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今回のツアーでは、淡路島の南にある淳仁天皇陵まで行くことになっている。しかしハイライトはやはり明石海峡であろう。万葉人が多くの歌を残した明石海峡を、行きは明石海峡大橋で渡り、帰りは岩屋港からフェリーで大橋を見上げながら明石港に戻ることになっている。かって遣隋使たちも船で行き来した明石海峡が実際にどんなところか体感して見たくて、このバスツアーに参加した。
本日の天気予報では、関西地方は雨。だが、予報とは逆に一日中薄日の射す絶好の観光日和となった。約140人近い参加者を乗せた3台のバスは、午前9時30分予定通り新大阪駅前のバスターミナルを出発した。 途中で事故渋滞に引っかかったが、景山教授があらかじめ用意されたカセットテープで、本日の訪問地の説明を流して貰ったので、渋滞のイライラもさほど気にならなかった。事故現場を通りすぎると、車はほぼ順調に流れ名神高速、第二神明道路を乗り継いで、明石海峡大橋を渡った。淡路サービスエリアで一息入れた後、最初の訪問地である松帆の浦に向かった。 【コース】 新大阪駅→(阪神高速・第二神明道路)→明石海峡大橋→淡路サービスエリア→松帆の浦→北淡震災記念公園・野島断層保存館→淡路一宮・伊弉諾神社→慶野松原→淳仁天皇陵→岩屋港からフェリー乗船〜明石港→明石駅→JR大阪駅。 |
明石海峡大橋
この明石海峡大橋の下を流れる海流は、最大7ノットにも達する。これは秒速3.6mに相当する。また、冬の北西からの季節風が強いときは、西流に波高が5mにも達する三角波が発生するので、小舟などの航海には注意が必要であるという。したがって、船舶も航海技術も幼稚だった古代においては、潮待ちや風待ちをたびたび余儀なくされたであろうことは、想像に難くない。
なお、明石は畿内の西の端と考えられていた。瀬戸内海を旅する古代の人々は、明石を過ぎれば遠国に来たと感じたであろうし、逆に明石まで戻ってくれば、前方に生駒山が見え故郷は近いと実感したであろう。
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松帆の浦
●来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻汐も しほの身も こがれつつ (新勅撰和歌集 藤原定家) 【意味】待っていても来ない恋人を待っている私は、松帆の浦の夕凪時に焼いている藻塩のように、恋人を慕って身も心も恋焦がれていることよ この歌では、松帆の浦の「松」と「待つ」が掛詞になっている。さらに、この歌は万葉集の巻第6に記されている笠朝臣金村の「名寸隅(なきずみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 〜」の本歌取りである。定家が実際に松帆の浦で詠んだ歌ではない。 小石が多い岸辺に立つと、明石海峡大橋が目の前に立ちはだかっている。その下を流れる潮がいかにも速そうだ。松帆は昔から製塩が盛んな地であり、塩を作るための朝の「藻刈り」や、夕の「藻焼き」の風景に、当時の貴族たちは関心をもち、またこの地に強い憧れを持ったとされている。 上の歌を刻んだ歌碑が、神戸製鋼所健康保険組合の健康増進センター「淡路ゆうなぎ荘」の私有地内に建っている。名前にあるような松の木は今はほとんどない。浜辺に建てられた神社の前の木が先日の台風18号になぎ倒されていた。付近の木々の葉も赤茶けている。台風の時吹き荒れた風で海の塩分が吹き付けられ、そのため枯れ始めたようだ。 海岸近くの林の中に、松帆の浦台場跡があった。文久3年(1863)7月、阿波領主が徳川家茂の命令で、明石海峡を通る外国艦隊を迎撃するための大砲13問をここに据え付けた砲塁である。海に面した土塁の基礎は高さ2mの花崗岩の切石で築かれていた。 |
