橿原日記 平成16年8月17 日

飛鳥大仏は鞍作止利が造った仏像に非ず!?


 時は西暦606年、夢の中の鞍作止利は.....

飛鳥寺遠望
飛鳥寺遠望
思議な夢を見た。場所は飛鳥寺の境内だった。塔の石段に座り込んで、じっと正面を見据えている青年がいた。彼の視線の先には、朱色の円柱と白壁がまぶしい中金堂が聳えている。塔と中金堂の中間あたりから、緩やかな坂が中金堂の基壇の高さまで土を固めて造られていた。その坂の途中で台車が止まっていた。台車の上には、白地の布で全体を巻き付けた仏像が固定されている。

年の名は鞍作止利(くらつくりのとり)。後年、止利仏師として世に知られることになる新進気鋭の仏像制作者である。彼の目は、中金堂正面の戸と台車の上の仏像の頭部の間を何回も往復した。このままでは、仏像を堂内に引き込むわけにはいかない。仏像の背丈が高く、頭部が戸の上の横木に接触してしまうのだ。工人たちは戸を壊して仏像を引き入れることで相談がまとまった。だが、止利は工人たちに待ったをかけた。できることなら、堂を壊さないで仏像を搬入したい。自分はその方法を考えるからと、その日の作業を中止して工人たちを帰らせた。

飛鳥寺の塔跡
飛鳥寺の塔跡
樫丘(あまかしのおか)に隠れようとしている西日が止利の横顔を照らしている。石段に腰を据えた彼の影が随分と延びていた。だが、思索にふける止利は日没が迫っていることに気が付かない。あと一尺、仏像の高さをあと一尺低くすれば、横木を壊さなくても立派に堂に入れることができる..... 彼の脳裏には、いろんな方法が浮かんでは消えた。しばらくして、そばに落ちていた棒きれを拾い上げると、彼は地面に何か絵のようなものを書いては消し、また書いた。その手元に、どこから吹かれてきたのか、山桜の花びらが一枚、また一枚と落ちてきた。

年は随分長い間地面の上で計算をしているようだった。そして、ようやく方針を決めたのか、近くに控えていた従者の雄麻呂(おまろ)に声をかけた。
「雄麻呂よ、この方法なら、堂の戸を壊さなくても、仏像を引き入れることができる。明日は、この形の厚手の板を3枚用意して欲しい」と、地面にくさび形の三角形を描き、寸法を書き記した。 「このくさびを台車の前面にかますことで、仏像を1尺低くできる。そうすれば、難なく搬入できるはずだ.....」

年は、その他にもいくつか指示を与えた。そして、雄麻呂が立ち去るのを見送った後ゆっくりと立ち上がり、視線をあげて空を仰いだ。堂宇の屋根に切り裂かれた夕暮れの空に、夜星が少しずつ輝きを増していた。そこで、目が覚めた。気が付くと、まるで筆者自分が鞍作止利であったかのように、ビッショリと寝汗をかいていた。


飛鳥大佛のある安居院本堂
飛鳥大佛のある飛鳥寺本堂
『日本書紀』は推古14年(606)4月8日の事として、次のような話を載せている。
”この日、(造仏工の鞍作止利が)銅・繍(ぬいもの)の丈六の仏像がそれぞれ完成した。だが、丈六の銅の仏像は元興寺(飛鳥寺)の金堂の戸より高くて、堂にいれることができなかった。多くの工人たちは相談して、堂を壊していれようと言った。ところが、鞍作止利の偉いところは、戸を壊したりせず、立派に堂に入れたことである。”

っと以前から、止利がどのような方法で中金堂の釈迦如来像を堂内に搬入させたのか気になっていた。それが、夢の形となって現れたのであろう。丈六とは一丈六尺の略である。釈迦の在世時の身長とされた8尺を2倍して、仏の特相としたもので、約4m80cmの高さに相当する。座像の場合は、立てば一丈六尺になるとして、半分の8尺(約2m40cm)となっている。垂直の高さ2.4mの仏像の下に角度30度のくさびを打ち込んで仏像を傾ければ、垂直の高さは約30cm低くすることができる。もちろんこの方法は筆者の思いつきで、止利が実際に採用した方法は不明である。

飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏
飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏(正面より)
の話には後日談がある。5月5日、鞍作止利は小墾田宮に呼び出され、推古女帝からじきじきにお褒めの言葉をいただき、大仁(だいにん、当時の十二冠位の第三位)の位を授けられた。さらに近江国坂田郡(現在の滋賀県米原町付近)の水田20町を賜った。止利はこの田を財源として、天皇のために金剛寺を造った。それが『日本書紀』編纂の頃に、南淵の坂田尼寺と呼ばれていた寺であるという。

数年前に、初めてこの記述に接したとき、いくつか疑問を感じたことを今でも覚えている。一つは、堂内に安置する仏像の高さが、何故中金堂建立の時に考慮されなかったのかである。寺院建立に先立って、寺工と造仏工の間で、本尊の安置場所や搬入口の高さについてあらかじめ打ち合わせておくことぐらい、当時だって常識であろう。今一つは、中金堂が建立されて10年も経た後に、何故本尊が安置されたのかである。金堂に安置する本尊は、いわば寺院の中核である。本尊がないままに、寺が十年も運用されることなど、あり得るのだろうか。



 謎だらけの創建飛鳥寺

日香村にある飛鳥寺安居院(あんごいん)は、日本で最初に築かれた本格的寺院だった飛鳥寺の跡に建っている。飛鳥寺は、山号を「法興寺」、あるいは「元興寺」とも称し、飛鳥地方に都がおかれた頃は、大官大寺、川原寺とならんで三寺と称せられるほど有力寺院だった。しかし、鎌倉時代の建久7年(1196)に、落雷を受けて先ず塔が焼失してしまった。中世にはすべての建物が失われ、法灯も絶えた。本尊の大仏は雨ざらしのまま放置されていたという。江戸時代の初期に形ばかりの草堂を建てて大仏を雨露から守り、後には尼僧が大仏のためにお堂を建てた。これが安居院の始まりである。現在は飛鳥大仏を安置する堂宇と小さな鐘楼だけが主な建造物である。

が国最古の寺院にもかかわらず、『日本書紀』は創建飛鳥寺の造営プロセスを比較的詳しく記録してくれている。それによれば、

●用明2年(587)7月、蘇我馬子(そがのうまこ)が諸皇子と群臣に呼びかけて物部守屋(もののべのもりや)を滅したとき、仏の加護で戦いに勝利したあかつきには、寺塔を建立し、仏法を広めることを誓う。
●崇峻元年(588)、蘇我馬子の要請を受けて、百済が仏舎利・僧・寺工・露盤博士・瓦博士を献上してくる。この年、衣縫造の祖・樹葉(このは)の家をつぶして寺地とし、整地作業が始まる。
●崇峻3年(590)10月、山に入って伽藍の用材を伐採する。
●崇峻5年(592)10月、仏堂と歩廊の工事に着手する。
●推古4年(596)11月、飛鳥の法興寺が竣工。落慶の日に、慧慈と慧聡は法興寺に入る。

の造営の経緯を見て、誰しも不思議に感ずることがあるに違いない。寺院の造営期間があまりにも短い。用材の伐採を始めてから6年、仏堂と歩廊に着工してからわずか4年で、推古4年(596)11月には飛鳥寺は完成し、落慶法要が行われている。百済から技術指導者の派遣支援を受けたとはいえ、瓦葺きの高層建築など見たこともない我が国の工人たちが、4年足らずで本格的寺院を建立できたとは、とても思えない。

招提寺では、平成12年(2000)から10年計画で金堂の大修理が行われている。昨年の暮れには金堂の解体が終わって、今年の10月頃から組み立てが開始されるとのことだ。予定では、平成21年(2009)8月に金堂平成大修理落慶法要が行われることになっている。現在の技術を持ってしても、金堂ひとつの造営に5年の歳月を要するのだ。


鳥寺の本尊である丈六釈迦如来像は、銅造、高さ275cmの坐像で、飛鳥大仏の名で知られている。この本尊の造営に関しても、『日本書紀』は次のように記述している。
●推古13年(605)、推古天皇が詔勅を発して銅と繍(ぬいもの)の丈六仏各一躯をつくることを誓願し、鞍作止利(鳥)を像仏工とする
●推古14年(606)4月、丈六の像が完成。金銅に安置し、斉会を行なう。

