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寒冷前線の通過で午後には雨になるというこの日、思い切って出かけてみることにした。JR琵琶湖線の近江八幡駅で近江鉄道八日市線に乗り換え、「いちのべ」駅まで行き、船岡山(ふなおかやま)と市辺押磐皇子(いちのべおしわのみこ)の墓を見学。そのあと、近江鉄道で「桜川」駅まで行き、石塔で知られる石塔寺(いしどうじ)まで足を伸ばした。雨は見学が終わったころに降り出した。 |
万葉の森・船岡山 万葉集のハイライトシーン蒲生野を見下ろす山
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市辺押磐皇子
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| 市辺押磐皇子の墓 |
額田王と大海人皇子の有名な相聞歌は蒲生野で行われた薬狩りのとき作られたとされている。そのため、蒲生野は古代のロマンの場所として多くの人々に慕われている。意外と知られていないが、蒲生野はまた、古代に繰り広げられた皇位争いの悲劇の場所でもあった。この地で行われた巻き狩りで、第17代履中天皇の皇子・市辺押磐(いちのべのおしわ)皇子が、鹿と間違えられて即位前の大泊瀬稚武(おおはつせわかたけ)皇子に射殺されるという悲劇が起きている。 万葉集の冒頭を飾る「籠(こ)もよ、み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち 〜」は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇が作った歌として世に知られている。乙女に求愛する非常にナイーブな気持ちを詠ったとされる天皇は、しかし、別の顔を持っている。 東アジアの歴史を語るとき、5世紀の後半に在位したこの天皇は2つの事件で有名である。紀元475年、朝鮮半島の北にいた高句麗(こうくり)が南下して百済(くだら)の王都・漢城を包囲すると、火攻めで落城させ、逃亡する王を追撃して殺害した。こうして、実質的には百済はいったん滅亡した。その再興に手を貸したのが雄略天皇である。日本書紀には、「時の人はみな、”百済国は一族すでに亡んで、倉下(へすおと)にわずかに残っていたのを、天皇のご威光により、またその国を興(おこ)した”、と言った」と伝えている。 その雄略天皇が当時の宗主国の宋に上表文を送り、高句麗の無道ぶりを糾弾したことは有名である。天皇が使節を派遣して宋の順帝に上表文を提出したのは、昇明2年(478)であり、『宋書』には、漢文で書かれた全文が記載されている。
次に、やはり同母兄の坂合黒彦(さかあいのくろひこ)皇子を問いつめた。皇子も疑われる恐れて、眉輪王とともに、大臣(おおおみ)の葛城円(かつらぎのつぶら)の屋敷に逃げ込んだ。大泊瀬皇子は二人の引き渡しを要求したが、大臣は応じなかった。そこで、兵を増員して大臣の家を取り囲むと、大臣は娘の韓(から)姫と葛城の領地7カ所を献上して命乞いをした。しかし、大泊瀬皇子はこれを拒絶し、家に火を放って大臣と坂合黒彦皇子と眉輪王の3人を焼き殺してしまった。 さらに、大泊瀬皇子には気がかりな人物がもう一人いた。従兄弟の市辺押磐(いちのべのおしわ)皇子である。兄の安康天皇が存命中に、皇位を押磐皇子に伝えて後事を託そうとしていたため、大泊瀬皇子は以前から押磐皇子を恨んでいた。そこで、偽って野遊びをしようと約束し、立派な角を生やした鹿が多く生息するという近江の来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)での巻狩りを勧めた。蚊屋野は滋賀県蒲生郡蒲生町・日野町付近の野に比定されている場所である。 押磐皇子は誘いに応じて狩りに出むいた。大泊瀬皇子は二人で鹿狩りを楽しんでいるように見せかけながら、途中で弓を構え、馬を走らせて、「鹿がいる」と叫びながら押磐皇子に向かって矢を放った。