橿原日記 平成16年9月24日

古代のロマンと悲劇に彩られた蒲生野を歩く


理に出していたパソコンが予定通り戻ってこないため、ポッカリと予定のない一日が空いた。何をしようかと考えたとき、ふと以前から気になっていた場所が浮かんだ。滋賀県蒲生郡にある蒲生野と呼ばれる平野。万葉集の額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのみこ)の相聞歌で知られる場所だ。先日万葉文化館で聞いた梅原猛氏の講演がきっかけで読み始めた万葉集の巻1の中にある。

冷前線の通過で午後には雨になるというこの日、思い切って出かけてみることにした。JR琵琶湖線の近江八幡駅で近江鉄道八日市線に乗り換え、「いちのべ」駅まで行き、船岡山(ふなおかやま)と市辺押磐皇子(いちのべおしわのみこ)の墓を見学。そのあと、近江鉄道で「桜川」駅まで行き、石塔で知られる石塔寺(いしどうじ)まで足を伸ばした。雨は見学が終わったころに降り出した。

万葉の森・船岡山 → 市辺押磐皇子の墓 → 阿育王山石塔寺



万葉の森・船岡山 (ふなおかやま) 万葉集のハイライトシーン蒲生野を見下ろす山

蒲生野
船岡山から眺めた、かっての蒲生野

メモ

【所在地】 八日市市野口町・糠塚町
【アクセス】 近江鉄道「いちのべ」駅から徒歩5分。


元668年春1月3日、皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は称制を止めて、正式に天智(てんじ)天皇として即位した。そして、その年の5月5日、皇太弟の大海人皇子(おおあまのみこ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)、そのほかの諸王・群臣および女官たちを率いて、大津の宮から40kmほど離れた蒲生野(がもうの)で薬狩りを催した。旧暦の5月は新暦で言えば6月である。蒲生野には多年草の紫草が丘の草地一面に白い花を咲かせていた。その蒲生野で、今なお人口を膾炙する万葉歌が作られた。万葉集は次のように伝えている。


皇の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作る歌
あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る(巻1-20) 
【大意】紫草の生えている野、御料地の野をあちらにゆきこちらにゆき・・・まあ、野守は見はしないでしょうか、あなたはそんなに袖などお振りになって。
皇太子の答えましし御歌
紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも(巻1-21) 
【大意】紫草のように美しいあなたが憎いのなら、すでにあなたは人妻だのに、何で私が恋などしようか
注:大意は岩波書店発行の日本文学大系「万葉集一」による。
公園の壁画より(1) 公園の壁画より(2)
公園の壁画より(1) 公園の壁画より(2)


阿賀神社の鳥居
阿賀神社の鳥居
万葉歌碑
船岡山山頂の万葉歌碑
万葉公園
船岡山の麓の万葉公園

生野は、現在の近江八幡市東部、蒲生郡安土町、八日市市西部にわたる平野をいう。万葉の森・船岡山はその蒲生野を見渡せる位置にあり、山頂近くの岩には、上の二つの歌を刻んだ歌碑が建っているというので、訪れてみることにした。

江鉄道八日市線の「いちのべ」駅から歩いて5分ほどの所に、阿賀神社がある。国道421号線に面して建つ鳥居をくぐって境内に入ると、神殿の横に「歌碑道」の石碑が建っていて、そこから歌碑への登りの小道が続いている。坂道を登っていくと、ほどなく巨岩が岩肌をむきだしにした山頂に到達した。歌碑は巨岩に嵌(は)めこまれた御影石である。そこに万葉仮名で上の歌が刻まれていた。

岩がある場所から奥に進むと、毎年募集して入選した短歌を刻んだ碑が並んでいる。さらに奥に進むと木造の展望台があった。蒲生野が一望できるものと期待して展望台の上に立ってみた。残念なことに周囲の樹木が成長したために、ほとんど麓の様子は見えない。

岡山の下は、万葉公園になっていて、薬狩りのイラストを描いた半円形の壁画を中心に据え、周囲に万葉植物が植えられていた。明日はこの公園で万葉祭りがあるとのことで、地元の人たちが数人出てテント張りや催しものを行なう舞台作りに余念がなかった。明日は晴れてくれれば良いが・・・と、そんな優しい気持ちになって公園を後にした。


都新聞社が昭和59年に発行した『近江史を歩く』という好著がある。記者たちが、それぞれの史跡を探訪して京都新聞滋賀版に掲載したものをまとめたものだが、簡潔な文章で要領よく史跡を紹介してくれていて、筆者の愛読書の一冊になっている。その中には、額田王と大海人皇子の相聞歌が、万葉集にさん然ときらめきを放つ男女の恋歌として紹介されている。