こにも謎がある。通常、寺院が完成して9年も経てから本尊の制作に取りかかることなどあり得ない。したがって、推古4年(596)に寺が完成したとき、本尊はすでに完成していたと考えられる。推古13年(605)の記事は本尊とは別の仏像を追加発注したものと見なさざるを得ない。

述のように、創建時の飛鳥寺は一塔三金堂様式という特異な伽藍配置の寺だった。したがって、3つの金堂にそれぞれ仏像を安置するには、3躯の仏像が必要になる。中金堂に安置する仏像はすでに確保されていた。そこで、東金堂と西金堂に安置する仏像の制作を鞍作止利に依頼したとも考えられる。しかし、『日本書紀』は止利制作の仏像を中金堂に戸を壊さずに安置したという。しかも、その仏像は現存する飛鳥大仏であるという。

らに、不思議な事は、銅・繍の丈六仏像をそれぞれ一躯をつくることを発願したのは、時の天皇である推古女帝になっている。飛鳥寺は、蘇我馬子が蘇我一族の権勢を誇示するために建立した寺のはずだが、その寺の金堂に安置する仏像の建立をなぜ推古女帝が発願したのであろうか。

伽藍配置復元図
伽藍配置復元図
建飛鳥寺の最大の謎は、この寺の伽藍配置である。蘇我馬子は飛鳥寺建立に先立って、百済に寺工、露盤博士、瓦博士などの技術者派遣を要請し、実際の工事も彼らの指導で行われた。したがって、百済で主流だった中門・五重塔・金堂・講堂が一直線上にならぶ伽藍配置が採用されているものと思われた。だが、昭和30年(1955)年5月から昭和32年にかけて計画的に行われた発掘調査が明らかにしたのは、中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式の伽藍配置だった。

塔三金堂式は高句麗初期の独自な寺院の伽藍配置様式で、わずかに高句麗の清岩里の金剛廃寺、定陵寺、上五里廃寺などで採用され、新羅の皇龍寺に受け継がれているにすぎない。百済ではこの様式の寺院跡は発見されておらず、百済の寺工が指導した寺院建立に、なぜ一塔三金堂式が採用されたかは謎である。

はまだある。中金堂と塔の基壇はほぼ同じ構造であり、同じ時期に造営されたと見られている。一方、東金堂と西金堂の基壇も同じ構造で同じ時期に造営されたと思われるが、こちらは二重基壇であり、あきらかに中金堂および塔の基壇とは異なっている。その意味するものは何か? 最初に四天王寺様式の伽藍が建てられ、その後に東西の両金堂は増築されたと解するのが一番わかりやすい。しかし、その場合は東西の回廊の位置を外側に移さなければならない。発掘調査では、回廊位置をずらした証拠は発見されていない。当初から三金堂を建立することで、平面プランが考えられていた。



 毛利久氏と久野健氏の飛鳥大仏論

近、故あって飛鳥時代の仏像彫刻をもう一度勉強し直したいと思って文献を漁っているとき、2つの論文に出会った。一つは「飛鳥大仏の周辺」と題する毛利久氏の論文で、昭和43年(1968)4月に「仏教芸術67」に所載されていた。今一つは、「飛鳥大仏論」と題する久野健氏の論文で、昭和51年(1976)に「美術研究」の300号と301号に二回にわたって掲載されていた。

読して、驚いたことに筆者が感じていた疑問の謎解きを、両氏はそれぞれの論文の中ですでに挑戦されていた。非常に説得力がある内容だが、両氏が導き出された結論はまったく違っている。面白い内容だったので、論文の主旨を要約して以下に掲げておくことにする。

毛利久氏の飛鳥大仏論 − 飛鳥大仏は止利仏師の作品ではない

飛鳥大仏(左側面より)
飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏(左側面より)
鳥寺創建に関する史料は、なにも『日本書紀』がすべてではない。飛鳥寺の創建を伝える「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」という文献も残されていて、そこには本尊の丈六釈迦如来像の光背に刻まれた銘文(丈六光銘)と、塔の露盤に刻まれた銘文(塔露盤銘)が転記されている。上に示した『日本書紀』の記載は、坂田寺縁起によったもので、史実としては疑わしいとする説があり、毛利氏は「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」の丈六光銘と露盤銘に依拠して、自論を展開しておられる。