いかにも鹿と見間違えて誤射したように見せかけた殺人だった。皇子の舎人(とねり)の佐伯部売輪(さえきべのうるわ)は射殺された皇子の屍を抱き、驚いてなすすべもなく、大声を上げて泣き叫んでいたので、天皇はこの舎人もついでに殺してしまったという。こうして、有力な皇位継承者を次々と殺害した大泊瀬皇子は、第21代・雄略天皇として即位した。安康3年(455)11月13日のこととされている。 なお、押磐皇子には億計(おけ)と弘計(おけ)という二人の遺児がいた。兄弟は雄略天皇の追求を逃れて播磨に潜伏したが、後に弟の弘計は第23代顕宗(けんそう)天皇、兄の億計は第24代仁賢(にんけん)天皇としてそれぞれ即位している。顕宗天皇のとき、近江の狭狭城山君(ささきやまのきみ)の妹の記憶で、押磐皇子と売輪の遺骨が発見されて、蚊屋野の地に二つの墓が築かれたという。
二人の墓は、近江鉄道の「いちのべ」駅から県道170号線を徒歩で20分ほど行った市辺町の集落の中にある。県道に面して作られているこじんまりした墓域だが、墓の入口に「履中天皇皇子 磐坂市辺押磐皇子墓」と書かれた標識が掲げてある。この墓を訪れたとき、たまたま宮内庁から委託された京都市の清掃会社が墓の掃除に来ていた。宮内庁書陵部の管轄にある奈良地方の天皇陵などは、墳丘の手入れがされず樹木が生え放題になっているが、珍しいことに、ここの円墳は土饅頭のように綺麗に墳丘の芝が刈られていた。 |
阿育王山石塔寺
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| 石塔寺の三重の石造宝塔 |
途中で何回も休憩を入れながら、やっとの思いで頂上にたどり着くと、そこには多くの石仏や五輪塔に囲まれた壇上の中央に、高さ約7mの石塔が建っていた。国の重要文化財に指定されている三重の多宝塔である。一目みただけで、韓国珍島で見た金骨寺の五重石塔や慶州にある仏国寺の釈迦塔によく似ていると思った。造形感覚が日本のものではなく、朝鮮半島にルーツがあると感じた。 寺では、この塔を阿育王塔(あしょかおうとう)と呼んでいる。インドのアショカ王が仏法興隆のために、世界中にばらまいた8万4千の仏舎利塔の一つと見なしているためである。
一条天皇は非常に喜び、七堂伽藍を新たに建立して、寺号も一条天皇の勅願時として「阿育王 石塔寺」と改めさせた。鎌倉時代になると、参拝者の多くが自身の極楽往生のため、また先祖の菩提を弔うため阿育王塔の周りに五輪塔や石仏を奉納するようになった。しかし、織田信長の焼き討ちで七堂伽藍や寺宝のいっさいは焼失した。江戸時代に入ると、天海僧正の弟子の行賢によって一部復興が図られ、昭和になって現在のように整備されたという。 三重の石塔は阿育王塔ではあるまい。この付近には、朝鮮半島からの渡来人が数多く住み着いていた。彼等が望郷の念に駆られたとき、生まれ故郷の仏教寺院にあった多宝塔をまねてこの石造を作り、心のよりどころにしたのだろう。663年の白村江の敗戦の折も、百済から亡命してきた多くの人々がいた。近江朝廷は、蒲生野にも700人近い渡来人を住ませたと記録されている。さらに、近江朝廷の文部大臣を務めた鬼室集斯(きしつしゅうし)もこの付近に住んだらしく、彼を祭る鬼室神社が近くの日野町小野にある。 その後、この石塔の周りに数多くの小型の五輪塔や石塔が奉納され、何百年という歳月が流れた。その数はあまりに多く、石塔の周りだけでは置き切れず、右手の空き地の方まで広がっている。その一つ一つには奉納者の願いや祈りが込められているのかと思うと、おもわず襟を正したくなる。それにしても、平日の昼下がり、訪れる人影もなく、雨雲の下で静まりかえる境内は、絶好の散策の場であり思索の場である。若い時代にこの寺のことを知っていたなら、必ず恋人を伴ったものを・・・・と、年老いて一人訪れる寂しさが身にしみる境内だった。 |