鈴木靖民氏は別の見解を新聞紙上で発表された。鈴木教授は井上忌寸真成を留学生の日本名として推測されておられる。(平成16年10月21日付け毎日新聞夕刊参照。)

(参考引用文献)高木博著「万葉の遣唐使船ー遣唐使とその混血児たちー」、王勇著「唐から見た遣唐使」


return