ず、飛鳥大仏の造立時期であるが、丈六光銘も『日本書紀』と同じく推古13年(605)4月に作り始めたとしている。その際に高句麗の大興王が黄金320両を献じて結縁したという。さらに、推古16年(608)に隋使の裴世清や偏光高などが来て仏像を拝し、翌推古17年(609)4月に、丈六釈迦銅像、丈六釈迦繍像および挾侍像が完成したので、法興寺に安置したと伝えている。

『日本書紀』では推古14年(606)4月に丈六の像が完成して金堂に安置したことになっている。したがって、丈六光銘に示された内容は、仏像の完成時期が3年遅い。しかも、安置された場所を明記せず、単に法興寺に安置したと記すだけである。この点に着目し、毛利氏は、鞍作福利が制作した銅・繍二像が完成したのは、その光背の銘文が示す通り、推古17(609)であると考えるべきであり、しかも安置したのは、中金堂ではなく、東西の両金堂であるとされる。その理由として、東西の両金堂は中金堂や塔との基壇の形式が異なる点に着目し、おそらく推古4年(596)以降に第二期工事として造営が続けられたと考えておられる。

利説の場合、当然のことながら推古4年(596)に第一期工事が完成した時点で、中金堂に本尊が安置されていなければならないが、その作者は誰であるかが問題になる。その点に関して、氏は塔露盤銘に記された4人の工人に着目される。塔露盤銘には、推古4年に法興寺が完成したことを述べ、最後を次の文章で結んでいる。
爾時使作金人等、意奴弥首(おぬみのおびと)名辰星也、阿沙都麻首名未沙也、鞍部首名加羅爾也、山西首名都鬼也、以四部首為将、諸手使作奉也。
【毛利氏の読み方】その時金人などを作らしむるは、意奴弥首(おぬみのおびと)辰屋、阿沙都蘇首(あさづまのおびと)未沙乃(みしゃの)、鞍部首(くらつくりのおびと)加羅爾(からに)、山西首(かわちのおびと)都鬼(つき)の四名で、諸工を指導してことにあたった。

利氏は、最初の7文字のうちの「金人」を「全人」とか「企人」と読む説があることを承知しながら、ここではやはり金人、すなわち仏像と解すべきと主張される。そして、金人が仏像であったとすれば、その次に列記されている4名の名は像を造った作者であり、工人たちを指導してことにあたったとされる。そして、塔露盤銘に出てくる「金人」こそ、いわゆる飛鳥大仏に該当すると考えざるを得ない、と結ばれる。

海(意奴弥、おしみ)氏は忍海(奈良県北葛城郡新庄町忍海)を本拠とする渡来釆氏族であり、手工業とくに金工の技術を伝えていた。朝妻(阿沙都林、あさづま)氏は朝妻(奈良県御所市朝妻)に居住する渡来氏族で、冶金などに従事した。鞍部首は鞍作止利と同族であり、馬具の制作に従事した。山西氏は西文氏であり応神大王のとき百済から波来した博士王仁の後裔を称し、古市(大阪府羽曳野市)を本質としていた。

利氏の説が正しければ、飛鳥大仏の制作者は止利仏師ではなく、これら4名の渡来系氏族の技術集団の共同制作ということになる。だが、崇峻元年(588)に百済から派遣された技術者の中には造仏工はいない。彼らは何処で鋳造技術を学んだのであろうか。その点に関して着目されるのが、『日本書紀』の敏達天皇6年(577)の記事である。この年の冬11月1日、百済国王は倭に帰国する使節の大別王(おおわけのおおきみ、不明)につけて、経論若干、律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工の6人を献上したので、彼らを難波の大別寺(所在不明)に配置した、とある。その中の造仏工が仏像の造り方を指導したため、当時の人々の中にはかなり造像技法を習得したものがいたかもしれない。

久野健氏の飛鳥大仏論 − 当初の本尊・石仏は後で金銅の丈六仏像に置き換えられた

方、「塔露盤銘」は飛鳥寺の塔の露盤について記したものであり、その最後の文章を「仏像を作ったのは」と読むのは納得できないとして、久野氏は毛利説を退けておられる。そして、毛利氏が「金人」と読んだ箇所は、”巧みな工人”を意味する「全人」と読むべきであると主張される。