ころが、その記述の中にとんでもない誤解があるのに気づいた。従来の学説にしたがって、これらの歌は実際の蒲生野での薬狩りの際に二人の間でやりとりされたのではなく、その後の宴会の席で戯れ歌として一座の前で詠われたとしている。それは、それで良い。問題はその後である。”この歌詠みの直後、大津の浜楼での酒宴の折、大海人皇子が酔って長槍を敷き板に突き刺したのを天皇が激怒し、殺そうとした”と記している。そして、天皇が激怒したのは、戯れ歌とは言え、その内容に心中面白くなかったからだとしている。

の長槍を敷き板に突き刺した事件は、藤原氏の『家伝』の中に伝えられているもので、「浜楼事件」として知られている。ところが、事件が起きたのは、蒲生野の薬狩りの後の宴会ではなく、その年の正月である。中大兄皇子が天智天皇として即位したのは、その年の正月3日であり、おそらくその即位を祝う宴会の席での出来事だろうと想像される。『家伝』は天智天皇が大海人皇子を殺そうとしたが、中臣鎌足の取りなしで事なきを得たと、鎌足の手柄話として語られている。

者が興味を持ったのは、例え酒の席とはいえ、天皇の前で長槍を振り回して狼藉をはたらこうとした大海人皇子の心境だ。蒲生野の薬狩りと浜楼事件の時系列を逆にすると、皇子の心境は180度違ってくる。大化の改新以来二十有余年にわたって兄を助けてきた皇太弟であってみれば、余程のことがなければそんな狼藉をはたらくとは思えない。余程のこと・・・、想像をたくましくすれば、恋女房だった額田王に横恋慕され、専制君主の特権で無理矢理後宮に入れられてしまった怒りが、酒が入ったことで爆発したのかもしれない。

う一つの可能性は、天智天皇の登極とともに指名されるはずの皇太子に、大海人皇子が指名されなかったことだ。それまで皇太弟として自他ともに認める実質的な皇太子の地位にあったが、しかし正式に皇太子に指名されたとする記事は『日本書紀』のどこにもない。一方、中大兄皇子が伊賀国山田郡の郡司の娘で采女(うねめ)だった宅子娘(やかこのいらつめ)に生ませた大友皇子は、この年すでに数えで21歳の青年に成長していた。

友皇子を溺愛し次期天皇位を継がせたいと考えるようになった天智天皇は、即位の時点で大海人皇子を皇太子に指名しなかった。当然自分が指名されると思っていた大海人皇子としては、面白くなかった。この時点で、皇位継承を巡る骨肉の争いはすでに始まっていたと見なさざるを得ない。その陰湿な争いで、3年後の671年には、身の危険を感じた大海人皇子が出家して吉野に入り、翌年の672年には、古代史最大の内乱と言われる「壬申の乱」に発展する。

68年の正月の時点で、長年協力し合ってきた中大兄皇子と大海人皇子の関係は、完全に冷え切っていたと筆者は考えているが、いかがであろうか。かっての夫と現在の夫の確執を額田王が知っていれば、宴会の座興にしろこのような歌を詠まないであろうし、大海人皇子も返歌はしないであろう。果たして、万葉集の巻1に記された2首の相聞歌の作者は額田王と大海人皇子だったのだろうか? 証拠は万葉集に記された詞書き以外にはない。



市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)の墓 皇位争いの悲話を秘めた主従の墓

市辺押磐皇子の墓
市辺押磐皇子の墓

メモ

【所在地】 八日市市市辺町
【アクセス】 近江鉄道「いちのべ」駅から徒歩約20分


田王と大海人皇子の有名な相聞歌は蒲生野で行われた薬狩りのとき作られたとされている。そのため、蒲生野は古代のロマンの場所として多くの人々に慕われている。意外と知られていないが、蒲生野はまた、古代に繰り広げられた皇位争いの悲劇の場所でもあった。この地で行われた巻き狩りで、第17代履中天皇の皇子・市辺押磐(いちのべのおしわ)皇子が、鹿と間違えられて即位前の大泊瀬稚武(おおはつせわかたけ)皇子に射殺されるという悲劇が起きている。

葉集の冒頭を飾る「籠(こ)もよ、み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち 〜」は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇が作った歌として世に知られている。乙女に求愛する非常にナイーブな気持ちを詠ったとされる天皇は、しかし、別の顔を持っている。