北淡町震災記念公園9年前の平成7年1月17日午前5時46分、兵庫県南部に巨大地震が発生した。後に「阪神・淡路大地震」と命名されたこの直下型地震は、マグニチュード7.3、最大震度7を記録し、死者6,433人という戦後最大の被害をもたらした。淡路島の西海岸にある北淡(ほくたん)町では、地震断層が約10kmにわたって出現し、道路や生け垣、畑の畦を破壊した。
筆者も小学生のとき大地震を経験したことがある。1948年6月28日午後4時13分ごろ、福井県で発生したマグニチュード7.1の巨大地震でした。その時の死者3728人、負傷者21750人、家屋全半壊43700、焼失3850。当日は朝から風もなく蒸し暑い日だった。小学低学年だった筆者が、近くの遊び友達と川で魚取りをしていたとき、この地震が発生した。 揺れる大地に何度も足をすくわれながら、必死の思いで堤防に駆け上がった筆者の目の前を10センチほどの地割れが逃げる先の方向へ向かって走っていく。地割れに体が吸い込まれるのではと、本当に怖かった。余震はそれから1週間ほど続いた。その体験がトラウマとなって、今でも地震と聞いただけで体の筋肉が硬直してしまう。
淡路島の西海岸に沿って築かれた県道31号線(通称サンセット通り)を南に下っていくと、バスはやがて北淡町の野島地区へ入って行く。このあたりまで来ると、新築の家が目立つ。阪神・淡路大地震で東海したため、新たに立て直した家である。万葉集の時代、野島には風まちをした港があり、万葉集には、柿本人麻呂の羇旅(たび)の歌8首の中に、次の歌がある。 野島断層保存館の入口に、地震発生当時の国道43号線の陸橋の様子が復元されている。橋桁が倒壊し、トラックが横転している様子は入場者に地震の恐怖をまざまざと見せつけてくれる。日本の活断層などをパネルで紹介した後、断層保存ゾーンでは長さ140mにわたって、地震によって生じたさまざまな地表の様子が保存・展示されている。南の端のトレンチ展示箇所では、地層を掘り下げて地中の様子が間近で見られる。 保存館の隣に、地震断層が横切った民家がメモリアルハウスとして保存されている。再現されている地震直後の台所の様子も凄いが、120cmも横にずれてしまったコンクリート塀や花壇を見ると、地震のエネルギーの凄さが実感できる。 |
淡路一宮 伊弉諾神宮
県道31号線をさらに南に下ると、北淡町の隣の一宮町に入る。この町の多賀地区には、町名の由来にもなっている淡路の国の一宮がある。神社の名称は伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)で、神代七代の最後に登場して国生みをするイザナギとイザナミの二神が祭神として祭られている。 県道に面して建つ大きな神明鳥居をくぐり、灯籠が建ち並ぶ参道を進むと、銅製の二の鳥居がある。その先の神池に架かるそり石造りの橋をわたれば、重厚な檜皮葺きの神門が参拝者を迎えてくれる。拝殿の奥に建つ本殿は檜皮葺、三軒社流造りの向拝付きであり、棟に千木や鰹木を乗せている。 この神社の由来は、『日本書紀』に記された「この後、伊弉諾命(いざなぎのみこと)は、神の仕事をすべて終わらせて、あのよのに赴こうとしておられた。そこで幽宮(かくれみや)を淡路の地に造って、静かに長く隠れられて。・・・・」という一節による。現在の本殿の位置は、明治時代に後背の御陵地を整備して移築されたもので、それ以前は禁足地の聖地だったという。 全国には、神宮号を宣下された格式のある神社が23社あり、いずれも皇室にゆかりの深い神社や天皇を祭神とする神社である。伊弉諾神宮の由緒書きには、この神社はそうした神宮の一つであるとしている。 しかし、影山教授が作成されたレジメでは、イザナギ・イザナミについて、岩波思想体系『古事記』補注の面白い説明を転記しておられる。すなわち、この二神は最高神アマタラスの祖先であり、国土創造神であるにもかかわらず、『延喜式』では宮中で祀られる神の中に含まれていない。また四時祭でこれらの神を祀ることなかった。『姓氏録』にもこれらの神々を祖先とした氏族は見えない。そのため、この二神は宮廷や中央豪族の間で信仰されたものではなく、別系統の信仰・神話であったと推定されるというのである。 境内の隅に、県の天然記念物に指定されている夫婦大楠(めおとおおくす)がある。樹齢約900年、樹高約30mの巨木である。もとは2株の木だったが、成長するにつれて合体し、1株に育ったものだという。イザナギ・イザナミの二神の神霊が宿る神木として、夫婦円満、安産子授けなどで信仰されているという。 |