飛鳥大仏(左側面より)
飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏(右側面より)
野氏によれば、百済から派遣されてきた「寺工」「露盤博士」「瓦博士」「画工」は飛鳥寺造営の指導にあたった。これに対して、蘇我氏の命により、東漢氏を統轄者とする造寺集団が組織された。その構成員は、大和・河内に居住する渡来氏族とその領有民であった。塔露盤銘に示された4名は、あくまで塔の造営に従事した工人たちの責任者である、と氏は推測されている。

野氏は、百済から派遣された技術指導者の中に、寺院造営に最も重要な本尊を造るべき仏工が来ていない点に注目される。その理由として、蘇我馬子は本尊とすべき仏像をすでに決めており、新たに仏像を制作しなかったと想定される。

定の根拠になっているのが、飛鳥寺発掘調査の成果である。発掘調査では、現在の安居院の本尊である釈迦如来像が安置してある岩座は、当初のままで一度も移動していないことが確認されている。久野氏はこの点を重視して、自然石の方形の岩座に、金銅の丈六釈迦如来像を安置するはいかにも不自然だとされる。そして、その不自然さが、氏の飛鳥大仏論の出発点となっている。石の座に安置するのにふさわしいのは石仏であり、創建当初は蘇我氏と縁が深い石仏がこの石座に安置されたと推測される。

『日本書紀』には、敏達天皇13年(584)9月に鹿深臣が百済から弥勒の石像一体を請来し、さらに佐伯連も仏像一体を持ってきたと記されている。蘇我馬子はこの二体の仏像を請い受けて、仏殿を宅の東に造り、弥勒の石像を安置したという。この記述が史実なら、飛鳥寺建立以前に、馬子はすでに本尊とすべき弥勒石仏を得ていたことになる。その他にも、飛鳥寺の本尊が弥勒の石仏であったとする言い伝えがあったことを、氏は「七大巡礼記」などいくつかの文献を示して指摘される。

野氏によれば、止利仏師が造った丈六釈迦像が金堂の戸よりも高く、堂に納めるのに苦心したという『日本書紀』の説話は、丈六像よりも金堂の方が先にできていたということ、また最初からこの金堂は丈六仏像を納めるために設計されたのではないことを物語っている、とされる。

は、丈六仏像が中金堂の本尊として安置されたのは何時か。この点に関して、久野氏はユニークな論を展開される。先ず、推古天皇の十代ともなれば、仏教が次第に隆盛に向かい皇族や豪族も寺の建立を企てるようになってきた。そこで、最大の勢力を持っていた蘇我馬子は、いかなる豪族も真似のできない丈六の金銅の丈六釈迦像と刺繍の釈迦像を制作することを思い立ったのでは、と想定される。その結果、推古13年(605)4月、蘇我氏の強大な勢力と経済力を背景に、銅の丈六釈迦像と丈六の繍帳が作り始められた。しかし、久野氏はこれらの制作を指揮監督したのが鞍作止利であったとは見なしていない。

の理由として、飛鳥大仏と法隆寺金堂の釈迦三尊像との着衣法の違いを指摘される。飛鳥大仏は中国南朝の石仏などの先例に見られる大衣の付け方をしているのに対して、釈迦三尊像や止利の工房で作られたとされる仏像は、いずれも中国・朝鮮には例を見ない不思議な着衣法を取っているという。飛鳥大仏も釈迦三尊像も同じ止利仏師の作品ならば、こうした矛盾は生じない。そこで、氏は飛鳥大仏の作者は朝鮮において造仏に従事していた技術者か、少なくとも止利の祖父にあたる司馬達等より後に朝鮮から渡来した技術者の子孫の手になるもの、と推測されている。

銅製の丈六像は始めは東金堂に安置すべく計画されていたが、出来上がってみるとその金色燦然とした姿は全飛鳥寺の本尊とするにふさわしい偉容を持っていた。そこで、蘇我馬子は急きょ予定を変更して、中金堂に安置することにした。だが、像の高さが堂の戸より高く、堂に納めるのに苦心した。さらに、石仏の台座が動かすことが難しかったので、そのまま丈六像の台座として転用することにした、というのが久野氏の推論である。