アジアの歴史を語るとき、5世紀の後半に在位したこの天皇は2つの事件で有名である。紀元475年、朝鮮半島の北にいた高句麗(こうくり)が南下して百済(くだら)の王都・漢城を包囲すると、火攻めで落城させ、逃亡する王を追撃して殺害した。こうして、実質的には百済はいったん滅亡した。その再興に手を貸したのが雄略天皇である。日本書紀には、「時の人はみな、”百済国は一族すでに亡んで、倉下(へすおと)にわずかに残っていたのを、天皇のご威光により、またその国を興(おこ)した”、と言った」と伝えている。

の雄略天皇が当時の宗主国の宋に上表文を送り、高句麗の無道ぶりを糾弾したことは有名である。天皇が使節を派遣して宋の順帝に上表文を提出したのは、昇明2年(478)であり、『宋書』には、漢文で書かれた全文が記載されている。

市辺押磐皇子の墓
市辺押磐皇子の墓
従者・売輪(うるわ)の墓
従者・売輪(うるわ)の墓
方において、雄略天皇は別の顔も持っていた。殺人鬼の顔である。同母兄の第20代安康(あんこう)天皇がその治世3年目に暗殺されるという事件が起きた。犯人は妃の連れ子の眉輪王(まよわのおおきみ)だった。知らせを受けた即位前の大泊瀬(おおはつせ)皇子は、まず自分の兄たちを疑った。鎧をつけ自ら兵を率いて、まず同母兄の八釣白彦(やつりのしろひこ)皇子を攻めて、問いつめた。皇子は恐怖心のあまり声も出ず腰を抜かしてしまった。大泊瀬皇子は即座に刀を抜いて実兄を切り捨てたという。

に、やはり同母兄の坂合黒彦(さかあいのくろひこ)皇子を問いつめた。皇子も疑われる恐れて、眉輪王とともに、大臣(おおおみ)の葛城円(かつらぎのつぶら)の屋敷に逃げ込んだ。大泊瀬皇子は二人の引き渡しを要求したが、大臣は応じなかった。そこで、兵を増員して大臣の家を取り囲むと、大臣は娘の韓(から)姫と葛城の領地7カ所を献上して命乞いをした。しかし、大泊瀬皇子はこれを拒絶し、家に火を放って大臣と坂合黒彦皇子と眉輪王の3人を焼き殺してしまった。

らに、大泊瀬皇子には気がかりな人物がもう一人いた。従兄弟の市辺押磐(いちのべのおしわ)皇子である。兄の安康天皇が存命中に、皇位を押磐皇子に伝えて後事を託そうとしていたため、大泊瀬皇子は以前から押磐皇子を恨んでいた。そこで、偽って野遊びをしようと約束し、立派な角を生やした鹿が多く生息するという近江の来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)での巻狩りを勧めた。蚊屋野は滋賀県蒲生郡蒲生町・日野町付近の野に比定されている場所である。

磐皇子は誘いに応じて狩りに出むいた。大泊瀬皇子は二人で鹿狩りを楽しんでいるように見せかけながら、途中で弓を構え、馬を走らせて、「鹿がいる」と叫びながら押磐皇子に向かって矢を放った。いかにも鹿と見間違えて誤射したように見せかけた殺人だった。皇子の舎人(とねり)の佐伯部売輪(さえきべのうるわ)は射殺された皇子の屍を抱き、驚いてなすすべもなく、大声を上げて泣き叫んでいたので、天皇はこの舎人もついでに殺してしまったという。こうして、有力な皇位継承者を次々と殺害した大泊瀬皇子は、第21代・雄略天皇として即位した。安康3年(455)11月13日のこととされている。

お、押磐皇子には億計(おけ)と弘計(おけ)という二人の遺児がいた。兄弟は雄略天皇の追求を逃れて播磨に潜伏したが、後に弟の弘計は第23代顕宗(けんそう)天皇、兄の億計は第24代仁賢(にんけん)天皇としてそれぞれ即位している。顕宗天皇のとき、近江の狭狭城山君(ささきやまのきみ)の妹の記憶で、押磐皇子と売輪の遺骨が発見されて、蚊屋野の地に二つの墓が築かれたという。

ああああ
治8年(1875)、現在地にある二つの古墳が、古代の皇位継承争いの犠牲者となった皇子とその従者の墓に治定され、現在は宮内庁書陵部の管轄下にある。東側の古墳は墳丘の直径が15m、高さ3.5mの円墳である。西側の古墳も同様に直径6.5m、高さ1.9mの円墳である。いずれも横穴式石室を持ち、古墳時代後期に造られたものと推定されている。

