橿原日記 平成16年9月23日

石神遺跡第17次調査現地説明会を聞く

発掘現場に集まった古代史ファン
発掘現場に集まった古代史ファン

石神遺跡第17次調査現場

発掘現場
今回の発掘現場(現説パンフより)
我馬子が建立した飛鳥寺の西北には、皇極・斉明天皇の時代に、まだ律令国家に組み込まれていなかった辺境の民を招いて餐宴(きょうえん)した施設があった。1902年に須弥山(しゅみせん)石や石人像が発掘されたことで、その遺跡は石神(いしがみ)遺跡と呼ばれるようになった。現在、石神遺跡は明日香村飛鳥集落の水田に下に埋まっている。

記の須弥山石と石人像の発掘地点の確認調査が行われた1981年以降、奈良文化財研究所は20年以上にわたって実に地道な調査を行ってきた。何しろ遺跡はすべて私有地の水田の下である。毎年稲刈りが終わると、持ち主の許可を得て、水田を一枚か二枚掘り起こし、3月までには発掘現場の説明会を開き、田植え前に掘り起こした土をまた元の位置に戻しておかなければならない。

17次発掘の調査対象になったのは、1昨年と昨年に調査された第15〜第16次調査地の東側にあたる水田2枚だった。調査の結果、付近は餐宴施設の外側にあたる部分で、遺跡らしいものは発見できなかった。

ただし、調査の結果、A期(7世紀前葉)以前は、調査区の大部分は沼沢地だったことが判明した。飛鳥川の支流が付近を流れていたものと思われる。しかし、B期(7世紀後葉)には、沼沢地が埋め立てられて整地が行われたようだ。南北方向に柱間隔2.1mで塀の柱穴が5つあったことが確認されている。C期(7世紀末〜8世紀初め)には、再び整地が行われたようで、南北に走る溝が2本確認されている。

ああああ
調査区平面(現説パンフより)


一歩、阿倍山田道に近づく

発掘現場
発掘現場
須恵器の大型の蓋
須恵器の大型の蓋
在、飛鳥資料館の前を下ってきて一直線に西の「雷」交差点にぶつかる車道がある。飛鳥時代の阿倍山田道は、この道路の下かあるいは若干南を通ってたと思われている。第17次発掘調査区から現在の車道までの距離は、ようやく水田2枚に縮まった。早く昔の阿倍山田道の痕跡を見つけて貰いたいものである。そうすれば、推古天皇の小墾田宮跡も確定することができる。

在の雷交差点付近は民家が建ち並んでいて、実質的な発掘調査ができないが、その民家の下あたりに小墾田宮があったのでは、と推定されている。しかし、宮は必ず阿倍山田道の北側に位置し、南面して阿倍山田道に接していたと確信している。

墾田宮が完成して天皇が豊浦宮から遷られたのは、推古11年(603)10月4日のことである。その頃までには、今回の調査区は整地されて何かの公共目的の広場に使われたのではなかろうか。小墾田遷都から5年後、小野妹子に伴われて隋使・裴世清ら13名が来朝した。一行は75匹の飾り馬に迎えられて、海柘榴市(つばきいち)の迎賓館から阿倍山田道を通り、小墾田宮に到着した。75匹もの馬を留めて置くにはかなりのスペースが近くに必要だったはずである。

明員の話では、こんどの調査区からの出土品の中に、明日香では珍しいものが見つかっているという。須恵器の大型の蓋とやはり須恵器の漏斗形の蓋である。いずれも用途は不明とのことだ。ひょっとしたら、小墾田宮で遠来の客をもてなす席で用いられたものではないかと、筆者はひそかに想像している。



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