橿原日記 平成16年10月07日

保存が求められている縄文時代の「馬場小室山(ばんばおむろやま)遺跡」

「馬場小室山遺跡」の発掘現場 align=
「馬場小室山遺跡」の発掘現場

宅地造成で消滅しようとしている県を代表する縄文時代の遺跡

者は埼玉県の川口市に住んでいる。隣町は平成13年5月1日に旧浦和・大宮・与野の3市合併により誕生した「さいたま市」だ。そのさいたま市の緑区三室に、馬場小室山遺跡がある。1969年頃から十数回の発掘調査が行われてさまざまなことが明らかになった遺跡だが、県を代表する縄文遺跡だとは迂闊にも最近まで知らなかった。

発掘現場の入口
発掘現場の入口
の遺跡は、今から約5000年から3500年前の縄文時代中期から晩期までの長期にわたって、継続して営まれた住居跡だそうだ。縄文時代中期には、直径150メートルにおよぶ環状集落が形成されていたことが分かっている。縄文後期から晩期にかけては、竪穴住居跡とともに墓域や特殊な土坑が構築されるとともに、直径数十メートルにおよぶ環状盛土遺構が形成されていたことも判明している。さらに、埼玉県の有形文化財に指定されている土偶装飾付土器人面画土器の出土地であり、その他にも耳飾・土版・石棒・石剣・各種精製土器なども多数発見されている。そんなに重要な遺跡なら、とっくに史蹟に指定されているものと思っていた。ところが、この遺跡は民有地にあった。

年2月、建売業者が遺跡の中枢部にあたる地域を購入し、宅地造成の計画が明らかになったことで、がぜん遺跡の周辺がにぎやかになってきた。その経緯はこうである。市の教育委員会は宅地造成に先だって建売業者に発掘調査を依頼し、建売業者はさいたま市遺跡調査会に調査を委託した。委託されたさいたま市遺跡調査会は6月から発掘調査を実施してきた。ところが、調査を進める過程で学術的に貴重な穴群や大量の土器片などが見つかり、考古学研究者や市民ボランティアらの自主的な支援を受けたが、調査期限の9月17日までに調査を終了することはできなかった。

こで、市教委は建売業者に二度にわたり調査延長の協力を求めた。業者はいずれも了承して、調査期間が9月30日まで延長された。一方、調査状況を受け、日本考古学協会も「遺跡の保存処理を速やかに講ずることを求める」との要望書を市教委など関係機関に提出した。しかし、9月30日になって、市教委は「物理的に発掘できる範囲では、できる限りの調査は終えた」として発掘調査の打ち切りを命じた。

の馬場小室山遺跡でも、全国の発掘調査地で見られる地域開発と遺跡保存という命題に直面している。この遺跡の特徴は、縄文時代中期から晩期にかけての住居跡が重なっているが、縄文時代中期には環状集落を構成し、縄文時代の後晩期には環状盛土遺構が見つかっている点である。そのため、史蹟として保存を求める声があがるのは理解できる。だが、市としては民有地を買い上げる資金がなく「記録として保存するしか現状では手だてがない」というのも事実だ。



発掘現場を1人訪れる

環状集落の住居
環状集落の住居跡
境目を示すスジ
幾重もの盛土の境目を示すスジ
遺跡中央の窪み(中央窪地(ちゅうおうくぼち)
遺跡中央の窪み(中央窪地)
図で調べてみると、馬場小室山遺跡は意外と自宅から近い。車で15分もあれば行くことができる。幸い、昨日に続いて本日も関東地方は雲一つない秋晴れである。まだ朝の早い時間だったが、さわやかな日差しに誘われて訪れてみることにした。

R武蔵野線の「東浦和」駅前の道をまっすぐ北に進むと、さいたま市緑区三室の三室中学校が向かって左手にある。遺跡は三室中学校の敷地に隣接する小さな小山の上に位置している。「三室中学校」バス停のある信号から中学校の敷地に沿って住宅街の狭い道を進むと1〜2分ほどで発掘現場の入口にでる。

地造成が予定されている小山の頂きはすでに樹木が伐採され、表土を剥いで先日まで発掘調査が行われていたことが一目瞭然の場所に出る。まず驚いたのは、発掘現場に何のシートも被せてなかったことだ。通常、遺跡発掘では、雨水などで発掘状態が変形するのを防ぐためにも、シートで保護してあるのが当たり前だと思ったが、ここではそうなっていない。一昨日まで関東地方は秋の長雨が3日間降り続いた。したがって、柱跡の穴などに若干雨水が残っている箇所がある。いかにも調査が突然中断されたことを印象づける光景である。

掘調査地の中央にかなり深い穴が2カ所掘られている。おそらく環状盛土遺構の中央の窪み(中央窪地(ちゅうおうくぼち))なのだろう。その窪みに沿って盛土が環状にめぐらされていて、その上に住居の柱穴が無数に点在している。盛土の側壁を見ると、人為的な土木工事が行われた証拠と思われる地層が何重にも重なって見える。

文後期から晩期にかけて地球の温暖化によって、東京湾が内陸部まで入り込んできた。だが、この付近は大宮台地だった。その当時から縄文人が集団で生活するのに適した土地だったのだろう。21世紀の現代、このあたりはどんどんと新興住宅が広がっている。さいたま市の教育委員会は縄文の昔よりも、現代の居住空間を優先するのだろうか。保存要求に対してどのような結論を下すのか気になるところである。


【追記】上記の部分で、発掘現場の中央に掘られた2カ所の穴を中央窪地と勝手に推測したが、どうやらそうではないらしい。中央窪地は左手のやや低くなっている竹やぶの中にあり、発掘中の遺跡は環状盛土の一部で、環状はもっと大きいらしい。この追記は「さわらび通信」をハンドルするわらび ゆみ様からのご指摘に基づく。(04/10/11)



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