人の墓は、近江鉄道の「いちのべ」駅から県道170号線を徒歩で20分ほど行った市辺町の集落の中にある。県道に面して作られているこじんまりした墓域だが、墓の入口に「履中天皇皇子 磐坂市辺押磐皇子墓」と書かれた標識が掲げてある。この墓を訪れたとき、たまたま宮内庁から委託された京都市の清掃会社が墓の掃除に来ていた。宮内庁書陵部の管轄にある奈良地方の天皇陵などは、墳丘の手入れがされず樹木が生え放題になっているが、珍しいことに、ここの円墳は土饅頭のように綺麗に墳丘の芝が刈られていた。



阿育王山石塔寺(あしょかおうざん・いしどうじ) 近江帰化人が作り上げた望郷の塔

石造宝塔
石塔寺の三重の石造宝塔

メモ

【開基】 聖徳太子
【宗派】 天台宗
【本尊】 聖観世音菩薩(秘仏)、御前立 十一面観世音菩薩
【所在地】 滋賀県蒲生郡蒲生町石塔860
【アクセス】【電車】近江鉄道線「桜川駅」から徒歩30分。【車】名神高速道路八日市ICから県道46号を名神八日市カントリークラブ方面に4km


石塔寺の本堂
石塔寺の本堂
158段の石段
天に続く158段の石段
引山丘陵の麓に建っている石塔寺には、寺の名前の元となった珍しい石造りの三重多宝塔があると聞いていたので、すこし足を延ばしてみることにした。石塔は本堂の近くではなく、その横の、天に届くかと思われるほど長い石段を登り切った台地の上に建っているという。見上げるばかりの石段に驚いて、受付で何段あるのか聞いてみると、158段ですと涼しい顔で答えてくれた。

中で何回も休憩を入れながら、やっとの思いで頂上にたどり着くと、そこには多くの石仏や五輪塔に囲まれた壇上の中央に、高さ約7mの石塔が建っていた。国の重要文化財に指定されている三重の多宝塔である。一目みただけで、韓国珍島で見た金骨寺の五重石塔や慶州にある仏国寺の釈迦塔によく似ていると思った。造形感覚が日本のものではなく、朝鮮半島にルーツがあると感じた。

では、この塔を阿育王塔(あしょかおうとう)と呼んでいる。インドのアショカ王が仏法興隆のために、世界中にばらまいた8万4千の仏舎利塔の一つと見なしているためである。

三重宝塔
石仏と五輪塔に囲まれた三重宝塔
石塔と石仏
整然と並べられた石塔と石仏
塔寺略縁起には面白い話が載っている。平安時代、比叡山の寂照法師という僧侶が唐の五台山に留学したとき、五台山の僧から、アショカ王が世界にばらまいた仏舎利塔が日本にも二基飛来しているという話を聞いた。そこで、その話を手紙にして日本に送ったところ、第66代一条天皇(在位986−1011)の命で塔の探索が行われた。そして、地元の武士がこの寺の裏山で一つの大きな塚を見つけた。勅使とともに掘ってみたところ、阿育王塔が土中から出現したという。

条天皇は非常に喜び、七堂伽藍を新たに建立して、寺号も一条天皇の勅願時として「阿育王 石塔寺」と改めさせた。鎌倉時代になると、参拝者の多くが自身の極楽往生のため、また先祖の菩提を弔うため阿育王塔の周りに五輪塔や石仏を奉納するようになった。しかし、織田信長の焼き討ちで七堂伽藍や寺宝のいっさいは焼失した。江戸時代に入ると、天海僧正の弟子の行賢によって一部復興が図られ、昭和になって現在のように整備されたという。

重の石塔は阿育王塔ではあるまい。この付近には、朝鮮半島からの渡来人が数多く住み着いていた。彼等が望郷の念に駆られたとき、生まれ故郷の仏教寺院にあった多宝塔をまねてこの石造を作り、心のよりどころにしたのだろう。663年の白村江の敗戦の折も、百済から亡命してきた多くの人々がいた。近江朝廷は、蒲生野にも700人近い渡来人を住ませたと記録されている。さらに、近江朝廷の文部大臣を務めた鬼室集斯(きしつしゅうし)もこの付近に住んだらしく、彼を祭る鬼室神社が近くの日野町小野にある。

の後、この石塔の周りに数多くの小型の五輪塔や石塔が奉納され、何百年という歳月が流れた。その数はあまりに多く、石塔の周りだけでは置き切れず、右手の空き地の方まで広がっている。その一つ一つには奉納者の願いや祈りが込められているのかと思うと、おもわず襟を正したくなる。それにしても、平日の昼下がり、訪れる人影もなく、雨雲の下で静まりかえる境内は、絶好の散策の場であり思索の場である。若い時代にこの寺のことを知っていたなら、必ず恋人を伴ったものを・・・・と、年老いて一人訪れる寂しさが身にしみる境内だった。



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