慶野松原(けいのまつばら)
松原の起源は中世と考えられている。文献上の初見は寛文年間(1661〜72)で、江戸時代の松原は藩の所有として育成がはかられた。明治維新によって官有林となり、やがて民有林として払い下げられた。第二次世界大戦下では陸軍省の管轄下にあり、松の木は燃料用の新炭材として用いられた。また食糧増産のために開墾され、江戸時代の規模が大きく損なわれた。
万葉集で詠われている飼飯(けひ)の海は、この松原の沖にある播磨灘のことである。万葉集には、柿本人麻呂の羇旅(たび)の歌8首の中に、次の歌がある。 |
淳仁天皇陵奈良時代、淡路島は政争に敗れた王侯貴族の流刑の島でもあった。天平宝字8年(764)には、恵美押勝(えみおしかつ)乱に連座したとして、帝位を剥奪された第47代・淳仁天皇が淡路島に配流の身となった。延暦4年(785)9月には、長岡京の造営担当だった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、事件に連座したとして時の桓武天皇の実弟である讃良親王が逮捕された。親王は絶食して無実の罪を訴えたが、淡路島に配流される途中で船の中で憤死した。
淳仁天皇は元の名を大炊王(おおいのきみ)といい、『日本書紀』の撰者だった舎人(とねり)親王の第7子として、天平5年(733)に誕生した。彼は藤原仲麻呂の息子の未亡人だった粟田諸姉を娶って、仲麻呂に屋敷に住んでいた。天平宝字元年(757)、橘奈良麻呂の乱を鎮圧して覇権を確立した仲麻呂(706〜764)は、自邸に起居していた義子の大炊王を皇太子に推薦した。女帝の孝謙天皇は仲麻呂の推薦を受けて大炊王を皇太子とし、翌天平宝字2年(758)譲位して皇位を大炊王に譲り、自分自身は孝謙上皇となった。即位した大炊王は26歳だった。 当時は仏教極盛の時代で僧侶は政治にまで関与してきた時代である。道鏡の件がきっかけで藤原仲麻呂と孝謙天皇が不仲になり、国政の大事は上皇が決するようになると、仲麻呂の政治的地位は揺らぎだした。仲麻呂は反乱を決意し兵を挙げた(いわゆる恵美押勝乱)が、戦いに敗れ近江越前に走った。だが、愛発(あらち)の関(福井県敦賀市の南)を突破できず,吉備真備の指揮する追討軍に敗れ,34人の妻子眷属とも琵琶湖西岸に斬られた。天平宝字8年(764)9月18日のことである。 その年の10月9日、孝謙上皇は兵を遣わし、淳仁天皇の中宮院を囲んだ。仲麻呂に荷担して6000の兵力を準備して孝謙上皇を亡き者にしようとした罪で、天皇は退位させられた。そして、「淡路国公」の名が与えられ、淡路島に護送されると、一院に幽居された。淳仁天皇のことを淡路廃帝と呼ぶのはこのためである。淡路島に流された天皇は無念の日々をすごした。約1年後配所の垣を越えて逃げだしたが、見張りの兵士に捕らえられた。天平神護元年(765)10月22日、33歳で崩御された。わずかに在位6年余りの、実に影の薄い天皇だった。 実は、淡路廃帝はその後1100年あまりおくり名がつけられなかった。「淳仁天皇」とおくり名が付けられたのは、明治3年(1807)7月23日になってからである。 第49代・光仁天皇は淡路廃帝の境遇を哀れに思い、宝亀3年(772)にその遺体を改葬させると、宝亀9年に山稜に列するようにしたとされる。淳仁天皇陵は、南淡町賀集字岡の前にある。天皇陵の周りは一面色づいた田んぼで、稲刈りが行われていた。ようやく秋めいてきた風が運んでくる籾殻のニオイを久しぶりにかいだ。 |