それでも解明されない謎

利久氏と久野健氏の論文は、推理作家顔負けのユニークな発想をもとに展開された飛鳥大仏論であり、読んでいて楽しい。だが、創建飛鳥寺の最大の謎とされる一塔三金堂式伽藍配置を採用した背景が曖昧なため、説得力が欠けているようにも見える。

飛鳥大仏
飛鳥大仏の顔
者は、創建飛鳥寺の造営に対して、高句麗が当初から深く関わっていたと考えている。5世紀代には、倭と高句麗は互いに敵国として矛を交えたこともあるが、敏達元年(572)には、両国は国交を開始している。その後は、史書には現れない彼我の往来が日本海経由で活発に行われていたものと思われる。特に仏教に関しては、『日本書紀』にもこの時期に来朝した高句麗僧の名前を数多く伝えている。

えば、敏達14年(584)に日本最初の比丘尼(善信尼、禅蔵尼、慧善尼)を得度した恵便は高句麗僧だった。推古3年(595)に来朝し聖徳太子の師となった慧慈や、推古10年(602)来朝した僧隆と雲聡、あるいは推古18年(610)に我が国に絵の具・紙・墨などの製法を伝えた曇徴なども、皆高句麗僧である。彼らは個人の意志で来朝したのではなく、高句麗の外交政策の一環として送り込まれた人たちであり、我が国の仏教の発展に大きく寄与した。

たがって、飛鳥寺創建に際して、伽藍配置などのプランニングの段階から、百済だけでなく高句麗からの技術支援があったと解したい。もちろん、高句麗の側には最大の権力者・蘇我馬子との太いパイプを築きたいたいとの思惑が当然あっただろう。高句麗の大興王(=嬰陽王)が黄金三百両を献上したという話は、そのことを裏書きしている。

に百済の寺工が四天王寺様式の伽藍配置を提唱し、高句麗の寺工が一塔三金堂式の伽藍配置を提唱したと想定しよう。蘇我一族の権勢の大きさを寺院建立で誇示しようとしていた蘇我馬子は、どちらの案を採用したであろうか。おそらく、一塔三金堂式がより豪華でふさわしいと考えたに違いない。

者は、飛鳥寺の第一期工事が四天王寺様式で596年に完了し、その後に東西両金堂を第二期工事として造営したとする説には荷担しない。上に述べたように、蘇我馬子の立場に立てば、当初から一塔三金堂式の伽藍配置を選択したものと推察する。この場合、増築に伴う回廊の移転などは行われなかった。中金堂・塔と東西両金堂の基壇の工法の違いは、百済と高句麗の技術者がそれぞれ分担で工事を指導したと想定することで、納得できる。当然のことながら、完成したいずれの金堂にも何らかの仏像が本尊として安置されたであろう。9年間も本尊なしで放置されたとは考えられない。本尊の存在が史書に記録されなかっただけの話である。

だ、創建から10年もすれば、飛鳥寺の性格は変わってきた。皇族や豪族があちこちで寺院を建立し始めていた。推古32年(624)には、その数が46寺院に達するほど氏寺の建立は盛況だった。当初は蘇我氏の氏寺として建立された飛鳥寺は、これらの寺院を総括する官寺として機能する必要が生じてきたのであろう。官寺とは国家の寺である。そのためには、それなりの威厳を備えなければならない。

こで考え出されたのが本尊の作り替えである。仏像の見本を募集したところ、推古女帝は鞍作止利が提出した見本が心にかなった。そして、推古13年(605)4月、銅と繍との丈六の仏像をそれぞれ一躯制作することを止利に命じた。推測が許されるならば、おそらく実情はこうしたことではなかっただろうか。『日本書紀』の記述を信用すれば、飛鳥大仏の完成までには一年を要したことになり、丈六光銘を信用すれば、四年を要したことになる。



【参考・引用文献】毛利久著『飛鳥大仏の周辺』(「日本仏教彫刻史の研究」所収)、久野健著『飛鳥大仏論』(「美術研究」300号・301号所収)
2004/08/17作成by n_ohsei2002@bell.jp return